01 日々これ新たなり

世界一周の船旅の記録その1をアップします。1~30回です。

 2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。

 その様子を60回に渡って、ブログでアップします。

 その①1~30回分のPDFファイルをアップします。

   船旅1-30通しをダウンロード


日中シンポジウム 倉澤治雄 その1 

私が中国の科学技術に初めて接したのは1985年のことでした。当時日本テレビの記者として科学技術を担当していたことから、竹内黎一科学技術庁長官に同行して北京、西安、上海の研究施設や大学を訪ねる機会がありました。北京の空港から市内までの道路はまだ舗装されておらず、人の群れ、自転車の列、馬車が混然一体となっている道を、私たちが乗ったバスが警笛を鳴らし続けながら走ったことを鮮烈に覚えています。大学や研究施設もまるで19世紀にタイムスリップしたようでした。あれから35年余りが経って、中国の科学技術は見違えるように発展しました。

一国の科学技術力を測る指標として、白川先生が話をされた論文数、研究開発費などのデータがありますが、私は宇宙開発の視点で中国の実力をフラットに見てみたいと思います。

今年2021年は中国共産党創立100周年ということもあり、中国は火星に探査機を送り込みました。今この瞬間、米国の火星探査機「パーシビアランス」と中国の「天問1号」が同時に火星で探査を行っています。火星探査の歴史を振り返ると、1957年の「スプートニク」で宇宙開発の先手を握った旧ソ連が、1960年から「マルス計画」で30機近い探査機を打ち上げましたが、ほとんど失敗しました。

一方米国も1964年から探査機を打ち上げましたが、火星表面への着陸に成功したのは1976年の「バイキング1号」が初めてです。日本も1998年に「のぞみ」を打ち上げましたが通信が途絶え、失敗に終わりました。地球と火星の間には「探査機の墓場がある」と言われるくらいです。

写真1火星ローバー「祝融」の映像(CCTVより)
火星ローバー「祝融」の映像

地球と火星の距離は公転周期の違いから2年に一度だけ近づきます。約7500万キロという距離に加えて、火星周回軌道への投入、火星表面への自動での軟着陸と技術的ハードルは極めて高く、今回中国が初めてのミッションで米国と同時に軟着陸に成功したことは、宇宙開発史上輝かしい成果と言えます。

火星をめぐる米国と中国のレースは、火星からのサンプルリターン、そして有人宇宙飛行と続くことになります。中国は2049年に建国100周年を迎えますので、それまでにどちらが先に火星に人類を送ることができるか、大変注目されます。

米中の宇宙覇権をめぐる競争が最も先鋭に表れたのが月をめぐるポジションです。米国は1969年、「アポロ11号」で初めて人類を月に送ることに成功しました。しかしアポロ計画は1972年に終了、それ以降月面に立った宇宙飛行士はいません。中国は2019年1月、探査機「嫦娥4号」を月の裏側に軟着陸させることに成功しました。月は地球を回る公転周期と自転周期が一致しているため、地球から月の裏側を見ることはできません。また月の裏側の探査機と地球の通信手段がないことから、これまで米国もロシアも探査機を着陸させることができませんでした。中国は地球と月の引力、それに探査機の遠心力が釣り合う「ラグランジュ点」に「鵲橋」という中継衛星を投入してこの問題を解決しました。しかも「嫦娥4号」が着陸したのは南極に近いクレーターです。ここには「水」の存在が予想されています。水は生命を維持するのに必要なだけでなく、水素と酸素に分解してエネルギーとしても使えるので、月面に基地を作るには「水」を探し当てたものが勝者となるのです。

