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2024年5 月

PEACE BOATで世界一周の旅ーその19

南半球は太陽が西から昇る!?

5,6人で囲む朝の食事のテーブルは、前日の出来事や各自の近況報告で会話が弾みます。知らない同士ですが1ヶ月も経つとどこかでお顔を見たかなと思う人も出てきます。ちょうど、太陽が昇ってくる時刻でした。水平線の彼方から赤い太陽が昇ってくる光景は、いつ見てもいいものです。

角際で写真を撮っていたご婦人が「あら、今日は太陽が西から昇っている」とつぶやきました。船は北に向かって航海しているので、太陽は船の右方向に見えるはずです。それが左方向に見えている。だれかが「南半球は、太陽は西から昇るんだよ」というと「そんなこと学校で習わなかったよね」と言います。なんとなくそれで皆、納得したようでした。

筆者は、そうだろうかと頭の中で地球を思い浮かべて考えていましたが、納得いかない。ヘンだな。進行方向の左側に太陽がある。ということは船は南に向かっている。謎は、翌日の朝の食卓で解けました。

急患発生で船がナミベアに戻った!

前日、急患が発生したので船は反転し、ナミベアに戻ったと言うのです。船内放送で3回も知らせ、ナミベアには急患を搬送するヘリコプターがないので、高速モーターボートが接近し、船から降ろした急患を収容して戻って行ったというのです。

患者さんは若い人だったようで、皆、無事を祈る言葉であふれていました。すでに船で亡くなった方が2人出ているという話も聞きました。PEACE BOATスタッフに聞いた話ではありませんが、食卓の話題ではよく出てきます。スタッフも入れて1500人の乗員がいるのですから、そういうこともありうる話です。

PEACE BOATに申し込んだとき、70歳以上は健康診断書を出すように言われ、筆者は一か月以内の人間ドックの診断書を提出して、乗船OKをもらった身でした。

ともかくも太陽が西から昇ったと思っていたとき、船は急患収容のため、反転してナミベアに戻ったので南に向かって航海していたのです。太陽はやはり東から昇っていた! 

謎が解けたとき、みんなで大笑いしました。どおりで船の速度が速かったことを筆者は思い起こしました。窓から流れゆく光景を見ていると、いつもの船の速度より速いなと思ったのです。しかし、船内放送で3回も急患発生したことを告知したことに全く気がつかなかったことにショックを覚えました。PCで何か作業をしているときに、船内放送があっても上の空でいることが少なくありません。

船内放送は、英語、日本語、中国語、韓国語と同じことを4回も放送するので、うるさいなあと思うことが多いのです。日本語のところできちんと聴いていなければ、あとは雑音と同じです。

急患を引き渡して船が再び反転して北へ向かったときに、あのむせび泣く汽笛を一回だけ鳴らしたと言うのです。急患搬送のお礼と患者には無事に帰って来いよと鳴らしたのでしょうが、筆者はこれも聴いていませんでした。そうこうしているうち、部屋のキーを中に置いたまま外に出てしまい、レセプションまで行って開けてもらうという失態も演じました。我が国の劣化を嘆く前に自らの劣化を反省するという日になりました。

 

趣味道楽から教養テーマまで各種の集まり

PEACE BOAT乗船客が自主的に企画して発表したり行動を起こす「自主企画」というイベントがあります。1300人(寄港地で乗り降りの乗客がいるので、大体の人数です)の人がいるので、趣味・道楽から始まってスポーツの類い、文化・芸術、教養まで人々の興味のあるものすべてに人が集まるもんだと感心しています。

例えばお習字、折り紙、朗読会、ペン字履修などに中国の舞踊、太極拳、ヨガなども会場を覗いてみたらほぼ満杯の盛況です。ヨガやサルサなどは、大きな会場やプールの周囲の回廊をうまく使って楽しんでいます。

1IMG_6150小中学校の教育を考える会に集まり、早速意見交換会が始まりました

小中学校の教育を考える会が発足

筆者が日本の学校給食はいまや世界一であるという主旨で講演をしたことがきっかけになって、若い世代の乗船客と言葉を交わす仲になりました。その中に、中学校の国語の教師を4年務めて辞め、船に乗ってきた女性がいました。理由を聞いてみると、教師・学校という職場に飽き足らず、生き方を考え直したいというようなことを言います。

21世紀構想研究会の創設から25年を記念して開催したシンポジウムは教育がテーマだったので、そんな話から、船でも教育問題を提起する自主企画をしようかという話に発展しました。そこに大学の教育学部3年生の男子学生も加わることになり、3人が発案者になり「小学校の教育を考える」自主企画を立ち上げました。

20人以上の集まりにびっくり

当初、どのくらい集まってくるか不安もありましたが、開いてみれば20人以上が会場に集まってきました。船の中で知り合いになった元小中学校の教員をしていたご夫妻、国立大学の教授をしていたご婦人など、教育関係者も顔を見せており、初等中等教育が劣化をしている現状を憂えることで一致していました。

2IMG_6153参加者は意見を付箋に書いて出し合い、終了後の整理に役立たせます。

学校現場ではこのような方法がよくとられているようで、勉強になりました。
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これから現場で何が問題になっているのか。その現状を出し合い、解決する方法を模索してまとめ、それを行政当局や政治家に届けて対応策を講じてもらおういう狙いです。最終的には船でシンポジウムを開催してまとめるという計画です。

