「GO TOトラベルキャンペーン」を続行するかどうか、限定的にするのか、はたまたやめるのかどうか。小手先の施策検討をめぐって連日、メディアが官邸の動きを報道している。一方でメディアは、国民にインタビューして政府施策の賛否の意見を言わせるだけであり、国民は何の対応策もできないまま、毎日感染症者の数を見て暗澹たる気持ちになるだけである。
ドイツのメルケル首相が、この難局を越えようと絞り出す声で国民を説得する演説をネットで見て、感心しているだけの日本人は情けない国民である。隣国・地域の台湾、韓国、中国はどうなっているのか。感染者数を見ると中国9万弱、韓国4万強、台湾千人以下に対し日本は18万人弱。いつの間にか日本だけが突出している。信じられないことだが、日本は中国の2倍、韓国の4倍強の感染者数になっている。
日本の感染防御態勢が、隣国の対応とは違うことがこれでわかる。でなければ日本人はこの地域では、突出して新型コロナウイルス感染に弱い民族であることになる。感染対応策と経済活動との調整というのが政府の言い分だが、毎日増え続ける重症患者数が医療崩壊につながった場合、どうするのか。
「医療崩壊につながった場合は、明確に責任の所在を明らかにする」と政府が明言し、確信をもって政策を進めることを国民に求めるなら、それも政治的決断であるが、そう言うこともしないまま、ただ、国民の自粛期待と一方で経済活動の名のもとに中途半端な政策を遂行するのは、単に決断と実行ができない政府ではないのか。
小手先で中途半端な施策をしないで、決然と政策実行の内容を首相が国民に示し、理解と忍従を求めなければ、単に権力に唯々諾々と従うしかない戦前の日本人と変わらないことになる。
歴史的事実から検証すると、決断も実行もできない政府は無能である。日本はいま、その瀬戸際に立たされている。
科学リテラシー欠如の日本の首脳
2020/12/10
「はやぶさ2」が3億キロ彼方の小惑星を探査して地球の上空に戻り、カプセルを切り離して再び新たな任務を帯びて宇宙の彼方へと飛行していった。人類と宇宙を結び付けたロマンをかき立てる画期的な成果である。
極めて難しい無人宇宙探査を精密な機器と技術開発と有能な人材によって成し遂げたものである。世界トップの技術開発が先導役になって、日本のあらゆる技術力の底上げにつながっていく。
この画期的なはやぶさ2の成功を菅首相も井上信治・科学技術政策担当大臣も国民に向けてメッセージを発信した気配がない。何かコメントを出しているのかもしれないが、メディアの前に出てきて即席の記者会見くらいするべきだが、そうしたことはやらない。世界に誇れるほどの成果があってもだんまりを決め込むのは、科学リテラシーが貧困だからである。
歴代首相は、ノーベル賞受賞者が出ると、突然、受賞者を官邸に呼んで祝意を表し、国民の前でその成果を誇るようなコメントを発している。メディアを意識したバカげたパフォーマンスである。
20年前と変わらぬ貧困リテラシー
1998年6月、岐阜県神岡鉱山にある素粒子観測装置の「スーパーカミオカンデ」でニュートリノに質量がある可能性を示す有力な証拠が観測された。大発見である。日本の新聞は大きく報道しアメリカの「ニューヨークタイムズ」、「ワシントンポスト」も一面で大扱いの報道をした。当時のクリントン大統領がただちにこの成果をたたえるコメントを発したが、日本の首相も科学技術会議も学術会議も直ちにコメントを発しなかった。
この成果は、2002年に小柴昌俊博士が「素粒子ニュートリノの観測による新しい天文学の開拓」の成果でノーベル物理学賞を受賞した。ときの首相は、直ちに官邸に受賞者を呼んでいる。このとき、田中耕一さんも化学賞を受賞して話題を呼んだ。
誰も知らない科学政策の司令塔
