世界一周の船旅の記録その1をアップします。1~30回です。
2024/11/25
2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。
その様子を60回に渡って、ブログでアップします。
その①1~30回分のPDFファイルをアップします。
2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。
その様子を60回に渡って、ブログでアップします。
その①1~30回分のPDFファイルをアップします。
コロンビアに惹かれたあのころ
バーミューダトライアングルの荒れる海を乗り越えて接岸するコーヒーの名産地コロンビア随一の観光都市カルタヘナ。6日ぶりの上陸に乗船客はみな期待するお顔であふれていました。
筆者はコロンビア人のことで、一時期、深く取材で関与したことがあり、そのことをしきりに思い出していました。日本列島の人類の「血縁」が、まるで飛び地のようにコロンビアに残っているというのです。見せられたコンビア現地人の写真をみると、日本人そっくり。しかも筆者に解説した人は京都大学医学部の日沼頼夫先生でした。成人T細胞白血病ウイルス(ATLV)の発見者でノーベル生理学医学賞受賞候補者になっていた先生です。
偶然が重なりました。札幌医大医学部病理学教室にいた研究者が、同時期に筆者にATLVの抗体保有者がコロンビアに多いと言う不可思議な情報をもたらし、日沼先生に伝えたら「そうなんだよ。医学と人類学が交差したんだ」と言うのです。筆者はその続きの話が聴きたくて、京大・日沼研究室にしばらく通いました。
話はこうでした。九州地方や北海道の海岸沿いの居住者に多いATLV抗体保有者が、飛び地のように南米コロンビア地域にも多いことが病理学・血清学の研究で分かってきたというのです。それ以外の地域ではほとんど見られない。朝鮮半島・中国にもほぼない。日本人類学会に取材に行ったら、もっとびっくりしたことが発表・討論されていました。
日本列島の南側の海岸線に居住していた人たちが、氷河期の陸続きの時代、北海道から千島列島さらにアリューシャン列島を伝って北米大陸へと広がり、さらに南下して南米大陸へと広がっていったことを推測する世界地図と共に、遺伝子人類学の壮大なスケールの話に話題が広がっていました。コロンビアに否応なく引きつけられていきました。
初めて来た風光明媚なカルタヘナでは、さまざまな思い出がにわかに吹き出した場所でした。
カルタへナってどこかで聞いたような
PEACE BOATの旅程を見たときから「カルタヘナ」ってどこかで聞いたよなあという思いがありました。上陸して一日コースのバスで見聞しているときガイドさんに「カルタヘナって有名ですよね」とつまらないことを言うと「そうですよ。ずいぶん前から世界遺産になっています。それから遺伝子の保護もここから始まったのです」という言葉にあっと驚きました。
そうだった、遺伝子組み替えを視野に遺伝子の保全と確保、安全な移送についての「カルタヘナ議定書」は、1999年の条約特別締約国会議の開催地だったカルタヘナにちなんでつけられた名前だったのです。いまでは遺伝子の健全な保護、発展の世界の基本的なルール確立の論議では、よく出てくる議定書名であり、人の名前だったかなとも思っていました。
ATLVとカルタヘナ議定書。ここに来なければ、生涯二度と思い起こすことがないだろう事実にぶつかり、筆者の感動はいよいよ高まりました。
スペインが作った堅牢な要塞
堅牢な要塞は、半端なものではありませんでした。日本の城も一国の藩主・殿様を守った象徴的建造物ですが、ここの要塞をみるとお城などおもちゃに見えてきました。分厚い岩壁、基礎構造を重視した建造物は、見だけで重厚さが伝わってきます。何に備えたのか。押し寄せる英・仏・オランダなどを原籍とする海賊でした。1741年には海賊船186隻、2600人が来襲したのですが、カルタヘナ軍は600人の勇者で迎撃し、ことごとく打ち破って勝った歴史がありました。
スペインはインカ帝国から奪った金、銀、エメラルドやカカオ、タバコ、香辛料などをスペイン本国へ送り出す港にしたので、難攻不落の要塞が必要だったのです。そして要塞の周辺にはコロニアル風の街並みが広がり、コバルトブルーの海と一年中安定した常夏の地は栄えていったのです。
見るからに堅牢不落の要塞。建造には、アフリカから30万人もの黒人奴隷が動員され、酷使されたという暗い歴史も背負っていました。
難攻不落の要塞都市には有り余る富が集まり、ボリバール広場を中心にカテドラルや旧宗教裁判所など、スペイン風の美しい建造物が多数、残っていました。
ガルシア・マルケスに出会った!
