世界一周の船旅の記録その1をアップします。1~30回です。
2024/11/25
2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。
その様子を60回に渡って、ブログでアップします。
その①1~30回分のPDFファイルをアップします。
2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。
その様子を60回に渡って、ブログでアップします。
その①1~30回分のPDFファイルをアップします。
アフリカ南東部の大都市ポートエリザベスに接岸
セーシェル島からインド洋を南下すること5日間。茫洋として海を毎日見続けていましたが、アフリカの最南端に近いポートエリザベスの遠い影が見えてきたときは、ついにアフリカに来たという実感が沸いてきました。現役時代、一度だけ生きている化石魚と言われるシーラカンスの取材でアフリカ沿岸に行くため、何種類もの予防注射とワクチンを打って準備していたことがありました。直前にビザの関係で中止になって以来、アフリカに行く機会がありませんでした。
ポートエリザベスは、近年、観光都市として急速に開発されており、動物保護区や国立公園が整備されている都市です。港に接岸すると、おびただしい乗用車が整然と並んでいることに度肝を抜かれました。それは南アフリカ共和国(南ア)から輸出される自動車であり、この国はアフリカでも随一の工業国でもあることを思い出しました。
余裕ある風情を感じた実物の動物たち
接岸した翌日は、港町を散策して様子を見ましたが、最大の楽しみは動物保護区の見学でした。翌日朝早く、船からバスに乗り換えて1時間半、目指したプンバ・プライベート・ゲーム・リザーブ(Pumba Private Game Reserve、ここでは ブンパ動物保護区と表記)は、総面積7千ヘクタールという途方もなく広い動物保護区でした。バスを降り、ドライバーをいれて10人乗りの4輪駆動の大型ジープに乗り換えました。
洒落たロッジ風の建物から出てみると、背の低いブッシュが生い茂る起伏の富んだ丘稜地が際限なく広がっています。樹高の高い樹木はなく、四方八方見晴らしのいい丘陵地帯です。
私たちの眼前に最初に出てきたのはイボイノシシでした。見る間にヌーが出て、シカ類が出てきました。いずれもテレビの番組で見た動物たちですが、図鑑も持ち合わせていなかったので正確な種名は分かりません。
そこへいきなり、ブッシュの陰から大型のサイが2頭出てきました。おお、という歓声が沸きましたが、サイは何事もないように草をはんでいます。動物園で見るサイよりもずっと大型に見えているのはなぜなのか。動物園のサイよりも大きいわけがありません。そり上がった見事な角が大きく見せているのでしょうか。
ドライバー兼案内人によると、サイは眼の機能が低く耳と鼻が優れているそうで、地面の草しか食べないということでした。ジープからの距離は20メートル程度で、確かに地面の草だけ食べている様子を飽きるほど見せてくれました。
ゾウが出てキリンも出てきた
ジープは、うねうねと不規則に続いているでこぼこ道をゆっくりと進んでいますが、左右、見晴らしのいい景観なので同乗者はみな、左右を見渡しているのですが、ゾウが出てきたのは、すぐ近くのブッシュからでした。
巨像という言葉がありますが、やはり大きく見えます。数十メートル先で灌木の若い葉を鼻でうまくたぐり寄せてゆっくりとはんでいます。アフリカ象の誇る大きな耳をパタパタとあおりながら、悠然と枝葉を食べている姿は、動物園では味わえない生活の余裕らしさが見えています。彼らは餌を食べることが仕事ですが、この地では際限なく餌が広がっているのですから、余裕があるのは当たり前という野暮なことを思ったりしたとき、やにわに「キリンだ!」という同乗者の声に、ジープはゆったりとその方向に動き出しました。
キリンもでっかいなあというのが第一印象です。この丘陵地では、キリンの首を超える樹木はほとんど見当たりませんから、彼らが一番目立っているのでしょうか。見物していると、どこからともなくシマウマが紛れ込んできました。数頭のシマウマが眼前を横切っていく風景は、アフリカに来たという満足感で満たされます。
肉食獣は出てこなかった
動物保護区とはいえ、やはりお目当ては百獣の王ライオンのお出ましです。これだけ草食獣がいるのですからライオン、ヒョウ、チータなど肉食獣が出てきて眼前で狩りが始まる、というのはテレビの話です。僅か2時間余の見学には無理というもので、それは分かっていても、ライオンが出てこないかなあと思いながら「見えない?」、「いない?」などと言いながら四方に眼を走らせるのも楽しいものでした。
