PEACE BOATで世界一周の旅ーその21
2024/05/20
沖縄返還の密使・密約のすべてを語る
沖縄返還は1972年5月15日に行われ、今年で52年目になります。船の自主企画の集まりで、沖縄に関係する人々や沖縄に興味のある人が30人ほど集まり、沖縄の米軍基地の んbひどさが大きな話題となりました。沖縄からPEACE BOATに参加した人々は、口々に日常的に活動する米軍の存在を批判していました。
こうした意見にも後押しされ、筆者は「沖縄返還と密使・密約外交のすべてを語る」とのタイトルで講演を行いました。船内で2番目に大きな会場に220人が参加して、熱心に聞いてくれました。
筆者の活動領域は、科学技術関係、知的財産権、ノーベル賞などですが、沖縄返還とこのときに発生した毎日新聞社の西山太吉記者逮捕事件を警視庁記者クラブで担当したこともあり、長い間、記憶の底でくすぶっていました。
5年ほど前に、終活に入って要らないものを整理しはじめたとき、膨大な沖縄返還関連の資料類を発見し、一度は目をつぶって廃棄することにしていました。しかし、過去50年近くにわたって関連資料や文献を集めてきた行動を考えながら、段ボール箱を開けてチラチラと眼を通していくと、次々と理不尽な佐藤栄作総理の言動やその後の自民党政権の責任感のないでたらめな見解発表などが否応なく眼に入り、ついに返還のすべてを事実の積み重ねで書き残し、後生の外交史研究者の文献として残そうと考え、にわかに執筆エネルギーが湧き出しました。そして返還から50年目の節目に日本評論社から「沖縄返還密使・密約外交、宰相佐藤栄作最後の一年」を上梓しました。
今回、船に乗って食事で同席した方や、何かの会合で知り合った方に、沖縄返還の話をしてみるとほぼ何も知らない人ばかりでした。知識の希薄さではなく、このテーマは、もはや風化してしまったからです。
筆者が確信を持って「佐藤栄作の外交の私物化」の話をすると、例外なく驚いた表情になり、是非、船の講演で聴きたいという意見が寄せられ、この日の講演に繋がりました。
今に繋がる負の遺産をどうするのか
佐藤栄作とニクソン大統領の密約の中でも、日本国民として絶対に許してならないことは、米軍が有事の際の核兵器の日本への持ち込みを容認する議事録を作っていたことです。この議事録は、佐藤首相とニクソン大統領が署名したもので、一通はアメリカ国務省に「国家的重要書類」として保管されていますが、佐藤が持ち帰った一通は所在不明になっていたのが後年、佐藤邸の書斎にあったものが確認されています。
日米両国の首脳が署名した重要な書面が、一方は国家の機関が重要書類として保管し、一方は元総理私邸の書斎に眠っていたという事実は、国民として許してはならないことだと思います。首脳会談後に発表されるコミュニケにも記載されない重要案件は、アメリカ側は議会の秘密会議で説明されて了解をとり、日本は佐藤総理だけが知りうる内容だったのです。
台湾・北朝鮮問題など、日本列島近傍では、時としてきな臭い状況が持ち上がり、有事に巻き込まれた場合、米軍の判断で日本の基地に核兵器を持ち込む「権利」を米側に与えた密約をどうするのか。
さらに西山記者逮捕に繋がった米国が支払うべき賠償金を日本が肩代わりして支払うという密約は、今の 米軍基地への「思いやり予算」に繋がっているものであり、理不尽な「思いやり」として問題になっています。
こうした問題は、沖縄返還が「良かった・悪かった」と言う問題ではなく、国家の体裁をしていない外交折衝であり、政治の劣悪さ・未熟さをさらけ出しており、その手法はそのまま負の遺産として残されてきています。
森友学園・国有地売却の公文書改ざん事件でも、財務省は文書開示をせず、裁判所も国民からの開示要求を棄却しています。近畿財務局の職員が自殺に追い込まれ、その職員の妻が人事院に関連情報の開示を要求しましたが、70ページの文書のほとんどが黒塗りというあきれた行政の対応をみると、国民不在の政治と行政が連綿と続いており、そのスタートは沖縄返還まで遡っていきます。
筆者の論評はいくつか提示しましたが、大半は米公文書公開の事実資料、佐藤栄作の密使となった3人の学者と企業人の暴露本の内容、首相官邸の秘書官の日記と総理大臣主席秘書官の日記、佐藤栄作の膨大な日記など事実の掘り起こしで示しました。
講演後に多くの方からショックを受けたとのコメントをいただき、この講演会はそれなりに受け入れられたとの感触をいただきました。
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