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PEACE BOATで世界一周の旅ーその9

船内でPCR陽性者が出る

レストランは、5階、6階、14階とあり、5階が和食系統、6階が洋食風、14階はいわゆるバイキング方式で好きな料理をトレイに載せて思い思いのテーブルで食べています。

5階と6階は、正式なレストランのしきたりがあり、男性なら基本的に襟付きシャツ、スーツ着用が好ましいとされています。Tシャツ、サンダルは御法度であるが、まあ普通の服装なら文句は言われない。

14階のブッフェは、どんな服装でもOKのようで、若者たちは自由な服装で歓談しています。知らない同士で同じテーブルに着くと、自然と食べながらの雑談となります。口火は「どちらから参加ですか」となる。住んでいる場所や都市を聞いてくるのだが、意外と東京からと言う人には出会わない。

そんな雑談のおりに「船内でコロナが出たらしい」という話が出てきました。コロナと言っても変異株なので、あのパンデミック騒動となったコロナウイルスではなく、風邪症状で収まるものでしょう。PCR検査で陽性と出た人のようですが、一応、隔離したようだともいう。

乗員スタッフも入れると2000人ほどの人が、巨大なビル構造の中にいるので、言ってみれば巨大な培養器の中にいるようなものだろう。赤道を通過したあたりだから海上の気温も湿度も高い。船内はエアコンで快適な環境になっているが、一日に一回くらい、海風を全艦に入れて中の空気を全とっかえという訳にはいかないのだろうか。乗船客はいたってのんきな会話をしており、コロナウイルスの威力もほぼなくなってきたようである。

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船はいまセーシェル島に向かってひたすらインド洋を航海しています。寄港地がないから毎日、見渡す限り海を見て過ごすよりない。マレーシアのポートクランを出てから1週間、ひたすら海上を移動する。地球の天体位置も海図も満足になかった大航海時代の船乗りたちは、どんな気持ちで毎日を過ごしたのだろうか。

そんなことを考えながら、屋上デッキの長椅子に身を伸ばしてぼんやりしているとき、誰かが「あれは何だ!」を叫んだので皆が一斉にユビ指す方向を見ると、巨大な虹の柱がインド洋に架かっている。スマホ撮影が始まり、ひとしきり自然の雄大さをこの目で見て誰もが満足した様子でした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその8

インド洋の日の出

船の朝は早い。午前6時からエアロビクスが始まり、アスレチックジムがオープンして早くも、ランニングマシンに精を出している人を見かけます。

この日、4月27日の日の出は6時23分です。12階のプールを取り巻くデッキには大勢の乗船客が集まってきます。体操の前に日の出を拝み、この日の一日が始まる気分になります。

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日の出とともにラジオ体操が始まります
ラジオ体操

船上では毎日、企画・イベントが満載 

1300人の乗船客に退屈感を与えないために、多くの企画、イベント、カルチャースクールが朝6時から夜11時まで、10か所の会場で進行していきます。最も大きな劇場型のプリンセスシアターでは、午前と午後に映画が上映されており、この日は「日本人の忘れ物 フィリピン中国の残留邦人」、「ナイル殺人事件」が上映され、映画の合間に高橋和夫さんの「カザと紅海」という講演会がありました。

IMG_6038中央の空間を取り巻くようにヨガ教室が行われますが、連日、大盛況です

人の集まり具合を見ていると、ダンス教室はほぼ確実に盛況です。社交ダンスを始め、サルサ、ベリーダンスなど若い世代から年配者まで誰もが楽しめるようなプログラムになっているようです。船に乗っていると運動不足になりがちなので、体を動かすプログラムがそれなりに用意され、参加者もまた集まってくるという感じです。

乗船者が自主的に企画して呼びかける企画ミーティングや各種の教室も大きなスペースを適当に区切ってそれぞれが開催しているので、筆者もいくつかに参加して見ました。これまでの寄港地での旅の思い出を語り合うサークルでは、深圳でカードが使えず食い逃げ寸前で中国の友人に助けられた失敗談を披露してうけました。

船内のバス・トイレ事情

船の中で3ヶ月も過ごすので、乗船する前に多くの人から日常生活の有様を聞かれましたが、体験前ですから答えようもありませんでした。生活する部屋もビジネスホテル並みということだけで乗ってみるまでは一抹の不安感がありました。

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狭い空間ですが、特段の不都合もなく使っています

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部屋に案内されてみると、15平米ほどの部屋に大きな窓付き、ダブルベッド備えの部屋で、洗面台付近のアメニティは簡素で何もありません。バス・トイレもそれなりのものです。ただバスタブではなくシャワーであり、狭い空間ながらお湯の温度は十分であり水勢もかなりのものです。就寝前や起床直後にシャワーを使う習慣はなかったのですが、これに慣れてしまうと日本的に肩までお湯に浸るお風呂は忘れていきました。