見学ジープがあちらこちらと走り回っているとき、路上に近い場所で一頭のシマウマがたたずんでいました。微動だにしない姿勢でこちらを見ています。ジープがすれすれの距離を過ぎても動きません。みな「かわいいねえ」などといいながらこのシマウマを眼で追っていました。
ジープが反転して方向を変えたとき、筆者はこのシマウマの左の臀部あたりを一瞬だけ見る機会に恵まれました。その尻のあたりに茶わんくらいのサイズで赤い肉色をした部分が見えました。怪我をしていたのです。見るからに痛々しい肉をさらした色です。この平原でこのような怪我は、肉食獣に襲われときに受けたものしか考えられません。ジープは方向を変えてしまったので、筆者ともう1人の女性以外は誰も見ることができませんでした。
あのシマウマはどうしただろうか。筆者はこの日ベッドに寝付こうとしたとき、しきりにあのシマウマのことを思い出していました。無事に生き延びることができるだろうか。アフリカの大地で出会った動物たちの光景の中で最も印象に残ったものでした。
サファリのロッジで食べたランチはフルコースが準備されており、
美味しい料理に大満足でした。
この保護区に生息している哺乳類だけでも47種もいるというのです。私たちが見たのはそのうち10種程度でしょう。ヘビやトカゲ、カメなど14種類がいるし、鳥類に至っては100種類を超えているということでした。
PEACE BOATが用意しているサファリツアーは8つありました。筆者はそのうちの1つを見ただけなので、他のコースに参加した人たちは何を見たのか。ライオンやカバやチータを見たという幸運に出会った人が出たかもしれませんが、いずれ長旅の合間に聞こえてくるでしょう。
天空に広がる満点の星に感動
明け方4時、目覚まし時計に起こされて14階屋上に出てみました。真っ暗闇を蹴散らすように白波を立てて船が航行しています。船上にいることを意識した瞬間、周囲が不気味にうごめいている気配を察し、目を凝らしてみると甲板の手すりを取り囲むように乗船客が群がっていました。この夜はみずがめ座η(エータ)流星群の観望会でした。
皆、顔を上に向け、カメラを構えている人もいます。筆者も手すりに割り込み空を見ました。天空を覆うおびただしい星たちを見て、ああすごいなあと感動しました。自宅から空を見ても似たような星空を見ているはずですが、暗黒が広がる洋上の星空は格別なのでしょう。あの輝く恒星たちはいつから存在したのだろうか。今から2億年前の恐竜たちも見ていたのだろうか。
エータ流星群は、ハレー彗星が宇宙に残した塵が大気圏に突入したとき、流れ星となって観察されるのです。南半球では1時間で最大50個も流星群を観察されるという触れ込みです。
突然、ああーという歓声が艦橋に流れました。空を横切るように光線が尾を引いて消えていきました。見た、見たという声があふれ、筆者も皆と一緒にその瞬間を喜び合いました。写真に撮影することはできませんでしたが、空の写真を掲出します。この夜は、南十字星も見ることができて大満足の観望会でした。
こどもの日のイベントを見物
小学生以下の子どもたちが5人乗船しており、5月節句の人形とひな祭りの祭壇がイベント開催スペースにセットされ見物する人たちで溢れました。
船上のイベントは、何をやっても楽しいようです。
図書コーナーに置いた書籍がいつもない!
このイベントスペースの一角に、図書コーナーがあって、乗船客が持ち込んだ書籍類が並んでいます。どんな書籍でも勝手に置き、勝手に持参して5日以内に読んで返すルールです。乗船した直後は、書棚が満杯に埋まっていましたが、いまは写真のようにガラガラです。
筆者も21世紀構想研創設25周年記念誌の「25年間劣化し続ける国家と組織」、筆者の著書「大村智 2億人を病魔から守った化学者」(中央公論新社)、「沖縄返還密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の1年」(日本評論社)、大村智先生らとの共著「イベルメクチン 新型コロナ治療の救世主となり得るのか」(河出新書)の4冊を置きました。いずれも置いた翌日には棚からなくなり、ときたま点検しますが戻っていたことがありません。間断なく次々と読まれているのでしょう。嬉しい現象です。
船の揺れと船酔い
5月1日、世界一美しい海に囲まれたセーシェル島を出港してからインド洋をひたすら南下し、5月8日まで1週間ノンストップの洋上の旅が続いています。このところ海は時化ており、連日、船の揺れ方が大きくなっています。
陸にいるときに不意に地震に見舞われたときと同じような感じの揺れが、ほとんど切れ目なく続いているので、よくこれで船酔いにならないものだと我ながら感心しています。廊下を歩くとき、誰もがよろめいて歩いており、14階の広々としたバイキングスタイルのレストランに行くと、皆、トレイに料理を取り分け、よろよろと危ない歩行でテーブルにたどりついています。体のバランスをとっている器官が船の揺れに同化して、酔わないようになってしまったのでしょうか。
