PEACE BOATで世界一周の旅ーその26

オカリナのレッスン始まる

学校の講堂と同規模のどでかい会場が船にあります。朝早く、楽器を練習する会場に開放しており、午前7時過ぎから様々な楽器を手にした乗船客が集まってきます。筆者はここでオカリナを習いたいと乗船前に買い込んだ陶磁器製のオカリナを持ってきましたが、初心者でドレミも満足に音が出ない。気おくれをしているときに、誘ってくれる方がいて参加することにしました。

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指導してくれるのは元校長先生

筆者の船上でのオカリナの先生になったのは、群馬県で40年間、教員生活を送った徳江裕さんです。古希(数え70歳)を迎えたとき、次の人生を紡ぐ構想を練るため、PEACE BOATに乗船したという方です。徳江先生のオカリナ歴をお聞きしました。

2014年、校長として最後の務めをしていた年、オカリナと徳江先生の縁は偶然から芽生えました。課外授業で訪問した陶磁器を焼いている窯場で、初めてこの楽器を見て手にし、試しに吹いてみるといい音が出ます。その場は感心して終わりましたが、後日、窯場から焼きたてのオカリナが送られてきました。最初は大事に校長室に飾って来訪者に見せて楽しんでいました。

あるとき、ふいにオカリナを吹いて卒業する児童を送ってやりたいとの思いが芽生えたのです。それから曲目を考え、自身の力量と相談し、誰もが知っている曲を考えました。いろいろ練習曲を吹いているうち「ふるさと」が浮上してきました。「うさぎ追いし かの山・・・」あの歌です。それから毎日、懸命の練習が始まりました。

紅白のまん幕を張った会場で、この日卒業式が粛々と運んでいました。校長先生は式辞を述べるのが定番ですが、徳江先生は式辞の代わりに卒業式の最後に児童たちに送る言葉で締めくくることを考えていました

そのとき卒業式にお祝いの言葉を語った後に、オカリナ演奏をして子供たちを送り出そうというアイデアでした。卒業しても小学校時代の良き思い出を折に触れて思い出し、生きていくエネルギーに変えてほしいという思いがありました。

IMG_6511オカリナの吹き方は息を吹き込むところが難しい。手本を何回も見せてくれました。

猛練習をして準備してきた「ふるさと」を吹き始めると、子どもたちの表情がみるみる変わっていきました。心の中で唄いながら、野や山で走り回ったあの風景と級友と遊んだあの光景がよみがえり、突き上げてくる感動を懸命にこらえていました。

弾き終わると万雷の拍手が会場を揺るがし、吹き終わった徳江先生の手が感動で震えていました。

紙に書いた式辞を読むのではなく、送り出す校長の万感の思いをこの一曲に込めた感動が、見事に花開いた瞬間でした。

 「ふるさと、この曲、私は好きなんですよ。出だしを歌い出すと子ども時代をどうしても思い出します」と筆者が言うと「誰でも同じです。この曲は日本人のふるさとでもあります」と徳江先生は言います。

この曲の練習が始まりました。

徳江先生は、定年で教員生活を引きましたが、大学の非常勤、幼稚園の事務局長など教育の場から離れることはなく、子どもたちの理科教育にも取り組んでいるとのこと。

果たして下船するまでに、2,3曲、満足に吹けるようになるかどうか。なんだか、緊張感高まるレッスンが始まっています。

沖縄返還の講演で追加発言

先日、沖縄返還の際の理不尽な密約・密使を展開して、負の遺産を残した佐藤栄作総理の話をした際に、時間を間違えて肝心の最後の方が尻切れトンボになっていました。講演後に聴者から最後の方をやり直してほしいという希望が寄せられ、追加発言として40分間の講演をしました。

沖縄2沖縄の追加講演では250人ほどの人が聴きに来てくれました。

この講演は、密約・密使外交を暴くためではなく、真実を検証しないでほったらかしにする日本は、同じ過ちを繰り返すという負の教訓を語るためでした。公文書管理が先進国の中で突出して劣っている点も強調し、負の遺産を断ち切ることを強調して追加発言を終えました。

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PEACE BOATで世界一周の旅ーその25

カナリア諸島で食べたスペイン料理

グランカナリア島・ラスパルマスに着いて11日ぶりに陸にあがって島の歴史を語る大聖堂を見物したことは前回、書きました。今回は、この島がいかに観光地として発展しているか食べ物で紹介します。

日本の地方都市や離島でも同じような文化が栄えないだろうかと考えました。

筆者は世界中どこへ行っても必ず、その地域の中心の市場に見学に行くことにしています。その地での食生活や様々な日用販売品から住まいの環境と物価がわかるからです。この島の市場に行って驚きました。とにかく瀟洒できれいなことです。

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写真で見るように、高級食料品専門店がアーケードの中に並んでいるのです。これはこの島の住民のためのマーケットではなく、観光地に訪れる人々へ向けた店舗ではないかと思うほどです。彩り豊かな果物類、加工食品は見事というほかありません。

