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2024年6 月

PEACE BOATで世界一周の旅ーその36

動く地球表層の岩盤(プレート)の上に立つ

氷河と火山の国、アイスランドの首都・レイキャビクへの上陸は、寒空の中で始まりました。首都としては世界最北の北緯64度8分です。この日の日の出は午前3時3分、日の入りは午後10時24分ですから白夜です。

アスランド旅行が日本人に人気があると聞いていたのですが、筆者には大きな関心事が2つありました。一つはプレートテクトニクスの現場が地上に露出しているのをこの眼で見たいという願望と、世界で最も男女平等を実現している国の現実を見てみたいというものでした。

プレートテクトニクスは、地球の表面を覆っている厚さ数十キロの岩盤(プレート)が常に移動しており、その岩盤が地球の地表に10数枚あるというのです。プレートがぶつかり合う場所で地震が発生し、アイスランドと日本は地震国・火山国・温泉国として共通の運命にあるのです。

プレートが露出している場所に行くバスツアーに参加しました。噴火した溶岩でできたレイキャネス半島の荒れ果てた荒野の中でバスを降りて歩いて行きました。奇妙な橋が見えてきました。その橋こそ、北アメリカプレートとユーラシアプレートを結んでいる橋なのです。

何十億年という地球の表面の岩盤の移動で北アメリカプレートとユーラシア大陸プレートがこの地で出会い、それが地上にそのまま露出して、今なお年間2センチの移動をしているというガイドの説明に興奮を覚えました。

写真1冷たい風を避けた防寒具を着込んで、プレートテクトニクスの「現場」に立ちました。

筆者が立っている写真の向かって右の岩盤が北アメリカプレートで、左の岩盤がユーラシアプレートです。その裂け目をつないだ橋がバックに見えます。両方のプレートが押し合っているのでしょうか。ユーラシア大陸プレートをたどっていけば、日本列島を載せているプレートにつながっているはずです。

こんなプレートの出会いの現場に立つとは夢にも思っていなかったので興奮しました。1970年代になってからプレートテクトニクス論が日本でも盛んに紹介され、それを知った筆者は多くの文献を貪るように読みました。今ではすっかり忘れてしまいましたが、その興奮がよみがえったのです。

女性大統領が当選したばかり

今月1日、アイスランドでは大統領選挙がありました。投票率は約80%。12人が立候補し半分が女性です。女性候補で投資会社経営者のハトラ・トーマスドッティルさん(55)が当選して8月1日に就任するそうです。アイスランドでは2人目の女性大統領です。最初の女性大統領は、1980年に当選したビグディス・フィンボガドッティルさん(94)で、世界で初の女性大統領として話題になったそうです。

アイスランドの国会議員は、男女ほぼ同数ずつです。世界経済フォーラムが発表する「ジェンダーギャップ報告書」で初版の2006年から14回連続1位になっています。世界で最も男女平等に近い国として知られているそうです。

ツアーのガイドさんの説明では、アイスランドには専業主婦はいないので、子育てや家事も男女平等でやります。育児休暇は、夫婦できちんと取ってお互いに助け合って子育てします。教育費と医療費はタダ。ただし給与のほぼ半分が税金でもって行かれるので、物価高の中での生活はそれほど楽ではないと言います。とはいうものの、日本に比べれば遙かに優れた福祉国家になっています。

人口僅か38万人の国ですが、悩みはそれなりにあるのでしょう。そのひとつがアルコール依存症が比較的多いと言うのです。長くて暗い冬の期間、アルコールに走る人が多いと言います。ネットで調べてみるとたいしたことではなく、年間のアルコール一人摂取量は、世界の国々では真ん中あたり。日本よりは多いですが、韓国、アメリカなどよりは少ない現状でした。

アメリカ大陸の発見者はコロンブスではない!

今回のツアーで最初に行ったのは、丘の上に立つハットルグリムス教会でした。アイスランドのランドマークタワーとして象徴的な建物で、遠くからはまるでアメリカのスペースシャトルの形にも見えました。そばまで行ってみると高さ74.5メートルある重量感に圧倒されました。ミサが始まるので中には入れませんでしたが、この教会の前に大きなブロンズ像があります。これはアメリカ大陸を史上初めて発見したアイスランド人のレイフ・エリクソンの像で、教会を背にして眼下に広がる市街地を見下ろすように屹立していました。

写真2アメリカ大陸発見は1492年のコロンブスと知られていたはずですが、今では985年ころにエリクソンが最初に発見したと史実が書き換えられたというガイドさんの説明でした。日本の小中学校の教科書にも書いてあると言うことでした。エリクソンは、グリーンランドを発見して住み着いたバイキングの末裔であり、グリーンランドとアメリカ大陸を行き来していたとも聞きました。