筆者は、ひどい船酔いにあった体験があるので、信じられない気持ちです。それは東京の南方約930kmにある火山島の西之島で突然、火山活動を再開して噴火し新島を作った1973年のことです。その後火山活動は収まったので、新島に接岸して「決死の取材上陸」をしたことがありました。
150トンの漁船をチャーターして、日本テレビの取材班と一緒に上陸し、1時間の制限時間内に駆け足で見て回りました。取材は成功しましたが、船の往復、ひどい船酔いに見舞われ、3日ほど食べるものを受け付けませんでした。その体験があったので、今回は戦々恐々でしたが、7万トン超級の巨船は、あっさりと危惧を払拭してくれました。
戦艦大和を思い出させるパシフィック・ワールド号
以前にも書きましたが、PEACE BOATクルーズの巨船・パシフィック・ワールド号は、あの船艦大和と同規模であることに気がつきました。軍艦と客船という違いがあり全く違った目的で造船された船ですが、乗船してみると軍艦に乗って闘った軍人たちのことを思い出させました。
あの戦艦大和は、日本が総力を挙げて建造してから僅か3年4ヶ月後に、連合軍の総攻撃を浴びて坊ノ岬沖海戦で沈み、戦死者2740人、生存者は269人という痛ましい戦禍を残しました。甲板に立って、荒くささくれだった波頭を眺めながら、戦艦大和の悲劇を思わずにいられませんでした。
朝食時間と団らん
朝は6時からレストランが開店して、朝食が始まります。乗船客は高齢者が多いので、この時間になると待ちかねたように続々と人が集まってきます。入り口に立っているスタッフの責任者が、先着順にテーブルに合い相席で座るように差配します。
知らない同士が5人、6人同じテーブルの席について朝の挨拶をしながら、その日の天気、海上の様子や各自の体調の具合などを話しながらの朝食は、なかなか楽しいものです。
朝食メニューは5階レストランが和食、6階レストランが洋食の決まったトレイになっており、ほかに14階ではバイキング方式で和洋料理が多数並び、各自自由に盛り付けて食べられます。
この日の和朝食のトレイは、次のような内容でした。
温卵、納豆、厚揚げ煮物、焼き魚、海苔、冷や奴、お新香、みそ汁、おかゆまたはご飯、ヨーグルトそれに好みの果物ジュースと果物、牛乳がつきます。ほどほどの分量なので、完食する人が大多数です。よくできた献立であり、煮物やみそ汁の中身、魚の種類が日ごとに変わっています。毎日、ほぼ似たような献立ですが、日本の伝統的なメニューなのか飽きが来ません。洋食については、また別の日に紹介しましょう。
囲碁・将棋大会の参加
日本人の娯楽の中でも古くから伝統を引き継ぐ囲碁・将棋ですが、船内でも娯楽室に碁盤・将棋盤が並んでおり、いつでも相手さえいれば楽しめます。隣接して麻雀卓も9個も並んでいます。
5月3日の憲法記念日には、船内の囲碁・将棋大会が開催され、そこに参加しました。筆者はどちらもたしなみますが、この数十年、どちらもやったことがありません。多少、腕に自信のある将棋の方に参加することにしました。
将棋大会に参加してきた6人の女性
行ってみて驚きました。囲碁の参加者は、たった8人、それに対し将棋は22人もいました。将棋界のヒーロー、藤井聡太8冠ブームを見た思いですが、さらに驚いたのは囲碁の女性参加者が1人に対し、将棋には6人もの女性参加者がおり、その中に外国人の若い女性がいたことでした。
昔から囲碁は女性向き、将棋は女性には無理という話が言われてきました。理由は、将棋は切ったはったのあげくの勝ち負けなので、激しい闘いになり女性には向かないというもので、筆者もてっきりそう思っていました。
しかし将棋のプロの世界では女流プロの活躍はめざましく、近年は女流プロのトップクラスは、男性棋士と同格で闘える女性が出ています。ブームとは恐ろしいと思いました。勝負はトーナメント方式ですが、筆者は問題なく準決勝まで進みました。2回戦で女性とぶつかりましたが、これもなんなく退けての準決勝進出であり、ま、優勝も可能かなと自信らしいものがでていました。それが問題でした。
あまり考えずにすいすいと指し始めた準決勝ですが、序盤を過ぎたところで明らかに不利な局面になっていることに気がつきました。お相手は後期高齢者かなと思えるいわば「同輩」に見えたのも緊張感を生まなかったのです。振り飛車戦法の定番でしたが、久しぶりに指したので、途中で昔習った定石を思い出してみると、明らかに術中にはまっています。作戦負けです。お相手はやにわにスマホを持ち出し、盤面の写真を撮っています。