日本の科学研究のあらゆる指標が先進国の中で唯一、この10年間停滞している。科学論文もその注目度(1%引例指標)も予算も知的財産の各種指標も明確な停滞を示している。科学は未来に投資するものだが、この10年間積極的な投資を怠っている。
その有様が、新型コロナウイルス対応策にも明らかに表れている。科学の根拠に準じたものではなく、小手先の業界救済、経済主導の政策ではないかとの疑念を起こしている。首相官邸には、客観的な科学根拠を示して国民を説得し、政策を進めるエネルギーも度胸もない。人材もいない。
日本の科学政策の司令塔は、科学技術政策担当大臣だが、大半の国民は名前さえも知らない。来るべき21世紀は科学技術の時代であるとして、中央省庁再編後の2001年1月6日の第二次森改造内閣で科学技術担当大臣が新設され、笹川堯大臣から、現在の菅内閣の井上信治大臣までの20年間に、ちょうど30人の大臣を出している。20年間で30人の大臣である。しかも30人の大臣で二度務めた大臣はいない。
科学技術創造立国は、日本の国是である。都合のいいときだけ政府は、科学技術立国などと喧伝するが、その実像は、司令塔の存在感のなさと「名ばかり大臣」で、誰がなにをしているか国民に誇示することができない政府組織になっている。
安倍内閣以来、首相官邸の行政に対する人事権が増強され、行政組織は官邸に顔を向けた忖度が跋扈している。首相周辺には、科学の専門家はいない。科学行政など視野にはないのである。
はやぶさ2は、そうした国家の科学リテラシーの貧困をよそに、宇宙探査への飛行を続けていく。11年後の2031年7月に、また新たな小惑星に到達して私たちを興奮させるだろう。今年80歳を迎えた私は、その時多分、この世にはいないだろうが。
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2020/11/23
森戸佑幸さんが、11月20日午後4時、東京・五反田のNTT東日本関東病院で、急性骨髄性白血病のため亡くなりました。80歳でした。「新薬の治療を受け起死回生の回復をするんだ」と電話口でお元気に語っていた1か月後の訃報でありまことに残念です。
コロナ禍のご時世であるためお別れは、親族だけの密葬を執り行うということでした。
在りし日の森戸さん
(前列右端、左隣りは大村智先生、東京理科大学キャンパスで)
21世紀構想研究会では、2011年2月22日に開催した第85回21世紀構想研究会で「シニア・ベンチャー企業を立ち上げるーあくなき挑戦、魅力ある人生を求めて」のタイトルで講演を行い、生涯発明家・事業家の活動歴を語り、会員の皆さんに感銘を与えました。
森戸さんは1973年に光ファイバー、光デバイス製造業である株式会社モリテックスを創業して東証1部上場まで育てあげて退任、今度はユーヴィックス株式会社の創業者となり、光触媒などによる除菌・脱臭・消臭機器の開発・販売に意欲を燃やし多数の特許出願・取得をしてきました。
財団法人・日本発明振興会協会より発明振興功労賞を2013年までに計3回受賞、2015年には、東京都知事より発明大賞東京都知事賞を受賞し、発明家・事業家として最後まで社会貢献してきました。
また私財の中から総額12億535万円を東京理科大学に寄付し、大学はその寄金で神楽坂キャンパスに森戸記念館、野田キャンパスに森戸記念体育館を建設しました。
昨年の今ごろは、ほぼ一か月に渡ってヨーロッパ諸国の企業を回って技術開発と事業化への情報交換を行い、帰国直後に急性白血病で入院し、その後、入退院を繰り返しながら治療を続けていました。病床にあっても常に前向きで発明人生を語った稀有の事業家でした。謹んで逝去を悼みご通知いたします。
ぎっくり腰に襲われた-3
2020/10/02