IMG_6837このブロンズ像は、アイスランド建国1000年を祝って1930年にアメリカから贈られたものと言うことです。強い逆光で正面からは撮影できないので、後ろから撮りました。

博物館の巨大画面でオーロラを見ました

ペルトラン博物館の巨大画面では、オーロラを見せてくれました。オーロラ見物のために日本からも多くの観光客が来るそうですが、運が良ければ見られるという自然現象です。こうして実際の光景を見る気分で巨大スクリーンで見るオーロラは迫力がありました。

写真4
余った電力を輸出

アイスランドのエネルギー源は、地熱発電や風力発電だけであり、自然エネルギーだけで国が成り立っています。電車や地下鉄はなし。バスはすべて電気自動車です。電力は余っているので海中ケーブルでイギリスに輸出しているのです。この国の産業は、①観光、②漁業、③アルミ加工というのです。アルミ加工は電気を食うので、外国企業が、電気代の安いアイスランドに進出して経営していると言うことでした。

IMG_6873 (1)遠くから見た地熱発電所。この国は森は少なく、荒れ地のような平原が広がっていました。

年金平均70万円だが・・・

ランチに出てきたタラのムニエルも美味しかった。写真を撮るのをうっかりして食べてしまいましたが、タラ漁業が大きな輸出産業になっていました。

リタイア後の年金は、平均で毎月70万円相当と言うことにびっくりしましたが、かなりの物価高で生活は思ったほど楽ではないようです。ランチに3千円から4千円。夜のレストランの食事はワインを楽しんで一人2,3万円ということです。

お土産ものを物色しましたが、ちょっと大きめのチョコレートが1枚2000円、コースター枚1500円。ちょっと魅力的なストールは4万円と言う値札でした。一緒にツワーに参加したご婦人たちもこの値段には驚いて、財布は出てきませんでした。

アイスランドの一日だけの上陸ツアーは、盛りだくさんの見聞の中で白夜は暮れていきました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその35

白夜の船内生活

アイスランドに向かっての航海は、白夜の船旅です。6月8日の日の出が午前2時41分、日の入りが午後11時30分ですから、太陽が隠れている時間はたった3時間あまり。部屋のカーテンを閉めておかないと、明かりに負けて寝付かれません。

船内の室温管理がうまくいっていないようで、筆者の部屋はひんやりして寒い。室温を最高にしていますが、コントロールがきかないらしく、寒いのです。体を動かしていれば寒さを感じないのかスポーツ関係のイベントはどこもほぼ満杯の盛況です。

筆者の日常生活の一端を披露すると、ほぼ毎日通っているのは、オカリナ教室と社交ダンス教室です。オカリナは船に乗ってから習い始めたもので、初心者ですからいい音が出せない状態が続いています。

ダンスは、歩行強化のために20年前から近所のダンス教室に通い、年に1,2回のデモにも出演して鍛えてきましたので船では上級のクラスでも踊れるようになりました。

船内生活の写真集を作りました。

IMG_6816

ヨガ教室はいつも満杯の人気です。写真は、全体の一部だけです。ジム
アスレチッククラブも時間によりますが、満杯状況も少なくありません。

筆者は隣室のサウナを利用するのが日課になっています。

IMG_6821写真は折り紙クラブ。このような少人数の趣味・習い事のプログラムが多数あります。例えばこの日の船内新聞の案内をみると、お茶さろん、般若心経を唱える、切り絵、大喜利得意な人の集まり、ペタンクを楽しむ、水彩画教室、お手紙書き方、トランプマジック、各種ダンス教室、日本語・英会話教室、各種教養講演、映画、太極拳、浴衣を着て踊る会・・・まだまだキリがありません。

IMG_6818 (1)船内のあちこちに、写真のようなコーナーがあり、自由に使用できます。大抵は読書、PCなどの操作で趣味や仕事、談笑の場などに利用されています。

寿司寿司屋もあります。ネタはすべて日本から持ってきたもので、世界各地の魚の提供は禁止されていると聞きました。衛生上などの問題のようです。女性や外国人が握っています。写真は上寿司でこれで5千円です。寿司飯も国産のコメで美味しくいただきました。カウンターに座って握ってもらうという方法はなく、すべてこのようなセットの寿司提供です。

IMG_6803生バンドも毎日演奏しています。夜になると時間を区切って出演しますが、フロアもあるので音楽に合わせてダンスを踊ったり、ゴーゴーで盛り上がっています。主催者が設置する各種催し物の夜は、毎回、満員の盛況です。レストランでボックスに料理を入れて持ち込み(無料)も可能なので、大変、便利です。飲み物も、ワイン一杯500円程度ですから、割安感があります。