写真2月面ローバー「玉兎2号」(新華網より)
月面ローバー「玉兎2号」新華網より

月の裏側への軟着陸は米国をいたく刺激しました。ペンス副大統領は2019年3月、「中国は月の裏側にいち早く到達し、月での戦略的なポジションを獲得し、世界の卓越した『宇宙強国』になるという野心を明らかにしました」と対抗心をむき出しにしました。その上で、「次に月面に立つ男性と女性は米国の宇宙飛行士であり、米国の国土から、米国のロケットで打ち上げられなければならないのです」と述べて、有人月面着陸を目指す「アルテミス計画」を2028年から2024年に前倒しすると発表しました。あと3年しかありません。中国はその後「嫦娥5号」でサンプルリターンにも成功し、約1.7キログラムの月の石を地球に持ち帰りました。中国は有人月着陸を目指して、米国アポロ計画で使われた「サターンⅤ」を上回る「長征9号」という巨大ロケットの開発を急いでいます。「長征9号」の完成は2030年頃と見られています。

写真3スペース・ローンチ・システムのコア部分NASAホームページより
スペースローンチシステム NASAホームページより

衛星の打ち上げでも中国はロシア、米国を抜いて1位となっています。とくに注目されるのが航行測位衛星システムの「北斗」です。位置情報を知るにはいまGPSが使われていますが、今後「北斗」がGPSに取って代わるかもしれません。というのも「北斗」システムの精度は近い将来センチメートル単位になるといわれ、数メートル単位のGPSを上回る能力を持っているからです。昨年6月、「北斗3型」35機によるシステムが完成しました。すでに中国が進める「一帯一路」の関係国30か国が採用を決めているほか、iPhone12を初めとして、スマートフォンにも「北斗」対応のチップが搭載されています。

写真4北斗システム(百度より)
 北斗システム 百度より

また異彩を放っているのが2016年に打ち上げられた「墨子」という量子通信衛星です。量子通信は絶対に内容を盗聴できない暗号通信が可能と言われています。地表では100キロメートルほどしか届きませんが、宇宙を経由すると全地球をカバーできます。もともとオーストリア・ウィーン大学のツァイリンガー教授が考え付いた通信ですが、留学していた藩建偉中国科技大教授が引き継ぎ、7,600キロの量子テレポーテーションに成功しました。今年1月には中国国内の32都市を結ぶネットワークを構築して、安全保障関係や金融関係での実用化が始まっています。潘教授は「量子の父」として知られ、中国で最もノーベル賞に近い研究者と言われています。その潘教授は「世界で量子通信のネットワークが構築されると、サイバーセキュリティの懸念はなくなるだろう」と語っています。米国はまだこの分野で追いついていません。

写真5 量子通信ネットワーク(新華網より)
量子通信ネットワーク 新華網より

さらに重要なのが中国の宇宙ステーション「天宮」です。米国主導の国際宇宙ステーション(ISS)は2024年に役割を終えます。米国議会を中心に2030年まで延長する案が出ていますが、すでにかなり老朽化している上、運用は民間に移行されます。中国の宇宙ステーション「天宮」はそのすきを狙って2022年から稼働する予定で、宇宙環境を利用した低軌道での宇宙実験は「天宮」の独壇場となる可能性が出ています。今年6月には3人の宇宙飛行士が「天宮」に乗り込み、船外活動なども行いました。

写真6 中国宇宙ステーション「天宮」(SPCより)
中国版宇宙ステーション「天宮」 サイエンスポータルチャイナより

では宇宙大国アメリカはどうなっているかというと、スペースXをはじめとする民間の宇宙ベンチャーがとても元気です。スペースXは再使用可能な「ファルコン9」に続いて、「スターシップ」という巨大宇宙船を開発しています。またブルーオリジンやバージンギャラクティクは、地上100キロほどのサブオービタル飛行に成功し、宇宙旅行が現実味を帯びてきました。

写真7 スターシップ(spaceXホームページより)
スターシップ

さらに小型衛星を低軌道に1万個以上ばらまいて、あたかも「星座(コンステレーション)」のように配置して、地上のどこでも通信できる「スターリンク」というサービスもすでに始まっています。

米国の強みは何といっても民間のベンチャー企業が元気なことです。これからの米中の宇宙覇権をめぐる戦いでは、国策として宇宙開発を進める中国と、民間の活力を最大限利用する米国の争いなのです。

(第一部以上)