参加者の意見をどのように集約するのか。主催した若者たちは、大きな付箋を配布して、そこに全員の意見をメモしてもらい、それを集めて整理するという方法には感心しました。教室の授業では、よくやっているという方法だとか。こうして教育問題を討論してよりよき現場の実現に船の同士は動き出しました。

 


PEACE BOATで世界一周の旅-その18

世界最古のナミブ砂漠に感動

南アフリカ共和国(南ア)の北に隣接するナミビア共和国のウォルビス・ベイの港に接岸されたとの船内アナウンスを聞いてデッキに出て見ました。予想に反して一面、霧がかかっており、肌寒い空気があたりを支配していました。

地球上で最古の砂漠を持つ国と聞いていたのですが、第一印象は意外でした。灼熱の砂漠地帯を勝手に想像していたからです。バスで40分ほどで、この国最大のナミブ砂漠に着きました。幹の太い椰子の木に似たずんぐりした樹木が道路沿いに整然と植えてあります。バスを降りると赤茶けた地面がそのまま砂漠の稜線につながっていました。

IMG_6274遠い砂漠の稜線に豆粒ほどの人影が見えます。

IMG_6286サングラスなしではいられない強い太陽光、砂漠のうすい茶色と

透き通った青い空が対照的でした

水が流れるような微粒子の砂

砂漠と言っても広大な砂地が広がっているのではなく、砂山の丘陵が見る限り幾重にも連なった景観です。言ってみれば砂で作られた山々ですが、草一本生えていないきれいな砂地の丘と稜線が限りなくつながっています。

筆者は、鳥取砂丘の海岸線の砂地しか見ていませんし、アメリカではユタ州やネバタ州の砂漠を車で通りすがりに見た程度です。名画「アラビアのロレンス」を見ていたので、アフリカの砂漠とはあのようなものだろうと想像していましたが違いました。

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広い砂漠の中にたった一か所だけ赤い花が咲いていました。同行者に聞いたらブーゲンビリアということです。なぜこの一か所だけに真っ赤な花を咲かせているのか。その自然の妙に興味を持ちました。

世界最古とうたっているナミブ砂漠は、全く違った印象でした。遙か遠い稜線の上を小さな人影がまるで虫のように移動しているのが見えます。あそこまで行くのは到底無理ですが、それでも稜線に向かって登って見ました。

人が歩いた足跡をたどって登りますが、足もとがふかふかと下に潜り込んでいきます。何の抵抗もなくやわらかい感触で足もとが砂地にとられていきます。危うく倒れそうになって砂地に手をついて、この砂漠の砂を知って感動しました。

砂と言うよりも柔らかい布地に似た感触が手に伝わってきました。両手で砂をすくってみてその謎が分かりました。両手ですくった砂が、まるで水のように指の間から下へ流れていきます。水に等しい滑らかな感触で下へ流れます。これは砂ではない。

砂粒という感じではなく、滑らかな流動物が抵抗もなく手の平を通過していくという感じです。よくよく指で触って見ると、砂粒のきめの細かさが伝わってきます。数億年、数千万年の時間の中で、この砂たちはまろやかにきめ細かく、まるで水流になるような粒子にされてしまったのでしょうか。草一本生えない秘密が分かりました。こんなに抵抗のない砂では、植物は根を張る根拠が作れないでしょう。

IMG_6291 (1) この太い幹には枝葉はなく、てっぺんには天に向かった枝が挿し木のように生えています。この樹木は、砂漠地帯の道路沿いに移植されたようで、きれいに並んでいます。しかし太い幹はゴツゴツした固い表皮に見えますが手で触ってみると、あっけないほど砕けしまう柔らかい表皮でした。砂漠に生息する特異な植物に触れた思いでした。

ナミブ砂漠の砂を日本に持って帰りたくなりました。バスの座席に配布したあったビニール袋は、砂漠の砂を持って帰りなさいというサインだったのでしょうか。お土産にここの砂を入れて持って帰れという配慮ではないかと思ったのですが・・・。

日本の2倍以上の国土に300万人足らずの人口

ナミビアは15世紀末にポルトガル人が上陸した土地でしたが、砂漠地帯であるため関心を示さず、1878年にイギリスがこの国の唯一の港となったウォルビス・ベイを占有するまで未開の土地だったということです。その後、ドイツの植民地となり、今でも往時の風景を残すヨーロッパ風の街並みがありました。

小さな市街地には垢抜けた商店が並んでいましたがバスで通り過ぎただけで、この国とは砂漠だけの短時間の見物で終わりました。

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露天で販売する民芸品売り場では、現地人の人が熱心に客引きしていました。

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元々はダイヤモンド、ウラン、銅、亜鉛など鉱物資源が豊富で産出量もかなりなものです。ダイヤモンド採掘で存在感があったそうですが2000年以降、ダイヤモンド以外の鉱物生産量が上回るようになり、ウランの年間産出高は4626トンと世界第4位を占めるまでになったそうです。こうした鉱産資源は、隣国の南アをはじめ、多国籍企業に採掘されているため貧富の差は解消できず、国の発展には多くの課題があるようでした。

IMG_6309ヨーロッパ風の街並みと瀟洒なホテルもあり、そこで出されたランチも

美味しくいただきました。

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気候は温帯にあるので過ごしやすく、ドイツ文化が今なお息づいています。世界に誇る砂漠資源だけでなく、豊富な鉱物資源を独自に活用出来る国になれば、大きな発展が出来る国です。白人と黒人の混血の思われる人も多く見かけられ、アフリカの中でも特異な文化と未来を背負っている国ではないかと思いました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその17