IMG_6737「今日のランチはラーメン・餃子らしい」というので行ってみたら、写真のようなトレイでした。ラーメンっぽいものに、餃子2個、麻婆豆腐ごはん、ザーサイもちょこっとあってま、久しぶりの中華ご飯に満足でした。

IMG_6825この日は全員の防災訓練も行われました


PEACE BOATで世界一周の旅ーその34

ヨーロッパ最大級の氷河が作るフィヨルドを船上から見学

今回はスエズ運河航海を断念してアフリカ大陸最南端を回った航海になったため、ヨーロッパの魅力ある国への寄港が出来ませんでした。そのためもあって、フィヨルドの船上見学は楽しみの一つに浮上していました。ノルウェーのベルゲン港を出港した後、船は観光の拠点になっているフィヨルドに入り込み、船上から360度迂回して景観を見せるというのです。その様子は、12階のプールを囲んだ空間に乗船客が集まり、集合記念写真を撮るという趣向です。

4甲板に出てみると寒い寒い。前日、購入したフード付きウインドブレーカーで凌ぎました。背景に見えるのがフィヨルドで露出した陸地ですが、曇り空でやや霧もかかり、よく見えません。甲板の天井には、スクリュー付きの大型救命ボートが設置されているのが見えます。

フィヨルドに船が入り込んだころ、船の7階の1周500メートル強の甲板廊下に出て、フィヨルドで出来た陸地の景観を見て歩きました。途中で、乗船している日本将棋連盟の棋士、高田尚平七段と出会い、甲板で記念写真を撮影しました。

5高田七段とツーショットの栄誉をいただきました。

この地域の天候は、晴れたり曇ったり、雨が降ったりやんだりと山の天気と似ています。気温は日本の冬並みで風も強い。冬支度をしてこなかった筆者は、ベルゲンでフード付きウインドブレーカーを購入しました。厳しい冬をしのいでいる国の製品ですから、日本で見るウインドブレーカーとは全く違ったもので、流石によく出来ています。購入と同時にスーツの上から着てみたら、別天地のように保温効果がありました。

船はフィヨルドの名所へと入っていきました。ノルウェー南西部にあるフィヨルドで、全長113キロメートル、最大水深564メートル。ヨーロッパ最大級の氷河から出来たノールフィヨルドです。午後6時半から、12階の広場に行って見ると乗船客が集まっていました。

1モヤにけぶるフィヨルドの景観です。天気(自然現象)次第の景観というのもオーロラに似ています。

薄日の差す天気と思いきや、5分後には曇りになり数分後には雨から氷雨になり震え上がりました。船が旋回を始めた時に合わせての記念写真でした。海上に開放された空間です。風があるし体感温度は5、6度ですから、前日、ベルゲンで買い込んだフード付きウインドブレーカーにマフラーを巻いて参加しました。

IMG_6797船の12階広場に集まって集合写真の撮影です。船が旋回して360度の景観を見せるという趣向でしたが氷雨の中で震え上がりました。


フィヨルドは、数万年もの時間をかけてつくられた氷河が自身の重みで斜面を滑り落ちながら地面を深く鋭く削り取り、深い谷を形成するのです。氷期の終わりごろ(約1万2000〜1万5000年前)に氷が溶けて海面が上がったため、深い谷の一部が海に沈むことでフィヨルドができたという説明でした。

急に気温が低下してきたので、早々に集合写真を撮影すると、退散する人が続出してきたので筆者も早々に帰宅(部屋に戻ることを帰宅と言うようになってきました)。部屋の窓からフィヨルドに別れを告げていると、空は明るくなり、なんと薄日も差してきました。向こうに見える陸地では、色とりどりの家が見え、どこもかしこも緑の山と稜線がきれいな景観を作っていました。

この日の日の入りは23時19分ですから、まだまだ日は高いのです。いよいよスカンジナ半島から離れてアイスランドへの航海が始まりました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその33

冷涼明媚なスカンジナビア半島に接岸

ロンドンから北上してスカンジナビア半島随一のベルゲン港に接岸されました。ノルウェーの首都オスロに次ぐ第二の都市であり、昔はヴァイキングの拠点でもあり、その後は交易都市として栄えてきた港です。今回の旅では、最も寒い地域に上陸するので、防寒には気を遣いました。次の寄港地のアイスランドは、もっと寒くなりそうです。