決断と実行できない政治は無能である

 
「GO TOトラベルキャンペーン」を続行するかどうか、限定的にするのか、はたまたやめるのかどうか。小手先の施策検討をめぐって連日、メディアが官邸の動きを報道している。一方でメディアは、国民にインタビューして政府施策の賛否の意見を言わせるだけであり、国民は何の対応策もできないまま、毎日感染症者の数を見て暗澹たる気持ちになるだけである。
 
ドイツのメルケル首相が、この難局を越えようと絞り出す声で国民を説得する演説をネットで見て、感心しているだけの日本人は情けない国民である。隣国・地域の台湾、韓国、中国はどうなっているのか。感染者数を見ると中国9万弱、韓国4万強、台湾千人以下に対し日本は18万人弱。いつの間にか日本だけが突出している。信じられないことだが、日本は中国の2倍、韓国の4倍強の感染者数になっている。
 
日本の感染防御態勢が、隣国の対応とは違うことがこれでわかる。でなければ日本人はこの地域では、突出して新型コロナウイルス感染に弱い民族であることになる。感染対応策と経済活動との調整というのが政府の言い分だが、毎日増え続ける重症患者数が医療崩壊につながった場合、どうするのか。
 
「医療崩壊につながった場合は、明確に責任の所在を明らかにする」と政府が明言し、確信をもって政策を進めることを国民に求めるなら、それも政治的決断であるが、そう言うこともしないまま、ただ、国民の自粛期待と一方で経済活動の名のもとに中途半端な政策を遂行するのは、単に決断と実行ができない政府ではないのか。
 
 小手先で中途半端な施策をしないで、決然と政策実行の内容を首相が国民に示し、理解と忍従を求めなければ、単に権力に唯々諾々と従うしかない戦前の日本人と変わらないことになる。
 歴史的事実から検証すると、決断も実行もできない政府は無能である。日本はいま、その瀬戸際に立たされている。

 森戸佑幸さんが、11月20日午後4時、東京・五反田のNTT東日本関東病院で、急性骨髄性白血病のため亡くなりました。80歳でした。「新薬の治療を受け起死回生の回復をするんだ」と電話口でお元気に語っていた1か月後の訃報でありまことに残念です。

 コロナ禍のご時世であるためお別れは、親族だけの密葬を執り行うということでした。

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在りし日の森戸さん

(前列右端、左隣りは大村智先生、東京理科大学キャンパスで)

 

 21世紀構想研究会では、2011年2月22日に開催した第85回21世紀構想研究会で「シニア・ベンチャー企業を立ち上げるーあくなき挑戦、魅力ある人生を求めて」のタイトルで講演を行い、生涯発明家・事業家の活動歴を語り、会員の皆さんに感銘を与えました。

 森戸さんは1973年に光ファイバー、光デバイス製造業である株式会社モリテックスを創業して東証1部上場まで育てあげて退任、今度はユーヴィックス株式会社の創業者となり、光触媒などによる除菌・脱臭・消臭機器の開発・販売に意欲を燃やし多数の特許出願・取得をしてきました。

 財団法人・日本発明振興会協会より発明振興功労賞を2013年までに計3回受賞、2015年には、東京都知事より発明大賞東京都知事賞を受賞し、発明家・事業家として最後まで社会貢献してきました。

 また私財の中から総額12億535万円を東京理科大学に寄付し、大学はその寄金で神楽坂キャンパスに森戸記念館、野田キャンパスに森戸記念体育館を建設しました。

 昨年の今ごろは、ほぼ一か月に渡ってヨーロッパ諸国の企業を回って技術開発と事業化への情報交換を行い、帰国直後に急性白血病で入院し、その後、入退院を繰り返しながら治療を続けていました。病床にあっても常に前向きで発明人生を語った稀有の事業家でした。謹んで逝去を悼みご通知いたします。


ぎっくり腰に襲われた-3

 ぎっくり腰という病名はないことを今回、初めて知った。ぎっくり腰とは、単に腰痛ということになる。原因も治療法も確立されていない。だからぎっくり腰になった人の体験談が、治療法の目安になる。自分で対応して治すよりない。