ははーん、敵の投了譜面の撮影か。こうなると一気に戦意失墜です。潔く「負けました」と言って投了しました。取り囲んでいた人たちがあっと驚き、一斉に声が上がりました。勝負はこれからと思っていたのにいきなり投了です。普通に指せば、不利が拡大するので、どこか勝負どころで仕掛けて逆転を狙えば戦えないこともありません。得意の逆転劇かあと心の中で苦笑し、しかしお相手の方に花束を投げるのもいいかなと思って投げました。
局後の感想戦になれば、講評するプロ棋士の解説が目に見えていますので、別のセッションに参加するふりをして早々に退散しました。悔しさがあったのです。翌朝、偶然に朝食のテーブルに将棋大会を主催したプロの高田尚平・棋士と同席となりました。「昨日はどうも・・・」と曖昧な笑みで挨拶すると、高田先生も覚えていて「あれは相当の棋力がないと投げません。お強いですねえ」とヘンな褒められ方をされました。「観戦していた方々は、なんで投げたのか分からなかったでしょうが・・・」と言ってくれました。その言葉で、なんだか勝負に勝ったような気分になったのですからおかしなものです。
若者が夢と希望も持つこととは何か
将棋大会を早々に退散して「若者が夢と希望を持てる社会とは」というセッションに参加しました。タイトルから若者が多いだろうと思っていたら、シニア階層が多いので意外感がしましたが、乗船客はほとんどがシニアなので当たり前の現象です。5人の若者がそれぞれ夢を実現する体験を語り、フロアのシニア層からコメントや体験談が出てきました。
若者は、自由に学びたくて外国へ行った体験話、女性のジュニア層といっても30歳代ですが、苦労しながらもやりがいのある保健教師や留学体験者の話が続きました。フロアからのシニア発言者は、男女とも教師OB、OGであり、教師という職業に誇りを持ちそれなりに評価され、リタイア後も社会貢献で活動している方であり、改めて教師というのは聖職とよばれるにふさわしい職業だと感じました。
そこで感じたことを端的に一つだけ言うと、若者の夢と言っても、夢は与えるものではなく自ら行動を起こして自ら摘み取るものだと気がつきました。つまり、自ら判断して行動力を培うように教育することが教師の役割ではないか。教えるのではなく、気づかせる。その気にさせる。判断力を磨かせる。これが教師の本務の重要な部分ではないかと思いました。
そんなことは当たり前と言われそうですが、門外漢が感じた素朴な感想なのだろうか。このテーマについて、船には多数の教員経験者がいるので、これから話題が尽きないなと思いながら構想研究会でのテーマになると思い始めていました。
イベルメクチンを知らない人が多い
2015年、大村智先生がノーベル生理学・医学賞を授与されたイベルメクチンについて、食事の際にテーブルが一緒になった方々に、それとなく聴いてみました。半分以上の方が「知らない」という反応でした。これにはびっくりしました。コロナ感染症がパンデミックに指定され世界が恐怖におののいていたころ、インドなど世界の多くの国々でイベルメクチンを投与して一時のピンチを切り抜けたなどのニュースを知っている方は、1人もいませんでした。
厚労省は、早い段階からイベルメクチンは、コロナに対して適応外で投与することを認めていました。世界各国で効いている証拠を重視したからです。副作用もほとんど報告がない。臨床試験はどの国でもやっていませんが、その時間がなかったから、緊急的に使ったものでした。
インドでは、連日、感染者と死亡者が爆発的に広がっていました。治療薬も予防薬もない。治療装置として人工心肺装置(ECMO)がありますが、これはほとんどの病院にない。コロナに感染して重症化していくことは、座して死を待つようなものだったのです。
途上国など多くの国で臨床治療にイベルメクチンを投与して改善したり、予防に有効だったという論文が多数でていたころです。国はイベルメクチンを治療薬として認めていないが、各国の医師たちはそれを破って投与を始めたのです。
イベルメクチンがコロナ予防・治療に効果があることをアメリカの臨床医たちのグループ(FLCCC)がネットで発信し、投与の仕方まで公表しました。こうして世界中でイベルメクチンがコロナ予防・治療、後遺症対応策に使われるようになったのです。
こうした世界の動きと日本の対応については、船に乗っている方々にそれとなく聞いても、ほぼ誰も知りません。そこで筆者は、日本でイベルメクチンのコロナ予防・治療に使われなかった実態を、事実だけ示して話をしました。50人ほどの方が会場に来てくれましたが、1時間20分の長時間を聞いていただき、終わった後も多くの人に囲まれて、質疑応答を行い、そのままランチへと流れ込んで行きました。