ノルウェー人は背が高い。第一印象がそれでした。男女とも金髪・碧眼でプロポーション随一の民族です。有名なベルクマンの法則では「恒温動物は寒冷に生息するほど体重が重くなる」とありますが、人間もクマやシカ類も野鳥も同じです。動物はすべて北方にいくほど同じ種でも大型になります。筆者が札幌に転勤でいたころ、スズメ・カラスの類いからすべての生息動物は、同種でありながら本州のそれよりも大型であり、ベルクマンの法則を知ったことを思い出しました。

ベルゲンは、その昔はヴァイキングの拠点のひとつであったようで、その後は海洋商業都市として栄え、ドイツのハンザ商人で形成していたハンザ同盟都市となって、スカンジナビア半島地域の仲介交易を独占していました。港湾に面した地域に、その歴史をとどめる古い建物と独特の商圏都市の風景をいまなお残しており、ユネスコの世界遺産にも認定されています。

IMG_6739船の窓から見た最初の光景は息をのむほどきれいでした。

タラ料理を食べ歴史を知る

バスを降りるといきなり魚市場に案内されました。タラ、カニが山と積まれ、北方海域で採れた豊富な海産物は日本向けにも輸出されています。日本ではタラちり程度でしか食べていませんでしたが、こちらではタラのムニエル、スープ、フライなど豊富なレシピがあることを知り、いくつも食べましたがこれが例外なく美味しい。料理法によってこんなに違うことを知り、この魚を見直しました。帰国したら、タラ料理を習熟したいと思ったほどです。

IMG_6761街並みは清潔感があり、多くの観光客と一緒になりました。
ベルゲンの歴史は、火災の歴史そのものであることも知りました。商都として栄えた1000年ほど前から商圏を巡る紛争や略奪、海賊襲来などで火を放たれることも多く、のたびに教会はおろか木造建築物はあらかた焼失していたと言うことです。

IMG_6741日本の魚港とは違った風情がありました。

イギリス、オランダ、ドイツとの交易や大戦による敵対関係の戦争もありましたが、その後の復興で建てられた家屋は、やがて近代的でモダンな北欧文化を体現したような瀟洒な住宅や建築物になりました。世界遺産になるほどの美しい景観をつくったのです。

IMG_6744 (2)ケーブルカーで昇った山頂から見た雄大な景色は素晴らしいの一語で、しばらく見とれました。この景観を見に来る観光客が大勢来ており、写真撮影に追われましたが、絶景とはこういうものかと思いました。やはり実際に眼にする景観はとうてい写真などでは表現できないものでした。

山頂に、バカでかい奇妙な人形があり、大人気でした。筆者もちゃっかり子どものように握手してきました。

IMG_6757ノルウェー伝説・トロール人形と握手。怒らせるといたずらをするが、大切にすると幸せを運んでくる巨大なトロール人形でした。今もなお、ノルウェーに生き続けているそうです。

作曲家・グリークの家を訪問する

港街からバスで移動して、大作曲家エドヴァルド・グリークの家を訪問しました。グリークについては、筆者が中学生時代から姉の影響で、組曲・ペールギュント、ピアノ協奏曲などさまざまな名曲を聴いていたので、とりわけ親近感がありましたが、ノルウェー人とは知りませんでした。

IMG_6768

行って見ると丘の麓から始まるこんもりした森の中に、緑に包まれた瀟洒な家があり、小さな博物館になっていました。グリークが作曲していた部屋もそのまま保存されており、ピアノ演奏家としても名を残したグリークのピアノもありました。

この家の前方には湖が見え、緑の濃い森の中に息づく芸術家のたたずまいを感じました。あの爽やかなペールギュントの出だしの朝が、すぐに筆者の中で演奏が始まりました。誰でも一度は聴いたことがあるあの曲です。筆者は数え切れないほど聴いてきた曲なので、心の中でも自然と鳴り出しました。この名曲もこの森と湖の中で作曲されたのでしょうか。感動してしばらくたたずみました。

IMG_6766グリークが今、そこにいるような雰囲気の部屋でした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその32

悲喜こもごもロンドン後遺症

ロンドンの2日間の観光は、土日になったうえ、大規模な2つのデモとサッカーの国際試合が重なり、交通大渋滞などで上陸したツアーは、さまざまな影響を受け帰船後もあちこちで話題が沸騰していました。

オプショナルツアー参加者は、場所によって影響軽微だったグループもありましたが、もろにかぶって観光どころではなかったというグループもいました。

ロンドンの土日は、クローズしている商店や機関もあり、観光施設でも閉館という場所があったようです。何よりも土日は、観光地への人出が多く、接岸スケジュールに工夫がなかったのかという意見も出ていました。