 そのように感じた。もちろん、整形外科医、整体師、マッサージ師などぎっくり腰の改善に向き合ってきた専門家がいるが、患者のケースバイケースで対応していることが分かった。たとえばコルセットだが、筆者も供与されたが、使い方が不明だった。いつどのような状況で使用するのか。永久に使うのか途中でやめるのか、それすら伝授されなかった。要は分からないのである。体験者に聞いても人によって使い方が違っていた。

 発症からの状況によって、対応が違うようだ。最初はアイシングして冷やす。しかし患部が落ち着いてきたら温める。常時、タオルを巻いて温めておくといいという意見もあったし、それで実際に治ったという人もいた。人それぞれが苦労して改善している。

 さて筆者の場合は、痛み止めと抗炎症剤の点滴で半日後には改善して、痛みは大幅に和らぎ、そろそろだが歩けるようになった。二日目は、近所の整形外科クリニックへ行ったが、患部に痛み止めの注射をし、コルセットを出され、痛み止めの薬をもらった。

 三日目には、痛みもほぼなくなり、普通に歩けるようになった。しかし、あの死ぬほど辛かった激痛がまた来るのではないかという恐怖心があり、歩く歩調もそろそろり・・・。四日目になって。左腰の幹部が若干、疼くように感じて慌てて痛み止めを服用して終日、横になっていた。

 しかし特段、悪化する様子が見えず、その後は恐れながらも普通の歩き方に近づいてきた。気が付くと1日、1万歩も歩いていたので、これはハイペースと思ってその後は慎重にペースを落とした。

 と言うわけで、激痛に襲われて一歩も歩けず救急車にまでお世話になったぎっくり腰だが、半月後ににはようやく、精神的にも余裕を取り戻し、平穏な日常生活に戻ってきた。ぎっくり腰騒動が、これで平穏になることを祈って、この報告はこれまでとしたい。

おわり


ぎっくり腰に襲われた-2

 聖路加病院救急部に搬送され、点滴で痛め止め、抗炎症剤を投与されて3時間ほど、医師がそろそろ歩けるかどうか、痛みが軽減したかどうかトイレまで歩いて行きなさいという。激痛の感覚がまだ残っているので、恐る恐るゆっくりと歩き始めると、我ながら思いのほか順調な足の運びである。

 様子を見ていた医師や看護師が「よかったね」と言って、「それでは退院しましょう」という。これ以上、救急部に置かないという意思表示が見える。整形外科へ数日でも入院したいという希望も、空きベッドがないからと断られ、1週間分の痛め止め、抗炎症剤のお薬と患部に貼る膏薬を処方されて病院を出された。

 フェイスブックでぎっくり腰の体験者にアドバイスを求めると掲出をしたので、たくさんの方からコメントが入っていた。有難いことである。ネット情報も検索しながらぎっくり腰とはどんなものか筆者なりに理解した結果は次のようなものだった。

 ぎっくり腰とは正式の病名ではなく、通称の病名らしい。正式には単に腰痛である。その原因はいろいろ解説されているが、確立された原因はないようだ。従って治療法も確立されていない。腰の繊維質の筋肉が損傷をおこして神経に触って激痛につながっているらしい。痛め止めは姑息的手段の対症療法であり、抗炎症剤で損傷している部分の炎症を抑える。

 ということは痛みは軽減したが、損傷した筋肉部分がどうなっているのか不明である。これは整形外科で究明してもらうよりない。退院した翌日の17日(木)、近くの整形外科クリニックに行ってみた。医師は、簡単な問診をしただけで患部に痛み止めの注射をしましょうという。それで打ってもらったが、そのころは痛みもほぼなくなっていたので効果は分からない。コルセットが役立つからとこれを出され、巻いてみたら非常に安定感があって具合がいい。それで帰された。

 帰宅して今度は体験者に片っ端から電話でお礼と再発防止の対処法を聞いた。これがまた確立されたものがないのでいろいろノウハウがあって、聞いた話はいずれもためにはなるが、さてどうしたものか思案にくれてしまった。

