世界一周の船旅の記録その1をアップします。1~30回です。

 2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。

 その様子を60回に渡って、ブログでアップします。

 その①1~30回分のPDFファイルをアップします。

   船旅1-30通しをダウンロード


世界一周の船旅の記録その2をアップします。31~60回です。

 2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。

 その様子を60回に渡って、ブログでアップしました。

 その①1~30回分に続いて、PDFにしたファイルその2をアップします。

  船旅31-60通しをダウンロード


緊急講演会 「これでいいのか日本の政治」

  テレビのコメンテイターでおなじみの橋本五郎(政治評論家、読売新聞特別編集委員)さんの講演会です 

日時 11月25日(月) 午後8時―10時

  zoom開催です。 

  zoomURL: https://us02web.zoom.us/j/83615031951

  ミーティング ID: 836 1503 1951

先の総選挙で過半数を割り込み、「ボロ負け」した与党の自民・公明党は、来たる11日の首班指名選挙で、石破内閣の続投で切り抜けを画策しています。

過半数確保のために自民・国民民主党との個別政策協議で話し合いが進んでいますが、どちらも国民よりも自党の利害をすり合わせながら話が進んでいるように見えます。

一方、アメリカでは、トランプ大統領の再登場というドラマチックな展開になり、弱体政権の欧州諸国と日本に、ショックを与えています。石破政権は、日米地位協定の改定を打ち出すなど、かつてない日米外交政策に意欲的に見えますが、果たして石破構想がトランプ大統領にどう理解されるのか。

内外に重要課題を抱えていながら、総選挙後の不安定な政局の中で日本の政治はどうなるのか。本研究会会員でもある橋本五郎さんに、現行日本政治を縦横に解説してもらい、あるべき政治を語ってもらいます。

 


50年目に「清算」した授与の誤り 日本被団協にノーベル平和賞

 被爆者団体のたゆまぬ非核運動を評価

ノルウエー・ノーベル賞委員会は、2024年10月11日、ノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与すると発表しました。佐藤栄作元首相が非核三原則を実現した政治家として、1974年に平和賞を授与されてからちょうど50年目です。しかしこの授賞理由は、間違いであることが後年、判明します。

今回の授賞理由は、被爆者の立場から非核・平和運動のたゆまぬ努力を評価したものであり、日本被団協の地道な活動を顕彰するものでした。筆者は受賞を聞いて、50年前の「誤った授与」を「清算」する意味があるのではないかとも思いました。

日本被団協は、原爆投下から11年後の1956年に結成されました。広島と長崎の被爆者の全国組織として活動を続け、人道に背く核兵器使用の禁止を訴えており約70年にわたり、核兵器の廃絶を世界にアピールしてきました。

被爆者が体験した証言や原爆の写真展を世界各地で展開する草の根運動として知られるようになり、核兵器の開発や保有などを法的に禁止する核兵器禁止条約の成立では、日本被団協の署名運動が大きな推進力になったと評価されていました。

NHK

授賞を発表するノーベル賞委員会(NHKテレビから)

ノーベル賞委員会のフリードネス委員長は、授賞理由として「核兵器が二度と使われてはならないことを、被爆者の証言を通じて示してきたこと」などをあげていました。

発表の瞬間、驚きと感動する被団協の皆さんの姿をテレビで見ていた人は、誰もが感動をもらったと思います。

50年前の受賞を思い出せる発表

発表を聞いた筆者は「50年目の清算」と思いました。50年前の佐藤元首相への授与は誤りであったことが、後年、分かったからです。佐藤元首相への授賞理由は「非核三原則の提起と実行・推進」などでしたが、その後、佐藤元首相の密約文書が佐藤邸から発見され、授賞理由と違うとして話題となりました。

その後、筆者はノーベル生理学・医学賞選考委員会事務局長から、佐藤元首相への授与はノーベル賞3大誤りの一つであるとの「証言」を得ており、矢野暢・京都大学教授も同じ言葉をノーベル財団の理事から聞いていました。矢野教授は密約発覚のころ、ノーベル平和賞のアジア地域のエージェント(秘密調査員)を任命されており、佐藤授賞の間違いに関する何らかの事情を知っていた可能性があります。

矢野教授の著書「ノーベル賞 20世紀の普遍言語」(中公新書)の中でも、佐藤元首相の受賞は「ほかのさまざまな例と同じく、いまでも意見の安定をみていない」と書いています。「安定をみていない」という表現に真相が込められているように感じます。

佐藤邸から発見された密約文書

それは2009年12月22日でした。読売新聞の吉田清久・政治部次長(現・読売新聞編集委員)が佐藤元首相の二男、信二氏(元衆議院議員・通産大臣)から密約議事録を見せられ、吉田氏はその存在と解説をその日の同紙夕刊で特報し、2010年度の新聞協会賞を受賞しました。

スライド1

佐藤邸から発見された密約文書のコピー(上)とそれを特報する読売新聞(下)

(いずれも吉田清久氏提供)

特報紙面

 