世界観を変えたスマホ文化と自由行動

ツアーグループに対して、それなりに楽しんだのは個人で自由に市内を観光した人でした。電車や地下鉄、タクシーなどをうまく利用して目的施設に直行し、デモに遭遇した人もいましたが、異国のデモ風景を見てそれなりに「観光」になったようでした。英語が通じることも自由行動に駆り出した理由になっていました。

話を聞いていて感心したのは、年代に関係なくスマホをうまく利用していることでした。若い人たちのスマホ利用術は別として、60歳代以上の高齢者の方たち、特にご婦人の方のスマホ利用術が筆者の想像を遙かに超えて習熟していることに感心しました。というよりも感心する筆者の方が未熟者にとどまっているのでしょう。そういうことを感じることが、ままありました。

IMG_6313焼酎のボトルキープ、3千円。夕食時になるとボトルを出し合って、あちこちで宴が始まります。貴重な情報交換の場になります。

実用的なスマホ活用は、体験がモノを言います。この種のツールは「習うより慣れろ」というように、体験することが最大の習得術になります。さらにご婦人たちは、スキルを伝搬させるスピード感が男性よりも遙かに早い。

ご婦人たちはきめ細かく、地図や施設の検索や確認。地下鉄などの交通情報の検索と確認。種々の買い物情報など実にきめ細かく情報を入手していました。

男性は気がついても機会がなければ黙っていますが、女性はおしゃべりの中であっという間に伝授していきます。そのような場面に出くわすと筆者は、関心しきりということになります。外国旅行でのスマホ利用は、想像以上の武器になることを船旅で感じました。船内でのWi-Fi利用を始め、うまくこのツールを使いこなせば、格段に便利で効率のいい旅につながっていくようです。

IMG_6047屋上のデッキに集まってあれこれ話題を語り合うことも

情報交換の重要な場になっています。

一方で「スマホなんて関係ねえよ」と語っている一群の人たちもいます。PEACE BOATでは、さまざまなプログラムを準備して提供し、さらに乗船客が自主的に余技や趣味を披露・伝授して楽しませてくれるプログラムが毎日、開催されています。1500人の小さな「村」が息づいていることを実感する日々でもあります。

沖縄2教養講演が、毎日、船内のどこかで開催されています。



PEACE BOATで世界一周の旅ーその31

憧れの巨大な遺跡列岩を見に行く

船が寄港地に寄る時間は1日か2日と決まっています。イギリスはロンドンから40キロの距離にあるテムズ河口のティルベリー港に接岸して2日滞在し、上陸して見物する10本のツアーが用意されていました。その中から1つだけ選ぶのは相当に迷いますが、1泊2日でストーンヘンジ(stone henge)に行くツアーに参加しました。

初日のロンドン観光は、前回書きましたが記録的な大規模デモの規制を受けてほぼバスに缶詰状態。2日目は早朝からバスに乗り込み、ひたすらストーンヘンジに向かって走ります。前日はバスに閉じ込められて終わった反動もあり、広々とした平原と羊たちの群れを飽かずに見ていました。

突然、眼に入ったのは平原の彼方にうごめく一本の線でした。あれは何だろう。アリの行列のように何かに向かってうごめいています。その先端まで追いかけてみると、そこに大きな岩石のようなものが点々と見えます。筆者はあっと心で中で叫びました。ついに来たのです。ストーンヘンジの独特の形が並んでいます。長い間、実際にこの眼で見たいと思い続けてきた憧れの巨大な岩石遺跡です。

すと2長い人の列が巨大遺跡群につながるように尾を引いていました。

シャトルバスで至近距離まで接近して見学

バスは遺跡から遠く離れたセンターに着き、そこからシャトルバスに乗り換えてストーンヘンジまで運ばれていきます。この巨大な岩石遺跡に筆者が注目したのは、少年時代でした。いまから4500年も前に、なぜにしてあのような巨大岩石を人々が組み立てたのか。少年雑誌に特集として写真入りで掲載されていました。その雑誌のことは大人になってもしばらく思い出すことがありました。

構成する何十トンという巨大な岩石は、数十キロ離れた山地から運んできたものです。先史時代に誰が何の目的でこの平原まで運び、組み立てたものなのか。野の原の中に屹立する岩石の構造体を筆者はいま見ようとしています。わくわくするうちに、それが眼前に現れました。

ストーンヘンジ見学は、遠巻きに一周するようにコースが出来ており、歩いてほぼ1時間で終了します。筆者の記憶では、1963年にイギリスの有名な天文学者、ジェラルド・ホーキンスが「ネイチャー」に論文を発表し、この遺跡岩の配置は、天文学的に考えたものであり、月と太陽の位置関係を配慮したもので日食を予測していたというものでした。