乗船一か月

4月13日に横浜港を出港してから1か月が過ぎました。旅程の3分の1ですから早いものです。今日5月14日は、ナミベアのウォルスベイに寄港中です。この地での様子は次のブログに書きます。

一か月間、船で過ごしてようやく、どこになにがあるかが分かり、目的の場所に迷わず行けるまでになりました。引っ越した新住所の周辺のことがほぼ、大まかに分かってきたという感覚でしょうか。

プールの水がダップン、ダップン・・・

大西洋に出てからは海の波浪も穏やかになりましたが、インド洋と大西洋の合流するあたりは、ひどい揺れが続きました。そんなとき「今日も遊泳禁止だよ」という会話を聞いて、どこのことだろうと思っていたら12階にあるプールのことでした。プールも遊泳禁止となり、行ってみると大きな網をかぶっていました。

プールの水の動きを見て仰天しました。ダップン、ダップン・・・とプールの水が大きい波のように揺れ動き、オーバーフローした水がプールサイドに乱暴にあふれ、側溝に勢いよく流れ込んだ水がここでもあふれ、プールに戻ってきています。船の揺れが大きいことは感じていましたが、プールの水の大きな揺れを見て、これは大変な揺れなんだと初めて知りました。これではプールで泳ぐことなど不可能です。

仕方なく同じ階のサウナに入りました。こちらは毎日行くようになり、アフターは泡立つジャグジーで一風呂に入った気分を楽しんできました。サウナに行くようになってから夜中の脚の吊りもなくなり、ひところ、船で流行った扁桃腺の炎症も治まりました。

熱も出ないで気分も変わらず、扁桃腺だけごろごろと痰がからまる炎症を起こしていました。多くの人たちがかかっていたので、この船で蔓延した感染症です。診療所でお薬を処方された人もいますが、大体は自力で回復したようですが、筆者はサウナに行って治しました。

プールが遊泳禁止のとき、サウナに付属しているジャグジーも禁止となり、小型の円形プールも禁止でした。お風呂気分で楽しんでいたジャグジーがないのは不満でしたが、海の荒れには勝てません。

食事のレシピの苦労を知る

前にも書きましたが、三食すべて3つあるレストランのどこかでタダで食べられます。アルコール類は各自負担ですが5階と6階にあるレストランは、夜になるとフルコースのディナーになります。こちらに行くときは、原則そして男性は襟付きのシャツ着用、女性もそれなりのファッションが要求されていますが、早い話、Tシャツ、サンダル、半ズボン以外は、大体OKです。

IMG_6074 (1)ある日のディナーのメニューです。ここから選んで注文します。

ディナーは前菜、スープから始まってデザートまでフルコースですから横文字と日本語で書かれたメニューから選んで注文します。ディナーには箸はなく、ナイフ・フォーク・スプーンの洋食スタイルです。この料理がなかなか工夫されており、感心しながら食べています。厨房も毎日、同じ乗船客に出すので献立作成には相当な工夫を凝らしているが分かります。

IMG_6076 (1) IMG_6077
IMG_6078メインディッシュが写真にありませんが、そのうちご紹介します。

14階のバイキングスタイルのレストランは、服装の制限はないので、若者たちはTシャツ、サンダルもいます。こちらの料理も、和食、中華風、エスニック風、インド風など多彩な献立で、飽きさせないで食べてもらおうとする工夫が見られます。

長い船旅、食べることが最大の楽しみと言ってもいいでしょう。ご婦人たちは、三食据え膳付きで、帰国したらどうしましょうという話題がよく出ています。体重計を見ながらの調整にもかなり難航している会話があちこちから聞こえてきます。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその16

荒れる合流海域に巨船も翻弄

PEACE BOATは、インド洋と大西洋が合流するアフリカ大陸南端の大都市ケープタウンに近づいていきますが、日増しにうねりが激しくなり、船内の移動中に何度もよろめいて壁にぶつかっています。ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが、1488年にインド洋への航路を初めて発見したときにも、この海域での難航ぶりが史実として残っています。故国の国王が荒海を乗り切って大陸の突端の岬にたどり着いた偉業を称えて「希望の岬」と呼び、それが地名になったとも伝わっています。

英語では「Cape of Good Hope(希望の岬)」と記載されています。江戸時代に屋久島に上陸した宣教師を調べた役人が、宣教師の持っていた地図に記載されていた外国語から、この岬を「喜望峰」と翻訳し、福沢諭吉がそのまま著書に記載したことから定着したようです。そんなことを調べているうち、船は4時間も遅れてようやく接岸しました。

喜望峰に立つ

船から降りると慌ただしくツアーバスに乗り換え、ただひたすら喜望峰を目指して走り出しました。出発が正午近くに遅れたので、日没前に喜望峰に到着しないと到着してすぐ帰るということになりかねません。途中で遅めのランチを食べてからもひたすらバスは走ります。

アパルトヘイト(人種隔離政策)と闘ったネルソン・マンデラの銅像が立つ市庁舎を車窓から見ながら、ともかくも喜望峰に向かってひた走りました。

市庁舎ネルソン・マンデラの銅像がある市庁舎のわきを通って喜望峰へ

海岸に押し寄せる波頭が幾重にも白い線を引いて独特の景観を見せるようになります。インド洋と大西洋がぶつかり、複雑な海流を巻き起こしているのでしょうか。泡立つ波頭の模様が際だち、遠くの岩山の突端に小さな灯台が見えてきました。