 コルセットをすると安定感があるが、癖になると筋肉が衰えるのでほどほどというアドバイスがあった。みなさん善意でのアドバイスなので、承ってお礼を言って、さてどうしたものかとなる。それでも、この4連休は、ごろごろしながらときたま外出して気を晴らし、無事に過ごすことができた。

 これからぎっくり腰との付き合いが始まることになる。あの激痛は二度と体験したくないので、何とか予防方法を会得して無事に過ごしたい。社交ダンスのレッスンに行っており、年末には発表会があってワルツを先生と踊る予定になっている。しかしこのままでは、レッスンもままならず、果たして発表会に出場できるかどうか。

 ダンスの先生は、皆さん、ときたま整体師のお世話になって体の手入れをしているという。筋肉の膠着や衰えをカバーするケアをしているという話にびっくりした。プロはやはり、それなりの手入れをしているのである。

 筆者と言えば姿勢もだらしなく、パソコンに長時間しがみついている生活がぎっくり腰を呼んだことは間違いない。生活スタイルを改善する絶好の機会となったようだ。

つづく


ぎっくり腰に襲われた-1

 生まれて初めてぎっくり腰に襲われた。前兆があった。それは9月15日(火)である。

午後3時すぎ、黒川清先生と文藝春秋の編集者と懇談お茶をして、箱崎の「ロイヤルパークホテル」から20分ほど歩いて帰宅した。途中で整形外科のクリニックで、左手小指の付け根の変化を矯正する簡単なリハビリを20分ほど受けた。

 その日は、何となく左腰に違和感があった。寝違いたのかなと思っていた。夕食後、PCに向かっていても左腰部分が少々痛い。横になると痛みがない。それで早めにベッドに入った。

 16日(水)未明、トイレに起きたとき、かなり痛みが増していることに異変を認識した。トイレを済ましてベッドに腰かけたとたん、激痛が来た。そのまま静かにひっくり返ってしばらく痛みが鎮まるのを待った。

 朝になってトイレに行こうとしたが痛くて歩けない。それでも一寸刻みでトイレに辿り着き終わって戻るのにまた難儀。これはただ事ではない。これが世にいうぎっくり腰だろうかとぼんやり考えて、すぐに知人の医師に連絡した。内科が専門の医師だが、多分、ぎっくり腰だろうという。動けないほど痛いなら救急車で運ばれるのがいい。遠慮しないですぐ救急車を呼べという。

 身支度を必死に整えて1時間後に救急車を呼んだ。どこに搬送されるか未知であるので、すぐに近くの聖路加病院に搬送してほしいと希望した。救急隊員が電話でなにやら連絡を取っていたが、聖路加へ行くということになった。

 救急隊員は、来た時すぐに体温を測定し、血中酸素濃度を測定する器具をセットした。体温が37度3分と聞いてびっくりした。前日、夕方に整形外科の入り口で測定されたときは、36度5分だった。血中酸素濃度は聞いている余裕がなかった。

 搬送されるとき、ストレッチャーに移動するが、当然、体を動かされる。そのときの激痛は隊員も驚くほどの声をあげた。聖路加病院に入ったときにもベッドに移動される際にものすごい激痛が走って悲鳴を上げた。体温は、37度8分に上がっていた。

 狭い個室に入れられると、若い医師とベテラン看護師が次々と入れ替わり入ってきて、点滴装着の準備と各種測定機器類をセットし始める。じっとベッドに横たわっている分には痛みはないが、ちょっとでも体を動かすと、ドドーンという感じで右腰部分に激痛が走る。

 本当にぎっくり腰なんだろうか。不安がよぎるが診断前であり、医師と看護師にゆだねて黙って眼をつぶっていた。

 点滴が始まった。医師と看護師の会話を聞いていると痛み止めと生理的食塩水の注入らしい。尿を取りたいがトイレに行けるかと聞かれたので、無理だと回答。初めて尿瓶を使って尿を採取された。

