作曲家・古関裕而は天才だったのではないか
2020/07/25
いま、NHKの朝の連ドラで古関裕而の生涯をつづっている。テレビは、余り見ない方だが、この連ドラは毎日楽しみにしている。かねてから、古関裕而は天才ではないかと感じていたからである。がしかしその生まれ育ってからの生涯はほとんど知らなかった。
筆者の父親が旧制福島商業学校出身だったが、その同窓生の古関裕而のことをときたま話をしていたことが記憶にある。今回のNHK連ドラをきっかっけに古関の生涯をネットなどで調べてみた。そして彼の残した多くの楽曲をネットで聴くことができた。
予想はしていたが、自分がよく知っていた楽曲の多くが古関の作曲になるものだった。特に筆者が印象に残っている、あの甲子園の「栄冠は君に輝」、「東京オリンピックマーチ」、「長崎の鐘」、「とんがり帽子」そして軍歌の「若鷲の歌」、「露営の歌」など次々と流れてきた。
戦後の間もなくの一時期、ラジオから流れてきていた歌謡曲、童謡、NHK楽曲の多くが古関の作曲であり、どれもこれも筆者の往時の光景を彷彿と引き出してくれた。NHKのラジオから流れていた昼のいこい、スポーツ実況予告の曲などもみな古関の作曲だったことを知った。
前回、1964年東京オリンピックのとき、筆者は閉会式を見た幸運を引き当てた。そのとき会場を席巻したオリンピックマーチは、忘れることができない感情の高揚をいまなお記憶の中に残している。あれも古関の作曲だった。
古関は、クラシック作曲から入り、歌謡曲へと転進したということも初めて知った。さらに作曲家は普通、ピアノなど楽器を駆使しなければ作曲できない。古関は、楽器を使わず、自分のイメージの中で作曲し、それを楽譜として表現していったという。数々の曲を聴いていて、これを天才と言わずして古関を語ることをできないと思った。
人は生まれながらにして特異な才能を一つは持っているのではないかと言うのが筆者の思いである。なぜなら、世の中には優れた人が多すぎる。自分の80年の生涯を振り返ってみると、出会った人は優れた人ばかりであった。同時に新聞記者という職業柄、そのような優れた人に出会う機会が多かったことに感謝せざるを得ない。
古関裕而に出会って伝記を書く機会があったら、どうしただろうかという幻想を楽しみながら連ドラを見る毎日である。
2020・07・25
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