トイレは事後洗浄(いわゆるウオッシュレット)ではない昔ながらの様式です。30年近く使い慣れてきた洗浄トイレでない、昔ながらの自分で始末する様式に一抹の不安がありましたが、これの解決法をほどなく発見して無事、乗り越えました。

子ども時代から慣れていたトイレの後始末、トイレットペーパーで始末するあの様式からおさらばして洗浄トイレに慣れてしまったので、昔を思い出して「挑戦」しますが、これが不安感一杯でなかなかうまくいかない。終わった後、シャワーを使って念入りに洗うよりない。しかし毎回、こんなことをやるのも面倒なのです。

ところが、レストランやエレベーター付近には必ず、誰でも使えるトイレがあります。点検してみるとここのトイレは洗浄式になっています。どう見ても日本のメーカー品と同じに見えるので不安はない。テストの状況もOKとなり、それからは毎日こちらに出張して用を済ましていました。誰も使っていないのだろうかと思うほど、いつでも空いていました。

ダブルベッド6豪華なベッドと大きな窓は、ビジネスホテル以上の部屋でした

お洗濯は楽ちん外注

国内での出張時の洗濯物は、お風呂に浸かったときに簡単に水洗いしてハンガーに下げる。これがいつもの筆者のやり方でした。船でもそうなるだろうと想像してきましたが、ここでは「ランドリーバッグ」なるものがあり、何でもかんでもこの袋に詰めて出すと、1回、800円で済みます。

洗濯に出した個数ではなく、洗濯物の体積になるので、袋にぎゅうぎゅう詰めにして出しても800円。詰め込めば、それだけ割り得になるという訳です。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその7

オプショナルツアーの選択

今回のPEACE BOAT117は、105日間に21か所の港に停泊します。すでに中国の深圳、シンガポール、マレーシアのポートクランの3か所に停泊し、乗船客の多くが下船して見物に出かけました。PEACE BOATでは、乗船客の見物・見学の要望に応じて、多くのオプショナルツアーを用意していますが、そのコースが1つの停泊地で10個以上あることもあり、選択に迷ってしまいます。

マレーシアのポートクランに停泊したとき、同国の首都、クアラルンプールにバスで往復するツアーもありましたが、筆者は急きょこのツアーをキャンセルして、港に隣接するポートクランに行くことにしました。首都の様相は写真などで見ると、近代的なビルが林立し、いかにも国際都市の景観ですが、それよりも港に近い地区にあるインド系住民が多いポートクランという観光地域を見学することにしました。

オプショナルツアーの直前のキャンセルは、50%の払い戻しになりますが、一生に一度しか来ない都市や地域を見るためには仕方ない選択です。キャンセルして、ポートクラン地域を往復するバスコースに切り替えました。これが筆者の思惑取りの見学になりました。

インド系住民の作った観光地域

巨大なモスクに隣接する駐車道路でバスを降りて見学に出かけました。大きな通りの両側の長い長いアーケードにびっしりと商店が並んでいます。住民はインド系の人々であることは一目で分かります。

店舗の入り口付近には申し合わせたように店の男女従業員が並んでしますが、特段、客寄せする様子はなく、目が合えば軽く会釈する程度です。客寄せに熱心な他の国とは大違いです。いったいこれで商売が成り立つのだろうかと心配になるほどです。

商店街の半分くらいが女性の衣料品店であり、後の半分は、食料品から雑貨類など多様な品揃えです。

女性専用の衣料品店は、どうみても観光客目当てのお土産屋ですが、どの店もほぼ同じような構えで、同じような商品を陳列しています。これでは、どの店で買い物をするのも同じだなという印象でした。

しかし女性の観光客は次々とハシゴをしながら店に入って物色する光景を見ていると、女性が見た目では違った陳列商品になっているのでしょうか。男性専用の店を一軒、発見しましたが、外から見ただけで民族衣装系統の服飾類が多数飾ってあり、見るだけで結構という感じでした。

IMG_6029食品売り場には、多彩な調味料と香辛料が並んでいました

歩き疲れてビールでも一杯と思って気がつきました。回教徒の国なのでアルコール類は販売していません。料理は中華系が多いように見えましたが、陳列棚を見るとどれもこれも食欲がわいてこない。結局、大きなスーパーに入って、日本などから輸入した加工食品を買い求め、バスの中で食べることにしました。