非核三原則とは「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」を言います。佐藤元首相は、1972年に実現した沖縄返還の際に、数年前から交渉していた日米間の外交折衝の中で、核問題は大統領と日本の首相との首脳会談で決着する案件となっていました。

1971年の日米首脳会談のとき、ニクソン・佐藤の首脳間だけの密約議事録を取り交わし、首脳会談コミュニケでも発表されませんでした。

返還交渉の時期、返還の条件を巡って日本の国会では与野党が激しい論戦を展開し、革新系団体を主体とする返還反対運動、さらに過激派学生の火炎びんと手製爆弾を使った反対闘争などで、国内が騒然とする騒ぎとなっていました。

佐藤元首相は、国会でも院外の演説でも非核三原則を基軸とした交渉を貫いたと主張し、「本土並み」の条件で返還されたことになっていました。しかし、両首脳の密約では、「有事の際には核の持ち込み」を条件として返還することで決着。米側はこの密約議事録は米議会の秘密会で報告され、国務省に今も保管されていますが、日本では外務省にも保管されず、存在そのものが不明になっていました。

ところが1990年代になってから米外交文書の公開でその存在が明らかになり、密約をお膳立てしたキッシンジャー元大統領補佐官のメモの公開、佐藤元首相の密使となった若泉敬・元京都産業大教授の暴露本の発刊などから密約は確実で、非核三原則は幻だったことが明らかになっていました。

この史実については、筆者の著書「沖縄返還と密使・密約外交 宰相佐藤栄作最後の1年」(日本評論社)で詳しく書きました。

ノーベル賞3大誤りの1つだった

筆者は1989年から5回にわたり、ノーベル財団とノーベル賞授賞式を取材する機会がありました。その折、たまたま生理学・医学賞選考委員会事務局長から取材する過程で「ノーベル賞3大誤り」を聞いたのでした。

* ヨハネス・フィビゲル(デンマークの病理学者)

 1926年に胃がんを作成した業績で生理学・医学賞を受賞。しかしそれは、特殊な寄生虫のがんだったことが判明した。

* エガス・モニス(ポルトガルの外科医)

 1949年に前頭葉切裁術(ロボトミー)の開発で生理学・医学賞を受賞。しかし、その後ロボトミーは、人格を棄損するとして世界でこの手術は禁止になった。

* 佐藤栄作(日本の政治家)

 1974年に非核三原則(作らず、持たず、持ち込まず)の提唱で平和賞を受賞。日米首脳秘密議事録で、核持ち込みを前提とした密約が露見した。

ノーベル財団が、3大誤りとして公式に表明しているわけではありません。あくまでも非公式の「見解」を示唆しているだけです。誤りの中に生理学・医学賞が2つあり、「もう一つの誤りは日本人が関連している」という言い方でした。筆者から「それは平和賞か」と尋ねると、肯定する言葉を発したのです。

50年間を要した核をめぐる錯綜への決着

ウクライナ戦争、イスラエル・ガザ戦争が国連機能をマヒさせ、多くの罪なき人々が犠牲者となる悲惨な戦争がいまなお続いています。戦争はもうごめんだという世界の世論が全く無視された現実であり、部分核戦争がささやかれるほど事態は深刻度を増しています。

もし、核兵器を局地的にでも使用されることが起きれば、全面的な核戦争へ拡大する可能性もあるでしょう。そのような不穏な世界の動きに歯止めをかける意味で、非核・平和運動を続けてきた日本被団協にノーベル平和賞を授与し、世界の注目を引き付けることで核戦争防止のサインを送ってきたとも理解できます。

50年を経て、誤った非核3原則の政治家への授与を「清算」し、市民の地道な非核・平和運動にノーベル賞を授与したところにノーベル財団の真意があると筆者は思いました。


105日間世界一周航海の報告会を開催

「105日間世界一周航海報告講演」と残暑払いパーティが、9月6日、プレスセンタービル9階の記者会見場で開催れ、楽しい時間を過ごしました。

講演の前半は訪問地の見聞記、後半は航海中に考えた所見をまとめた日本の現状分析と課題山積を語った重厚な内容であり、理事長が日ごろから語っている見解の一端を聞かせていただきました。

残暑払いパーティは、ゲスト参加者も入れた和気あいあいの懇親会となり、自己紹介や近況報告を語る「差し込みインタビュー」など大変楽しい時間となりました。

S__27861001_0 報告講演は2部に分け、第1部は訪問国の見聞、第2部は船の中で考えたことをまとめて話をしました。

S__27861006_0講演会の後は残暑吹き払いパーティになりました。その開催前に全員の記念写真を撮影しました。

21世紀構想研究会での報告講演と講演内容のスライド、パーティの様子などは下記のサイトから見ることができます。

https://kosoken.org/main/%e7%ac%ac194%e5%9b%9e21%e4%b8%96%e7%b4%80%e6%a7%8b%e6%83%b3%e7%a0%94%e7%a9%b6%e4%bc%9a%e3%81%ae%e5%a0%b1%e5%91%8a/


PEACE BOATで世界一周の旅ーその60で最終回(総括その2止)