ぎっくり腰という病名はないことを今回、初めて知った。ぎっくり腰とは、単に腰痛ということになる。原因も治療法も確立されていない。だからぎっくり腰になった人の体験談が、治療法の目安になる。自分で対応して治すよりない。
そのように感じた。もちろん、整形外科医、整体師、マッサージ師などぎっくり腰の改善に向き合ってきた専門家がいるが、患者のケースバイケースで対応していることが分かった。たとえばコルセットだが、筆者も供与されたが、使い方が不明だった。いつどのような状況で使用するのか。永久に使うのか途中でやめるのか、それすら伝授されなかった。要は分からないのである。体験者に聞いても人によって使い方が違っていた。
発症からの状況によって、対応が違うようだ。最初はアイシングして冷やす。しかし患部が落ち着いてきたら温める。常時、タオルを巻いて温めておくといいという意見もあったし、それで実際に治ったという人もいた。人それぞれが苦労して改善している。
さて筆者の場合は、痛み止めと抗炎症剤の点滴で半日後には改善して、痛みは大幅に和らぎ、そろそろだが歩けるようになった。二日目は、近所の整形外科クリニックへ行ったが、患部に痛み止めの注射をし、コルセットを出され、痛み止めの薬をもらった。
三日目には、痛みもほぼなくなり、普通に歩けるようになった。しかし、あの死ぬほど辛かった激痛がまた来るのではないかという恐怖心があり、歩く歩調もそろそろり・・・。四日目になって。左腰の幹部が若干、疼くように感じて慌てて痛み止めを服用して終日、横になっていた。
しかし特段、悪化する様子が見えず、その後は恐れながらも普通の歩き方に近づいてきた。気が付くと1日、1万歩も歩いていたので、これはハイペースと思ってその後は慎重にペースを落とした。
と言うわけで、激痛に襲われて一歩も歩けず救急車にまでお世話になったぎっくり腰だが、半月後ににはようやく、精神的にも余裕を取り戻し、平穏な日常生活に戻ってきた。ぎっくり腰騒動が、これで平穏になることを祈って、この報告はこれまでとしたい。
おわり
ぎっくり腰に襲われた-2
2020/09/22
聖路加病院救急部に搬送され、点滴で痛め止め、抗炎症剤を投与されて3時間ほど、医師がそろそろ歩けるかどうか、痛みが軽減したかどうかトイレまで歩いて行きなさいという。激痛の感覚がまだ残っているので、恐る恐るゆっくりと歩き始めると、我ながら思いのほか順調な足の運びである。
様子を見ていた医師や看護師が「よかったね」と言って、「それでは退院しましょう」という。これ以上、救急部に置かないという意思表示が見える。整形外科へ数日でも入院したいという希望も、空きベッドがないからと断られ、1週間分の痛め止め、抗炎症剤のお薬と患部に貼る膏薬を処方されて病院を出された。
フェイスブックでぎっくり腰の体験者にアドバイスを求めると掲出をしたので、たくさんの方からコメントが入っていた。有難いことである。ネット情報も検索しながらぎっくり腰とはどんなものか筆者なりに理解した結果は次のようなものだった。
ぎっくり腰とは正式の病名ではなく、通称の病名らしい。正式には単に腰痛である。その原因はいろいろ解説されているが、確立された原因はないようだ。従って治療法も確立されていない。腰の繊維質の筋肉が損傷をおこして神経に触って激痛につながっているらしい。痛め止めは姑息的手段の対症療法であり、抗炎症剤で損傷している部分の炎症を抑える。
ということは痛みは軽減したが、損傷した筋肉部分がどうなっているのか不明である。これは整形外科で究明してもらうよりない。退院した翌日の17日(木)、近くの整形外科クリニックに行ってみた。医師は、簡単な問診をしただけで患部に痛み止めの注射をしましょうという。それで打ってもらったが、そのころは痛みもほぼなくなっていたので効果は分からない。コルセットが役立つからとこれを出され、巻いてみたら非常に安定感があって具合がいい。それで帰された。