古風な石作りの住居の路地に張り出したカフェテラスで、ランチを食べることにしました。生ハムとチーズをおつまみに、ビールを飲んでワインを楽しみました。最後は定番のパエリアですが、注文して30分と言われましたが、実際に出てきたのは1時間後でした。船出の時間までたっぷりとあったので慌てることもなく堪能できました。

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生ハム

チーズ代金は4人で、生ビール5杯、ワイン4杯、生ハム、チーズ、パエリア2人前で一人、4300円ですから、円安の今の時代、安い値段に思えました。手土産においしいハム類などを物色しましたが、これは国内持ち込み不可と知り、カナリア諸島の思い出だけを胸にしまって別れを告げました。

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその24

11日ぶりに見えた陸の明かり

アフリカ大陸最南端の喜望峰を回ってインド洋から大西洋に出た船は、途中で南アフリカ共和国(南ア)、ナミベア共和国の沿岸を経て一路、ヨーロッパ大陸へと北上しました。途中、急患をナミベアに降ろすために引き返すハプニングもありましたが、そのハンデを取り返すため船足を速めてひたすら北上する日々でした。

船の最上階の14階に出て甲板を回って歩く日もありましたが、四方八方大海原で陸の景色はつゆほどもなく、大西洋を飽きるほど見る日々でした。

5月26日の早朝、部屋のカーテンを開けたところ、点々と灯がともる陸の景色が見えたときは感動しました。ついに7つの島から成るカナリア諸島のグラン・カナリア島の首都とも言われるラスパルマスに近づいてきたのです。

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早速、7階のデッキ(甲板)に出てぐるりと一周しみてみました。7階は船の高低のちょうど真ん中あたりであり、一周出来るようにデッキ廊下があります。一周、約500メートル強。3周すると1マイルということです。

オリンピックなどの陸上競技のトラックは、1周400メートルです。それよりも一回り大きなトラックが船の中にあるのです。船は刻々と陸に近づいていきます。日の出前に瀟洒な建物に明かりがともり、人の息遣いが感じられる光景はいいものです。乗船客がデッキに群がって接岸する作業を見ています。どの人もこの島に上陸することを楽しみにしていたことがよく分かりました。

島の歴史を知って文化の発祥を知る

この諸島はスペイン領ですが、地図で見るように本国からは遠く離れています。カナリア諸島という名前から、愛玩用として飼われているカナリアの原産地ということからついた名前のようです。諸島の中の「首都」とも言われるラスパルマスに第一歩を踏み出しました。

ラスパルマス地図地図の真ん中の黄色い部分がスペイン。左下の赤い諸島群がカナリア諸島。

年間を通して温暖な気候、そしてほぼお天気続きという自然条件に恵まれているので、ヨーロッパのハワイあるいは大西洋のハワイとも言われています。その地を利用して一大観光地として発展してきました。

原住民もいたのですが、スペインが中南米への進出基地として使うようになり、その歴史的な過程の中で独自の文化が発展し、今ではヨーロッパだけでなく世界中の人々を引きつける一大観光地へと発展しています。

タクシーはもちろん、露天に出ている洒落た土産物売りもすべてクレジットカードの使用が出来るも驚きました。滞在時間が短いので独自の種の発展と景観を作っている自然公園まで足を伸ばす時間はありませんでしたが、サンタ・アナ大聖堂へ行って見ました。ローマカトリック教会のカナリア諸島主教区の本拠地となっており、1478年に建築されたカナリア諸島の中でも最も有名なモニュメントの1つです。

IMG_6482大聖堂は表だけでなく中に入ってみると荘厳なたたずまいであり、キリスト教の歴史を伝えていました。

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中に入ると荘厳なたたずまいの中で宗教の歴史を彩る展示祭壇が多数あり、ミイラも飾っていることにびくりしました。

IMG_6494コロンブスの家は、コロンブスの大旅行の歴史とその業績などを展示しており、多くの来訪者で賑わっていました。

IMG_6477海水浴場は、大規模な防波堤に囲まれており、早くも多くの海水浴客が楽しんでいましした

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその23

 洋上・大運動会の開催

待ちに待った洋上大運動会が開催されました。4チームに分かれた対抗戦です。赤・青・緑・黄色の色分けですが、誕生日で所属チームが決まります。

 2,3,5月生まれが赤軍団

 4,6、8月生まれは緑軍団

 7、9,10月生まれは青軍団

 1,11,12月生まれが黄色軍団

 筆者は11月生まれなので黄色軍団に所属しました。

 若手主導で応援合戦の練習

開催のほぼ一か月前から所属する団の若手が集まり、応援パフォーマンスの練習や競争種目への対策などを練り始めました。若手と言っても30歳代以下の人が多く、年配層はただ、参加するという感じでした。それでも開催日が近づくと所属する色が何かで話題が出たり、ついでに誕生日にまつわる話で盛り上がっていました。