突然のバスのガイドで、ガルシア・マルケスの名前を聞いて、またまた興奮しました。1982年にノーベル文学賞を授与されたコロンビアの作家です。そのころ筆者はノーベル賞の取材で何回もストックホルムを訪れ、文学賞選考委員会のあるスエーデンアカデミーにも数回足を運び、ノーベル賞授与の最終決定の投票は、古風な銅製の蓋付きの壺に投票用紙を入れて決めるという壺を思い出していました。
マルケスが執筆していた住まい、と言っても瀟洒な石作りの建物ですが、バスはあっと言う間に通過してしまい、写真撮影は出来ませんでした。「予告された殺人の記録」、「百年の孤独」などの名作は、このような風土と環境の中で執筆されたのだろうか。マルケスの筆致は、ノンフィクション執筆の基本になるという思いが筆者に芽生え、貪るように読んだことを思い出しました。コロンビアを聞いたときになぜ思い出せなかったのか、我が身の記憶装置の劣化を嘆きました。
マルケスが執筆していたあたりも、写真で見るような歴史的建造物が随所にありました。マルケスは学生時代に首都のボゴダからこの地に転居してきました。勉強と執筆バイトで忙しかったそうです。コロンビア国立大学法学部のエリート学生だったそうですが、家の都合でカルタヘナ大学へ転校したということでした。
貧富の差があり治安が悪い国
駆け足で見学したコロンビア、カルタヘナ市ですが、治安が悪いことはガイドさんがよく語っていました。かつては麻薬生産・取引で悪名を馳せた国でもありますが、麻薬撃滅は相当に功を奏したようです。しかし貧困と失業などの課題は残されていました。現在、平均月収400ドル、消費税11%、男性は58歳定年とのこと。都市部と地方の格差が相当あると言うことでした。
1994年のサッカー世界選手権でオウンゴールした選手が帰国後、レストランを出た後に口論となり、射殺される悲劇も思い出しました。怖い国という印象を世界中に広げました。
海沿いの瀟洒な風景とそよ風の吹き込むレストランで食べたランチは、日本人好みの海産物、特にエビを主体にしたもので、大変美味しくいただきました。そういえばコロンビアは世界一の美人の産地と聞いてきました。かつてのミスユニバースで何人も栄冠を獲得しています。
写真で見えるバナナの葉で来るんだ中身は、エビを焼いたり揚げたりした美味しい料理でした。写真の上方にある隣席の方の皿の中に見えます。皿の手前にある平たいものは、煎餅のようなパンのようなもので、これも美味しいものでした。
港に戻るバスの中で、もう一つ数奇な思い出が浮かんできました。日本とコロンビアの人類学・医学の共同研究を筆者が提案し、当時の笹川財団(現在の日本財団)に紹介して面倒なその手続きまで準備しました。財団からの助成金が付与されることになり、日本とコロンビアの研究者には大変感謝されました。そのときコロンビア政府から研究チームと一緒にコロンビアへ招待されましたが、社の都合で行けませんでした。新聞記者の身分という遠慮もありました。駐日コロンビア大使が名産のコーヒー豆を持って会いに来てくれたことを思い出しました。
こうしてコロンビアの思い出を書き換えながら、翌日は隣国のパナマに向かって出航しました。
バーミューダトライアングルに突入
多くの方はご存じと思いますが、フロリダ州マイアミ、バミューダ諸島、プエルトリコを結ぶ三角形の海域は、バミューダトライアングルと呼ばれています。バーミューダトライアングルは別名、「魔の三角海域」とも呼ばれており、海が荒れ狂うことで知られています。
面積は約100平方キロメートルで、この海域での船舶や航空機などの遭難が多く、過去100年間に多くの船や航空機が遭難し、跡形もなく消えているという衝撃事故が相次ぎました。
その魔の三角海域に、自分の乗船した船が入っていくとは思ってもいませんでした。毎日のように7階のPEACE BOAT事務局に張り出される航海の海図は、最初こそ珍しさもあってよく見に行きましたが、そのうち忘れてしまうほど存在感が薄くなっていました。
海図の中の青い線が航海路です。赤い線の三角形がバーミューダトライアングルです。ニューヨークからコロンビアのカルタヘアに向かっている航海図です。
ニューヨークを出て2日目くらいから、船の揺れが大きくなってきました。食卓の話題も船が揺れる話が多くなり、ついに船酔いになったという告白も聞きました。そのとき筆者は忽然とバーミューダトライアングルを思い出し、航海海図を急いで見に行って、まさにそのトライアングルのど真ん中を航海していることに気が付きました。
ここまで2ヶ月余の航海の中で一番、揺れが大きく激しいのです。しかし船は、荒れ海に立ち向かうように速度を上げています。船が蹴散らしていく白い波頭も恐ろしいほど荒々しい飛沫をあげている様子が窓からも見えます。これで本当に大丈夫なのだろうか。そのさなかに乗員スタッフだけの救難訓練があって、装備したスタッフが船の要所に配置され、訓練動作の確認などをしていますが、特段の緊張感もなさそうだし、いつもの訓練の一環であるようでした。
沖縄の日にPEACE BOATと共催の講演会
6月23日は、先の大戦で亡くなった「沖縄戦犠牲者への哀悼の意と世界平和を願う慰霊の日」になっており、PEACE BOATでも沖縄慰霊や今の沖縄を紹介する催事などが開催されました。その中で筆者にも沖縄講演会の再演の依頼が来ました。
先の講演会は筆者の講演時間の勘違いから2回に分けて行ったことになりましたが、今回はさらに内容を発展させ、日本の民主主義を考えることまで広げることにしました。
歴史的事実を検証しない日本に民主主義はない
筆者の講演内容の前半は、前回と同様、国会にも国民にも真実を知らせない沖縄返還の密使・密約外交のすべてを検証した結果を紹介しました。