乗船客とスタッフを入れて総勢1500人

これだけの人間を乗せて衣食住すべてまかなう船は、日常的に生活している町が海上を動いていくようなものです。あるいは12階建てのマンションが海上に浮かんで動いていくということでしょうか。

乗ってみて意外感があったのは、車いすの方や歩行が困難な方がかなり目についたことです。手押し車で移動する方も相応にいました。乗って間もなく、風邪がはやりインフルエンザ、コロナ罹患者も出て筆者も気管支炎にかかり1週間ほど船室でゴロゴロしていました。

航海中に緊急ボートやヘリコプターで退船した方もおり、船内で亡くなった方も4人と言われています。平均年齢が73歳とも言われ、最高齢は95歳とか101歳とか言われていました。いずれの数字も食卓などで噂話として語られたことですが、筆者は大体そんなことではないかと信じていました。

船は築30年です。船内の温度コントロールは、うまく作動しているようには思えませんでした。筆者の船室も、寒かったり暑かったりで、エアコンダイアルはまったく不能であり、レストランは総じて寒い環境でした。 

和食朝

毎朝の食事。上が和食、下が洋食。写真の中のすべてを食べるわけではなく、適宜選んだものだけを食べます。

洋食

PEACE BOATに乗船した目的は何ですか?

こういう問いかけが乗船客の間でよく出てくる言葉でした。なぜ、世界一周とうたった105日間の長い船旅に乗船したのか。単なる観光目的なのか、はたまたなにか目的があったのか。筆者が自問しても、回答は見つかりませんでした。強いて言えば、自転車操業のように続けてきた仕事一筋の生活、生き方に一つの区切りをつけたいということでしょう。しかし時間的に余裕を持った観光も旅の楽しみ方も、思ったようには出来ませんでした。

なぜか? それは自分の年齢と関係があることに気が付きました。今年11月の誕生日を迎えると84歳です。見かけは年齢より若く見られますが、糖尿病を抱えておりその他には特段の病気を持っているわけではないのですが、年相応に発散するエネルギーが低下していることを感じることが多くなりました。つまり馬力がなくなったのです。往時、最も活発に仕事をしていた時代に比べると3分の1程度の出力エネルギーになっているでしょう。

船の寄港地のツアーでも、楽な方を選んでいたように思います。昔ならツアーなどに参加しないで真っ先に自分勝手に見聞をするために、地図を片手に街に飛び出したと思います。周囲をみていると、リタイアして間もない方が、生き生きと旅を楽しんでいる様子が見えました。そういえば60歳から70歳までの10年間、筆者が最も充実した仕事に明け暮れていた年代でした。

船内活動に精を出す

船内活動では、最も期待して乗り込んだのが社交ダンスでした。これは身体を動かすので、それなりの運動量を確保できると踏んだのですが、これとて上手くはいきませんでした。ダンスは講習会形式が多いので初心者と踊ることが多くなります。しかし、ダンス教師に教えてもらうことだけで過ごしてきたので、いきなり教える立場にはなれません。教え方が分からないのです。

フリーのダンス会が毎日開かれていますが、これに出てくる方は、千差万別なので筆者がペアとなって踊れる方はほとんどいませんでした。そんなこともあって、後半はダンスにも行かなくなり、もっぱら本を読んだり乗船客とお茶をする時間が増えました。

そんな中で自主企画という講演会を9回も行ってしまったのです。

*学校給食は世界一のソフトパワー

*沖縄返還を巡る密使・密約外交の真実(上下2回)

*沖縄返還と日本の民主主義のあり方(PEACE BOATと共催)

*イベルメクチンがコロナ特効薬になれなかった事情

*野口英世はノーベル賞をつかみかけていた

*新札千円札に登場した北里柴三郎のノーベル賞物語

*北里の無念を晴らした大村智先生のノーベル賞物語

*25年間劣化し続ける国家と組織

沖縄返還の「密使・密約外交と日本の民主主義」の講演については、PEACE BOAT事務局が支援してきたものです。会場は最初の学校給食の講演だけは、大きなオープンスペースでしたが、その他はすべて船の中で2番目に大きなビスタラウンジという劇場型の会場でした。毎回、200人内外の聴者が来てくれました。

沖縄3沖縄の日に合わせて、「沖縄返還の密使密約外交と日本の民主主義」について講演しました。多くの方から反響をいただきました。

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「国家と組織の劣化」の講演では、筆者の主宰する認定NPO法人21世紀構想研究会の活動に言及し、船を降りてからも日本の劣化の歯止めへ提言活動を続ける覚悟を語りました。

講演後の反響の大きさを筆者の実感として上げると、「劣化する国家と組織」がトップで、「沖縄返還の密使・密約外交」の3回の講演が同列で続きました。また野口・北里・大村のノーベル賞がらみの話もそれなりに好評であり、筆者としては満足するものでした。

この講演活動は、PEACE BOAT乗船体験者からのアドバイスもあり、事前にPEACE BOATから相談があったので持参したPCには、過去の講演資料やデータ類などを入れてきました。それを基にしたリニューアル・パワーポイントを作成して講演しました。