 数人の医師が入ってきて腰のあたりの触診を始めた。激痛が走るあたりをさすったり軽くたたいたりするが、不思議と痛みはこない。触診は、何度も同じような部分を念入りにしている。後で医師に聞いたところ「尿路結石の激痛の疑いも消えていない」ということだった。結果的に、尿路結石はシロだった。

 次にCTスキャンを撮影すると言われ、ベッドを転がして測定室へと移動を始めた。ここでまた激痛に見舞われた。装置のベッドに移動するために数人の看護師が私の体を動かすのだが、そのときにまた左腰に激痛が走った。思わず声を出して、看護師の腕にしがみついた。驚いた看護師は、ごめんと謝っているがどうしようもない。

 移動しないことには撮影もできないので、看護師の一人が、さあと促して一気に移動した。死ぬほど痛かった。撮影が終わってまた、体をストレッチャーに移動する。また激痛かと思ったが、まてよ、左腰を上にして横になった姿勢で移動すると痛みが軽減されるかもしれない。そう申し出ると看護師がそろそろと右を下にした横の姿勢にした。そうしておいてゆっくりと移動すると何事もなく完了した。

 看護師の一人が「大成功!」と言ったので、みんなで笑ってしまった。痛みとは激痛のときには悲鳴を上げるが、ちょっとした工夫で痛みがなければ笑っていられる。こうして撮影した骨周辺の診断でも異常はなかった。

 医師たちはぎっくり腰という言葉を使わないことに気が付いた。腰痛としか言わない。ぎっくり腰は通称なのだろう。治療や措置は何もない。こうして2時間くらい、救急外来の小さな部屋で横たわっていた。

 ときたま若い医師が部屋に来て調子を聞くが、変化はない。会話の中でその医師の専門を聞いたら「救急医療です」という。なるほどそうだ。ぎっくり腰は整形外科ですよねと言ったら「そちらは専門外なのでまったく分かりません」と正直だ。整形外科に2,3日入院できませんかと聞いたら、空きベッドがないからそろそろ退院してもらうという。

 問題は歩けるかどうか。痛みは軽減されてきたことは分かる。ベッドから起き上がって、一人でトイレに行ってくださいという。おっかなびっくり、病院内の通路を歩き始めた。

つづく

 

 


見え見えだった安倍退陣表明

 安倍首相が8月28日、退陣表明した。筆者の予想通りであり、8月25日以降はいつでもあり得ると予想していた。

 理由は、総理大臣として連続在任日数の最長記録を8月24日に越えた。これで安倍総理は、歴代総理の在任日数、つまり通算・連続ともに史上最多日数を越えてトップになった。この記録を塗りかえるためにこの一か月、安倍総理は必死で切り抜けを考えていただろう。8月に入ってすぐ、これ以上の治療は困難であることを医師から言い渡されていたことが諸般の情報で伝えられていた。まさに命をかけて記録更新を目指したのではないか。

 オリンピックの記録ではない。一国の宰相として国民のために指揮をするトップの座の在任日数を競うことは意味はない。しかしそこに意味を見出したところに安倍総理の限界があった。在任中のかくかくたる実績を誇示して退陣することはできない。ならばせめて、在任日数で歴史に名を残そうとしたに違いない。

 安倍総理の退陣と彼の叔父にあたる佐藤栄作総理の退陣時とは、よく似ている点がある。佐藤総理は、沖縄返還を成し遂げて退陣するという「時期目標」があった。それだけに沖縄施政権返還を実現したと同時に退陣することは、本人はもとより政界も国民の間でも分かり切っていた。1972年5月15日の施政権返還日をもって、佐藤政権は終焉を迎えた。

 前年の7月に佐藤政権の最後の内閣改造をおこなったが、それ以降のほぼ1年間の政界の話題は、ポスト佐藤の話題であり、メディアも露骨にそれを話題にした。国民は佐藤政権を飽いていた。理由は、秘密主義で後手後手政策であり官僚政治と言われた先送り政策に飽き飽きしていた。その時代、日本は高度経済成長期にあり、黙っていても国民はそれなりに生きがいを感じている時代でもあった。それに乗っただけの政権だった。