この地域は、港町で栄えた観光地域のようですが、道路、建築物などの社会インフラは貧困であり、30年前の中国の地方都市よりも遅れているように感じました。どの商店もクレジットカードは使えないキャッシュオンリーであり、大きなスーパーだけがカードを使えました。

IMG_6032外は気温30度内外、湿度も高く蒸し暑いのに船に帰るとクーラーが効きすぎて小寒い。そこで婦人用のショールを防寒用に買って羽織ることにしました。これで1000円ほどの買い物でした。

隣国ブルネイとの違いにびっくり

筆者はバイオ関係の企業が進出した隣国のブルネイに行ったことがあります。ブルネイはマレー系の人たちで人口41万人の小さな国ですが、石油・天然ガス資源に恵まれた豊かな国になっています。ホテルや商店の従業員の服装やたたずまいは、先進国とほぼ変わらず、垢抜けした人々でした。

この国も厳しい禁酒国であり、アルコール飲料はごく限られたレストラン、しかも夜だけしか飲めません。国民は豊かな生活をしており、現地に進出している日本の商社や企業の人たちは「国が豊かなので国民は働かない。この国の発展は期待できない」とも語っていました。

石油資源が枯渇した時に備えて、政府は次世代産業育成のために外国産業の導入と育成に力を入れているということですが、肝心の国民が働かないというのですから、発展は無理という見方も当たっているのでしょう。

隣国同士なのにかくも違う文化が、それぞれの伝統と民族の中に形成され、存在していることを見て、世界の広さを感じた時間でした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその6

初めて知ったシンガポール歴史の真実

4月22日に筆者は初めてシンガポールを訪問しました。これまで何回も行くチャンスがあったのに、この小さな島国に行くことはできなかったので、いわば憧れの地でした。

シンガポールに特に興味があったのは、教育・研究施策がしっかりしており、科学技術の研究開発でも常に世界の上位にランクされている優れた施策を展開していることにありました。大学ランキングでも、常に日本の大学の上を行っています。

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それともう一つ興味の対象は、太平洋戦争中、マレー沖で日本陸・海軍の攻撃で撃沈されたイギリスの戦艦プリンスオブ・ウエールズと巡洋艦レパルスの歴史に触れたいという思いもありました。2隻の戦艦撃沈の報告を受けたチャーチル首相が、言葉を失ったと言われています。シンガポールは、大英帝国にとって難攻不落と言われたアジアの一大拠点だったのです。それを10日あまりで日本軍に降伏し、チャーチルはここでも「英国軍の地上最大の降伏だ」と語ったということです。

船から上陸・訪問する前日、船内で「昭南島~日本軍占領下ンガポール」というタイトルで野平晋作さんの講演会がありました。船の中では最も大きな座席数を持つプリンセスシアターでの開催ですが、筆者はこのとき、別のセッションに出ていた都合で、最後の方だけに参加しましたが、非常にためになる講演でした。

会場は満席の盛況であり、最後に日本が未だにシンガポールに謝罪していないのではないかという意見を巡って、会場の人たちが激しく討論している場面に出くわしました。

昭南島とは、シンガポールをイギリスの占領・統治から奪い取った日本軍が命名して使ったこの地の名称です。シンガポールの歴史をほとんど知らなかった筆者は、イギリス統治から日本統治へ、そして戦争に負けて再びイギリス統治に至った歴史的な経過と、日本軍の侵攻時に行った現地の抗日義勇軍に対する攻撃と、民間人も巻き込んだ抗日華僑殲滅作戦の虐殺行為などを知って驚きました。

先進的で豊かな国になったシンガポール

シンガポールに足を踏み入れて見ると、この国の先進的な豊かさを肌で感じました。建物が瀟洒であり、働く人々の仕草と表情が垢抜けしていました。店頭に並ぶ商品の値段を見ると、日本より物価高かなと思いましたが、デフレ・円安で、もがいている日本の現状がこの数字でも分かりました。

ただ、街を走っている車のメーカーは、日本車が多く目につき、続いてヨーロッパ車、そして韓国車と続いていました。

世界の遺産である植物園

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シンガポールの世界的に有名な植物園は、管理が行き届いた素晴らしい規模と展示内容でした。世界の各地域の植物コレクションが約6万点展示されており、最大の観光スポットです。本来なら1日がかりで見学する場所でしょうが、こちらは1時間足らずの駆け足で回る「爆走見物」でした。

川船に乗船して川を上下するクルーズに乗りました。川風が心地よく、両岸に並ぶ新旧バランスよい景観もいい感じでした。疲れた足を休ませるためにお茶をしているとき、何の脈絡もなく、太平洋戦争のシンガポール戦を思い出していました。