イベルメクチンのコロナ予防・治療について、世界で展開された事実と日本政府と厚労省がとってきた対応策について事実だけを講演で話をしました。聴者の皆さんは、ほぼ何も知らなかったことに大変びっくりされており、日本政府が国会で答弁していた内容も、単なるポーズであり、実際には何も行動を起こすことがなかったことにもびっくりされていました。
筆者の講演の狙いは、こうしたことを暴露するためではなく、過去の事実を総括して歴史的な事実を検証することをしなければ、史実は曖昧になり責任は誰もとらない国のままになっていくことを、みんなで考えるべきという課題を提起することでした。
講演の締めくくりでもこれを強調し、公文書管理のずさんさが行政の責任の所在を曖昧にし、進歩のない国の業態がいつまでも続いていくことを強調しました。これにも講演終了後にきちんと受け止めていただいた方々がおり、是非、次のテーマを聴きたいという希望までいただきました。
イベルメクチンとコロナについての世界的な総括は、まだ終了していません。この総括研究では、イベルメクチンを発見した日本が最も進んでいる国の一つであり、発見者の大村智先生とその共同研究者らの業績は、国際的にも高く評価されています。
帰国したらイベルメクチンについての総括討論を、認定NPO法人21世紀構想研究会でもしなければならないと強く思いました。
世界で最も美しい海のセーシェルに寄港
インド洋をノンストップで5日間も航海していると、そろそろ陸が恋しくなります。海が時化になると巨船といえども揺れが半端ではありません。船内の廊下を左右によろめきながら、壁伝いの格好で歩いています。
そんなとき、水平線の彼方にかすかな島影が見え始めたときには、嬉しくなりました。徐々に近づいてきた島の様子を見ながら、手元に用意していたセーシェルの歴史と自然に眼を通し始めました。
ところがこの頃から扁桃腺に炎症を起こし始め、熱はないものの痰が喉に絡み始め、咳もよく出てきます。船内の多くの方が似たような症状をしており、マスク姿が急に増え始めました。筆者も室外に出るときはマスク着用ですが、気分は特段、悪くもありません。船内の診療所は異変を訴える乗船客で満杯だという噂も聞きました。
風光明媚とはこのことか
セーシェルに接岸を始めると、海岸線の風景が徐々に手の届くところまで迫ってきました。いかにも南洋の植物相らしい、うっそうとした緑が豊かに茂っており、大きな風車がその光景を引き立てるように回っています。甲板で絵はがきになりそうな風景を見ながら、接舷の様子を見ていました。
この島を取り巻く深いブルーの海は、洋上から飽きるほど見てきましたが、島を縁取る緑の茂みと美しい海岸線は、数千万年前からの固有種で独自の植物相をつくってきたとのこと。セーシェル政府が特別に保護していると言うだけあって情緒的光景として見ていました。ヨーロッパからの観光客が多いというセーシェルを引き立てていることが分かります。
喉の異変でツアーをキャンセルして散策
上陸して一日観光で植物園などを見学する、バスツアーに申し込んでいました。しかし翌日には大事な船内講演があるので、症状を悪化させてはと考えた末に、断腸の思いでツアーをキャンセルし自室で静養することにしました。
そうは言うものの、接舷して次々と上陸した乗船客がツアーに出て行く姿を甲板から見ているうちたまらなくなり、上陸して港の周辺を散策することにしました。シダ類の目立つ植物景観と南洋の鳥たちが、セーシェルにいることを印象づけてくれます。ああ、巨大な亀の公園に行きたかったなあ、などと思いながら散策していましたが、それにしても人の姿が少ない。商店やレストランは軒並みクローズです。
思わず、今日は日曜日かなとカレンダーを確認したほどですが、メーデーの休みと分かり、ツアーの人々はどうなったかと思いながら、ただ一軒オープンしていたスーパーで軽食を買い込んで船室に戻りました。
日本人はやっぱりお風呂です
汗だくになって船の戻り、思いついてサウナに行くことにしました。最上階の下の12階にサウナがあり、隣接してジャグジーと小型の円形プールがあります。プールは別に長さ15メートルほどのコースプールがあり、まだ未体験ですがそろそろ行ってみたいと思っていました。
上が小型円形プール。下がジャグジープールで、水温28度から30度くらい。ジャグジーは水温38度ほどで、ぬるめの風呂程度。いつまでも入っていたくなるような快適さでした。
サウナをたっぷり使って汗を流し、誰もいないジャグジーで写真だけ撮って帰りました。
船内でPCR陽性者が出る
レストランは、5階、6階、14階とあり、5階が和食系統、6階が洋食風、14階はいわゆるバイキング方式で好きな料理をトレイに載せて思い思いのテーブルで食べています。
5階と6階は、正式なレストランのしきたりがあり、男性なら基本的に襟付きシャツ、スーツ着用が好ましいとされています。Tシャツ、サンダルは御法度であるが、まあ普通の服装なら文句は言われない。