船上での運動会と言っても最初はピンときませんでしたが、12階は広々とした空間があります。真ん中にプールを挟んでチェアが並んでいますが、通路は広く余裕があります。その空間を利用していくつかの運動会プログラムが組まれていました。

主催者のPEACE BOAT関係者に聞いたところ、1500人の乗船者のうち運動会に参加した延べ人数は1000人くらいだと言います。ちょっとだけ顔出ししという人も大勢いましたが、やはりどんなものかと見物に出かけた人が多かったようです。

大型船とはいえ、船上で運動会が開かれるとは想像できませんでしたが、会場に行ってみれば、それなりの空間はあり、高齢者たちもたちまち童心に返って応援する姿が見えました。やはり対抗戦はいいものです。

黄色女性 筆者の所属する黄色軍は、意気のいい女性軍団が、文字通り黄色い声をあげて開催冒頭から大張りきり。

台湾そこへ台湾のグループも加わって気勢をあげて、いよいよ盛り上がっていました。

赤軍団となりの赤軍団も団結を誇る気勢をあげて、対応意識を燃やします。

しょうがいぶつ 障害物競走があって、さまざまな障害を越えてリレー式に競争するもので、年齢に関係なく、大競争になっていました。

運動会2運動会を盛り上げる綱引きもありました。黄色軍団は、用意ドンのかけ声とともに赤軍団にあっという間に引き込まれての大負け。年配層からは、「勝負になっていないのは、タイミングの問題。一斉に腰を据えてかからないと簡単にやられる」という悔しいコメントが飛んでいました。玉入れ運動会の定番の玉入れです。自分たちの所属する色の玉だけを籠に入れる競技ですが、これが年配者にも受けて大歓声の中で玉が飛んでいました。

運動会1IMG_6418結果は、緑軍団が優勝。さまざまな種目の点数の合計ですが、緑の587点と最下位の黄色が506点。以外と差がつきました。筆者の予想では、点差がない拮抗した対決に見えましたが、競争とは差がついてこそのものでしょうか。

優勝優勝の発表に、喜びを爆発させる緑軍団の人たち。午前と午後の合計4時間半にわたって展開された洋上大運動会は、多くの感動と団結と歓声と笑いを残して、大西洋のひろい海上に響きわたっていました。


 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその22

運動会順延の日にクルーズディレクターにインタビュー

この日はPEACE BOATの大運動会の開催日でしたが、あいにく天候不順で順延となり、予定されていたイベント、企画ものがすべて先送りとなりました。

趣味・道楽から各種教養、スポーツ、ヨガ、ダンス、講演会、セミナー、映画など多くのテーマで毎日、50本もの企画ものが朝から晩まで10会場のどこかで走っています。多いときは1日、80本もの企画ものが開催されているという盛況です。PEACE BOATの「売り物」は、この豊富な企画ものにありそうです。

その責任者を務めている鈴木隆之・クルーズディレクターは、この日は運動会順延で多少、暇だろうと思ってインタビューを申し入れましたが、15分しか空きがないという多忙の身でした。

鈴木さん多忙の身、15分という制限付きのインタビューでした

「PEACE BOATに乗船して19年になります。この船は就航から40年ですし自分の年齢も40歳なので、これまでの人生の半分はこの船とともにいる勘定です」と言います。

船に乗った動機は、もともと一か所にとどまっていることが苦手なので、船に乗って世界各地を転々と訪問していくことは「天職」に見えたそうです。専門学校を卒業後、すぐに旅客船のスタッフとして乗船し、半年後にPEACE BOATに移りました。

「船に乗っていると日々の景色、海の様子、人との巡り会いがすべて変化しています。それがたまらなく自分の生きている価値観に合っています。百聞は一見にしかずといいますが、まさに自分の眼で確かめ体験することがいかに貴重であるかが、今更ながら分かりました」

PEACE BOATに乗るきっかけとなったのは、教科書問題があったと言います。戦時中の「侵略」を「進出」と書き換えた問題で大きな議論が広がりました。実際にはどのような有様だったのか自分の目で確かめてみたいという思いもあったそうです。「歴史だけでなく、現実の問題を自分の目で見て確かめることの大事さを学んでいます」と言います。鈴木さんの行動派の一面は、学生時代に自転車で日本一周旅行を決行したことにも現れています。その体験談も企画シリーズで語って聞かせ、多くのファンを引きつけています。

イラン大統領機の墜落事故で時事解説

この日の夜、イラン大統領のヘリコプター墜落死が及ぼす中東問題について、急きょ、PEACE BOATの「水先案内人」として乗船していた国際政治学者で中東専門家の高橋和夫氏の解説講演が組み込まれました。高橋氏が乗船していたというタイミングにも恵まれましたが、このように臨機応変に乗客の希望を先取りして企画ものを打ち出すスピード感もなかなかのものです。