案内人は、夕方にさしかかっているので、灯台へのケーブルカーの乗るのは無理だと言います。しかしともかくも、ここまで来たという満足感に、顔を車窓にこすりつけながら限りなく広がっている海を眺めました。バスを降りて誰もがまっしぐらに突端まで行き着き、写真撮影に入ります。ついに喜望峰に立ったのです。

喜望峰1
喜望峰2

この泡立つ波頭の複雑に織りなす光景を、喜望峰沖を初めて通過した海洋冒険家のヴァスコ・ダ・ガマも見たのでしょうか。ケーブルカーは時間がないので無理だとわかり、せめて記念品を買い求めようと売店に殺到しました。しかしここはすでに超満員。それでも喜望峰入りの記念品を買い物かごに入れて、さて会計となると店外にはみ出すほどの行列です。PEACE BOATからのバスだけでなく、週末なので多くの観光バスが押し寄せています。

帰船する時刻が近づいて来ます。万一、バスが帰船時刻に間に合わないと船は出て行く、乗り遅れた乗船客は一路、陸上を走って次の寄港地、ナミベアのウオルズベイへ回るはめになります。と言うわけで買い物かごに入れた記念の土産類はすべて購入を諦めてバスに戻りました。

 グリーン・フラッシュを見る

 バスに乗り込む直前、今一度、喜望峰から海水線に沈み行く太陽を眺めました。そのとき上空に向かって放射状に照らしていた赤い太陽の色が褪せていき、一瞬、緑色に変色したのです。同じ光景を見ていた人たちが、一斉に「あっ」と声を上げた次の瞬間、太陽は海水面下に没していきました。

この光景を見た人たちがひとしきり、緑の太陽の話で持ちきりです。後で調べたらこれは太陽が昇るときと沈むときに見せるグリーン・フラッシュという光学現象であることがわかりました。

夕日喜望峰沖を沈み行く太陽。この直後にグリーン・フラッシュを見ました。

ダチョウの親子バス道路の脇にいたダチョウの親子

アフリカ随一の工業国の南ア

南アフリカ共和国(南ア)は、日本人ならラグビーの強豪国であることを知っています。この国に来てびっくりしたのは、男女とも体格が並外れて大きいことです。黒人と白人とさまざまな人種で構成されている国ですが、みな優れた体格をしています。

中でも驚いたのは、女性の幅の広さです。背も高いが幅がある。それも半端ではなく、ビーナス像を思い切り横に太くしたような、豊かな胸と偉大なヒップがとてつもない存在感を出しています。一体、これはどう言えばいいのでしょうか。日本的に言えば「デブ」という言葉が浮かびますが、しかし彼女らの行動と動作を見ていると素早く、自然な仕草です。一緒に行った乗船客のご婦人たちも語っていましたが、「どの女性も大きくて優しいのよね」と言います。店員さんもウイエトレスのお嬢さんも、にこやかな笑顔で、優しいという言葉がぴったりでした。

IMG_6203 (1)レストランのウエイトレス女性とツーショット。にこやかにカメラに向かってピースポーズを作ってくれました。このような体型をした女性が普通でした。

スポーツ大国と治安の悪さ

国民的に人気のあるラグビーは、ワールドカップ(W杯)に1995年に初参加していきなり優勝。99年には3位、07年には、強豪イングランドを破り2度目の優勝。昨年のW杯で日本が南アに敗れたのは当然の結果だったのでしょう。

南アはラグビーだけでなくサッカーも強く、国民の多く、特に黒人層には大人気だそうです。野球のWBCにも出場しており、一次リーグで敗退するもMLBの主力選手を擁するカナダに8-11と善戦して世界を驚かせました。

男女とも大型体格と機敏な動作を見ているとスポーツ大国であることは理解できます。港には輸出する乗用車が大量に並び、豊かな鉱物資源とともにアフリカ随一の工業国であることも分かりました。ところがどうにも理解できなかったのは、治安の悪さです。

PEACE BOATでも、下船して歩くときの要注意を細かく書き込んでいます。強盗、ひったくり、コソ泥などが蔓延しており、殺人事件も普通に起きているということです。原因は、貧富の差にありそうだし、人種間の確執もまだありそうです。

5月12日朝、船はケープタウンを離れて大西洋に出ました。これから一路北上してヨーロッパ大陸へと向かいます。海上の波は依然として高く、船は揺れ動いています。


PEACE BOATで世界一周の旅-その15

アフリカ南東部の大都市ポートエリザベスに接岸

セーシェル島からインド洋を南下すること5日間。茫洋として海を毎日見続けていましたが、アフリカの最南端に近いポートエリザベスの遠い影が見えてきたときは、ついにアフリカに来たという実感が沸いてきました。現役時代、一度だけ生きている化石魚と言われるシーラカンスの取材でアフリカ沿岸に行くため、何種類もの予防注射とワクチンを打って準備していたことがありました。直前にビザの関係で中止になって以来、アフリカに行く機会がありませんでした。

ポートエリザベスは、近年、観光都市として急速に開発されており、動物保護区や国立公園が整備されている都市です。港に接岸すると、おびただしい乗用車が整然と並んでいることに度肝を抜かれました。それは南アフリカ共和国(南ア)から輸出される自動車であり、この国はアフリカでも随一の工業国でもあることを思い出しました。

余裕ある風情を感じた実物の動物たち

接岸した翌日は、港町を散策して様子を見ましたが、最大の楽しみは動物保護区の見学でした。翌日朝早く、船からバスに乗り換えて1時間半、目指したプンバ・プライベート・ゲーム・リザーブ(Pumba Private Game Reserve、ここでは ブンパ動物保護区と表記)は、総面積7千ヘクタールという途方もなく広い動物保護区でした。バスを降り、ドライバーをいれて10人乗りの4輪駆動の大型ジープに乗り換えました。