やり残したオカリナと短編小説

乗船する前に目標があったオカリナ演奏のマスターと、書きかけていた短編小説の完成は出来ませんでした。オカリナは、講習会の集まりがあったので参加しましたが、参加者はいずれもそれなりに習熟している人ばかりであり、筆者のような初歩クラスの人はいないのでオカリナは捨てることにしました。ところが何かのきっかけで初級者に教えてくれる先生がいると聞いたので、そこに参加してなんとか「ふるさと」だけはほぼ一人前に吹くことが出来るようになりました。習い事の発表会があり、そこで「初級者のオカリナ演奏」グループ5人の1人として壇上で演奏する機会もいただき、成果らしきことをやり遂げた気持ちでした。

小説執筆の方は、頭の中で展開を考えることはたびたびありましたが、PCに向かって執筆していく気分にはならず、そのまま帰国することになりました。

1初心者オカリナ隊IMG_4259オカリナ発表会では、壇上に並んで「ふるさと」などを演奏しました。

費用対効果は?

食卓で知らない同士で話をすると、乗船費用の話になることがあります。4人、3人、2人部屋、個室、セミスイート、スイートなどですが、4人部屋1人100万円から個室は350万円くらい。その上は不明でした。契約の時期によって、大きく違っていました。コロナ前に予約した方と直前に予約した方では「割引」が違っています。総じて早めに申し込めば「早割」で安く済んだようです。

このほか、船内のアルコール飲料などは自己負担ですが、フルコースの洋食、ビュッフェスタイルの食事などは費用ゼロ。上陸して観光するオーバーランドツアーについてはすでに書いたので省きますが、様々な観光コースを用意したオプショナルツアーは、すべて相応の費用がかかりました。

105日間の旅は、乗船内容によって差が出ますが、ざっと200万円から500万円程度でしょうか。これが高いか安いかは、乗船者それぞれの価値判断になりますが、筆者が聞いた方からは、そうじて「楽しかった」「まあ、よかった」というご意見が多く、「もうごめんだ」という方もごく少数いました。筆者は「満足でした」という感想で締めくくります。

これを含めて60回の旅の報告を発信しました。多くの方から好意あるコメントをいただき、筆者の励ましになりました。皆さんに感謝の気持ちをお伝えして、PEACE BOATのブログに幕を引きたいと思います。ありがとうございました。

部屋で集まる乗船仲間が筆者の船室に集まってお別れ会をしました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその59(総括その1)

総括その1 105日間の船旅の仕組み

PEACE BOAT105日間の船旅で21寄港地、18カ国で下船・上陸しました。上陸していた総期間は23日間。残り82日間は船に乗っていたことになります。寄港地に降りて飛行機で数日間から9日間ほどの「オーバーランドツアー」が用意されており、陸に上がって飛行機などで各地を観光し、PEACE BOATに戻ってきて合流するというものでした。陸で観光している数日から9日の間に、PEACE BOATの航海は続いており、ツアーはそれを追いかけて、次の寄港地に接岸したところで合流するというものでした。

オーバーランドツアーには、2つの問題点がありました。第1に船を離れてホテルに宿泊をして観光するので数十万円から100万円余分の費用がかかりました。これは高いという評判がほとんどでした。2つめの問題点はツアーに参加している間、陸上のホテル代を負担するので、船の宿泊代と二重の宿泊代がかかることです。当たり前と言えばそうですが、それなら船にのらないで別途、目的を立てて旅行すればその値段より安く行けるのではないか。そういう意見でした。ただし、自分ですべて計画立案して実行するのは大変なので、別途、日本からのツアーに参加する形式がベターという意見でした。

1IMG_7734西回りにインド洋からアフリカ喜望峰を回って大西洋に抜けて北上し、アイスランドから北大西洋の向こう側を東に回って北米・ニューヨークへ行きます。それから中南米・南米まで南下してパナマ運河を通過して太平洋に出て北上し、アラスカを経て西下して横浜に寄港するコースです。

つまり船旅というものは、船にいる間の観光はなく、甲板から海を見るか遠く陸の景観を見るだけであり、観光は寄港地で上陸したときの短時間ツアーか、オーバーランドツアーで飛行機などで各地を観光して、数日後に船に合流するというものです。

乗船後、初めてその仕組みを実感として知りました。筆者もオーバーランドツアーの応募開始から1ヶ月後に申し込みましたが、そのときにはすでにどのツアーは満杯でした。キャンセル待ちにしておけば、チャンスはあったかもしれませんが、満杯と聞いてすっかり諦めてしまいました。

印象に残った上陸観光のビッグ3

船内での生活ぶりは、このブログでも何度か報告してきましたが、総括として筆者が最も感じた3つの雑観を書いてみます。

第1は、ロンドン郊外にあったストーンヘンジ遺跡の見学でした(ブログではその31で報告)。バスに揺られて3時間ほどの距離にあった平原の中にそれはありました。子どものころの少年雑誌で読んでいたので、その遺跡には非常に興味がありました。先史時代の人々が、何の目的で遠く離れた場所からこの巨岩を運んできたのだろうか。様々な意味づけがされてきましたが、今なお謎が解けないままになっています。