帰宅して今度は体験者に片っ端から電話でお礼と再発防止の対処法を聞いた。これがまた確立されたものがないのでいろいろノウハウがあって、聞いた話はいずれもためにはなるが、さてどうしたものか思案にくれてしまった。
コルセットをすると安定感があるが、癖になると筋肉が衰えるのでほどほどというアドバイスがあった。みなさん善意でのアドバイスなので、承ってお礼を言って、さてどうしたものかとなる。それでも、この4連休は、ごろごろしながらときたま外出して気を晴らし、無事に過ごすことができた。
これからぎっくり腰との付き合いが始まることになる。あの激痛は二度と体験したくないので、何とか予防方法を会得して無事に過ごしたい。社交ダンスのレッスンに行っており、年末には発表会があってワルツを先生と踊る予定になっている。しかしこのままでは、レッスンもままならず、果たして発表会に出場できるかどうか。
ダンスの先生は、皆さん、ときたま整体師のお世話になって体の手入れをしているという。筋肉の膠着や衰えをカバーするケアをしているという話にびっくりした。プロはやはり、それなりの手入れをしているのである。
筆者と言えば姿勢もだらしなく、パソコンに長時間しがみついている生活がぎっくり腰を呼んだことは間違いない。生活スタイルを改善する絶好の機会となったようだ。
つづく
ぎっくり腰に襲われた-1
2020/09/21
生まれて初めてぎっくり腰に襲われた。前兆があった。それは9月15日(火)である。
午後3時すぎ、黒川清先生と文藝春秋の編集者と懇談お茶をして、箱崎の「ロイヤルパークホテル」から20分ほど歩いて帰宅した。途中で整形外科のクリニックで、左手小指の付け根の変化を矯正する簡単なリハビリを20分ほど受けた。
その日は、何となく左腰に違和感があった。寝違いたのかなと思っていた。夕食後、PCに向かっていても左腰部分が少々痛い。横になると痛みがない。それで早めにベッドに入った。
16日(水)未明、トイレに起きたとき、かなり痛みが増していることに異変を認識した。トイレを済ましてベッドに腰かけたとたん、激痛が来た。そのまま静かにひっくり返ってしばらく痛みが鎮まるのを待った。
朝になってトイレに行こうとしたが痛くて歩けない。それでも一寸刻みでトイレに辿り着き終わって戻るのにまた難儀。これはただ事ではない。これが世にいうぎっくり腰だろうかとぼんやり考えて、すぐに知人の医師に連絡した。内科が専門の医師だが、多分、ぎっくり腰だろうという。動けないほど痛いなら救急車で運ばれるのがいい。遠慮しないですぐ救急車を呼べという。
身支度を必死に整えて1時間後に救急車を呼んだ。どこに搬送されるか未知であるので、すぐに近くの聖路加病院に搬送してほしいと希望した。救急隊員が電話でなにやら連絡を取っていたが、聖路加へ行くということになった。
救急隊員は、来た時すぐに体温を測定し、血中酸素濃度を測定する器具をセットした。体温が37度3分と聞いてびっくりした。前日、夕方に整形外科の入り口で測定されたときは、36度5分だった。血中酸素濃度は聞いている余裕がなかった。
搬送されるとき、ストレッチャーに移動するが、当然、体を動かされる。そのときの激痛は隊員も驚くほどの声をあげた。聖路加病院に入ったときにもベッドに移動される際にものすごい激痛が走って悲鳴を上げた。体温は、37度8分に上がっていた。
狭い個室に入れられると、若い医師とベテラン看護師が次々と入れ替わり入ってきて、点滴装着の準備と各種測定機器類をセットし始める。じっとベッドに横たわっている分には痛みはないが、ちょっとでも体を動かすと、ドドーンという感じで右腰部分に激痛が走る。
本当にぎっくり腰なんだろうか。不安がよぎるが診断前であり、医師と看護師にゆだねて黙って眼をつぶっていた。