高橋さん超満員の会場でイランを取り巻く状況を時事解説する高橋和夫氏

高橋氏は、「1960年代に〝最新鋭〟のヘリコプターが墜落した事故だった」とすでに老朽化していたヘリコプターの機能を語り、一瞬、世界に緊張感を走らせた大統領の墜落死を単なる「事故死」の可能性を示唆する内容でした。そして多数の写真や図・ネット情報を見せながら、イランの複雑な権力構造を明快に示し、イランの国内事情を簡潔に解説して聴く人たちにイランの現状を見せてくれた洒脱な時事解説は流石でした。

サルサ指導でも大活躍

鈴木ディレクターは、意外な面を持っています。業務の多忙をぬってサルサというキューバンダンスを教えています。男女がペアになって、ジルバとマンボを合わせたような軽快なステップで踊るダンスです。むかしこの船で教えていた先生のステップを習っていつの間にかプロの域になり、いまや「教え上手」と評判になっている一面もありました。

さらに驚いたことは、鈴木さんはコロナで船が休んでいた2年間に、資格試験を7つも取得していたことでした。

①行政書士、②総合旅行業務取扱管理者、③宅地建築取引士(宅建)、④海事代理士、⑤国内旅行業取扱管理者、⑥世界遺産検定2級(民間資格)、⑦ITパスコート

これは試験の難しい順序に並べたものですが、7つのうち6つが国家試験です。コロナで船が出なくなっても、時間を有効に活用する鈴木さんの無駄のない生き方に感動しました。

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この事実は、今回のPEACE BOAT航海のPEACE BOAT企画の中で発表されたものですが、スタッフはいい企画をしたと思います。

105日間かけて世界一周は、確かに魅力的な旅ではあります。1300人の乗船客を毎日、飽きさせずに次の寄港地へと運ぶ企画ものがあって初めて充実した船旅になることを知り、陰で支えるスタッフたちの一面を知る機会でもありました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその21

沖縄返還の密使・密約のすべてを語る

沖縄返還は1972年5月15日に行われ、今年で52年目になります。船の自主企画の集まりで、沖縄に関係する人々や沖縄に興味のある人が30人ほど集まり、沖縄の米軍基地の んbひどさが大きな話題となりました。沖縄からPEACE BOATに参加した人々は、口々に日常的に活動する米軍の存在を批判していました。

こうした意見にも後押しされ、筆者は「沖縄返還と密使・密約外交のすべてを語る」とのタイトルで講演を行いました。船内で2番目に大きな会場に220人が参加して、熱心に聞いてくれました。

筆者の活動領域は、科学技術関係、知的財産権、ノーベル賞などですが、沖縄返還とこのときに発生した毎日新聞社の西山太吉記者逮捕事件を警視庁記者クラブで担当したこともあり、長い間、記憶の底でくすぶっていました。

5年ほど前に、終活に入って要らないものを整理しはじめたとき、膨大な沖縄返還関連の資料類を発見し、一度は目をつぶって廃棄することにしていました。しかし、過去50年近くにわたって関連資料や文献を集めてきた行動を考えながら、段ボール箱を開けてチラチラと眼を通していくと、次々と理不尽な佐藤栄作総理の言動やその後の自民党政権の責任感のないでたらめな見解発表などが否応なく眼に入り、ついに返還のすべてを事実の積み重ねで書き残し、後生の外交史研究者の文献として残そうと考え、にわかに執筆エネルギーが湧き出しました。そして返還から50年目の節目に日本評論社から「沖縄返還密使・密約外交、宰相佐藤栄作最後の一年」を上梓しました。

今回、船に乗って食事で同席した方や、何かの会合で知り合った方に、沖縄返還の話をしてみるとほぼ何も知らない人ばかりでした。知識の希薄さではなく、このテーマは、もはや風化してしまったからです。

筆者が確信を持って「佐藤栄作の外交の私物化」の話をすると、例外なく驚いた表情になり、是非、船の講演で聴きたいという意見が寄せられ、この日の講演に繋がりました。

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今に繋がる負の遺産をどうするのか

佐藤栄作とニクソン大統領の密約の中でも、日本国民として絶対に許してならないことは、米軍が有事の際の核兵器の日本への持ち込みを容認する議事録を作っていたことです。この議事録は、佐藤首相とニクソン大統領が署名したもので、一通はアメリカ国務省に「国家的重要書類」として保管されていますが、佐藤が持ち帰った一通は所在不明になっていたのが後年、佐藤邸の書斎にあったものが確認されています。

スライド15日米両国の首脳が署名した重要な書面が、一方は国家の機関が重要書類として保管し、一方は元総理私邸の書斎に眠っていたという事実は、国民として許してはならないことだと思います。首脳会談後に発表されるコミュニケにも記載されない重要案件は、アメリカ側は議会の秘密会議で説明されて了解をとり、日本は佐藤総理だけが知りうる内容だったのです。