今回のガイドの説明では、亡くなった人の墓標とか記念碑とかそういうことが最も可能性があるという説が有力になっているようです。遺跡を取り囲んだ大きな円形の見学路を1時間ほどかけて一回りしますが、どの地点から見ても遺跡群の景色は違ったものに見えました。

この先、ほぼ永遠にこの謎は解けないままに残されるのでしょうか。ロンドンのホテルに一泊したツアーだったこともあり、印象に残る観光でした。

スト1快晴で日差しの強い日でした。実物の遺跡を見るという長年の夢を果たして大満足のツアーでした。

 

貧しい国になった日本と日本人

第2の雑観はアイスランド観光のときのものです(ブログではその36で報告)。

日本には多くの外国人観光客が押し寄せています。極東の島国であり世界の中でも経済大国として知られ、数々の独自の歴史と文化を持っている国としても魅力ある観光地です。それだけではなく最近の円安によって「何でも安くて、食べ物も美味しい国」として人気急上昇を外国人観光客から聞いて知りました。

その真逆なことをこの船旅で体験しました。アイスランドの首都、レイキャビクに上陸したときの体験からでした。人口38万人、国土面積は北海道より少し広い小さな国です。地熱発電、風力発電でエネルギーは余っているので輸出しています。ところが、お土産屋を覗いてびっくりしました。日本で300円程度かなと思う板チョコが2000円でした。この国の通貨アイスランド・クローナは、そのまま日本円と同じ価格なので、値段表の数字がそのまま円価格になるのが便利でした。

ご婦人たちは、洒落たショールやセーター、装飾品類の値札をみて、驚いた表情です。「日本で買った方が安いよね」というささやきがあちこちで流れていました。PEACE BOATの案内パンフレットを見たら、日本でのハンバーガーは450―550円ですが、アイスランドでは同じものが1700円から2000円と書いてありました。

IMG_6873 (1)アイスランドは地熱発電(写真)、水力発電でクリーンエネルギー国家として世界トップクラス。海底ケーブルを敷いて電気をイギリスに輸出しています。福祉政策も行き届いた素晴らしい国作りをしていました。

一人あたりGDPは、アメリカとほぼ同じ約8万ドル。日本は約7万ドルなので抜かれています。年金の平均は、約70万円だそうで(現地ガイドの説明)、税金が高いので生活はそれほど楽ではないそうですが、医療費・学費、暖房・給湯費はタダ。福祉厚生が行き届いているので住みよい国であり、福祉国家として、存在感があります。世界の広さを感じました。

熱帯雨林地帯にあったヨーロッパ人の国

地図を見ると北米大陸と南米大陸の間をいくつもの国でくねくねと細く結んでいる、中南米諸国の中の南の方に位置しているコスタリカを訪問しました(ブログではその46で紹介)。

港から首都サンホセまでのバスに乗り、2時間以上もかけて市街地のショッピング・センターにつれていかれそこで「放置」されました。現地の案内はナシ。夕方、迎えに来るバスで船に戻るだけ。これで「2万6000円は高いよね」と参加者はブツブツ言いながら、バスを降りました。

雨期に入っているため外は雨。筆者は仕方なくまず、広々としたセンター内を見学してみました。有名な世界のトップブランドの店舗があちこちに点在しています。センター内は、ピッカピカでゴミ一つありません。分別ゴミ用のジュラルミン製のゴミ箱があちこちに設置されています。コーヒーショップに座り込んでWi-Fi接続し、PC操作をしながらこの国の人々の観察をしてみました。

男女とも背が高く整った顔立ち、女性は均整のとれた金髪夫人。世に言う美男美女群です。子どもの団体が来ました。こちらも整った顔立ちで、みなきれいな服装です。おしゃべりしながら時にふざけ合って歩いている光景は、万国共通です。どこかヨーロッパの近代的な都市に来たような錯覚を覚えました。

1IMG_7216バスの車窓から見た熱帯雨林の雨期の風景は、首都のサンホセに行くまで、写真のような光景が続きました。いまでも少数の原住民が、この森の中を移動しながら生活しているそうです。高速道路のインフラは、しっかりしたものでした。

コスタリカは軍隊を持たない国とその程度の知識しかありませんでしたので、ネットで外務省の情報などから国情を急きょ調べてみました。するとこんなことが判明しました。

  • 人口は515万人、面積は日本の九州と四国を合わせた程度。
  • 1949年から現在まで、選挙により政権交代が行われており、中南米で安定した民主主義体制を持つ国。報道の自由度も確保されている。
  • 識字率98%(2018年UNESCO)という高い教育水準を持っており、教育費と医療費はタダ。
  • 1994年憲法で軍の非保有を宣言して常備軍を持たず、1983年に「永世非武装中立」宣言し、87年にはノーベル平和書を受賞している。
  • 国民性が温厚で、物価が割安。交通インフラが発達し温暖な気候で住みやすく、イギリスのシンクタンクの調べで、世界一幸せな国の指標でトップになるなどこの種の世界ランキングでたびたび世界一になっている。

