産業構造の新たな構築に後れを取る日本
ぎっくり腰に襲われた-1

見え見えだった安倍退陣表明

 安倍首相が8月28日、退陣表明した。筆者の予想通りであり、8月25日以降はいつでもあり得ると予想していた。

 理由は、総理大臣として連続在任日数の最長記録を8月24日に越えた。これで安倍総理は、歴代総理の在任日数、つまり通算・連続ともに史上最多日数を越えてトップになった。この記録を塗りかえるためにこの一か月、安倍総理は必死で切り抜けを考えていただろう。8月に入ってすぐ、これ以上の治療は困難であることを医師から言い渡されていたことが諸般の情報で伝えられていた。まさに命をかけて記録更新を目指したのではないか。

 オリンピックの記録ではない。一国の宰相として国民のために指揮をするトップの座の在任日数を競うことは意味はない。しかしそこに意味を見出したところに安倍総理の限界があった。在任中のかくかくたる実績を誇示して退陣することはできない。ならばせめて、在任日数で歴史に名を残そうとしたに違いない。

 安倍総理の退陣と彼の叔父にあたる佐藤栄作総理の退陣時とは、よく似ている点がある。佐藤総理は、沖縄返還を成し遂げて退陣するという「時期目標」があった。それだけに沖縄施政権返還を実現したと同時に退陣することは、本人はもとより政界も国民の間でも分かり切っていた。1972年5月15日の施政権返還日をもって、佐藤政権は終焉を迎えた。

 前年の7月に佐藤政権の最後の内閣改造をおこなったが、それ以降のほぼ1年間の政界の話題は、ポスト佐藤の話題であり、メディアも露骨にそれを話題にした。国民は佐藤政権を飽いていた。理由は、秘密主義で後手後手政策であり官僚政治と言われた先送り政策に飽き飽きしていた。その時代、日本は高度経済成長期にあり、黙っていても国民はそれなりに生きがいを感じている時代でもあった。それに乗っただけの政権だった。

 政界もメディアも国民も、関心の中心はポスト佐藤にあった。佐藤の実績として残っている沖縄返還は、それから30年後にアメリカで公開された公文書によって、歴史上まれにみる密約と国民への欺瞞で固めた返還であり、国民も国会も全く知らないことを佐藤首相、福田外相ら一握りの政治家によって行われていた。その理由は、日米交渉を国会で明らかにし、国民の理解を取り付けることを避けて、単に任期中に沖縄返還を実現して功績として残すためだった。ことごとく密約で切り抜けたものだった。福田は佐藤延命に貢献し、その後の総理禅譲を信じていたから必死に佐藤を守った。

 密約の相手は、アメリカ政府だが、アメリカにとって密約の内容のどれもこれも自国に有利になるものであり、佐藤総理の功名心に付け込んだ法外な条件で返還に応じた。アメリカは、沖縄返還で「日本に1ドルたりとも支払わない」との基本方針を貫き、佐藤総理が内外で見栄を切っていた「沖縄は、核抜き本土並みで、タダで還ってくる」という言質に付け込んで取り付けた、有利な条件の密約だった。「タダで還ってくる」という宣言が、真っ赤な嘘であったことがアメリカの公開公文書が余すところなく暴いてしまった。

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 安倍総理は、何を実績として残したのか。にわかには思い浮かばないが、おかしな業績はすぐに、いくつも思い浮かんでくる。モリカケ事件、さくらを見る会の不祥事、文書隠蔽と大量廃棄、憲法の実質骨抜き、コロナ禍対応など最長在任政権の負の遺産は黒々と残された。これについてはいずれ評価の対象となり、明らかになっていくだろう。

 佐藤総理の最大の貢献と自負していた「核抜き沖縄返還」は、歴史に残る虚言であり、ノーベル平和賞も、ノーベル賞3大過ちの一つとして世界を驚かせた。筆者は「3大誤りの一つ」をノーベル財団のスティーグ・ラメル専務理事から聞いてびっくりした。その場に京都大学の矢野暢教授もおり、矢野教授もそれを書き残している。佐藤・安倍政権の評価については、さらに検証することにしたい。

2020・8・28

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