筆者の知識は若いころに読んだ記録、伝記ものなどに限られていますが、日本が太平洋戦争に負けたきっかけは、シンガポール戦の勝利と戦艦プリンスオブ・ウエールズ、レパルスの撃沈勝利にあったという皮肉な史実を思い出しました。シンガポールで勝ったことが、あろうことか太平洋戦争で負けた原因になったのです。

戦艦撃沈の勝利では、日本海軍の海上からの戦闘機爆撃が有効だったことを示したもので、アメリカはこの戦況にいち早く目をつけました。戦艦や空母を撃沈するのは戦闘機爆撃が有効であると確信し、ミッドウエー海戦でこれを実行して大戦果をあげたと言うことです。

それから戦況は急激にアメリカ優位に傾き、日本の敗戦に至ったということでした。日本は戦艦大和に代表されるように巨艦主義にこだわり、近代戦への研究が足りなかったのです。科学技術で劣等国家だった日本が、今なお政治の世界では科学音痴が続いており、国家としての限界を見るような気持ちです。

旅行で訪問した国に足を踏み入れると、過去の史実を思い出してしばし感慨にふけると言うことは誰にでもあることなのでしょうか。船で一緒になった人々と会話をするうちさまざまなことを聞いて、何も知らないできた自分に気がついて驚くことがあります。しかしそんなことは誰にも言えず、自分だけにしまい込んで船に戻ってました。

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその5 

船上で「学校給食世界一」を講演する

PEACE BOATでは、毎日、多数のエベントが展開されています。各種スポーツ、趣味・道楽、映画、教養、音楽、語学、料理その他諸々のテーマです。朝7時から夜10時ころまで切れ目なく、船のどこかで多数のイベントが同時進行で走っています。

その中でも異彩を放っているのが自主企画です。これは乗船者が企画立案し、PEACE BOAT担当者のOKをとり、会場を確保し、船内新聞で告知してもらって参加者を集めるもので、前日の夜に部屋に配布されて来る新聞案内を見て、翌日、それぞれ興味あることに行動を起こすというものです。

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筆者はこの機会に、日本の学校給食は世界一のソフトパワーであることを知ってもらい、食育推進の理解度を高める活動を船の上でやってみることに挑戦しました。

と言うのも、船の乗客はそれなりに社会的活動をやってきた方であり、年配者が多いので今の学校給食を知ってもらうことで社会的な認知度が広がるだろうという思惑です。学校給食甲子園を知ってもらい、主催者の認定NPO法人21世紀構想研究会の活動にも触れたいと思ったのです。

フリースペースとして一番広い場所を確保しましたが、果たしてどれくらい聴者が来るかまったく未知数でしたが、フタを開けてみれば約100人を超える方々が出席したので、びっくりしました。

日本人で学校給食を体験しなかった人はいません。年代によって献立の中身が違っているだけで、脱脂粉乳、コッペパンから始まって、今風の料理に至るまで驚くほど進化してきました。その有様と学校給食の重要性をまず理解してもらうために、2枚のスライドをお見せすると、関心は一気に高まりました。

スライド2学校給食の現状を見出しだけで紹介し、続いて学校給食摂取基準で示されている栄養管理について紹介しました。

今の子どもたちは、カロリー、タンパク質、脂肪、塩分を摂り過ぎています。家庭料理と外食が摂り過ぎの原因であり、それがやがて生活習慣病に結びついていきます。子どもが摂りすぎと言うことは大人も同じだということになります。

その一方で各種ミネラル、ビタミン、食物繊維などは不足しがちになっています。

スライド10学校給食では、摂りすぎになる栄養素を抑え、不足しがちの栄養素を補充する献立を作っています。栄養教諭がその基準を守るために必死になって献立を作成し、しかも美味しいものを出さないと子どもたちに食べてもらえない。加えて最近の物価高で、食材は軒並み値段が上がり、四苦八苦して予算内で献立を作っているのです。

食べるものに事欠いた戦後間もない時代は、コッペパンに脱脂粉乳、それに簡単なおかずだけという献立であり、船上客の大方がこの時代でした。それから時代を追って、日本の経済発展と歩調を合わせて学校給食の献立も激変していきます。

やがて飽食の時代になり、家庭環境も両親が働くようになって家族団らんの食卓は徐々に姿を消して行きます。子どもの睡眠不足と朝食抜きが問題点として浮上し、ファストフードの普及と子どもの健康が語られる時代になってきました。

そうした時代背景の中でも学校給食の栄養管理は徹底しており、ヘルシーな食事は肥満児出現で世界最低の実績を誇り、諸外国からは「日本の長寿国家は学校給食に原点あり」とまで、言われるようになってきました。