洒落たロッジ風の建物から出てみると、背の低いブッシュが生い茂る起伏の富んだ丘稜地が際限なく広がっています。樹高の高い樹木はなく、四方八方見晴らしのいい丘陵地帯です。

私たちの眼前に最初に出てきたのはイボイノシシでした。見る間にヌーが出て、シカ類が出てきました。いずれもテレビの番組で見た動物たちですが、図鑑も持ち合わせていなかったので正確な種名は分かりません。

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そこへいきなり、ブッシュの陰から大型のサイが2頭出てきました。おお、という歓声が沸きましたが、サイは何事もないように草をはんでいます。動物園で見るサイよりもずっと大型に見えているのはなぜなのか。動物園のサイよりも大きいわけがありません。そり上がった見事な角が大きく見せているのでしょうか。

ドライバー兼案内人によると、サイは眼の機能が低く耳と鼻が優れているそうで、地面の草しか食べないということでした。ジープからの距離は20メートル程度で、確かに地面の草だけ食べている様子を飽きるほど見せてくれました。

ゾウが出てキリンも出てきた

ジープは、うねうねと不規則に続いているでこぼこ道をゆっくりと進んでいますが、左右、見晴らしのいい景観なので同乗者はみな、左右を見渡しているのですが、ゾウが出てきたのは、すぐ近くのブッシュからでした。

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巨像という言葉がありますが、やはり大きく見えます。数十メートル先で灌木の若い葉を鼻でうまくたぐり寄せてゆっくりとはんでいます。アフリカ象の誇る大きな耳をパタパタとあおりながら、悠然と枝葉を食べている姿は、動物園では味わえない生活の余裕らしさが見えています。彼らは餌を食べることが仕事ですが、この地では際限なく餌が広がっているのですから、余裕があるのは当たり前という野暮なことを思ったりしたとき、やにわに「キリンだ!」という同乗者の声に、ジープはゆったりとその方向に動き出しました。

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キリンもでっかいなあというのが第一印象です。この丘陵地では、キリンの首を超える樹木はほとんど見当たりませんから、彼らが一番目立っているのでしょうか。見物していると、どこからともなくシマウマが紛れ込んできました。数頭のシマウマが眼前を横切っていく風景は、アフリカに来たという満足感で満たされます。

 肉食獣は出てこなかった

動物保護区とはいえ、やはりお目当ては百獣の王ライオンのお出ましです。これだけ草食獣がいるのですからライオン、ヒョウ、チータなど肉食獣が出てきて眼前で狩りが始まる、というのはテレビの話です。僅か2時間余の見学には無理というもので、それは分かっていても、ライオンが出てこないかなあと思いながら「見えない?」、「いない?」などと言いながら四方に眼を走らせるのも楽しいものでした。

見学ジープがあちらこちらと走り回っているとき、路上に近い場所で一頭のシマウマがたたずんでいました。微動だにしない姿勢でこちらを見ています。ジープがすれすれの距離を過ぎても動きません。みな「かわいいねえ」などといいながらこのシマウマを眼で追っていました。

ジープが反転して方向を変えたとき、筆者はこのシマウマの左の臀部あたりを一瞬だけ見る機会に恵まれました。その尻のあたりに茶わんくらいのサイズで赤い肉色をした部分が見えました。怪我をしていたのです。見るからに痛々しい肉をさらした色です。この平原でこのような怪我は、肉食獣に襲われときに受けたものしか考えられません。ジープは方向を変えてしまったので、筆者ともう1人の女性以外は誰も見ることができませんでした。

あのシマウマはどうしただろうか。筆者はこの日ベッドに寝付こうとしたとき、しきりにあのシマウマのことを思い出していました。無事に生き延びることができるだろうか。アフリカの大地で出会った動物たちの光景の中で最も印象に残ったものでした。

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サファリのロッジで食べたランチはフルコースが準備されており、

美味しい料理に大満足でした。

この保護区に生息している哺乳類だけでも47種もいるというのです。私たちが見たのはそのうち10種程度でしょう。ヘビやトカゲ、カメなど14種類がいるし、鳥類に至っては100種類を超えているということでした。

PEACE BOATが用意しているサファリツアーは8つありました。筆者はそのうちの1つを見ただけなので、他のコースに参加した人たちは何を見たのか。ライオンやカバやチータを見たという幸運に出会った人が出たかもしれませんが、いずれ長旅の合間に聞こえてくるでしょう。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその14

天空に広がる満点の星に感動

明け方4時、目覚まし時計に起こされて14階屋上に出てみました。真っ暗闇を蹴散らすように白波を立てて船が航行しています。船上にいることを意識した瞬間、周囲が不気味にうごめいている気配を察し、目を凝らしてみると甲板の手すりを取り囲むように乗船客が群がっていました。この夜はみずがめ座η(エータ)流星群の観望会でした。

皆、顔を上に向け、カメラを構えている人もいます。筆者も手すりに割り込み空を見ました。天空を覆うおびただしい星たちを見て、ああすごいなあと感動しました。自宅から空を見ても似たような星空を見ているはずですが、暗黒が広がる洋上の星空は格別なのでしょう。あの輝く恒星たちはいつから存在したのだろうか。今から2億年前の恐竜たちも見ていたのだろうか。

エータ流星群は、ハレー彗星が宇宙に残した塵が大気圏に突入したとき、流れ星となって観察されるのです。南半球では1時間で最大50個も流星群を観察されるという触れ込みです。

突然、ああーという歓声が艦橋に流れました。空を横切るように光線が尾を引いて消えていきました。見た、見たという声があふれ、筆者も皆と一緒にその瞬間を喜び合いました。写真に撮影することはできませんでしたが、空の写真を掲出します。この夜は、南十字星も見ることができて大満足の観望会でした。

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こどもの日のイベントを見物

小学生以下の子どもたちが5人乗船しており、5月節句の人形とひな祭りの祭壇がイベント開催スペースにセットされ見物する人たちで溢れました。

船上のイベントは、何をやっても楽しいようです。

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IMG_6128着物の着付けコーナーは、多数の老若男女が集まっていました。

図書コーナーに置いた書籍がいつもない!