繰り返しになるので、ここでは詳しくは書きませんが、拙著「沖縄返還と密使・密約外交、宰相佐藤栄作最後の一年」(日本評論社)は、昨年度の日本新聞協会賞の候補作として推薦を受けたものでしたが、結果は賞の授与までには至りませんでした。しかし今でも、読んだ方からありがたい感想が寄せられています。
ま、そんなことは言いませんでしたが、事実だけ、と言っても筆者が調べたことはほとんどなく、すべてはアメリカの公文書公開、琉球大学の我部教授の研究成果、西山太吉氏らの資料公開訴訟の裁判資料、密使なった人の暴露書籍などで「丸裸」に露出されてしまった事実でした。この調査をした筆者は、アメリカの民主主義を担保する仕組みがよく分かりました。
会場となったビスタラウンジ(船の中の大講堂)は、空席がないほど多数の人が聴講に来てくれました。
法治国家アメリカの沖縄返還時の体制
アメリカは沖縄返還をするための国家の意思統一をジョンソン大統領時代から始め、ニクソン大統領時には返還条件を決めていました。簡単に言えば「核の有事持ち込み、米軍基地の自由使用、返還時の補償は1ドルとも払わない」でした。日本はこうした国家の政策決定は何もなく佐藤総理が「本土並み、沖縄はタダで還ってくる」という言い方の繰り返しでした。
日米間の返還条件は、ものすごくかけ離れていました。それでも返還になったのは、佐藤が任期中に返還実現を目指したため、アメリカ側の要請にことごとく譲歩し、ともかくも形はどうであれ返還さえ勝ち取ればそれでいいという方針でした。
それが今となっては負の遺産として残されており、米軍基地の永久的施設と自由使用、これに関わるさまざまな不平等条約、思いやり予算の継続です。
驚いたことは、こうした返還交渉でもアメリカは、法に則った手続きを進めており、日本側の特に佐藤総理の弱点をうまくつかんで日本側にすべてを譲歩させた交渉戦略は見事でした。米国の公文書公開でこうした実態がすべて露見してしまったのです。
沖縄返還に臨む日米政府の戦略を見ると、アメリカは国策として一貫した方針があり、交渉術で勝ち取る戦略ですが、日本は政府内がバラバラであり、佐藤の思惑が先行しました。その足下の脆弱性をアメリカは利用したのです。
日本の民主主義は司法が崩壊させている
筆者の前からの主張ですが、三権分離で民主義を担保しているはずの日本で、民主主義は形と言葉になっているだけであり、まったく機能していないことを講演でも語りました。
例えば沖縄返還でも、機密電信文を外務省職員から提供されたとして逮捕された西山太吉毎日新聞記者も、一審・東京地裁では憲法で保障された報道の自由による正当な取材活動として無罪であったものが、二審、最高裁でいずれも逆転有罪にされました。
他の沖縄返還関連の訴訟でも、一審で原告勝訴となっても二審、最高裁でひっくり返された事例があり、他の重要な行政訴訟でも同じように二審・最高裁で逆転で負けて、国のいいなりになるという事例が余りに多いのです。
行政訴訟は、日本では勝てないというのが通説になっており、国民間には何をやっても変わらない国という諦めが先行し、本来優れた国家として興隆されるはずの国が停滞のままに放置されている現状を主張しました。
講演後にさまざまな場所で乗船者と出会う機会があり、皆さんから分かりやすくてよく理解できたという感想をいただきました。
ハドソン川のクルーズ観光に参加
ニューヨーク2日目は、バスでの市内観光とハドソン川のクルーズ見学にしました。滞在は2日に決まっており、10コース以上のオプショナルツアーのどれに参加するか迷いましたが、ハドソン川からの景観に期待しました。
バスはニューヨーク市街でも最も賑やかな地域を通過するコースをとったおり、最初に見せられてのが「トランプタワー」でした。ニューヨーク・マンハッタンの5番街にそびえる高さ202メートルの超高層ビル。ビジネスオフィスの上層階には、世界的な大金持ちが数多く入居しているようで、家賃は月額700万円とも聞きました。
トランプタワーの周辺は、見物人が多数集まっているようなので、敬遠して迂回しました。
セントラルパークの東側、アッパーイーストサイドのミュージアムマイル沿いにあるメトロポリタン美術館周辺は、観光バスがぐるりと取り囲みすごい人だかりの中にありました。広い敷地の中にスケールの大きい建物であり、この地域のミュージアムでは存在感抜群の感じでした。
絵画・彫刻・写真・工芸品・家具・楽器・装飾品など約300万点の美術品を所蔵しており、全館を一日で巡るのは不可能です。それを筆者らのツアーは、1時間程度、見物するというスケジュールです。こちらのガイドさんに聞いたら、1週間かけて見学しないと満足出来ないということでした。
「The MET」と呼ばれるほど貫禄あるミュージアムですが、これが私立と聞いて驚きました。歴史のある美術館などの施設・建物は、公立が多いと思っていましたが、The METは別格のようです。
メトロポリタン美術館の周辺は華やかさのある見物人であふれていました。
ハドソン川のクルーズに乗船しました
クルーズ船の集まっているハドソン川の地点にバスで行き、そこから船に乗り換えました。かなり大きな船で、乗船客は200人はいたと思います。速射砲のように早口のガイドさんの英語の説明でしたが、歴史的な出来事や数字がやたら多く、うまくキャッチ出来ませんでした。ニューヨークの顔になっている自由の女神像のすぐそばまで接近しましたが、そちらにも大勢の観光客が群がっているのが見え、ニューヨークの集客力は流石にすごいなと感じました。
船を下りてから五番街付近に戻り、ステーキハウスでランチしました。バカでかいステーキが出てきて参加した皆さんと共にアメリカの食の話題を語り合いながら、8割方食べるのがやっとでした。サラダもてんこ盛り、デザートも大きなケーキであり、いかにもアメリカに来たという実感が沸いた食卓でした。