2005年に制定された食育基本法と栄養教諭制度のスタートで、食と健康を学び世界の食文化を知り、健康に生きていく基本行動と知識を身につける教育がいま、確かに根付いてきました。その実情を知ることで人それぞれが健康を考え、100歳時代に近づいていく状況を改めて認識しましょうというのがこの講演の狙いでもありました。

最後に、こんなに栄養管理ができた美味しい給食になった最大の功績者は誰か、質問しました。

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 正解は3の児童・生徒です。子どもたちはまずければ食べません。学校給食での食べ残しは献立を作り調理している栄養教諭と調理員の最大の課題になっています。美味しく食べて完食すれば、調理場だけでなく保護者も生産者も学校関係者はみな喜び、国民全体の健康保持にもつながっています。

 最後の問いかけの内容と正解は、聴者の皆さんにも意外感があったようで、ここで学校給食の理解度がさらに高まったように感じました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその4

船長主催の歓迎会

深圳で乗船した中国の人たちを迎えて、1300人の乗客が一通り揃い、船長が主催するウエルカムセレモニーが船のど真ん中の7階ふき抜けの大ホールで開催されました。船上とは思えない規模と豪華さ、歓待するスタッフの立ち居振る舞いもそれなりに洗練されています。船長からのウエルカム・ドリンクのシャンペーンが配布され、式典が始まりました。

1IMG_5881ウエルカムセレモニーは吹き抜け大ホールで華やかに展開されました

前日の船内新聞で、「思い思いのおしゃれをして」参加してくださいという呼び込みがあり、会場に行ってみると和洋それぞれに着飾った女性陣の華やかに圧倒されました。男性陣もそれなりに「趣向」をこらしており、筆者はタキシードに帽子をつけて出席しました。社交ダンスを20年間習ってきたので、燕尾服もタキシードもそれなりに着こなしてきたつもりですが、久しぶりのタキシードを身につけてみるとビシッと姿勢がよくなるのがいいところです。

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映画「風とともに去りぬ」のヒーロー、Rhett Butler を気取ったつもりでしたが・・

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式典は日・中・英の3か国語の通訳が入るのですが、日本人が大多数、そこへ互いに顔では見分けがつかない中国、台湾、韓国からの乗船客が混じり、あちこちに西洋人の顔立ちの人が散見しています。互いに運命共同体の船に乗ったfamilyですから、言葉は交わさなくても、そこはかとなく同胞・仲間・同志・戦友・・という意識が芽生えてくるから不思議です。

歓迎のバンド演奏やらスピーチと花束贈呈など一通りの式典が終了すると、ダンスパーティが始まりました。

式典後はダンスパーティで爆発

筆者が社交ダンスを始めたきっかけは、友人の整形外科医の助言からでした。膝関節から下肢全体に老化現象が見え、あぐらもかけない硬直化が顕著になって来たとき、脚を使うダンスがいいと薦められたのです。最初は、東京・日比谷の東宝ダンスホールで習っていましたが、そこの教師の紹介で、江東区門前仲町の毛塚ダンスアートアカデミーの会員となり、本格的に習い始めました。

社交ダンスはタンゴ、ワルツ、スローステップ、ルンバ、チャチャチャなど種目がいろいろありますが、どれひとつとっても際限なく奥が深いものです。習い始めて徐々にこの「道楽」の深淵をのぞき見ては、ため息をついてきたものです。

船上での記念ダンスパーティは、端的に言うと「イモ洗い」の様相でした。ともかくも船でダンスを踊ってみたいという気持ちがあるためでしょうか。華やいだ会話と笑いが会場全体を盛り上げ、ま、言ってみれば高齢者の合コンでしょうか。

タキシードで決めてきたのに、完全に浮いています。ステップなどというものではなく、足踏みしては誰やらの足を踏んだり蹴ったりの有様ですが、それがまた途方もなく楽しく愉快ですからどのお顔も幼児の時代に戻っていました。

日本と遮断された閉空間を楽しむ

新聞、テレビなど情報と手段がないので、日本国内と国際的な動きは、この1週間、完全に遮断されています。スマホとPCを持っているので、Wi-Fiにつないでネット情報は国内と同じ環境で見聞できますが、大きな制約がありました。Wi-Fi接続は船を通じてやるので、その料金がバカにならない。乗った当初は、誰もがWi-Fi接続を求めてサポートデスクに殺到しましたが、つないでみると国内と同じ環境になりますが料金が高い。

料金はスマホやPCに流通するデータ量に比例してかかりますが、YouTuberなどで映画を見ればあっという間に数千円になるという噂を聞いて、みな尻込みを始めました。きめ細かく使用するたびにセットしたり切ったりすれば節約できますが、これが面倒だから時間とともにスマホ・PCから離れて行ってしまう。