点滴が始まった。医師と看護師の会話を聞いていると痛み止めと生理的食塩水の注入らしい。尿を取りたいがトイレに行けるかと聞かれたので、無理だと回答。初めて尿瓶を使って尿を採取された。
数人の医師が入ってきて腰のあたりの触診を始めた。激痛が走るあたりをさすったり軽くたたいたりするが、不思議と痛みはこない。触診は、何度も同じような部分を念入りにしている。後で医師に聞いたところ「尿路結石の激痛の疑いも消えていない」ということだった。結果的に、尿路結石はシロだった。
次にCTスキャンを撮影すると言われ、ベッドを転がして測定室へと移動を始めた。ここでまた激痛に見舞われた。装置のベッドに移動するために数人の看護師が私の体を動かすのだが、そのときにまた左腰に激痛が走った。思わず声を出して、看護師の腕にしがみついた。驚いた看護師は、ごめんと謝っているがどうしようもない。
移動しないことには撮影もできないので、看護師の一人が、さあと促して一気に移動した。死ぬほど痛かった。撮影が終わってまた、体をストレッチャーに移動する。また激痛かと思ったが、まてよ、左腰を上にして横になった姿勢で移動すると痛みが軽減されるかもしれない。そう申し出ると看護師がそろそろと右を下にした横の姿勢にした。そうしておいてゆっくりと移動すると何事もなく完了した。
看護師の一人が「大成功!」と言ったので、みんなで笑ってしまった。痛みとは激痛のときには悲鳴を上げるが、ちょっとした工夫で痛みがなければ笑っていられる。こうして撮影した骨周辺の診断でも異常はなかった。
医師たちはぎっくり腰という言葉を使わないことに気が付いた。腰痛としか言わない。ぎっくり腰は通称なのだろう。治療や措置は何もない。こうして2時間くらい、救急外来の小さな部屋で横たわっていた。
ときたま若い医師が部屋に来て調子を聞くが、変化はない。会話の中でその医師の専門を聞いたら「救急医療です」という。なるほどそうだ。ぎっくり腰は整形外科ですよねと言ったら「そちらは専門外なのでまったく分かりません」と正直だ。整形外科に2,3日入院できませんかと聞いたら、空きベッドがないからそろそろ退院してもらうという。
問題は歩けるかどうか。痛みは軽減されてきたことは分かる。ベッドから起き上がって、一人でトイレに行ってくださいという。おっかなびっくり、病院内の通路を歩き始めた。
つづく
見え見えだった安倍退陣表明
2020/08/28
安倍首相が8月28日、退陣表明した。筆者の予想通りであり、8月25日以降はいつでもあり得ると予想していた。
理由は、総理大臣として連続在任日数の最長記録を8月24日に越えた。これで安倍総理は、歴代総理の在任日数、つまり通算・連続ともに史上最多日数を越えてトップになった。この記録を塗りかえるためにこの一か月、安倍総理は必死で切り抜けを考えていただろう。8月に入ってすぐ、これ以上の治療は困難であることを医師から言い渡されていたことが諸般の情報で伝えられていた。まさに命をかけて記録更新を目指したのではないか。
オリンピックの記録ではない。一国の宰相として国民のために指揮をするトップの座の在任日数を競うことは意味はない。しかしそこに意味を見出したところに安倍総理の限界があった。在任中のかくかくたる実績を誇示して退陣することはできない。ならばせめて、在任日数で歴史に名を残そうとしたに違いない。
安倍総理の退陣と彼の叔父にあたる佐藤栄作総理の退陣時とは、よく似ている点がある。佐藤総理は、沖縄返還を成し遂げて退陣するという「時期目標」があった。それだけに沖縄施政権返還を実現したと同時に退陣することは、本人はもとより政界も国民の間でも分かり切っていた。1972年5月15日の施政権返還日をもって、佐藤政権は終焉を迎えた。