街を散策しているうちニューヨークのコンビニを見つけました。写真で見るように小ぶりな入り口であり入ってみると、狭い空間に飲み物類と簡単なスナック類がぎっしりと並んでいるだけでした。お客さんも他に一人いただけで、レジにはご老体が退屈そうに座っており、日本のコンビニとはまるで違う風景でした。ニューヨークのど真ん中のコンビニですから、こんなものなのでしょうか。
自転車で散策している人が目につきました。写真のように貸し自転車と駐輪スタンドがあちこちにあり、スタンドから勝手に借りてまたスタンドに戻すというシステムです。支払いもクレジットカードで出来ると言うことですから便利です。日本でもこのシステムは広がるのではないかなと思います。
ニューヨーク滞在はたったの2日間であり、着いてすぐまた出港かあという気分でした。ニューヨークでの他の乗船客の行動を聞いたところ、オプショナルツアーに参加しないで、自分で地下鉄、タクシーなどを利用して目的の場所や施設を見物している方がかなりいました。船に乗っている間に旅程を組み立て下船して実行できるという利点をフルに使っているようでした。
夜になって船は離岸を始めました。瞬く間に夜に浮かぶ摩天楼は離れて行きます。もうアメリカに来ることはないのではないかと思っていると、突然、その昔ニューヨークの常駐特派員として異動する内示を受けたことを思い出しました。その話は、前任者が現地で問題を起こしたことがきっかけでニューヨーク支局を取り潰すことに発展し、実現できませんでした。
あのとき、特派員として出ていたらどういう人生になっていただろうか。船尾のデッキに寄りかかりながら、遠くで明滅するニューヨークの明かりに別れを告げました。船は一路南米のコロンビアを目指して航海を始めました。
NYジャズクラブの雰囲気に浸った初日の夜
ニューヨーク初日の夜は、ジャズクラブに行ってNYのジャズライブを楽しむことにしました。PEACE BOATから30人のツアーバスで出発。マンハッタンの夜をバスの車窓から見物しながら目的のクラブハウスに向かいました。日曜日の夜、人出は相変わらずでアメリカ随一の歓楽都市の一端を見ながら、おのぼりさん気分に浸りました。
目的のクラブに着き、入り口を一見してその雰囲気を感じました。この夜は、筆者たちの貸し切りという待遇です。編成は「The Creole Cookin’ Jazz Band」で、すでにプレーヤー6人がステージに座って待っていました。トロンボーン、トランペット、クラリネット、ピアノ、ベース、ドラムスのセクステット(Sextet)です。
筆者は一番前から2列目の真ん中あたりで、プレーヤーとは数メートルの至近距離に座りました。如才のないにこやかなプレーヤー面々の表情がとてもいい感じです。しげしげと拝見すると、どう見ても後期高齢代の人ばかりです。これが気に入りました。日本でもかつて原信夫とシャープス&フラッツ、有馬徹とノーチェ・クバーナなどトップバンドで活躍した元プレーヤーたちが、時たま仲間同士呼びかけあってフルバンドを編成して演奏してくれますが、いつも満員の盛況です。すぐにそれを思い出しました。
演奏が始まると、聞いたことのあるナンバーが次々と出てきて、プレーヤーも楽しんでいる様子が伝わってきます。ビールのボトル片手についついこちらも興に乗って、リズミカルに身体が動いていきます。ステージ前のせまいスペースにおばあちゃんが出てきて軽快にステップを踏み始めると、バンマスのトランペッターが喜んだ動作で歓迎しています。
誰も出てこないので、ここは一番、筆者の出番と思ってすぐに加わり、往年のリズミカルステップでおばあちゃんと踊り始めると、次々と加わる人が増えてステージと客席は一体感で燃え上がりました。
会場と一体感のあるジャズ演奏で盛り上がりました。
昔、ニューヨークの他のジャズクラブに行ったことはありますが、踊ったのは初めてです。人生最後の「見せ場」と筆者は思ったかもしれません。休憩を挟んで、楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていきます。休憩になるとバンマスも客席に座って談笑に加わります。筆者は、最も年配者の思われるベース奏者に礼を言うためステージに上がって素晴らしい演奏を褒め称え、ついでに「おいくつですか?」と聞いてしまいました。
なんと「88歳」といいます。「あなたは私の兄さんです。私は83歳です」と言ったら、顔をくしゃくしゃにして喜び、お互いにハグして喜び合いました。
帰りがけもう一度ステージまで行って、お別れの挨拶をして写真を撮り、とっさに持っていた手提げ袋にサインを書いてもらいました。隣で見ていたドラムスのおじいさんが、うらやましそうにしていたので、この方にもサインをお願いしてお別れしてきました。
その昔、ジャズの本場のニューオリンズのライブハウスをハシゴしたことがありますが、意気のいい若手や壮年代の演奏もいいですが、筆者はどちらかというとベテランプレーヤーのスキル満点の演奏が好きな方です。演奏が進むに従ってステージと客席が一体感になって、最後はお互いに身体が動き出して止まらなくなると言うこともありました。
この夜は、ベッドに横になっても、ライブ演奏のあのリズムと音が身体の奥で鳴り止まずにずっと鳴り響いていました。ニューヨーク初日の夜は、こうして暮れていきました。
自由の女神から始まったニューヨーク寄港
ハドソン湾に船が入って間もなく、早暁の薄明かりの中に自由の女神がぼんやりと浮かんできました。甲板に並んで待っていた乗船客から、一斉にどよめきが広がりました。アイスランドを出港してからちょうど一週間、北の寒い海を航海してきた閉塞感がありました。誰もがニューヨーク寄港を今か今かと待ち望んでいたのです。