こうなると、完全自由時間。しかも3食、昼寝付きでタダ。実際はそれなりの料金を払っているのを忘れて天国気分。こうして船旅は、一週間が過ぎていきました。

IMG_5904毎日沈み行く太陽をデッキから眺めています


PEACE BOATに乗船し世界一周の旅に出る その3

最初の寄港地・深圳(シンセン)で事件勃発

神戸港を出てから2日余で中国の深圳に接岸しました。最初の寄港地であり、ここから中国人乗船客が多数、乗ってきます。

深圳は常に、中国近代化のトップ引きとなって発展している大都市で、広東省の省都でもあります。ほぼ10年ぶりの訪問なので、都会の様相がどのように変わったか期待していましたが、港の周辺をバスと徒歩で2時間ほど回っただけなので深圳の全貌は窺いべくもない短時間でした。

深圳深圳の港の一角は観光客で賑わっていました

経済特区で売り出した都市ですが、筆者の専門分野の知的財産施策でも、常に特区扱いで新施策が導入され、たびたび北京の中央政府の先を行く知財推進政策や助成金制度などを断行し、話題になってきました。往時の深圳発展の出来事を思い出しながらビールを一杯飲み、さて船に帰還する時間になって「事件」が勃発しました。

日本のVISAカードは使えない

レストランに入るとき、受付の女性にVISAカードを見せて、これで勘定はできるかと聞いたところ、問題ないという回答。そばにいた男性従業員も、同意の意思表示です。

簡単なおつまみとビールで、こちらはいい気分です。昔、中国ではビールを冷やして飲む習慣がなく、飲むときはあらかじめ冷やしておくように注文したことを思い出しました。ビールを常温で飲むのは旧ソ連のロシアも同じでした。いまは黙っていても、冷えたビールが出てきますが。

さて、船に帰るバスの時刻も迫ってきたところでお勘定となり、カードを挿入して暗証番号を入れたところで拒否されました。何度やっても受け付けない。筆者は、現金ゼロ、クレジットカード一枚だけで下船したのでさあ、困った。中国では、日本のクレカは使えないことが多いとアドバイスを受けてことを軽視していた失敗です。

とっさに北京に駐在している、JST(国立研究開発・科学技術振興機構)の米山春子さんを思い出し、WeChatで連絡するとうまくつながりました。WeChatは、中国独自のSNSです。日本のラインのような存在であり、中国圏に入ったとたん、国家の方針でPEACE BOATのWi-Fiは繋がらなくなり、ラインもメールもまったく使えません。命の綱はWeChatだけなのです。筆者は、このサイトができた当時から使っているので、大助かりでした。

「文無し」の事情を米山さんから話すように、レストランの女性にスマホを手渡しました。米山さんが自分のデジタル口座で支払うことを申し出て、なんなくこの事件は解決となりました。

 JST時代、春子さんとは中国総合研究センターで、日中科学技術交流、さくらサイエンスプランなどで日中両国の反日・反中勢力を乗り越えながら交流推進に取り組んだいわば同志です。こういうときこそ、一番頼りにする仲だったのです。地獄に仏とはこのことです。

筆者は飲み逃げ同然で急いで帰りのバスに駆け込みました。その直後、北京にいる米山さんと深圳のレストランが通信のやりとりをし、いとも簡単に勘定が払われたのです。その勘定書きのWeChat画面をバスの中で見たときは、感動しました。「やったね、中国!」という気分でした

日本でもこういうことができるのでしょうか。寡聞にして知りませんが、ネット社会、デジタル時代の実用化では、中国の方が日本を超えていったことは10年ほど前から知っていました。ああ、中国が先を行くと何度も思ったものです。キャッシュレス時代の先頭を切った国であることは、間違いないことを自分の体験で確認したような気持ちでした。

PEACE BOATって何だ

出発前、船に乗る話をすると決まっ聞かれるのが「PEACE BOATって何だ」という言葉です。ピースボートって聞いたことはあるが、それがどのような組織で運営されているのか。拠点は日本なのか外国なのか、旅行会社なのかNGOなのか。筆者を含め、多くの人が曖昧なままになっています。