このイベントスペースの一角に、図書コーナーがあって、乗船客が持ち込んだ書籍類が並んでいます。どんな書籍でも勝手に置き、勝手に持参して5日以内に読んで返すルールです。乗船した直後は、書棚が満杯に埋まっていましたが、いまは写真のようにガラガラです。

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筆者も21世紀構想研創設25周年記念誌の「25年間劣化し続ける国家と組織」、筆者の著書「大村智 2億人を病魔から守った化学者」(中央公論新社)、「沖縄返還密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の1年」(日本評論社)、大村智先生らとの共著「イベルメクチン 新型コロナ治療の救世主となり得るのか」(河出新書)の4冊を置きました。いずれも置いた翌日には棚からなくなり、ときたま点検しますが戻っていたことがありません。間断なく次々と読まれているのでしょう。嬉しい現象です。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその13

 船の揺れと船酔い

5月1日、世界一美しい海に囲まれたセーシェル島を出港してからインド洋をひたすら南下し、5月8日まで1週間ノンストップの洋上の旅が続いています。このところ海は時化ており、連日、船の揺れ方が大きくなっています。

陸にいるときに不意に地震に見舞われたときと同じような感じの揺れが、ほとんど切れ目なく続いているので、よくこれで船酔いにならないものだと我ながら感心しています。廊下を歩くとき、誰もがよろめいて歩いており、14階の広々としたバイキングスタイルのレストランに行くと、皆、トレイに料理を取り分け、よろよろと危ない歩行でテーブルにたどりついています。体のバランスをとっている器官が船の揺れに同化して、酔わないようになってしまったのでしょうか。

筆者は、ひどい船酔いにあった体験があるので、信じられない気持ちです。それは東京の南方約930kmにある火山島の西之島で突然、火山活動を再開して噴火し新島を作った1973年のことです。その後火山活動は収まったので、新島に接岸して「決死の取材上陸」をしたことがありました。

150トンの漁船をチャーターして、日本テレビの取材班と一緒に上陸し、1時間の制限時間内に駆け足で見て回りました。取材は成功しましたが、船の往復、ひどい船酔いに見舞われ、3日ほど食べるものを受け付けませんでした。その体験があったので、今回は戦々恐々でしたが、7万トン超級の巨船は、あっさりと危惧を払拭してくれました。

戦艦大和を思い出させるパシフィック・ワールド号

以前にも書きましたが、PEACE BOATクルーズの巨船・パシフィック・ワールド号は、あの船艦大和と同規模であることに気がつきました。軍艦と客船という違いがあり全く違った目的で造船された船ですが、乗船してみると軍艦に乗って闘った軍人たちのことを思い出させました。

Thumbnailあの戦艦大和は、日本が総力を挙げて建造してから僅か3年4ヶ月後に、連合軍の総攻撃を浴びて坊ノ岬沖海戦で沈み、戦死者2740人、生存者は269人という痛ましい戦禍を残しました。甲板に立って、荒くささくれだった波頭を眺めながら、戦艦大和の悲劇を思わずにいられませんでした。

朝食時間と団らん

朝は6時からレストランが開店して、朝食が始まります。乗船客は高齢者が多いので、この時間になると待ちかねたように続々と人が集まってきます。入り口に立っているスタッフの責任者が、先着順にテーブルに合い相席で座るように差配します。

知らない同士が5人、6人同じテーブルの席について朝の挨拶をしながら、その日の天気、海上の様子や各自の体調の具合などを話しながらの朝食は、なかなか楽しいものです。

朝食メニューは5階レストランが和食、6階レストランが洋食の決まったトレイになっており、ほかに14階ではバイキング方式で和洋料理が多数並び、各自自由に盛り付けて食べられます。

この日の和朝食のトレイは、次のような内容でした。

和食ご飯は、白ご飯、おかゆ、五穀米ご飯から選びます。

牛乳はホットか冷たいものかチョイスできます。

温卵、納豆、厚揚げ煮物、焼き魚、海苔、冷や奴、お新香、みそ汁、おかゆまたはご飯、ヨーグルトそれに好みの果物ジュースと果物、牛乳がつきます。ほどほどの分量なので、完食する人が大多数です。よくできた献立であり、煮物やみそ汁の中身、魚の種類が日ごとに変わっています。毎日、ほぼ似たような献立ですが、日本の伝統的なメニューなのか飽きが来ません。洋食については、また別の日に紹介しましょう。

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその12

囲碁・将棋大会の参加

日本人の娯楽の中でも古くから伝統を引き継ぐ囲碁・将棋ですが、船内でも娯楽室に碁盤・将棋盤が並んでおり、いつでも相手さえいれば楽しめます。隣接して麻雀卓も9個も並んでいます。