前年の7月に佐藤政権の最後の内閣改造をおこなったが、それ以降のほぼ1年間の政界の話題は、ポスト佐藤の話題であり、メディアも露骨にそれを話題にした。国民は佐藤政権を飽いていた。理由は、秘密主義で後手後手政策であり官僚政治と言われた先送り政策に飽き飽きしていた。その時代、日本は高度経済成長期にあり、黙っていても国民はそれなりに生きがいを感じている時代でもあった。それに乗っただけの政権だった。
政界もメディアも国民も、関心の中心はポスト佐藤にあった。佐藤の実績として残っている沖縄返還は、それから30年後にアメリカで公開された公文書によって、歴史上まれにみる密約と国民への欺瞞で固めた返還であり、国民も国会も全く知らないことを佐藤首相、福田外相ら一握りの政治家によって行われていた。その理由は、日米交渉を国会で明らかにし、国民の理解を取り付けることを避けて、単に任期中に沖縄返還を実現して功績として残すためだった。ことごとく密約で切り抜けたものだった。福田は佐藤延命に貢献し、その後の総理禅譲を信じていたから必死に佐藤を守った。
密約の相手は、アメリカ政府だが、アメリカにとって密約の内容のどれもこれも自国に有利になるものであり、佐藤総理の功名心に付け込んだ法外な条件で返還に応じた。アメリカは、沖縄返還で「日本に1ドルたりとも支払わない」との基本方針を貫き、佐藤総理が内外で見栄を切っていた「沖縄は、核抜き本土並みで、タダで還ってくる」という言質に付け込んで取り付けた、有利な条件の密約だった。「タダで還ってくる」という宣言が、真っ赤な嘘であったことがアメリカの公開公文書が余すところなく暴いてしまった。
安倍総理は、何を実績として残したのか。にわかには思い浮かばないが、おかしな業績はすぐに、いくつも思い浮かんでくる。モリカケ事件、さくらを見る会の不祥事、文書隠蔽と大量廃棄、憲法の実質骨抜き、コロナ禍対応など最長在任政権の負の遺産は黒々と残された。これについてはいずれ評価の対象となり、明らかになっていくだろう。
佐藤総理の最大の貢献と自負していた「核抜き沖縄返還」は、歴史に残る虚言であり、ノーベル平和賞も、ノーベル賞3大過ちの一つとして世界を驚かせた。筆者は「3大誤りの一つ」をノーベル財団のスティーグ・ラメル専務理事から聞いてびっくりした。その場に京都大学の矢野暢教授もおり、矢野教授もそれを書き残している。佐藤・安倍政権の評価については、さらに検証することにしたい。
2020・8・28
産業構造の新たな構築に後れを取る日本
2020/08/07
コロナ禍で世界の経済状況は停滞化へ向かっている。今年、上半期の業績報告は、大半の企業が昨年同期に比べて低く出ている。それなのに、アメリカの株式市況は、活況を呈している。特にハイテク企業が上場しているNASDAQ(ナスダック)は、史上最高値を更新している。東京ストックを見ているととても信じられない活況ぶりだ。
2020年8月1日付け日本経済新聞の報道によると、2020年4月ー6月期の世界の企業決算によると、企業の3社に1社が赤字になっているという。都市封鎖の影響をもろに受けた自動車、小売・サービスなどは、業界全体が赤字となった。この中でトヨタだけは、1588億円の純利益をはじき出した。中国市場の販売が伸びたことと原価を下げたことがその理由と言う(2020年8月7日付け日経新聞特報)。
原価を下げたとは驚いたが、トヨタ幹部は、「まだまだ無駄な工程を減らせる」と語り、豊田章男社長は「リーマン・ショック時より200万台以上、損益分岐点を下げることができた」と語っている。驚くべきコメントだ。
製造業の原価を下げるための努力を日本では「乾いたぞうきんを絞るような努力」と表現し、もうこれ以上無理だと語っていた。しかしそれは、その時点の技術レベルで語っているのであり、技術革新があれば当然、乾いたぞうきんではなくなり、絞れば余分な水が出てくるはずだ。