船は速度を上げたように感じました。遠くぼんやりしていた景色がみるみる輪郭を表し、やがて摩天楼が次々と姿を見せ始めました。これまでの寄港地とはまったく違った、世界一の大都市の風格を見せ始めたのです。船から見る摩天楼は壮大な規模を誇り、やはりニューヨークは別格だなと思わせる景色が次々と移っていくことに改めてびっくりしました。船からの景色の迫力を感じました。
どこの港へ接岸するときでも、船のWi-Fi接続が短時間、途絶えます。ニューヨークでも同じでしたが、少々時間が長引きました。しかし待てど暮らせど普及しません。イライラして部屋でくすぶっているうち、我がPCの不調に気が付き、大慌てで対応に追われましたが、そのうちWi-Fiの契約時間が切れてしまったのです。船内のWi-Fi再契約の窓口に駆けつけると、ニューヨーク出港まで閉鎖ということになっていました。
船はニューヨーク港90番ふ頭に接岸しました。となりのふ頭には、ノルウェーからの大型客船(多分1000人以上が乗船)が停泊しており、接岸すると大きなマンションが二棟並んだような景観になりました。およそ30年間の話になりますが、ニューヨークには取材で何度か来ています。あのころの印象とどう変わったか。入国審査後に早速、街に繰り出しました。
PEACE BOATが接岸した隣のふ頭に停泊していたノルウェーの豪華客船。その大きさといい豪華さといい負けそうでした。
全体的な印象をいうと街がきれいになっていました。自転車の駐輪場があちこちの通りにあり、家族連れでチャリンコ散歩を楽しんでいる風景もあふれていました。人が集まるような場所には、警察官とは違う派手な制服を着たパトロール隊員の姿も見え、街全体のセキュリティへの配慮も感じました。
何よりもあの30年前と違ってホームレス、物乞いの姿は全くなくなり、きれいな街に変わっていることを感じました。
ニューヨークには2日間の停泊です。PEACE BOATには多くのツアーが用意されていましたが、筆者は初日の夜にジャズ演奏の鑑賞、2日目はバスでマンハッタン車窓観光とハドソン川遊覧クルーズに乗船して、川から街の景観を楽しむツアーに参加しました。
便利なことに90番ふ頭からニューヨークの中心街のタイムズスクエア、セントラルパーク、五番街などへは歩いて行ける距離にあります。散歩がてらと言ってもそれなりに距離はありますが、田舎者の見物には格好のコースでもあります。
PC持参でレストランで執筆開始
日曜日のマンハッタンはどこもかしこも、ものすごい人出でした。観光客があふれており、レストランやコーヒーショップを覗くとどこも満杯。PC持参をしてきたので、どこかでWi-Fi接続をしてこのコラムなどを書く魂胆でした。早々に繁華街を退散して港に近い比較的人出の薄い地域に戻り、すいているレストランでこのブログを書き始めました。
アメリカは流石にどの店もWi-Fi接続が簡単で、従業員がセットしてくれる店もあります。
日本ではこうはいかないなと思いながらレストランを2軒はしごして楽しみました。PCを見せて作業するふりを見せると、すぐに店の端っこの邪魔にならないような席に案内してくれます。こうなるとチップもはずもうというものです。
こうしてニューヨークへの第一歩が始まりました。
7人の「ウクライナ・ユース・アンバサダー」が乗船
停戦の気配がないまま泥沼化しているウクライナ戦争の不条理と戦場の悲惨さをPEACE BOATから世界に発信するイベントが開かれました。ウクライナから参加した7人の「女性大使」が主催者になり、船の屋上の広場でアピール宣言をしました。乗船客延べ約200人が参加して大使たちを元気づけ、支援を約束していました。
横浜の出港時から乗船しているのは、在日ウクライナ大使館とPEACE BOATが連携して組織した「ウクライナ・ユース・アンバサダー」7人のうら若き女性大使です。20,30歳代の若さあふれる華やかさがあり、船内でも目立っていました。
これまで船内のセミナーや講演で、ウクライナ戦争の悲劇だけでなく、ウクライナの歴史や文化を理解してもらうイベントを続けてきました。後半にさしかかり、一区切りの時期を捕らえて平和を訴えるアピール宣言を開催することにしました。
この日、船の屋上14階の広場には、次々と乗船客が集まり、用意しているプラカードを掲げて女性大使たちを支援し、ウクライナ国民を励ますメッセージを次々と発していました。
全員集合でアピール写真を撮影して、世界に発信して平和への願いを船上から訴えました。折しもスイスのビュルゲンシュトックでは、100カ国・機関の代表(このうち57カ国は首脳級)が出席する「世界平和サミット」が開催されました。ウクライナのゼレンスキー大統領が自らの和平案の支持を呼びかけたこともあり、PEACE BOATからの船上アピールはいよいよ盛り上がりました。
「大使」たちの主張を聞いていると、ロシアの侵略戦争なのに、長期化してくると世界の人々の興味が薄くなっていく。長引かせることはロシアの思惑でもある。興味を薄くして自分たちの立場を正当化していく。こうした訴えを聞いていると、やはり戦争は国家の勝手な思惑と主張から出てくるものだと思わざるえませんでした。
筆者は旧ソ連時代からウクライナには5回行ったことがあります。チェノブイリ原発事故調査団で行ったときは、いま石棺に封じ込まれた原発の前まで行きり、かなりの被ばくをしました。また1万年前、マンモスハンターとして広大なユーラシア大陸に広がっていたクロマニョン人の作ったマンモスの骨で作った住居や多くの石器類の遺跡を取材で尋ねたこともあり、ウクライナは筆者にとってことのほか親近感のある国です。
ウクライナは、世界の「美人国」の一つに加えられる民族であり、明るい気質はロシア人とは違った面を持っています。広大で肥沃な国土がいま戦場になっていることを憂いながら、これからも支援する約束をしました。
広島県から参加した元教員ご夫婦