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台湾・北朝鮮問題など、日本列島近傍では、時としてきな臭い状況が持ち上がり、有事に巻き込まれた場合、米軍の判断で日本の基地に核兵器を持ち込む「権利」を米側に与えた密約をどうするのか。

さらに西山記者逮捕に繋がった米国が支払うべき賠償金を日本が肩代わりして支払うという密約は、今の 米軍基地への「思いやり予算」に繋がっているものであり、理不尽な「思いやり」として問題になっています。

スライド21沖縄返還の是非ではなく国家のあり方の問題

こうした問題は、沖縄返還が「良かった・悪かった」と言う問題ではなく、国家の体裁をしていない外交折衝であり、政治の劣悪さ・未熟さをさらけ出しており、その手法はそのまま負の遺産として残されてきています。

森友学園・国有地売却の公文書改ざん事件でも、財務省は文書開示をせず、裁判所も国民からの開示要求を棄却しています。近畿財務局の職員が自殺に追い込まれ、その職員の妻が人事院に関連情報の開示を要求しましたが、70ページの文書のほとんどが黒塗りというあきれた行政の対応をみると、国民不在の政治と行政が連綿と続いており、そのスタートは沖縄返還まで遡っていきます。

筆者の論評はいくつか提示しましたが、大半は米公文書公開の事実資料、佐藤栄作の密使となった3人の学者と企業人の暴露本の内容、首相官邸の秘書官の日記と総理大臣主席秘書官の日記、佐藤栄作の膨大な日記など事実の掘り起こしで示しました。

講演後に多くの方からショックを受けたとのコメントをいただき、この講演会はそれなりに受け入れられたとの感触をいただきました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその20

ガーナで野口英世に会えないのは残念

PEACE BOATはいま、大西洋のアフリカ大陸沖をヨーロッパに向かって航海を続けています。ナミベア・ウオルビスベイを出航してほぼ1日後に、船内に急患が出て船は引き返し、ナミベアに降ろして再び北上するというアクシデントに見舞われました。

この予定変更で、今後の船旅のスケジュールが変更されるかもと失敗しましたが、帰国までのスケジュールは予定通りとのアナウンスもあり、窓から見える景色から船が速度を上げている様子が見えました。

 アフリカ大陸への接岸は南アフリカ共和国と隣国のナミベア共和国の2国だけであり、筆者が期待していたガーナには寄港する予定が組み込まれておらず、あてが外れました。ガーナは、日本人の心の偉人である野口英世が黄熱病で斃れた地であり、ガーナには野口の偉業を称える記念像などもあるので期待していました。今回は、これがないのでその代わり、船内で野口英世を顕彰する講演会を開催する予定です。

 悲劇の大陸アフリカの現実を知る機会

アフリカ大陸に2回寄港しただけで後はひたすら外洋を北上する航海です。この機会に船内では奴隷の歴史やいまなお政情不安定で混乱するアフリカ諸国の様子を報告する講演などがありました。筆者がその中でも今更ながら知って驚いたのは奴隷の歴史でした。

 人間が人間を売り買いする奴隷売買は、死の商人とも言われています。奴隷を運ぶために開発された道具類は、家畜動物でもこうはしないだろうという思うほど劣悪でひどいものでした。人間は知恵ある動物ですから、家畜並みの道具では簡単に破られて逃げられてしまう。人間を絶対に逃げられないように縛り付ける道具は、半端ではありません。

いずれも講演の際に写真で見せられたたものだけでしたが、見るに堪えないようなものばかりでした。

 デンマークの奴隷制度を知る

「雪の女王」や「人魚姫」などの童話を生んだアンデルセンは、デンマーク生まれの作家です。北欧の最南端のスウェーデンに隣接している国で、首都のコペンハーゲンはトランジットする大きな空港があり、何度も通過していましたが、チーズやバターなど高級乳製品を製造している国、程度の知識しか持ち合わせていませんでした。

そのデンマークが、1660年ころから1800年代初頭まで、アフリカ人を売買する奴隷商人として世界のリーダーの一角になっていることを知ってびっくりしました。当時、デンマークの植民地であった西インド諸島のセント・トーマス島などに非人道的な方法で運びました。そして、主に砂糖やコットンのプランテーションで奴隷として働かせ、富をあげていたという歴史がありました。

 調べてみると、確かに多くの記述がネットでも掲出されていました。デンマークはこの暗い歴史を消し去りたいという思いに駆られたようで、世界で初めて奴隷制度を廃止した国として記載されたこともあったようですが、それは大きな間違いとして訂正される騒ぎもあり、いまでは史実を向き合いながら過去の歴史清算をしているという話でした。

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 アフリカのマリー・トーマス(Mary Thomas)は、奴隷解放に立ち上がった女性です。奴隷労働者たちと反乱を起こし、約50もの砂糖プランテーションや畑、家屋に火を付けて焼いた歴史をつくりました。奴隷解放のヒロインとして今に伝わっています。

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその19

南半球は太陽が西から昇る!?