5月3日の憲法記念日には、船内の囲碁・将棋大会が開催され、そこに参加しました。筆者はどちらもたしなみますが、この数十年、どちらもやったことがありません。多少、腕に自信のある将棋の方に参加することにしました。

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将棋大会に参加してきた6人の女性

行ってみて驚きました。囲碁の参加者は、たった8人、それに対し将棋は22人もいました。将棋界のヒーロー、藤井聡太8冠ブームを見た思いですが、さらに驚いたのは囲碁の女性参加者が1人に対し、将棋には6人もの女性参加者がおり、その中に外国人の若い女性がいたことでした。

昔から囲碁は女性向き、将棋は女性には無理という話が言われてきました。理由は、将棋は切ったはったのあげくの勝ち負けなので、激しい闘いになり女性には向かないというもので、筆者もてっきりそう思っていました。

将棋2女性観戦者が目立った将棋大会

しかし将棋のプロの世界では女流プロの活躍はめざましく、近年は女流プロのトップクラスは、男性棋士と同格で闘える女性が出ています。ブームとは恐ろしいと思いました。勝負はトーナメント方式ですが、筆者は問題なく準決勝まで進みました。2回戦で女性とぶつかりましたが、これもなんなく退けての準決勝進出であり、ま、優勝も可能かなと自信らしいものがでていました。それが問題でした。

あまり考えずにすいすいと指し始めた準決勝ですが、序盤を過ぎたところで明らかに不利な局面になっていることに気がつきました。お相手は後期高齢者かなと思えるいわば「同輩」に見えたのも緊張感を生まなかったのです。振り飛車戦法の定番でしたが、久しぶりに指したので、途中で昔習った定石を思い出してみると、明らかに術中にはまっています。作戦負けです。お相手はやにわにスマホを持ち出し、盤面の写真を撮っています。

ははーん、敵の投了譜面の撮影か。こうなると一気に戦意失墜です。潔く「負けました」と言って投了しました。取り囲んでいた人たちがあっと驚き、一斉に声が上がりました。勝負はこれからと思っていたのにいきなり投了です。普通に指せば、不利が拡大するので、どこか勝負どころで仕掛けて逆転を狙えば戦えないこともありません。得意の逆転劇かあと心の中で苦笑し、しかしお相手の方に花束を投げるのもいいかなと思って投げました。

局後の感想戦になれば、講評するプロ棋士の解説が目に見えていますので、別のセッションに参加するふりをして早々に退散しました。悔しさがあったのです。翌朝、偶然に朝食のテーブルに将棋大会を主催したプロの高田尚平・棋士と同席となりました。「昨日はどうも・・・」と曖昧な笑みで挨拶すると、高田先生も覚えていて「あれは相当の棋力がないと投げません。お強いですねえ」とヘンな褒められ方をされました。「観戦していた方々は、なんで投げたのか分からなかったでしょうが・・・」と言ってくれました。その言葉で、なんだか勝負に勝ったような気分になったのですからおかしなものです。

若者が夢と希望も持つこととは何か

将棋大会を早々に退散して「若者が夢と希望を持てる社会とは」というセッションに参加しました。タイトルから若者が多いだろうと思っていたら、シニア階層が多いので意外感がしましたが、乗船客はほとんどがシニアなので当たり前の現象です。5人の若者がそれぞれ夢を実現する体験を語り、フロアのシニア層からコメントや体験談が出てきました。

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若者は、自由に学びたくて外国へ行った体験話、女性のジュニア層といっても30歳代ですが、苦労しながらもやりがいのある保健教師や留学体験者の話が続きました。フロアからのシニア発言者は、男女とも教師OB、OGであり、教師という職業に誇りを持ちそれなりに評価され、リタイア後も社会貢献で活動している方であり、改めて教師というのは聖職とよばれるにふさわしい職業だと感じました。

 そこで感じたことを端的に一つだけ言うと、若者の夢と言っても、夢は与えるものではなく自ら行動を起こして自ら摘み取るものだと気がつきました。つまり、自ら判断して行動力を培うように教育することが教師の役割ではないか。教えるのではなく、気づかせる。その気にさせる。判断力を磨かせる。これが教師の本務の重要な部分ではないかと思いました。

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そんなことは当たり前と言われそうですが、門外漢が感じた素朴な感想なのだろうか。このテーマについて、船には多数の教員経験者がいるので、これから話題が尽きないなと思いながら構想研究会でのテーマになると思い始めていました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその11

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イベルメクチンを知らない人が多い

2015年、大村智先生がノーベル生理学・医学賞を授与されたイベルメクチンについて、食事の際にテーブルが一緒になった方々に、それとなく聴いてみました。半分以上の方が「知らない」という反応でした。これにはびっくりしました。コロナ感染症がパンデミックに指定され世界が恐怖におののいていたころ、インドなど世界の多くの国々でイベルメクチンを投与して一時のピンチを切り抜けたなどのニュースを知っている方は、1人もいませんでした。

★スライド3 ★スライド6イベルメクチンのコロナへの適応外

厚労省は、早い段階からイベルメクチンは、コロナに対して適応外で投与することを認めていました。世界各国で効いている証拠を重視したからです。副作用もほとんど報告がない。臨床試験はどの国でもやっていませんが、その時間がなかったから、緊急的に使ったものでした。

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★スライド9
インドでは、連日、感染者と死亡者が爆発的に広がっていました。治療薬も予防薬もない。治療装置として人工心肺装置(ECMO)がありますが、これはほとんどの病院にない。コロナに感染して重症化していくことは、座して死を待つようなものだったのです。