しかしこの見解もその後、否定的に見る研究者が現れており、この遺跡岩の配置と存在の意味は、まだ何も確定していません。しかし、遠隔地からこの平原まで人力だけで運び、それを組み立てていまの状態にした意味は何か。不可思議を超えて際限なく人間の才知を感じさせます。

ストーンヘンジをバックにした写真は、長い間筆者の憧れでした。人類の英知と力量を感じるからです。

スト1見る角度によって容貌が変わる遺跡群像

現場を一周して分かったことは、見る角度によってストーンヘンジの光景が変わっていきます。つまりストーンヘンジの容貌が変わるのです。だから私たちがさまざまな写真で見ている遺跡岩は、皆違う光景であるはずです。

一周するようにコースを作ったのは、その全貌を見て欲しいという配慮からでしょう。しかも10メートルにも満たない至近距離から見る位置にも行くように、作ってありました。その地点には幾重にも人の輪が広がりました。

数メートルの距離になるとその存在感が、あたりを払うように押し寄せてきました。

すと4写真で見るようにすぐ近くで手で触れるくらいの距離に来ると、圧倒的な質量感が迫り、この岩を「屋根」まで載せて作った先史時代の人たちは何を考えていたのだろうかと思わずにいられませんでした。屋根に当たる平らな岩石と、それを支える2本の岩柱との接点には、落下を防止するちょうつがい構造で固定されているというのです。

手で触れるくらいの距離から飽かずに観察する機会に感動しました。ゴツゴツした岩の構造物が、後生の人間に感動を与えるだろうと彼らが考えたことはないでしょう。しかしこれをつくった人たちは、現代人と同じような英知を備えていたでしょう。

すでにマンモスは滅び、現世の動物とほぼ同じ種に置き換わっていた動物群を追い求めていたクロマニヨン人たちは、私たち農耕民族とはまた違った価値観の中で独自の狩猟民族文化を築いていったに違いありません。

帰り際、ストーンヘンジに別れを告げようとしたとき、ある角度に気がつき、急いで回って撮ったのがこの写真です。

正面3
この角度で見た遺跡構造体が最も整っていると思ったからです。これこそストーンヘンジの正面から見た顔ではないだろうか。これをつくった一群のリーダーも、同じ思想で完成させたのではないだろうか。そういう思いを巡らせながら、撮影してきたスマホの写真を繰り返し眺めては、帰りのバスの席に埋もれていました。

さらばストーンヘンジ。もう二度と出会うことはないでしょう。しかしそれらは筆者にとって、永遠の輝きを宿して決して消えることない顔貌を心のひだに刻みつけたのでした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその30

ロンドンで記録的な大渋滞に巻き込まれる

日の出・午前4時46分、日の入・午後9時07分。これがロンドンの日の出・日の入です。やたら日中が長いので、少々、調子が狂いますが、この日のロンドンはさらに狂いました。

一泊2日、12万2千円という「豪華」なオプショナルツアーに参加しました。ロンドン市内観光、市内でホテルに泊まり、翌日はあの有名な環状列石といわれるストーンヘンジ(stone henge)の見学です。ティルベリー港を降りてバスに乗り換え、翌日、そのバスで帰って来るというバス旅行の日程です。

異変は、ロンドン市内に入るころから出てきました。渋滞が続き、市内に入ると路上の車は1センチも動きません。ガイドからの説明がなかったので、何も知らないで座席でうつらうつらしていますが、はっと気がついても車窓からの景色は何も変わっていません。

タワーブリッジ人出タワーブリッジの近くでバスを降りますが、周囲は人の波で近づくことは諦め、まずはトイレを探すことに追われました。

ようやく入った情報によると、この日、土曜日はイスラエルとパレスチナ紛争を巡ってイスラエルの過剰な攻撃に反対するデモと環境問題の対応不満のデモが重なり、あろうことかスペインとイギリスが対戦するサッカーの試合が開催されて、外国から大挙、見物客が押し寄せてロンドンは燃え上がっているというのです。

ロンドン警視庁とロンドン近隣から集まってきた警備・警察官が強制的に道路を封鎖してデモ隊を規制し、サッカー見物から派生する騒ぎを抑え込もうということですから、一般の通行規制ではなくロンドン一帯の「戒厳令」に等しい規制ではないかと思いました。

こちらは、バスに缶詰状態なので、街の騒動の様子は何も分かりませんでした。

観光地は人・人・人の洪水

ウエストミンスター寺院、国会議事堂、ビッグベン、タワーブリッジなどロンドンを代表する観光が組み込まれていましたが、国会議事堂が見えるところまで来たときは、予定時刻を大幅にオーバーしており、車窓見学ということになりました。