14階のブッフェは、どんな服装でもOKのようで、若者たちは自由な服装で歓談しています。知らない同士で同じテーブルに着くと、自然と食べながらの雑談となります。口火は「どちらから参加ですか」となる。住んでいる場所や都市を聞いてくるのだが、意外と東京からと言う人には出会わない。
そんな雑談のおりに「船内でコロナが出たらしい」という話が出てきました。コロナと言っても変異株なので、あのパンデミック騒動となったコロナウイルスではなく、風邪症状で収まるものでしょう。PCR検査で陽性と出た人のようですが、一応、隔離したようだともいう。
乗員スタッフも入れると2000人ほどの人が、巨大なビル構造の中にいるので、言ってみれば巨大な培養器の中にいるようなものだろう。赤道を通過したあたりだから海上の気温も湿度も高い。船内はエアコンで快適な環境になっているが、一日に一回くらい、海風を全艦に入れて中の空気を全とっかえという訳にはいかないのだろうか。乗船客はいたってのんきな会話をしており、コロナウイルスの威力もほぼなくなってきたようである。
船はいまセーシェル島に向かってひたすらインド洋を航海しています。寄港地がないから毎日、見渡す限り海を見て過ごすよりない。マレーシアのポートクランを出てから1週間、ひたすら海上を移動する。地球の天体位置も海図も満足になかった大航海時代の船乗りたちは、どんな気持ちで毎日を過ごしたのだろうか。
そんなことを考えながら、屋上デッキの長椅子に身を伸ばしてぼんやりしているとき、誰かが「あれは何だ!」を叫んだので皆が一斉にユビ指す方向を見ると、巨大な虹の柱がインド洋に架かっている。スマホ撮影が始まり、ひとしきり自然の雄大さをこの目で見て誰もが満足した様子でした。
インド洋の日の出
船の朝は早い。午前6時からエアロビクスが始まり、アスレチックジムがオープンして早くも、ランニングマシンに精を出している人を見かけます。
この日、4月27日の日の出は6時23分です。12階のプールを取り巻くデッキには大勢の乗船客が集まってきます。体操の前に日の出を拝み、この日の一日が始まる気分になります。
1300人の乗船客に退屈感を与えないために、多くの企画、イベント、カルチャースクールが朝6時から夜11時まで、10か所の会場で進行していきます。最も大きな劇場型のプリンセスシアターでは、午前と午後に映画が上映されており、この日は「日本人の忘れ物 フィリピン中国の残留邦人」、「ナイル殺人事件」が上映され、映画の合間に高橋和夫さんの「カザと紅海」という講演会がありました。
中央の空間を取り巻くようにヨガ教室が行われますが、連日、大盛況です
人の集まり具合を見ていると、ダンス教室はほぼ確実に盛況です。社交ダンスを始め、サルサ、ベリーダンスなど若い世代から年配者まで誰もが楽しめるようなプログラムになっているようです。船に乗っていると運動不足になりがちなので、体を動かすプログラムがそれなりに用意され、参加者もまた集まってくるという感じです。
乗船者が自主的に企画して呼びかける企画ミーティングや各種の教室も大きなスペースを適当に区切ってそれぞれが開催しているので、筆者もいくつかに参加して見ました。これまでの寄港地での旅の思い出を語り合うサークルでは、深圳でカードが使えず食い逃げ寸前で中国の友人に助けられた失敗談を披露してうけました。
船内のバス・トイレ事情
船の中で3ヶ月も過ごすので、乗船する前に多くの人から日常生活の有様を聞かれましたが、体験前ですから答えようもありませんでした。生活する部屋もビジネスホテル並みということだけで乗ってみるまでは一抹の不安感がありました。
狭い空間ですが、特段の不都合もなく使っています
部屋に案内されてみると、15平米ほどの部屋に大きな窓付き、ダブルベッド備えの部屋で、洗面台付近のアメニティは簡素で何もありません。バス・トイレもそれなりのものです。ただバスタブではなくシャワーであり、狭い空間ながらお湯の温度は十分であり水勢もかなりのものです。就寝前や起床直後にシャワーを使う習慣はなかったのですが、これに慣れてしまうと日本的に肩までお湯に浸るお風呂は忘れていきました。
トイレは事後洗浄(いわゆるウオッシュレット)ではない昔ながらの様式です。30年近く使い慣れてきた洗浄トイレでない、昔ながらの自分で始末する様式に一抹の不安がありましたが、これの解決法をほどなく発見して無事、乗り越えました。
子ども時代から慣れていたトイレの後始末、トイレットペーパーで始末するあの様式からおさらばして洗浄トイレに慣れてしまったので、昔を思い出して「挑戦」しますが、これが不安感一杯でなかなかうまくいかない。終わった後、シャワーを使って念入りに洗うよりない。しかし毎回、こんなことをやるのも面倒なのです。