この情報にはびっくりしました。産業は良質なコーヒー、バナナ、パイナップルなどの栽培輸出で地方の雇用を支え、近年は特区に世界のハイテク企業を誘致して世界の医療機器の製造拠点になってきており、日本にもカテーテルなどを輸出しているとあります。ソフトウェア開発や生命科学産業も発展しているとあります。

ぶったまげた本当のコスタリカ方式

何よりも驚いたのは、日本の衆議院選挙で採用されている「コスタリカ方式」のいわれを知ったときです。コスタリカは選挙区内の有権者と議員との癒着を防ぐ目的で、国会議員の同一選挙区での連続再選を禁じており、大統領選挙でも再選を禁じていました。大統領で再選を目指すには退任後8年間の空白を置いて再出馬できるとなっていますが、これまで再出馬した大統領候補はいないようです。

日本では衆院選で「コスタリカ方式」というものを採用しています。小選挙区比例代表並立制では、同じ政党または友党に競合する候補者が存在する選挙区では、1人を小選挙区に、もう1人を比例区に単独で立候補させ、選挙ごとにこれら2人を交代させる方式をいいます。コスタリカの再選を禁じた選挙制度にあやかって名前だけ勝手に使っているようです。

コスタリカの清廉潔白な政治目標の中で実施しているコスタリカの選挙制度を知り、名前だけちゃっかり拝借し、似ても似つかない選挙制度をしている日本は「恥を知れ」と思いました。

豊かな自然で人気上昇中の国

コスタリカはアメリカ人の好感度ナンバーワンと聞いており、近年、移住者が増えているようです。多彩な植物・鳥類の生息地域として有名でウミガメの世界産卵地になっています。国土の4分の1を環境保護区に指定しており、映画「ジュラシックパーク」の舞台にもなったということです。

ショッピング・センターのレストランやコーヒーショップをハシゴしながらネットで調べ、人々を観察し、船に帰るバスに乗り込んだときには、すっかりコスタリカファンになっていました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその58

濃霧と時化と強風で荒れるアリューシャン列島の海

船は一路横浜を目指して毎日、南西へ向かっています。アリューシャン列島から千島列島沿いに航海していますが、海上はほぼ終日霧に包まれており、島影は見えず海は時化ています。船の屋上の甲板に出ると冷たい風が容赦なく吹いており、冬支度でないと1分といられない過酷な環境です。夕食の食卓が賑やかになっているとき、同席している共同通信社元論説委員長の西川孝純さんが「5分間講話をしましょう。アッツ島とキスカ島のことです」と発言しました。

IMG_7727 (1)

濃霧に包まれた海は終日時化ており、アリューシャン列島の島影を見ることは出来ませんでした。終日、大揺れの航海が続き、北方海域の過酷な海の環境を体験しました。

玉砕と撤退・アッツ島とキスカ島

西川さんはいま、船が通過しているアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島が、先の太平洋戦争で正反対の運命をたどった戦争ドラマを語って聞かせました。

太平洋戦争が始まって半年を過ぎた1942年6月から、アメリカ軍は当時、日本が占領していたアッツ島の奪還のために戦艦、空母などの大部隊で包囲し、1万人を超える兵力を投下して守備隊わずか2500人のアッツ島に上陸してきました。その壮絶な戦いと最後の場面は、筆者も実録伝記を読んで知っていましたが、今回の航海でその島の脇を通過して帰路につくとは思いもしませんでした。

アッツとキスカJPEG
戦力・兵員・装備ともに圧倒的に上回る米軍に激しく抵抗する日本守備隊でしたが、ほどなく守備隊は全滅の悲運をたどり、日本国内ではこれを「玉砕した勇猛な兵士たち」として報じられました。玉砕という戦死者を称える言葉を使った最初の出来事でした。

続いて米軍は、隣にあるキスカ島も海軍部隊で包囲し、殲滅作戦を始めました。キスカ島には6000人の守備隊がいたのです。このとき日本の大本営本部は、北方の過酷な自然条件の中で占領を続けていた守備隊を放棄する判断に傾き、アッツ島はいわば「見捨てる」戦略をとり、キスカ島守備隊には撤退するように命令しました。

6000人の守備隊は、濃霧の中をキスカ島に接近してきた巡洋艦「竹隈」を旗艦とする艦隊に次々と乗り込み、わずか1時間足らずの中で全員の撤退に成功して離脱し、この作戦は成功したのです。濃霧と荒れる北海海域で起きた玉砕と撤退。二つの命運を決めたのは当時の戦争指導者であり、大本営の作戦本部でした。正しい判断と素早い決断と実行さえあれば、国の命運をも変えることができることを教えた出来事でした。

北海道出身者多数が犠牲者になった

船がアリューシャン列島を抜けるころ、ランチの食卓で筆者は窓から海を見ながら「晴れていれば、この向こうにアッツ島が見えたかもしれませんね」と独り言のように語りました。するとすぐ右隣りにいたご婦人が「玉砕した島ですよね」と反応したのでびっくりしました。