IMG_6688 (1)バスの車窓から遠く眺めた国会議事堂。ビックベンもかろうじて見えたという程度であり、ウエストミンスター寺院は近づくことも出来ませんでした。

このツアーは元々、接岸の時間で午後3時ころから出発したので時間的な余裕がなく、観光地に着いても慌ただしく写真撮影後には移動ということでしたが、ともかくも近づいてまたまた驚きました。

見物客が入場の列を作っているのか、はたまた単にあふれているのか不明でしたが、どこへ行っても人人人の波です。こちらは高齢者の集まりですから、最大の懸念はトイレです。しかし国会議事堂が見える場所に行ってみたら、公衆トイレは封鎖されており、思いあまってファストフードになだれ込んでトイレを拝借。時間の都合で何も飲まずにさっさとバスへ退散ということになりました。

トイレ閉鎖

ようやく見つけた公衆トイレはご覧のように封鎖。デモ隊の動きに応じて強制的に封鎖のようです。慌てて近くのファストフード店になだれ込み、迷惑承知で用を済ますという有様でした。

こんな繰り返しをしてやっとの思いで、予定より大幅にオーバーしてホテルに到着しました。慌ただしく夕食をとって寝るということになり、予定していた買い物なども出来ずに不満やるかたない初日になりました。

駅の立派さロンドンから出発する列車の駅は芸術品かと思うほどに立派な建物でした。蒸気機関の発明から鉄道の歴史を作った国を思いました。

翌日の日曜日は、一番、期待しているストーンヘンジの見物です。それだけが期待に置き換わり、初日は慌ただしく暮れていきました。

翌日、朝早くホテル周辺を散策すると思わぬ光景に出くわしました。筆者の名前の「Baba」と同じ名前のレストランの看板を見たのです。開店していればすぐさま入って店主に挨拶するところですが、日曜日の早朝ですから開いていませんでした。

馬場店ロンドン市内で筆者が経営するレストランです(fake news)


PEACE BOATで世界一周の旅ーその29

 ノルマンディーに上陸

第二次世界大戦の激戦地で有名なノルマンディー上陸作戦の舞台になったその地に「上陸」するとはびっくりでした。この地方最大の港であるル・アーブルに船が接岸したとき、大荒れの海の中であり小雨降る肌寒い朝でした。

整備された都市計画は、古い時代の遺産を活かした街並みが素晴らしく、ユネスコ世界遺産にも登録されています。多くの印象派の画家が描いたエトルタ、アヴァル断崖と海岸線の絶景、自然環境とその景観は素晴らしく、さらに歴史的な教会、大聖堂、宮殿、修道院などの遺産も点在しています。

IMG_6604往時の修道院は美術館になっていますが、その一部ではフランスで最古の歴史と品質を誇るコニャック、ブランデー、リキュールが醸造されています。

最低でも3日は必要な一大観光地をたった1日で見学するというのが船旅の宿命です。9つのツアーが用意されていましたが、参加できるのは1つだけ。筆者は、最古のリキュール発祥のベネディクティン修道院とそのリキュールとコニャック、ブランディーが試飲できるコースに参加しました。

IMG_6609中に入ってみると歴史を感じさせる美術館であり、一角には醸造工場が併設されていました。

古色蒼然と豪華な建築様式を両立させた修道院

1510年にベネディクト派の修道院として建築された建物は、あたりを圧倒する威厳を保っており、午前10時きっかりに門が開けられて入りました。

この修道院は非常に戒律の厳しいことで知られていたそうで、私語はもちろん許されず、作業の間もひたすらお祈りの言葉と姿勢を崩さなかったという説明には驚きました。朝起きてから夜寝るまで、ひたすら信仰の心にすがりついた修道院の中で、アルコール飲料が醸造されていたとは理解を超えるものでした。

IMG_6623歴史を刻んだ展示品は、多くが醸造に使った道具類と文献類でした。

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IMG_6631修道院時代の展示品は気品を感じさせるものばかりで見とれました

このリキュールは、さまざまな薬草と蜂蜜を材料にしたもので、度数はなんと40度。長寿にいいとされた薬用飲用となり、長い歴史を紡いで来たとのことでした。

口中を満たす芳醇な香りとコクのある甘み

修道院はのちに事業家の手に渡り、そこでフランス最古とされるリキュールの醸造製法が引き継がれました。さらにその醸造法に工夫と創意をいれてコニャックとブランデーの醸造に発展させ、コクのある上品な甘さは洋菓子の風味付けに絶好とされるようになり、世界中に輸出されました。