ところが、レストランやエレベーター付近には必ず、誰でも使えるトイレがあります。点検してみるとここのトイレは洗浄式になっています。どう見ても日本のメーカー品と同じに見えるので不安はない。テストの状況もOKとなり、それからは毎日こちらに出張して用を済ましていました。誰も使っていないのだろうかと思うほど、いつでも空いていました。
お洗濯は楽ちん外注
国内での出張時の洗濯物は、お風呂に浸かったときに簡単に水洗いしてハンガーに下げる。これがいつもの筆者のやり方でした。船でもそうなるだろうと想像してきましたが、ここでは「ランドリーバッグ」なるものがあり、何でもかんでもこの袋に詰めて出すと、1回、800円で済みます。
洗濯に出した個数ではなく、洗濯物の体積になるので、袋にぎゅうぎゅう詰めにして出しても800円。詰め込めば、それだけ割り得になるという訳です。
オプショナルツアーの選択
今回のPEACE BOAT117は、105日間に21か所の港に停泊します。すでに中国の深圳、シンガポール、マレーシアのポートクランの3か所に停泊し、乗船客の多くが下船して見物に出かけました。PEACE BOATでは、乗船客の見物・見学の要望に応じて、多くのオプショナルツアーを用意していますが、そのコースが1つの停泊地で10個以上あることもあり、選択に迷ってしまいます。
マレーシアのポートクランに停泊したとき、同国の首都、クアラルンプールにバスで往復するツアーもありましたが、筆者は急きょこのツアーをキャンセルして、港に隣接するポートクランに行くことにしました。首都の様相は写真などで見ると、近代的なビルが林立し、いかにも国際都市の景観ですが、それよりも港に近い地区にあるインド系住民が多いポートクランという観光地域を見学することにしました。
オプショナルツアーの直前のキャンセルは、50%の払い戻しになりますが、一生に一度しか来ない都市や地域を見るためには仕方ない選択です。キャンセルして、ポートクラン地域を往復するバスコースに切り替えました。これが筆者の思惑取りの見学になりました。
インド系住民の作った観光地域
巨大なモスクに隣接する駐車道路でバスを降りて見学に出かけました。大きな通りの両側の長い長いアーケードにびっしりと商店が並んでいます。住民はインド系の人々であることは一目で分かります。
店舗の入り口付近には申し合わせたように店の男女従業員が並んでしますが、特段、客寄せする様子はなく、目が合えば軽く会釈する程度です。客寄せに熱心な他の国とは大違いです。いったいこれで商売が成り立つのだろうかと心配になるほどです。
商店街の半分くらいが女性の衣料品店であり、後の半分は、食料品から雑貨類など多様な品揃えです。
女性専用の衣料品店は、どうみても観光客目当てのお土産屋ですが、どの店もほぼ同じような構えで、同じような商品を陳列しています。これでは、どの店で買い物をするのも同じだなという印象でした。
しかし女性の観光客は次々とハシゴをしながら店に入って物色する光景を見ていると、女性が見た目では違った陳列商品になっているのでしょうか。男性専用の店を一軒、発見しましたが、外から見ただけで民族衣装系統の服飾類が多数飾ってあり、見るだけで結構という感じでした。
歩き疲れてビールでも一杯と思って気がつきました。回教徒の国なのでアルコール類は販売していません。料理は中華系が多いように見えましたが、陳列棚を見るとどれもこれも食欲がわいてこない。結局、大きなスーパーに入って、日本などから輸入した加工食品を買い求め、バスの中で食べることにしました。
この地域は、港町で栄えた観光地域のようですが、道路、建築物などの社会インフラは貧困であり、30年前の中国の地方都市よりも遅れているように感じました。どの商店もクレジットカードは使えないキャッシュオンリーであり、大きなスーパーだけがカードを使えました。
外は気温30度内外、湿度も高く蒸し暑いのに船に帰るとクーラーが効きすぎて小寒い。そこで婦人用のショールを防寒用に買って羽織ることにしました。これで1000円ほどの買い物でした。
隣国ブルネイとの違いにびっくり
筆者はバイオ関係の企業が進出した隣国のブルネイに行ったことがあります。ブルネイはマレー系の人たちで人口41万人の小さな国ですが、石油・天然ガス資源に恵まれた豊かな国になっています。ホテルや商店の従業員の服装やたたずまいは、先進国とほぼ変わらず、垢抜けした人々でした。
この国も厳しい禁酒国であり、アルコール飲料はごく限られたレストラン、しかも夜だけしか飲めません。国民は豊かな生活をしており、現地に進出している日本の商社や企業の人たちは「国が豊かなので国民は働かない。この国の発展は期待できない」とも語っていました。