深圳2船の全景を撮影するのは無理。船尾の方だけ入れました

この機会に急いで調べて、筆者なりに分かりやすく整理してみました。

  • イタリアで建造された客船「パシフィック ワールド号」を41年前に組織された日本の国際NGO・PEACE BOATがチャーターして運営する「船旅で世界の人と人をつなぐ」活動です。
  • 船のサイズは、7万7400トン、全長261m。15階建てビルを乗せたような巨船で、2か所で数台のエレベーターを動かし、4層吹き抜けのアトリウム空間は、船内とは思えない豪華な空間です。
  • 一流ホテル並みの設備を備えており、教養、娯楽、趣味、スポーツ、音楽など広範囲なプログラムが常時、走っていて乗船客を退屈にさせません。PEACE BOATスタッフが、すべてサポートしていますが、乗船客が自主的に企画したイベントも目立ちます。
  • 船舶を利用して世界中を航海し、異なる文化や国々の人々との交流を促進します。参加者は、船上でのワークショップやディスカッション、文化交流イベントなどを通じて、相互理解や国際協力の重要性を学びます。
  • 1983年の出航から今回の117回航海まで延べ8万人の人々が世界中の250を超える港に停泊して大自然や世界遺産を見学、それぞれの国や地域の人々と交流してきました。世界の平和、人権、地域紛争、核や環境問題と真摯に向き合うリベラルな姿勢が強く、国連の特別協議資格を持っています。
  • 今回のVoyage117の乗船状況は、大まかにまとめると次の通りです。

20か国・地域以上にまたがる乗客1300人とスタッフ600人が乗船

乗客の男女比は7対3で女性優位。

乗客の年齢別構成は以下の通りです。

30歳以下  18%

31-60歳    10%

61-79歳  63%

80歳以上  9% 

最高齢は95歳で2人

平均年齢は、筆者の想像では70歳代前半かなと思います。

自由な雰囲気で健康歓談する

乗客同士は、非常にフランクな付き合いです。レストランに行けば、案内人が相席させて客同士のコミュニケーションが自然にとれるように配慮しています。名刺交換などの挨拶もなく、自己紹介を印刷した名刺や紙を出す人もいますが、それはまれです。筆者も知人のアドバイスで自己紹介の名刺をPCで作成して持っていますが、それを出す機会はほとんどありません。

口火となる話題は、出てくる料理や食べ物から始まり、決まって健康の話、病気の話へと発展します。年配者が多いので自然そういう流れになりますが、面白いのは健康を自慢する人はおらず、大体はいかに健康維持が難しいかを語って聞かせ、相ずちをうち、距離感がなくなり、それから話題は世の中の出来事へと発散していきます。

自分の経歴や体験を話す人はまれですが、話せば決まって興味があり引き込まれていく内容なので、座は一気にまとまり散会するときには10年の知己になるという雰囲気です。

社会的地位や学歴や職歴などとは無関係で、お互いにフラットな立場で自由に発言できる不思議な空間を作っています。

深圳3さらば深圳

IMG_5878船の最後尾から深圳に別れを告げました

ここまで書いたところで船は深圳を離れて一路、シンガポールへと向かいました。


PEACE BOATに乗船し世界一周の旅に出る その2

一直線で200m超の船室廊下

左右の舷側に並んだ船室は、外から見るといかにも豪華客船という風景ですが、中に入って驚いたのは、船室が左右に並んだ一直線廊下の長さでした。全長330メートルの巨大な客船ですから、真ん中に背骨のように伸びた一直線の廊下が200m以上あっても驚くことはありませんが、その廊下を見たとたん、向こうの端が小さく点になっており、人の姿も見分けがつきませんでした。

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左右の壁はすべて、ホテルと同じような船室になっており、そこに個室から、2人、3人、4人部屋と並んでいます。筆者は、1人部屋の並みですが、入ったところ15平米はありそうで、大きなダブルベッドを備えた広い部屋であり、大きな窓も気に入りました。

乗船客の出会いの会があり参加してみました。席の近隣同士がたちまち仲良しグル-プを形成し、話題はどんな部屋で何人で参加しているかということになり、誰言うともなくそれぞれの部屋を見せてもらう「部屋見学会」となりました。

相部屋の楽しさと難しさ

中部地方から参加した女性は、窓なしの2人部屋でした。2つのベッドが並んだ、ま、行ってみれば大きめのツインルームの感じであり、中央にバカでかい鏡があります。その時点では、相部屋の方がまだ部屋に来ていないとのことでしたが、どこの誰が来るかは未定とのこと。

しかし事務局は、年齢がほぼ同じであり、双方の希望なども勘案して相部屋の人を選ぶそうですが、相性がいいかどうかは実際に生活してみないと分からないらしい。相性が悪いと最悪の旅になるそうで、事務局が最も腐心するメンバー選びということでした。

バルコニーは海と隣接する贅沢でした

2人部屋でもバルコニー付きの部屋に案内されると、広さは変わらないのにバルコニーに出て見ると途方もなく開放的な気分になりました。海と直接ふれ合うことは素晴らしい環境であることを知りました。