IMG_6616用意されたスタンドでコニャック、ブランディ、リキュールをいただきました

リキュール販売で儲けた資金で、往時の醸造器具類や修道院の素晴らしい調度品類などを買い集めて整理し、豪華なたたずまいのある美術館として完成させたのでした。

ステンドグラスの目を見張るような絢爛たる壁面や醸造道具類の展示物は、歴史そのものであり、現在の醸造手法も多くの職人が丹精込めて取り組み、新たな手法も編み出しているとのこと。近代的な作業現場と伝統的な現場を融合させた醸造現場の一端を見せてくれました。

コニャック、ブランディ、リキュールを入れたグラスが用意されており、みんなで試飲することになりました。グラスを口元に寄せるとなんとも言えない甘い香りが立ちのぼり、口に含むとアルコール度の強い芳醇な液体が一瞬の中で広がり、ため息に似た声と息遣いがあちこちで発散していました。

IMG_6641印象派の画家たちの眼を引いた断崖風景

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古い街並みには古風なホテルやレストラン、土産物屋が並び

一時間ほど歩いて楽しみました。


船の出航時間に合わせて港に引き返します。ガイドさんが「せっかく来たのにすぐ船に帰るのはもったいない」と残念そうな顔をしてくれましたが、何しろ世界一周という目的があるので、どこに上陸しても駆け足の見物で帰船して出航ということになります。これもまた、船旅の醍醐味でしょうか。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその28

学校で習わなかったから知らない

とかくご婦人たちの会話は、情報が多岐に渡り、参考になります。船のレストランのテーブルを6人で囲んだ夕飯の席を見渡すと男性は筆者だけで、あとはやや歳を重ねた「妙齢」のご婦人ばかり。こんな会話が聞こえてきました。

街の両替屋で日本のお札を出したところ受けつけない。理由を聞いたら、円相場の上下が激しく、さらに今度、お札のデザインが変わるので不安だと言われたとか。

古いお札も流通するから心配ないと言っても通じないらしい。

「しかし、さすが両替屋よね。日本のお札デザインの切り替え情報をちゃんと持っていた」と言えば、「日本を信用してないってことでしょう」となり、話は最近の政治、経済情勢から日本の停滞状況など際限なく広がります。

スライド2お札デザイン切り替えでは、千円札の肖像が野口英世から北里柴三郎へバトンタッチされる話をとらえて、筆者の出番が回って来ました。この2人の巨人については、ついついしたり顔で2人とも、後一歩でノーベル賞受賞だった史実を語ったところ「そんなこと、学校で習わなかった」となり、企画講演することになりました。

スライド6「学校で習わない」という言い方は、妙に説得力があります。しかし、習わないということは教科書に書いていないことを示すようで、入試にも出ないということになります。こういう教育を「与える教育」と言うようですが、いつまでたっても与えるだけの教育では、発展性もないし今の時代のスピードにも追いつけません。

世界の先端医学研究に取り組んだ野口

野口英世の伝記は、小学生にはいまでも人気があるようです。15歳で学校を卒業後は、独学でドイツ語、英語などの文献を読みこなし、今で言う医師国家試験を21歳で取得し、間もなくアメリカに留学します。

その後は、ペンシルバニア大学医学部のフレクスナー教授の指導のもとに瞬く間に細菌学、血清学などを習得して多数の論文を書き、ついに梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織で確認して、この病気と梅毒との関連を明らかにしました。

スライド221913年には、この業績だけで世界中の14人からノーベル賞候補の推薦を受け、最終選考にも残っていました。この推薦を始め、延べ23人から推薦を受け、今一歩で受賞という輝かしい活躍ぶりでした。

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スライド14
明治時代の医学研究の2人の巨人

7月3日に、1万円、5千円、千円のお札の肖像が20年ぶりに変わります。最も国民になじみのある千円札の肖像は、野口から北里柴三郎へとバトンタッチされます。そのような節目のときでもあり、偏差値などと無縁だった時代、福島県の寒村から高等小学校卒の学歴で世界の先端研究者になった野口の人生はあまりにドラマチックです。

乗船しているPEACE BOATが、数日前に野口が黄熱病にかかって斃れたガーナ沖を通過してきたばかりです。そういう縁も入れて話を進めました。

スライド27150人ほどが聴きに来てくれましたが、講演後の感想は「そんなこと知らなかった」という声ばかりであり、野口のドラマチックな人生は、色あせることなくさらに輝きを増していることを知りました。

偏差値一辺倒の大学入試制度、メディアも含めて有名大学入試競争の現場をこれ見よがしに報道する姿勢がある限り、野口のような英雄は出てこないでしょう。

次は、フランスのル・アーブルに寄港する予定です。