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途上国など多くの国で臨床治療にイベルメクチンを投与して改善したり、予防に有効だったという論文が多数でていたころです。国はイベルメクチンを治療薬として認めていないが、各国の医師たちはそれを破って投与を始めたのです。

★スライド11 イベルメクチンがコロナ予防・治療に効果があることをアメリカの臨床医たちのグループ(FLCCC)がネットで発信し、投与の仕方まで公表しました。こうして世界中でイベルメクチンがコロナ予防・治療、後遺症対応策に使われるようになったのです。

★スライド20世界の動きを知らない日本人

こうした世界の動きと日本の対応については、船に乗っている方々にそれとなく聞いても、ほぼ誰も知りません。そこで筆者は、日本でイベルメクチンのコロナ予防・治療に使われなかった実態を、事実だけ示して話をしました。50人ほどの方が会場に来てくれましたが、1時間20分の長時間を聞いていただき、終わった後も多くの人に囲まれて、質疑応答を行い、そのままランチへと流れ込んで行きました。

★スライド21講演をした本当の狙いは通じた

イベルメクチンのコロナ予防・治療について、世界で展開された事実と日本政府と厚労省がとってきた対応策について事実だけを講演で話をしました。聴者の皆さんは、ほぼ何も知らなかったことに大変びっくりされており、日本政府が国会で答弁していた内容も、単なるポーズであり、実際には何も行動を起こすことがなかったことにもびっくりされていました。

筆者の講演の狙いは、こうしたことを暴露するためではなく、過去の事実を総括して歴史的な事実を検証することをしなければ、史実は曖昧になり責任は誰もとらない国のままになっていくことを、みんなで考えるべきという課題を提起することでした。

講演の締めくくりでもこれを強調し、公文書管理のずさんさが行政の責任の所在を曖昧にし、進歩のない国の業態がいつまでも続いていくことを強調しました。これにも講演終了後にきちんと受け止めていただいた方々がおり、是非、次のテーマを聴きたいという希望までいただきました。

★スライド30イベルメクチンとコロナについての世界的な総括は、まだ終了していません。この総括研究では、イベルメクチンを発見した日本が最も進んでいる国の一つであり、発見者の大村智先生とその共同研究者らの業績は、国際的にも高く評価されています。

帰国したらイベルメクチンについての総括討論を、認定NPO法人21世紀構想研究会でもしなければならないと強く思いました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその10

世界で最も美しい海のセーシェルに寄港

インド洋をノンストップで5日間も航海していると、そろそろ陸が恋しくなります。海が時化になると巨船といえども揺れが半端ではありません。船内の廊下を左右によろめきながら、壁伝いの格好で歩いています。

そんなとき、水平線の彼方にかすかな島影が見え始めたときには、嬉しくなりました。徐々に近づいてきた島の様子を見ながら、手元に用意していたセーシェルの歴史と自然に眼を通し始めました。

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ところがこの頃から扁桃腺に炎症を起こし始め、熱はないものの痰が喉に絡み始め、咳もよく出てきます。船内の多くの方が似たような症状をしており、マスク姿が急に増え始めました。筆者も室外に出るときはマスク着用ですが、気分は特段、悪くもありません。船内の診療所は異変を訴える乗船客で満杯だという噂も聞きました。

風光明媚とはこのことか

セーシェルに接岸を始めると、海岸線の風景が徐々に手の届くところまで迫ってきました。いかにも南洋の植物相らしい、うっそうとした緑が豊かに茂っており、大きな風車がその光景を引き立てるように回っています。甲板で絵はがきになりそうな風景を見ながら、接舷の様子を見ていました。

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この島を取り巻く深いブルーの海は、洋上から飽きるほど見てきましたが、島を縁取る緑の茂みと美しい海岸線は、数千万年前からの固有種で独自の植物相をつくってきたとのこと。セーシェル政府が特別に保護していると言うだけあって情緒的光景として見ていました。ヨーロッパからの観光客が多いというセーシェルを引き立てていることが分かります。

喉の異変でツアーをキャンセルして散策

上陸して一日観光で植物園などを見学する、バスツアーに申し込んでいました。しかし翌日には大事な船内講演があるので、症状を悪化させてはと考えた末に、断腸の思いでツアーをキャンセルし自室で静養することにしました。

そうは言うものの、接舷して次々と上陸した乗船客がツアーに出て行く姿を甲板から見ているうちたまらなくなり、上陸して港の周辺を散策することにしました。シダ類の目立つ植物景観と南洋の鳥たちが、セーシェルにいることを印象づけてくれます。ああ、巨大な亀の公園に行きたかったなあ、などと思いながら散策していましたが、それにしても人の姿が少ない。商店やレストランは軒並みクローズです。

思わず、今日は日曜日かなとカレンダーを確認したほどですが、メーデーの休みと分かり、ツアーの人々はどうなったかと思いながら、ただ一軒オープンしていたスーパーで軽食を買い込んで船室に戻りました。

日本人はやっぱりお風呂です

汗だくになって船の戻り、思いついてサウナに行くことにしました。最上階の下の12階にサウナがあり、隣接してジャグジーと小型の円形プールがあります。プールは別に長さ15メートルほどのコースプールがあり、まだ未体験ですがそろそろ行ってみたいと思っていました。

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上が小型円形プール。下がジャグジープールで、水温28度から30度くらい。ジャグジーは水温38
度ほどで、ぬるめの風呂程度。いつまでも入っていたくなるような快適さでした。

 サウナをたっぷり使って汗を流し、誰もいないジャグジーで写真だけ撮って帰りました。

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