石油資源が枯渇した時に備えて、政府は次世代産業育成のために外国産業の導入と育成に力を入れているということですが、肝心の国民が働かないというのですから、発展は無理という見方も当たっているのでしょう。
隣国同士なのにかくも違う文化が、それぞれの伝統と民族の中に形成され、存在していることを見て、世界の広さを感じた時間でした。
初めて知ったシンガポール歴史の真実
4月22日に筆者は初めてシンガポールを訪問しました。これまで何回も行くチャンスがあったのに、この小さな島国に行くことはできなかったので、いわば憧れの地でした。
シンガポールに特に興味があったのは、教育・研究施策がしっかりしており、科学技術の研究開発でも常に世界の上位にランクされている優れた施策を展開していることにありました。大学ランキングでも、常に日本の大学の上を行っています。
それともう一つ興味の対象は、太平洋戦争中、マレー沖で日本陸・海軍の攻撃で撃沈されたイギリスの戦艦プリンスオブ・ウエールズと巡洋艦レパルスの歴史に触れたいという思いもありました。2隻の戦艦撃沈の報告を受けたチャーチル首相が、言葉を失ったと言われています。シンガポールは、大英帝国にとって難攻不落と言われたアジアの一大拠点だったのです。それを10日あまりで日本軍に降伏し、チャーチルはここでも「英国軍の地上最大の降伏だ」と語ったということです。
船から上陸・訪問する前日、船内で「昭南島~日本軍占領下ンガポール」というタイトルで野平晋作さんの講演会がありました。船の中では最も大きな座席数を持つプリンセスシアターでの開催ですが、筆者はこのとき、別のセッションに出ていた都合で、最後の方だけに参加しましたが、非常にためになる講演でした。
会場は満席の盛況であり、最後に日本が未だにシンガポールに謝罪していないのではないかという意見を巡って、会場の人たちが激しく討論している場面に出くわしました。
昭南島とは、シンガポールをイギリスの占領・統治から奪い取った日本軍が命名して使ったこの地の名称です。シンガポールの歴史をほとんど知らなかった筆者は、イギリス統治から日本統治へ、そして戦争に負けて再びイギリス統治に至った歴史的な経過と、日本軍の侵攻時に行った現地の抗日義勇軍に対する攻撃と、民間人も巻き込んだ抗日華僑殲滅作戦の虐殺行為などを知って驚きました。
先進的で豊かな国になったシンガポール
シンガポールに足を踏み入れて見ると、この国の先進的な豊かさを肌で感じました。建物が瀟洒であり、働く人々の仕草と表情が垢抜けしていました。店頭に並ぶ商品の値段を見ると、日本より物価高かなと思いましたが、デフレ・円安で、もがいている日本の現状がこの数字でも分かりました。
ただ、街を走っている車のメーカーは、日本車が多く目につき、続いてヨーロッパ車、そして韓国車と続いていました。
世界の遺産である植物園
シンガポールの世界的に有名な植物園は、管理が行き届いた素晴らしい規模と展示内容でした。世界の各地域の植物コレクションが約6万点展示されており、最大の観光スポットです。本来なら1日がかりで見学する場所でしょうが、こちらは1時間足らずの駆け足で回る「爆走見物」でした。
川船に乗船して川を上下するクルーズに乗りました。川風が心地よく、両岸に並ぶ新旧バランスよい景観もいい感じでした。疲れた足を休ませるためにお茶をしているとき、何の脈絡もなく、太平洋戦争のシンガポール戦を思い出していました。
筆者の知識は若いころに読んだ記録、伝記ものなどに限られていますが、日本が太平洋戦争に負けたきっかけは、シンガポール戦の勝利と戦艦プリンスオブ・ウエールズ、レパルスの撃沈勝利にあったという皮肉な史実を思い出しました。シンガポールで勝ったことが、あろうことか太平洋戦争で負けた原因になったのです。
戦艦撃沈の勝利では、日本海軍の海上からの戦闘機爆撃が有効だったことを示したもので、アメリカはこの戦況にいち早く目をつけました。戦艦や空母を撃沈するのは戦闘機爆撃が有効であると確信し、ミッドウエー海戦でこれを実行して大戦果をあげたと言うことです。
それから戦況は急激にアメリカ優位に傾き、日本の敗戦に至ったということでした。日本は戦艦大和に代表されるように巨艦主義にこだわり、近代戦への研究が足りなかったのです。科学技術で劣等国家だった日本が、今なお政治の世界では科学音痴が続いており、国家としての限界を見るような気持ちです。
旅行で訪問した国に足を踏み入れると、過去の史実を思い出してしばし感慨にふけると言うことは誰にでもあることなのでしょうか。船で一緒になった人々と会話をするうちさまざまなことを聞いて、何も知らないできた自分に気がついて驚くことがあります。しかしそんなことは誰にも言えず、自分だけにしまい込んで船に戻ってました。