PEACE BOATに乗船している方々は、実に多彩な経歴を持っている人ばかりです。その中から筆者が何かの縁で知り合った方をブログで紹介したいと思います。
最初に登場していただいたのは、広島県三次市から参加した藤原孝次さん(68)、ひとみさん(66)ご夫妻です。筆者が「日本の学校給食は世界一」というテーマで講演した際に参加していただきました。
お二人とも定年まで小中高の教員をされていた方で、最初に会ったときから率直に語るお人柄が気に入りました。お二人とも教員OB・OGということから、構想研創設25周年記念シンポジウムを思い出し、その後は日本の小中学校の教育について語り合う機会が増えました。
船旅も中間点を通過して、先日は有志参加の「学芸会」が開催されました。お二人は今回、社交ダンス発表会の出演は見送りましたが、船に乗ってからレッスンを受けており、8階のフロアで練習に励んでいる姿を時折見かけていました。ワルツ、タンゴ、ルンバ、ジルバに挑戦中で、船を下りるころにはかなりの腕前になっているでしょう。
PEACE BOATは、 持続可能な未来へ向けた自治体の取り組みを支援する国連のSDGsを推進しており、リベラル思考の活動をしていることも気に入り、このクルーズに参加したとのことです。
外国旅行は、新婚旅行でハワイに行ったときから、ほぼ40年ぶりということす。2018年にPEACE BOATに申し込んだもののコロナ禍で中断したため、今回の旅は待ちかねたものだったようです。
「1500人の乗船者ですから予想はしていましたが、若い方から年配者まで実に多彩な人生を送られてきている人ばかりで、講演や各種の集まりなどで交流が出来、楽しい船旅をしています」
これまでの寄港で上陸された都市の印象などをお聞きしました。
最初に写真で見せられたのは、なんとライオン君です。南アフリカ共和国(南ア)の自然公園のサバンナで撮影したもので、昼寝を起こされたのか大きなあくびをして歓迎してくれたそうです。観光車両から至近距離の撮影であり、珍しい写真を手に入れました。
次に見せられたのは、茫漠と無数の砂丘が連なっているナミベア共和国の砂漠で撮ったものです。世界最古のナミブ砂漠は、無数の砂丘を連ねたような雄大な景観です。藤原さんは「砂の粒のきめ細かさを手のひらで感じました。数千年の自然環境の中で出来た奇跡の産物です」という感想でした。
小中学の教育問題で船内グループに参加
現役だったころは、二人とも初等中等教育の最前線で教師をしていたので、乗船客の若手グループが企画している「小中学校の教育を考える」会に参加しました。教育の立て直しなどを討論し、シンポジウム開催にも参加して教育問題の課題解決の提言もする予定とのことです。
いま話題になっている工藤勇一先生の著書も何冊か読んで感銘を受け、「素晴らしい論点ですが、具体的に工藤先生の提示する教育現場を実現するには、大きなハードルがあります。しかしそれを乗り越えて教育再生をはかるための方策も考える必要があります」と言います。ひとみさんのご意見も同じであり、二人の意見を調整しながら発言していく方針のようです。
アジア・アフリカ・ヨーロッパと回ってきて地球を半周したことになりますが、諸国で見聞して何が一番印象的だったのでしょうか。
「先史時代の歴史的遺跡から現代の社会の様子まで、時空を超えて見聞して私たち夫婦の視野を広げる機会になりました。人間のやってきたことは、人種とか肌の色とかに関係なく闘争の歴史であり、人を殺し、勝ったものが略奪する人間の闘争本能を垣間見たところがありました。毎日が社会科の勉強のような気持ちです」
数学の教師らしい孝次さんの感想でした。リタイア後は地域の民生委員などいくつかの社会貢献の役職を委嘱されており、今回は多忙の合間を縫ってのPEACE BOAT参加でした。
ノルウェーのベルゲン市では、フロイエン山頂からの絶景をバックに記念撮影。世界には息を呑むような光景が随所にあることを知り、日本の風光明媚を一瞬、忘れるところだったようです。
セントポール大聖堂の前で。そのほか、ロンドン塔、大英博物館、ウエストミンスター寺院などを見学しました。ロンドン塔は13世紀から処刑する監獄にもなりました。ひとみさんは「多くの政治犯が処刑されていった話を聴いて胸が痛みました」と語っています。また「大英博物館」の見学では、諸国からの財宝・秘宝を集めた展示品を見て、英国の歴史的な「活動歴」を改めて認識したようでした。
船内の大劇場で乗船客主体のイベントを開催
「地球一周中間発表会」という催事があることは、繰り返し船内新聞でも告知があったので知っていました。10日ほど前から船内のあちこちで、何やら準備する様子を見ていましたが、なに、たいしたこともできないだろうと見ていました。
先にも紹介しましたが、船内にはさまざまなテーマの集まり、グループが出来ており、多分その数は50くらいあるでしょう。そのグループの人たちが何やら趣向を凝らしてビスタラウンジという学校の講堂を思わせる広い会場で披露するのです。
演劇が出来るほどの広いステージもあり、ちょっとした劇場にも見えます。そこのステージでグループが準備した演題で発表するというものです。聞けば、大人の「学芸会」というものだそうで、筆者はどこにも属していないので何も予定はなく、当日は見物人として覗くくらいの気持ちでいました。
突然の申し入れにびっくり
前日の6月12日の夕方、船内を歩いていたら突然、韓国の女性から呼び止められ「明日のヨガの会で出て欲しい」という相談を受けました。ヨガの会が盛況であることは見て知っていましたが、やったことはない。聞けば、ヨガの会の有志がステージに上がり、音楽に合わせてゴーゴーを踊るので、それに合わせてステージ下のフロアでジルバを踊ってほしいと言う話です。