5,6人で囲む朝の食事のテーブルは、前日の出来事や各自の近況報告で会話が弾みます。知らない同士ですが1ヶ月も経つとどこかでお顔を見たかなと思う人も出てきます。ちょうど、太陽が昇ってくる時刻でした。水平線の彼方から赤い太陽が昇ってくる光景は、いつ見てもいいものです。

角際で写真を撮っていたご婦人が「あら、今日は太陽が西から昇っている」とつぶやきました。船は北に向かって航海しているので、太陽は船の右方向に見えるはずです。それが左方向に見えている。だれかが「南半球は、太陽は西から昇るんだよ」というと「そんなこと学校で習わなかったよね」と言います。なんとなくそれで皆、納得したようでした。

筆者は、そうだろうかと頭の中で地球を思い浮かべて考えていましたが、納得いかない。ヘンだな。進行方向の左側に太陽がある。ということは船は南に向かっている。謎は、翌日の朝の食卓で解けました。

急患発生で船がナミベアに戻った!

前日、急患が発生したので船は反転し、ナミベアに戻ったと言うのです。船内放送で3回も知らせ、ナミベアには急患を搬送するヘリコプターがないので、高速モーターボートが接近し、船から降ろした急患を収容して戻って行ったというのです。

患者さんは若い人だったようで、皆、無事を祈る言葉であふれていました。すでに船で亡くなった方が2人出ているという話も聞きました。PEACE BOATスタッフに聞いた話ではありませんが、食卓の話題ではよく出てきます。スタッフも入れて1500人の乗員がいるのですから、そういうこともありうる話です。

PEACE BOATに申し込んだとき、70歳以上は健康診断書を出すように言われ、筆者は一か月以内の人間ドックの診断書を提出して、乗船OKをもらった身でした。

ともかくも太陽が西から昇ったと思っていたとき、船は急患収容のため、反転してナミベアに戻ったので南に向かって航海していたのです。太陽はやはり東から昇っていた! 

謎が解けたとき、みんなで大笑いしました。どおりで船の速度が速かったことを筆者は思い起こしました。窓から流れゆく光景を見ていると、いつもの船の速度より速いなと思ったのです。しかし、船内放送で3回も急患発生したことを告知したことに全く気がつかなかったことにショックを覚えました。PCで何か作業をしているときに、船内放送があっても上の空でいることが少なくありません。

船内放送は、英語、日本語、中国語、韓国語と同じことを4回も放送するので、うるさいなあと思うことが多いのです。日本語のところできちんと聴いていなければ、あとは雑音と同じです。

急患を引き渡して船が再び反転して北へ向かったときに、あのむせび泣く汽笛を一回だけ鳴らしたと言うのです。急患搬送のお礼と患者には無事に帰って来いよと鳴らしたのでしょうが、筆者はこれも聴いていませんでした。そうこうしているうち、部屋のキーを中に置いたまま外に出てしまい、レセプションまで行って開けてもらうという失態も演じました。我が国の劣化を嘆く前に自らの劣化を反省するという日になりました。

 

趣味道楽から教養テーマまで各種の集まり

PEACE BOAT乗船客が自主的に企画して発表したり行動を起こす「自主企画」というイベントがあります。1300人(寄港地で乗り降りの乗客がいるので、大体の人数です)の人がいるので、趣味・道楽から始まってスポーツの類い、文化・芸術、教養まで人々の興味のあるものすべてに人が集まるもんだと感心しています。

例えばお習字、折り紙、朗読会、ペン字履修などに中国の舞踊、太極拳、ヨガなども会場を覗いてみたらほぼ満杯の盛況です。ヨガやサルサなどは、大きな会場やプールの周囲の回廊をうまく使って楽しんでいます。

1IMG_6150小中学校の教育を考える会に集まり、早速意見交換会が始まりました

小中学校の教育を考える会が発足

筆者が日本の学校給食はいまや世界一であるという主旨で講演をしたことがきっかけになって、若い世代の乗船客と言葉を交わす仲になりました。その中に、中学校の国語の教師を4年務めて辞め、船に乗ってきた女性がいました。理由を聞いてみると、教師・学校という職場に飽き足らず、生き方を考え直したいというようなことを言います。

21世紀構想研究会の創設から25年を記念して開催したシンポジウムは教育がテーマだったので、そんな話から、船でも教育問題を提起する自主企画をしようかという話に発展しました。そこに大学の教育学部3年生の男子学生も加わることになり、3人が発案者になり「小学校の教育を考える」自主企画を立ち上げました。

20人以上の集まりにびっくり

当初、どのくらい集まってくるか不安もありましたが、開いてみれば20人以上が会場に集まってきました。船の中で知り合いになった元小中学校の教員をしていたご夫妻、国立大学の教授をしていたご婦人など、教育関係者も顔を見せており、初等中等教育が劣化をしている現状を憂えることで一致していました。