3人部屋、4人部屋も見せてもらいましたが、間取りと天井の高さ、他人との間隔などに設計者の工夫が見て取れて、それなりに生活環境としては満足できる間取りになっていました。


Mariko

IMG_5860バルコニーに出てみると海風の快適さに驚きました

3人以上の相部屋は、若い人たちが比較的多いと聞きましたが、確かに学生たちの合宿気分を思い出させるグループも見えており、外国人も混じった華やいだ雰囲気でした。若者たちと雑談を交わしましたが、ショックを受けたのは「日本はもうダメです。みんなそう思っています」という言葉です。3人いた女性がみな、そう言ってうなずきます。

そうなったのは、私たち壮年以上の日本人の責任でもあるのです。3人のうち1人は学生、2人はボランティア活動をしているとのこと。再会を約束して別れました。

交流会で東京人が少ないのはなぜなのか

乗船客の住所別・地域別で交流する会にも出て見ました。都道府県や地域別に分けての交流ですが、東京からきた人の出席者が少ないことに違和感がありました。全員の参加ではないので、大勢参加しているはずの東京からの人は、こうした交流会は出ないか苦手なのか。大都会人の「疎遠で無関心・無関係」に徹する状況がここにも出ているようにも思いました。

もう一つ意外だったのは、お一人参加者が多いことでした。正式な発表はないのですが、7,8割が単独で参加しているようであり、ご夫婦とおぼしきペアは意外と少ない感じでした。


PEACE BOATに乗船し世界一周の旅に出る その1

Thumbnail ビルような巨船に乗船しました

 乗客2000人、平均年齢70歳代半ばの客船「パシフィック ワールド号」(PEACE BOAT117)に乗船して、105日間の世界一周の旅に出ました。

4月13日、土曜日、横浜港の大桟橋を出港したPEACE BOAT117(以下、PB117と表記)は、神戸港で乗船客を乗せ最初の寄港地、中国の深圳に向かいます。

航路は上の地図で見るように、アフリカ大陸の喜望峰をぐるりと回って北上し、イギリス、フランス沿岸からスカンジナ半島さらに、レイキャビクからニューヨークへ向かいます。北米大陸を南下してパナマ運河を経て太平洋へ。メキシコ沖から北上してカナダ、アラスカを経てアリューシャン列島沿いに日本へ向かい、7月27日に横浜港に帰ってきます。

船は7万9千トンと言いますから戦艦大和と同等以上の排水量です。15階建てのバカでかいホテルが海上を移動していく感じです。左右の舷に分かれて配置された船室は、ホテルと同じようにずらりと窓際に並んでいます。その廊下は一直線に200メートル以上のまっすぐで細い廊下ですから、一番向こうは人間が豆粒ほどのサイズでしか見えません。

船室、つまり乗船客の部屋の扉に、小さな白板で外出先(といっての船内のどこかですが)を書いたメモ用紙が張り出されていたり、簡単な連絡メモなどを張り出している部屋もあります。乗船客とクルーの身分はすべて把握され、しかも全員が「身柄拘束」されています。その上外からは誰も侵入できない船内ですから、セキュリティは万全というわけで、きわめてオープンムードになっています。

一晩かけて14日の日曜日に神戸港に接岸しました。ここで船客を拾って日本を離れ、いよいよ世界一周の旅に出ます。接岸すると手が届くような距離の向こう側に、見送りする人々が多数いるのでびっくりしました。お顔もはっきりと分かる距離ですから、お互いに目線が合うと手を振り合って出会いと出港の挨拶をします。

賑やかな出港のイベントが終わると間もなく、ボワーッと腹に響くような汽笛が何度か鳴り、巨船は静かに岸壁を離れていきます。すると双方が手を大きく振って、しばしの別れを惜しみます。筆者も知らない人々に向かって手を振り、それにこたえて岸壁の人たちも手を振ってきました。徐々に距離が開いていくだけで、例えようもない心細い感情が湧き上がってきます。

岸壁での別れは、誰もが感傷的になるのかもしれません。旅立つ人としばしの別れというのに、岸壁で涙を拭いている光景も見えます。そのとき筆者は、戦争に駆り出されていった人々の別れの有様を思いおこし、胸に突き上げてくるものがありました。死地への旅を送った人々と戦場に向かっていった人たちのことです。

岸壁を船が徐々に離れていったとき、兵隊さんとその恋人や肉親たちはどれほど別れを惜しんだことか。その別れを包むように、いま聞こえてくるむせび泣くような汽笛が流れていったのです。

複雑な感傷に浸りながら、神戸港を魅惑的に囲む美しい夜景を飽かずに眺めました。こうして筆者の旅路は始まりました。