玉砕という言葉を知っているとは驚きでしたが、いろいろ話をするうちにご婦人は札幌にお住まいの昭和9生まれでした。アッツ島で玉砕した戦死者の英霊を北海道神宮(当時は北海道護国神社と呼んでいたそうです)に納めるため、神社に向かう行列がしずしずと進んでいく光景が忘れならないと語りました。北の守りを固めるということから、多くの北海道出身兵士がアッツ島の守備隊にいたということでした。

遅すぎる決断と実行

日本は、いつの時代でも国家として先を見通した正しい戦略とその結論に基づいた決断と実行が出来ないことを80年前の大戦の中でも数多く見ることが出来ます。21世紀になってから、デジタル技術革新が急速度で始まり、IT産業革命が勃発しました。100年後に今日を振り返って総括すれば、間違いなく第3次産業革命のど真ん中にいたことを認識することが出来るでしょう。

デジタル化した技術が教育・研究、社会、企業、組織、国家を急進展で変えていき、人の考えも価値観も文化も何もかも変えてきました。途上国・先進国に関係なく世界同時進行で進んだことに、前2回の産業革命とは大きな違いがありました。日本人、とりわけ国家・行政・企業の指導者たちは、時代認識をしっかりと持ち、先を見通した技術革新を先導する国家を作る責任があるでしょう。同時にそれは、筆者たち国民にも相応の責務を課せられたことにもなるのです。

世界一周の旅で感慨を持った様々な出来事の中でも、西川さんの講話から思い起こした「玉砕と撤退」の史実は、重い課題を背負って帰国する機会になったのでした。

世界一周の旅の報告は、ここで区切りをつけ、次回はこの船旅の総括を書きます。

IMG_7740船のラテン系バンドで人気のある「Joy&アップスタート」のファイナル演奏を聴きに行ったら、「アッツ島とキスカ島の史実」を講話してくれた西川さんご夫妻とバッタリ。記念写真に収まる栄誉をいただきました。

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその57

空き家を改装してびっくりさせた中日ご夫妻

船には中国、韓国、台湾、シンガポール、インドネシアなど多彩な国籍の方が乗船しています。その中でもユニークな日中友好活動をしている中国人と日本人のご夫婦に出会い、それをどうしても報告したくなってアップすることにしました。

1sinshainn IMG_7399陸建洛さん(右端)と裕子さんから取材しました。

ご夫妻は同い年の68歳で上海市出身の陸建洛さんと西宮市出身の濱田裕子さんです。陸さんは、香港と中国の合弁大手港湾管理運営会社の技術スーパーバイザーを務めた方で、奥様は神戸市外国語大学中国語学科を卒業後、通訳翻訳業に入り、全国通訳案内士の資格を持っています。

2人は1995年に結婚し、上海と西宮を拠点に日中間を往復しながら、日中の文化交流で精力的に活動しています。その延長線上でやっているのが、趣味の空き家改装です。完成した「新築空き家」をギャラリーや憩いの場として人々に無料で開放することで社会貢献にもなっています。PEACE BOAT乗船をきっかけに、憩いの場を「ピース ホーム」と名付け、さらに交流の輪を広げています。

朽ち果てたモデルハウスを新品同様にする

1970年代に阪急不動産のモデルハウスとして売り出した欧風3階建て、1階コンクリート、2,3階鉄骨構造の瀟洒な邸宅がありました。しかし家主が売りに出したときは、20年以上も使用していなかったのか家全体が朽ち果て、誰も買い手がなく2022年12月、陸さんが480万円で買い取りました。

1スライド64買い取った邸宅は、見るも無惨に朽ち果て、屋敷も荒れ放題になっていました。

3スライド90部屋の中もこのような状態でした。

 陸さんは、農業と港湾労働者をしながら独学で様々な技術を学び、1991年の第2回世界青年発明コンクールで金賞を授与されるほどの才能のある方です。つまりモノの成り立ちを考えたり、構造を調べるのが得意であり生来、創造性に富んだ器用な方なのです。

元通りの瀟洒な邸宅にするために専門業4社に見積もりを依頼しましたが、どの会社も改修は不可能と言ってきました。最大の問題は急勾配の屋根にありました。

そこで陸さんは、自分で元通りに改修することを決心し、まず朽ち果てた家・屋敷の後片付けを始めました。可燃ゴミだけで45Lのゴミ袋が1500個以上、粗大ゴミは2tトラックに冷蔵庫4台、洗濯機3台、エアコン4台などを積み込み、ゴミ処理場に運びました。

一番苦労したのが、業者も尻込みした急勾配の屋根の修復でした。ハシゴを3つつないで作業場にのぼり、命綱をつけ、滑り止めの靴をはき、急勾配の屋根の修復に1人で取りかかりました。家の中の廊下、壁、天井、引き戸、襖、障子などは、ネットのオークションでできるだけ元のものと同じような材質を見つけて購入して取り付けていきました。