2IMG_6153参加者は意見を付箋に書いて出し合い、終了後の整理に役立たせます。

学校現場ではこのような方法がよくとられているようで、勉強になりました。
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これから現場で何が問題になっているのか。その現状を出し合い、解決する方法を模索してまとめ、それを行政当局や政治家に届けて対応策を講じてもらおういう狙いです。最終的には船でシンポジウムを開催してまとめるという計画です。

参加者の意見をどのように集約するのか。主催した若者たちは、大きな付箋を配布して、そこに全員の意見をメモしてもらい、それを集めて整理するという方法には感心しました。教室の授業では、よくやっているという方法だとか。こうして教育問題を討論してよりよき現場の実現に船の同士は動き出しました。

 


PEACE BOATで世界一周の旅-その18

世界最古のナミブ砂漠に感動

南アフリカ共和国(南ア)の北に隣接するナミビア共和国のウォルビス・ベイの港に接岸されたとの船内アナウンスを聞いてデッキに出て見ました。予想に反して一面、霧がかかっており、肌寒い空気があたりを支配していました。

地球上で最古の砂漠を持つ国と聞いていたのですが、第一印象は意外でした。灼熱の砂漠地帯を勝手に想像していたからです。バスで40分ほどで、この国最大のナミブ砂漠に着きました。幹の太い椰子の木に似たずんぐりした樹木が道路沿いに整然と植えてあります。バスを降りると赤茶けた地面がそのまま砂漠の稜線につながっていました。

IMG_6274遠い砂漠の稜線に豆粒ほどの人影が見えます。

IMG_6286サングラスなしではいられない強い太陽光、砂漠のうすい茶色と

透き通った青い空が対照的でした

水が流れるような微粒子の砂

砂漠と言っても広大な砂地が広がっているのではなく、砂山の丘陵が見る限り幾重にも連なった景観です。言ってみれば砂で作られた山々ですが、草一本生えていないきれいな砂地の丘と稜線が限りなくつながっています。

筆者は、鳥取砂丘の海岸線の砂地しか見ていませんし、アメリカではユタ州やネバタ州の砂漠を車で通りすがりに見た程度です。名画「アラビアのロレンス」を見ていたので、アフリカの砂漠とはあのようなものだろうと想像していましたが違いました。

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広い砂漠の中にたった一か所だけ赤い花が咲いていました。同行者に聞いたらブーゲンビリアということです。なぜこの一か所だけに真っ赤な花を咲かせているのか。その自然の妙に興味を持ちました。

世界最古とうたっているナミブ砂漠は、全く違った印象でした。遙か遠い稜線の上を小さな人影がまるで虫のように移動しているのが見えます。あそこまで行くのは到底無理ですが、それでも稜線に向かって登って見ました。

人が歩いた足跡をたどって登りますが、足もとがふかふかと下に潜り込んでいきます。何の抵抗もなくやわらかい感触で足もとが砂地にとられていきます。危うく倒れそうになって砂地に手をついて、この砂漠の砂を知って感動しました。

砂と言うよりも柔らかい布地に似た感触が手に伝わってきました。両手で砂をすくってみてその謎が分かりました。両手ですくった砂が、まるで水のように指の間から下へ流れていきます。水に等しい滑らかな感触で下へ流れます。これは砂ではない。

砂粒という感じではなく、滑らかな流動物が抵抗もなく手の平を通過していくという感じです。よくよく指で触って見ると、砂粒のきめの細かさが伝わってきます。数億年、数千万年の時間の中で、この砂たちはまろやかにきめ細かく、まるで水流になるような粒子にされてしまったのでしょうか。草一本生えない秘密が分かりました。こんなに抵抗のない砂では、植物は根を張る根拠が作れないでしょう。

IMG_6291 (1) この太い幹には枝葉はなく、てっぺんには天に向かった枝が挿し木のように生えています。この樹木は、砂漠地帯の道路沿いに移植されたようで、きれいに並んでいます。しかし太い幹はゴツゴツした固い表皮に見えますが手で触ってみると、あっけないほど砕けしまう柔らかい表皮でした。砂漠に生息する特異な植物に触れた思いでした。

ナミブ砂漠の砂を日本に持って帰りたくなりました。バスの座席に配布したあったビニール袋は、砂漠の砂を持って帰りなさいというサインだったのでしょうか。お土産にここの砂を入れて持って帰れという配慮ではないかと思ったのですが・・・。

日本の2倍以上の国土に300万人足らずの人口

ナミビアは15世紀末にポルトガル人が上陸した土地でしたが、砂漠地帯であるため関心を示さず、1878年にイギリスがこの国の唯一の港となったウォルビス・ベイを占有するまで未開の土地だったということです。その後、ドイツの植民地となり、今でも往時の風景を残すヨーロッパ風の街並みがありました。