日本では伝統的に「もの作り」という言葉を大事にしている。太古の時代から農業で食ってきた日本民族はものを作り、作物を栽培することに注力し、その作業の中で創意工夫をしていった。作物を栽培することは、もの作りに通じる創意工夫の作業である。狩猟民族の欧米では農耕を下賤な民の作業としてきたが、日本は農作業こそ尊い労働であると位置づけてきた。世界中の王族・皇族の中で田植えをしたり養蚕をして国民の前で披露するのは日本の天皇・皇后だけである。労働の尊さと農業の重要性を象徴的に示されているのだろう。
もの作りは、時代と共に中身が変わってきた。コロナ禍にあっても情報通信、電子機器類の企業は大幅に収益を伸ばしている。コロナ禍で伸びた企業と下降した企業と業種がくっきりと分かれた。これに拍車をかけたのがコロナ禍による生活と勤務状況の急激な変化である。これは社会構造の変革に発展し、産業構造の変革へとつながった。
GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)に代表されるIT関連企業は、空前の活況を呈している。グーグルは検索と広告、フェイスブックは広告業で世の中の価値観を変えたが、この2社が伸びたのは、広告業で儲けたカネを次の世代の産業に投資し、その成果が出始めていることだ。果敢な未来への挑戦である。
新興勢力だけではない。マイクロソフトは、クラウド時代のITシステムで市場に参入し、これまで確保してきたMSのソフトを武器に新たな市場を形成していった。アマゾンも宅配業で儲けた利益をクラウドIT産業に参入して新たな企業構造に作り替えてきた。
日本にはそのような企業も産業も見当たらない。あるのだろうが目立たない。いつまでたっても日本の大企業の名前は従来とさして代わり映えしない。それでもいいが、企業は中身の勝負である。日本の企業であっても、世界の大競争の中でもまれているからまだいいが、政府・行政システムの時代遅れは、コロナ禍によって暴かれてしまった。
いまどき電話・ファクス主体の情報のやり取りが指摘されたり、巨額の税金を投与してマスクを配布したピンボケ施策は世界中の笑いものになっている。日本の組織は新しい改変に臆病である。前例を尊重することで結果的に無難な選択になっている。かつての時代はそれでもよかった。
いま情報は瞬時に地球を駆け巡り、工業生産の設計はすべて電子情報となった。世界を席巻した日本の金型技術は、いま機械と情報に置き換わってしまった。名人芸にまで昇華した金型職人ワザは必要なくなり、コンピュータと機械に置き換わった。それもたった20年の間に世界は変わった。トップランナーは中国だった。日本はとうに中国に抜かれていったのである。
2020年8月7日
作曲家・古関裕而は天才だったのではないか
2020/07/25
いま、NHKの朝の連ドラで古関裕而の生涯をつづっている。テレビは、余り見ない方だが、この連ドラは毎日楽しみにしている。かねてから、古関裕而は天才ではないかと感じていたからである。がしかしその生まれ育ってからの生涯はほとんど知らなかった。
筆者の父親が旧制福島商業学校出身だったが、その同窓生の古関裕而のことをときたま話をしていたことが記憶にある。今回のNHK連ドラをきっかっけに古関の生涯をネットなどで調べてみた。そして彼の残した多くの楽曲をネットで聴くことができた。
予想はしていたが、自分がよく知っていた楽曲の多くが古関の作曲になるものだった。特に筆者が印象に残っている、あの甲子園の「栄冠は君に輝」、「東京オリンピックマーチ」、「長崎の鐘」、「とんがり帽子」そして軍歌の「若鷲の歌」、「露営の歌」など次々と流れてきた。
戦後の間もなくの一時期、ラジオから流れてきていた歌謡曲、童謡、NHK楽曲の多くが古関の作曲であり、どれもこれも筆者の往時の光景を彷彿と引き出してくれた。NHKのラジオから流れていた昼のいこい、スポーツ実況予告の曲などもみな古関の作曲だったことを知った。