あの朽ち果てた邸宅が、このように生まれ変わりました。

IMG_山荘

室内もこの通りピッカピカになりました。

スライド119

1年かかって新築同様に改修完成

途中で上海に行ったりして留守にしましたが、前後合わせると正味ほぼ1年間で8室の改修を完成させました。周辺の民家に迷惑がかからないように電気工具類は一切使わず、手作業でやり遂げましたが、元の家主が見に来たときは、腰を抜かさんばかりに驚いていたそうです。筆者は数々の写真を見せられただけでも腰を抜かしました。

少子高齢化社会を迎えて、日本ではいま全国で約20%の住宅が空き家状態です。これを安く買ってリニューアルすれば、自分の持ち家として活用できるし再販すればビジネスにもなります。陸さんは、いまの時代は空き家再生がビジネスになるチャンスであることを社会に訴えていくと言います。

日中草の根美術・芸術交流でも実績

陸さんの活動の本体は、中国友好のための書画、芸術品の展示会などのイベント活動です。先の改修した邸宅を公開して展示コーナーとして使用したり、宿泊施設としても利用しています。陸さんが長年集めてきた中国の絵画、書道などの作品は数千点にのぼり、それを展示したり、ご夫婦で各種のイベントなどにも積極的に参加して日中の芸術交流を通じたイメージ向上に取り組んできました。

中国の書画展は定期的に開催し、広く知られるようになっていきました。こうした活動が注目を集めて新聞・雑誌で紹介されたり、神戸港開港140年記念イベントに招待されて展覧会を開催しました。中国のイベントでも紹介され、「地球の歩き方」にも掲載されるなど、いまや有名人になっています。

5人写真陸さんは何でも独学で学ぶことが好きで、上海の独学キャンペーンでは、10年連続個人優秀賞を授与され、また「上海独学者の星 ベストテン」にも選出されました。裕子さんも、中国語に堪能な才能を活かしながら日中文化交流を展開しており、ご夫妻のユニークな活動はますます広がっていくでしょう。

5褒賞切り取り


PEACE BOATで世界一周の旅ーその56

アラスカ・スワードへ最後の上陸

PEACE BOATの船旅の最後の寄港地はアラスカのスワードという小さな港町でした。この船旅で寄港した都市は、ここを含めて20都市でした。南アフリカのポートエリザベス、イギリスのティルベリー、ニューヨーク、パナマのクリストバルは2日間の接岸でしたが、残りの16都市はすべて1日だけの寄港地でした。

スワードは、アラスカ山脈を背後に控えた港町で人口は3千人。アラスカ鉄道の終着駅になっており、夏から秋にかけては観光客で賑わう町です。夏と言っても上陸した日は、濃い霧に包まれ、時折、雨が振る寒い日でした。

0IMG_7694完全防寒スタイルで上陸しました。この時期、酷暑の日本では考えられない服装です。地球の大きさを知りました。

 過酷な自然の中で生きる動物たち

鬱蒼とした針葉樹林帯とそれをまとった山々ですが、冬になれば雪と氷に覆われ、短い夏の期間でもこの日の天候のように肌寒く、霧や雨模様の日が多いようです。寒帯地帯の植物が濃い緑の重層の山並みをつくっており、際限なく自然景観が広がっています。雄大という言葉では表現できないような圧倒的な植物と山の中では、多くの動物たちが生息しており、野生動物保護センターを見学するツアーに参加しました。

1IMG_7697アラスカの過酷な自然環境の中でも様々な動物たちが生息しており、それを保護する活動も知りました。和名は分かりませんが、長毛に覆われたバイソン、バカでかい角を持った大型のシカ、その他にもクマ、オオカミなどもオリの中に見えました。

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保護センターの名の通り、何かの事情で保護された動物たちを保護し、健常になったらまた自然界へ戻すという活動のようですが、広い土地で飼育されている種類別の動物公園のようでした。

体毛の濃いアラスカバイソン、身の丈3メートルはありそうなクマ、オオツノジカなどがのんびりと草を食んでいましたが、見物するこちらはセーターと厚手のコートかジャンパーを着込み、フードをかぶって縮こまりながらの見物でした。

山頂に立っても霧で何も見えず

標高約2千メートルの山までケーブルカーがあり、山頂まで行ってみました。しかし濃い霧の中ではぼんやりした山の景色が見えるだけで、お土産屋をのぞいてから早々に退散して麓のロッジへと帰ってきました。

3IMG_7713ケーブルカーで山頂まで上りましたが、深い霧に覆われてほぼ何も見えず、寒さだけ身にしみるので早々に麓へ戻ってきました。

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ここで出されたランチは、照り焼きにしたキングサーモンが美味しくて評判でした。あとは中華風の料理をバイキング方式でいただきましたが、滞在時間中はWi-Fi接続で写真やビデオなどデータ量の多いものを処理する作業に精を出しました。最後の寄港地でしたが見学する場所もなく、長い船旅の最後を飾るにしては暇つぶしの時間で費やするというさえない一日でした。