リーダーになる男性が1人どうしてもいないので、是非、お願いしたいという申し入れです。ダンスレッスンのときに筆者がジルバを踊っていたのを見ていた婦人が、船内で歩いているうち出会い頭に思いついての懇請でした。
予定がなかった筆者は、これを引き受けました。ぶっつけ本番の「出演」です。多少不安はありましたが、学生時代にジルバに狂っていたことを思い出し、なんとかなるだろうという気分でした。
当日、早めに会場に行くと、すでに始まっており、驚いたことにこの日の昼と夜で37演題の発表があることでした。終わってみれば延々6時間に及ぶ船の「学芸会」でした。
ステージ下まで繰り出してのチーム体操?でしょうか。力作でした。
日中韓・ベトナムなど国際色豊かですが、日本人主催が圧倒的に多く、その中に外国人が混じっているという感じです。出し物は、歌と踊りが多く、民族楽器の演奏や子どもを交えた体操もありました。
急ごしらえの学芸会にしては、どの演題もなかなかの出来映えです。
アイスランドから次の寄港地のニューヨークまでは少々日数がかかるので、その間、船内での余興大会で盛り上げようというPEACE BOATの思惑でしょうか。
出番が回ってきました。パートナーさんとして踊る韓国婦人は、年齢不詳ですがプロポーションのいい方で、見るからにダンスの出来そうな方でした。しかしジルバはそれほどやったことはないそうで、どうやらお相手もぶっつけ本番の様子で「安心」しました。
にわかコンビのジルバでしたが、船の揺れに乗って?うまく踊れました。
曲目が流れてすぐに始まりました。ステージの上では、老若男女が軽快なステップを踏んだり、体を動かし、それが音楽に合っているのです。終了後にわかったことは、ヨガが終わると毎日、練習に励んでいたということでした。
筆者も、踊り始めると「昔取った杵柄」と言う古い言葉で言えるほどに、軽快にパートナーさんを回し、自身も船の揺れに合わせて踊るという得意技を発揮して、あっという間に制限時間を終えて、大喝采の中で退場しました。この機会にヨガの会にと誘いを受けましたが、それは丁寧に断って早々に退散しました。
日本のお札のリニューアルが心配事
ランチの食卓で話題になったのは、日本のお札のリニューアルのことです。千円、5千円、1万円札の肖像が変わるのは7月3日と聞いています。すでに一部の街の両替屋では、日本のお札は間もなく新札が出るという理由で拒否するという話も出ています。外貨が手元にないとタクシーや街頭の店ではカード決済が出来ません。そこへこんな話が出てきたのです。
セーシェルでタクシー観光したあとの支払いで、ドル札を出したら2008年以前の発行年のものは取らないと拒否されたそうです。持っていたドル札は古いものばかりでしたが、いずれもいま使われているお札です。居合わせた6人が急いでお札を出し合ってギリギリの金額がそろったそうですが、日本のお札も新札が出たら古いお札は拒否されるのではないかという心配事です。
タクシーの運転手さんの話では、客からドル札(外貨)を受け取って、現地の銀行や両替屋に持っていき現地のお金に替えようとしても、発行年が古いと出来ないということでした。いま流通しているかどうかの判断ではなく、現地の金融筋の意向だという話でした。
ニューヨークに行ったら、少々多めに両替しておかないと中南米や南米ではどうなることか。そんな心配事で話題が広がっています。
船旅も後半を迎えて隣近所の付き合いに広がる
船は北極海に入ったコースをたどりながら北米大陸へと航路をとる予定でしたが、北の海が荒れており、天候不順ということで航路を変更し、一直線に北米からニューヨークへと向かう航路になりました。確かに海のうねりが大きくなり、船内の廊下を歩いていても左右の壁にぶつかりながらの移動になってきました。
昨日から甲板へ出るのは禁止。時化の海で船は大揺れに揺れています。これまで一番の揺れかもしれません。窓から見た海はモヤの中に呑み込まれており、船腹で打ち返されささくれだった波が恐ろしげな泡を巻いて限りなく繰り返していきます。
自室の窓から海を見るとモヤに呑み込まれて何も見えず、船腹にぶつかって出来た恐ろしげに渦巻く白い波だけが繰り返し去って行きました。
海上の風も強く外の気温は6、7度、水温も同じと言うことで、屋外のジャクジー風呂も閉鎖になっていました。
船旅も後半に入ると、乗船客同士、顔見知りが多くなり、行き交う人が軽く会釈をすることが多くなりました。朝夕のレストランの食卓も、やあやあと挨拶する人が増えて会話も広がり、雰囲気が変わってきました。
筆者はこれまで4回の講演をしました。学校給食は世界一、沖縄返還の密使・密約問題と真実の追究、イベルメクチンとコロナの真実、野口英世のノーベル賞物語がそのテーマでしたが、いずれも好評をいただき、知らない人から「面白かった」という感想をいただいていました。
今後も新札の肖像替えで登場する北里柴三郎物語などいくつかのテーマを準備しており、PEACE BOAT関係者からも相談を受けるテーマも出てきました。構想研究会創設25周年記念シンポジウムを自分なりに総括する講演も準備を進めています。
動く地球表層の岩盤(プレート)の上に立つ
氷河と火山の国、アイスランドの首都・レイキャビクへの上陸は、寒空の中で始まりました。首都としては世界最北の北緯64度8分です。この日の日の出は午前3時3分、日の入りは午後10時24分ですから白夜です。
アスランド旅行が日本人に人気があると聞いていたのですが、筆者には大きな関心事が2つありました。一つはプレートテクトニクスの現場が地上に露出しているのをこの眼で見たいという願望と、世界で最も男女平等を実現している国の現実を見てみたいというものでした。
プレートテクトニクスは、地球の表面を覆っている厚さ数十キロの岩盤(プレート)が常に移動しており、その岩盤が地球の地表に10数枚あるというのです。プレートがぶつかり合う場所で地震が発生し、アイスランドと日本は地震国・火山国・温泉国として共通の運命にあるのです。