小さな市街地には垢抜けた商店が並んでいましたがバスで通り過ぎただけで、この国とは砂漠だけの短時間の見物で終わりました。

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露天で販売する民芸品売り場では、現地人の人が熱心に客引きしていました。

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元々はダイヤモンド、ウラン、銅、亜鉛など鉱物資源が豊富で産出量もかなりなものです。ダイヤモンド採掘で存在感があったそうですが2000年以降、ダイヤモンド以外の鉱物生産量が上回るようになり、ウランの年間産出高は4626トンと世界第4位を占めるまでになったそうです。こうした鉱産資源は、隣国の南アをはじめ、多国籍企業に採掘されているため貧富の差は解消できず、国の発展には多くの課題があるようでした。

IMG_6309ヨーロッパ風の街並みと瀟洒なホテルもあり、そこで出されたランチも

美味しくいただきました。

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気候は温帯にあるので過ごしやすく、ドイツ文化が今なお息づいています。世界に誇る砂漠資源だけでなく、豊富な鉱物資源を独自に活用出来る国になれば、大きな発展が出来る国です。白人と黒人の混血の思われる人も多く見かけられ、アフリカの中でも特異な文化と未来を背負っている国ではないかと思いました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその17

乗船一か月

4月13日に横浜港を出港してから1か月が過ぎました。旅程の3分の1ですから早いものです。今日5月14日は、ナミベアのウォルスベイに寄港中です。この地での様子は次のブログに書きます。

一か月間、船で過ごしてようやく、どこになにがあるかが分かり、目的の場所に迷わず行けるまでになりました。引っ越した新住所の周辺のことがほぼ、大まかに分かってきたという感覚でしょうか。

プールの水がダップン、ダップン・・・

大西洋に出てからは海の波浪も穏やかになりましたが、インド洋と大西洋の合流するあたりは、ひどい揺れが続きました。そんなとき「今日も遊泳禁止だよ」という会話を聞いて、どこのことだろうと思っていたら12階にあるプールのことでした。プールも遊泳禁止となり、行ってみると大きな網をかぶっていました。

プールの水の動きを見て仰天しました。ダップン、ダップン・・・とプールの水が大きい波のように揺れ動き、オーバーフローした水がプールサイドに乱暴にあふれ、側溝に勢いよく流れ込んだ水がここでもあふれ、プールに戻ってきています。船の揺れが大きいことは感じていましたが、プールの水の大きな揺れを見て、これは大変な揺れなんだと初めて知りました。これではプールで泳ぐことなど不可能です。

仕方なく同じ階のサウナに入りました。こちらは毎日行くようになり、アフターは泡立つジャグジーで一風呂に入った気分を楽しんできました。サウナに行くようになってから夜中の脚の吊りもなくなり、ひところ、船で流行った扁桃腺の炎症も治まりました。

熱も出ないで気分も変わらず、扁桃腺だけごろごろと痰がからまる炎症を起こしていました。多くの人たちがかかっていたので、この船で蔓延した感染症です。診療所でお薬を処方された人もいますが、大体は自力で回復したようですが、筆者はサウナに行って治しました。

プールが遊泳禁止のとき、サウナに付属しているジャグジーも禁止となり、小型の円形プールも禁止でした。お風呂気分で楽しんでいたジャグジーがないのは不満でしたが、海の荒れには勝てません。

食事のレシピの苦労を知る

前にも書きましたが、三食すべて3つあるレストランのどこかでタダで食べられます。アルコール類は各自負担ですが5階と6階にあるレストランは、夜になるとフルコースのディナーになります。こちらに行くときは、原則そして男性は襟付きのシャツ着用、女性もそれなりのファッションが要求されていますが、早い話、Tシャツ、サンダル、半ズボン以外は、大体OKです。

IMG_6074 (1)ある日のディナーのメニューです。ここから選んで注文します。

ディナーは前菜、スープから始まってデザートまでフルコースですから横文字と日本語で書かれたメニューから選んで注文します。ディナーには箸はなく、ナイフ・フォーク・スプーンの洋食スタイルです。この料理がなかなか工夫されており、感心しながら食べています。厨房も毎日、同じ乗船客に出すので献立作成には相当な工夫を凝らしているが分かります。

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IMG_6078メインディッシュが写真にありませんが、そのうちご紹介します。

14階のバイキングスタイルのレストランは、服装の制限はないので、若者たちはTシャツ、サンダルもいます。こちらの料理も、和食、中華風、エスニック風、インド風など多彩な献立で、飽きさせないで食べてもらおうとする工夫が見られます。

長い船旅、食べることが最大の楽しみと言ってもいいでしょう。ご婦人たちは、三食据え膳付きで、帰国したらどうしましょうという話題がよく出ています。体重計を見ながらの調整にもかなり難航している会話があちこちから聞こえてきます。