前回、1964年東京オリンピックのとき、筆者は閉会式を見た幸運を引き当てた。そのとき会場を席巻したオリンピックマーチは、忘れることができない感情の高揚をいまなお記憶の中に残している。あれも古関の作曲だった。
古関は、クラシック作曲から入り、歌謡曲へと転進したということも初めて知った。さらに作曲家は普通、ピアノなど楽器を駆使しなければ作曲できない。古関は、楽器を使わず、自分のイメージの中で作曲し、それを楽譜として表現していったという。数々の曲を聴いていて、これを天才と言わずして古関を語ることをできないと思った。
人は生まれながらにして特異な才能を一つは持っているのではないかと言うのが筆者の思いである。なぜなら、世の中には優れた人が多すぎる。自分の80年の生涯を振り返ってみると、出会った人は優れた人ばかりであった。同時に新聞記者という職業柄、そのような優れた人に出会う機会が多かったことに感謝せざるを得ない。
古関裕而に出会って伝記を書く機会があったら、どうしただろうかという幻想を楽しみながら連ドラを見る毎日である。
2020・07・25
日常異変 コロナの私
2020/07/21
同じタイトルで、特定非営利活動法人21世紀構想研究会HPで会員のコラムをリレーで連載している。そこへ本来なら書くべきことかも知れないが。私の場合はこちらのスペースを埋めることにした。
日常的に、3本のコラム執筆、21世紀構想研究会、全国学校給食甲子園の雑多な仕事、それにいま、大げさに言うと生涯最後の、いや唯一の大作の原稿を書いている。これが下手すると800枚になるので、削り込みながらの執筆で時間がかかる。テーマは、沖縄返還である。
1972年6月、アメリカの施政権から日本に帰った沖縄は、佐藤政権の最後の大仕事だった。佐藤栄作は、この返還を見届けて退陣し、直後の自民党総裁選で田中角栄が福田赳夫を破って新総裁に選出され、列島改造論へと突き進む。佐藤政権は、福田と田中という2人の実力者の運営で主流派をまとめ上げ、安定した党運営をしていたが、内実は福田・田中共に沖縄返還をめぐってそれぞれの思惑があり、それが結果的に佐藤政権を支えたものだった。
さてコロナ禍で何がどう変わったか。原稿執筆が進んだかというとそうでもない。資料類を読みこなすだけでも精いっぱいであり、飽きると近隣の喫茶店へ行って気分を変えて資料類に眼を通す。コロナの影響で喫茶店に来る人も限られており、スカスカの空間でそれなりの快適さもある。
これまで喫茶店でものを書いたり文献類を読むという習慣はなかった。それがコロナ禍でわざわざ外出してそういう行動に走ることは何だろうかと考えてみた。たいした理由はないが、どうやら自由に生活しているときは、わざわざ仕事を持って喫茶店に行くという発想がわかなかった。ところが行動を制限されると、家にいることが何となく苦痛になってきた。
外出しても行くところがない。行きつけの銀座の寿司屋へ行ったら、カウンターに距離を取って座らされ、いつもなら満席の部屋がパラパラと言う感じである。注文して握ってもらってもすこぶる意気が上がらない。寿司職人に聞いてみたら同じような感想だった。握る方も客がまばらでは意気が上がらない。
それで仕方なく喫茶店で時間をつぶすのだが、どうせなら一仕事いう発想が出てくるのではないか。ならば、家にいてやればいいのにそれが飽きてしまう。これは心理的な作用ではないかと思う。人は束縛されると反発する作用が働く。反抗期も同じ理屈ではないか。
喫茶店で書く原稿は、集中力があるのか出来は悪くない。短時間で効率も上がる。日常異変が思わぬ発展につながったということを発見できたというのはちと大げさではあるが、生きて呼吸をしていた証拠にはなる。
2020・7・21