プレートが露出している場所に行くバスツアーに参加しました。噴火した溶岩でできたレイキャネス半島の荒れ果てた荒野の中でバスを降りて歩いて行きました。奇妙な橋が見えてきました。その橋こそ、北アメリカプレートとユーラシアプレートを結んでいる橋なのです。
何十億年という地球の表面の岩盤の移動で北アメリカプレートとユーラシア大陸プレートがこの地で出会い、それが地上にそのまま露出して、今なお年間2センチの移動をしているというガイドの説明に興奮を覚えました。
冷たい風を避けた防寒具を着込んで、プレートテクトニクスの「現場」に立ちました。
筆者が立っている写真の向かって右の岩盤が北アメリカプレートで、左の岩盤がユーラシアプレートです。その裂け目をつないだ橋がバックに見えます。両方のプレートが押し合っているのでしょうか。ユーラシア大陸プレートをたどっていけば、日本列島を載せているプレートにつながっているはずです。
こんなプレートの出会いの現場に立つとは夢にも思っていなかったので興奮しました。1970年代になってからプレートテクトニクス論が日本でも盛んに紹介され、それを知った筆者は多くの文献を貪るように読みました。今ではすっかり忘れてしまいましたが、その興奮がよみがえったのです。
女性大統領が当選したばかり
今月1日、アイスランドでは大統領選挙がありました。投票率は約80%。12人が立候補し半分が女性です。女性候補で投資会社経営者のハトラ・トーマスドッティルさん(55)が当選して8月1日に就任するそうです。アイスランドでは2人目の女性大統領です。最初の女性大統領は、1980年に当選したビグディス・フィンボガドッティルさん(94)で、世界で初の女性大統領として話題になったそうです。
アイスランドの国会議員は、男女ほぼ同数ずつです。世界経済フォーラムが発表する「ジェンダーギャップ報告書」で初版の2006年から14回連続1位になっています。世界で最も男女平等に近い国として知られているそうです。
ツアーのガイドさんの説明では、アイスランドには専業主婦はいないので、子育てや家事も男女平等でやります。育児休暇は、夫婦できちんと取ってお互いに助け合って子育てします。教育費と医療費はタダ。ただし給与のほぼ半分が税金でもって行かれるので、物価高の中での生活はそれほど楽ではないと言います。とはいうものの、日本に比べれば遙かに優れた福祉国家になっています。
人口僅か38万人の国ですが、悩みはそれなりにあるのでしょう。そのひとつがアルコール依存症が比較的多いと言うのです。長くて暗い冬の期間、アルコールに走る人が多いと言います。ネットで調べてみるとたいしたことではなく、年間のアルコール一人摂取量は、世界の国々では真ん中あたり。日本よりは多いですが、韓国、アメリカなどよりは少ない現状でした。
アメリカ大陸の発見者はコロンブスではない!
今回のツアーで最初に行ったのは、丘の上に立つハットルグリムス教会でした。アイスランドのランドマークタワーとして象徴的な建物で、遠くからはまるでアメリカのスペースシャトルの形にも見えました。そばまで行ってみると高さ74.5メートルある重量感に圧倒されました。ミサが始まるので中には入れませんでしたが、この教会の前に大きなブロンズ像があります。これはアメリカ大陸を史上初めて発見したアイスランド人のレイフ・エリクソンの像で、教会を背にして眼下に広がる市街地を見下ろすように屹立していました。
アメリカ大陸発見は1492年のコロンブスと知られていたはずですが、今では985年ころにエリクソンが最初に発見したと史実が書き換えられたというガイドさんの説明でした。日本の小中学校の教科書にも書いてあると言うことでした。エリクソンは、グリーンランドを発見して住み着いたバイキングの末裔であり、グリーンランドとアメリカ大陸を行き来していたとも聞きました。
このブロンズ像は、アイスランド建国1000年を祝って1930年にアメリカから贈られたものと言うことです。強い逆光で正面からは撮影できないので、後ろから撮りました。
博物館の巨大画面でオーロラを見ました
ペルトラン博物館の巨大画面では、オーロラを見せてくれました。オーロラ見物のために日本からも多くの観光客が来るそうですが、運が良ければ見られるという自然現象です。こうして実際の光景を見る気分で巨大スクリーンで見るオーロラは迫力がありました。
アイスランドのエネルギー源は、地熱発電や風力発電だけであり、自然エネルギーだけで国が成り立っています。電車や地下鉄はなし。バスはすべて電気自動車です。電力は余っているので海中ケーブルでイギリスに輸出しているのです。この国の産業は、①観光、②漁業、③アルミ加工というのです。アルミ加工は電気を食うので、外国企業が、電気代の安いアイスランドに進出して経営していると言うことでした。
遠くから見た地熱発電所。この国は森は少なく、荒れ地のような平原が広がっていました。
年金平均70万円だが・・・
ランチに出てきたタラのムニエルも美味しかった。写真を撮るのをうっかりして食べてしまいましたが、タラ漁業が大きな輸出産業になっていました。
リタイア後の年金は、平均で毎月70万円相当と言うことにびっくりしましたが、かなりの物価高で生活は思ったほど楽ではないようです。ランチに3千円から4千円。夜のレストランの食事はワインを楽しんで一人2,3万円ということです。
お土産ものを物色しましたが、ちょっと大きめのチョコレートが1枚2000円、コースター枚1500円。ちょっと魅力的なストールは4万円と言う値札でした。一緒にツワーに参加したご婦人たちもこの値段には驚いて、財布は出てきませんでした。
アイスランドの一日だけの上陸ツアーは、盛りだくさんの見聞の中で白夜は暮れていきました。