 政界もメディアも国民も、関心の中心はポスト佐藤にあった。佐藤の実績として残っている沖縄返還は、それから30年後にアメリカで公開された公文書によって、歴史上まれにみる密約と国民への欺瞞で固めた返還であり、国民も国会も全く知らないことを佐藤首相、福田外相ら一握りの政治家によって行われていた。その理由は、日米交渉を国会で明らかにし、国民の理解を取り付けることを避けて、単に任期中に沖縄返還を実現して功績として残すためだった。ことごとく密約で切り抜けたものだった。福田は佐藤延命に貢献し、その後の総理禅譲を信じていたから必死に佐藤を守った。

 密約の相手は、アメリカ政府だが、アメリカにとって密約の内容のどれもこれも自国に有利になるものであり、佐藤総理の功名心に付け込んだ法外な条件で返還に応じた。アメリカは、沖縄返還で「日本に1ドルたりとも支払わない」との基本方針を貫き、佐藤総理が内外で見栄を切っていた「沖縄は、核抜き本土並みで、タダで還ってくる」という言質に付け込んで取り付けた、有利な条件の密約だった。「タダで還ってくる」という宣言が、真っ赤な嘘であったことがアメリカの公開公文書が余すところなく暴いてしまった。

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 安倍総理は、何を実績として残したのか。にわかには思い浮かばないが、おかしな業績はすぐに、いくつも思い浮かんでくる。モリカケ事件、さくらを見る会の不祥事、文書隠蔽と大量廃棄、憲法の実質骨抜き、コロナ禍対応など最長在任政権の負の遺産は黒々と残された。これについてはいずれ評価の対象となり、明らかになっていくだろう。

 佐藤総理の最大の貢献と自負していた「核抜き沖縄返還」は、歴史に残る虚言であり、ノーベル平和賞も、ノーベル賞3大過ちの一つとして世界を驚かせた。筆者は「3大誤りの一つ」をノーベル財団のスティーグ・ラメル専務理事から聞いてびっくりした。その場に京都大学の矢野暢教授もおり、矢野教授もそれを書き残している。佐藤・安倍政権の評価については、さらに検証することにしたい。

2020・8・28


産業構造の新たな構築に後れを取る日本

 コロナ禍で世界の経済状況は停滞化へ向かっている。今年、上半期の業績報告は、大半の企業が昨年同期に比べて低く出ている。それなのに、アメリカの株式市況は、活況を呈している。特にハイテク企業が上場しているNASDAQ(ナスダック)は、史上最高値を更新している。東京ストックを見ているととても信じられない活況ぶりだ。

 2020年8月1日付け日本経済新聞の報道によると、2020年4月ー6月期の世界の企業決算によると、企業の3社に1社が赤字になっているという。都市封鎖の影響をもろに受けた自動車、小売・サービスなどは、業界全体が赤字となった。この中でトヨタだけは、1588億円の純利益をはじき出した。中国市場の販売が伸びたことと原価を下げたことがその理由と言う(2020年8月7日付け日経新聞特報)。

 原価を下げたとは驚いたが、トヨタ幹部は、「まだまだ無駄な工程を減らせる」と語り、豊田章男社長は「リーマン・ショック時より200万台以上、損益分岐点を下げることができた」と語っている。驚くべきコメントだ。

 製造業の原価を下げるための努力を日本では「乾いたぞうきんを絞るような努力」と表現し、もうこれ以上無理だと語っていた。しかしそれは、その時点の技術レベルで語っているのであり、技術革新があれば当然、乾いたぞうきんではなくなり、絞れば余分な水が出てくるはずだ。

 日本では伝統的に「もの作り」という言葉を大事にしている。太古の時代から農業で食ってきた日本民族はものを作り、作物を栽培することに注力し、その作業の中で創意工夫をしていった。作物を栽培することは、もの作りに通じる創意工夫の作業である。狩猟民族の欧米では農耕を下賤な民の作業としてきたが、日本は農作業こそ尊い労働であると位置づけてきた。世界中の王族・皇族の中で田植えをしたり養蚕をして国民の前で披露するのは日本の天皇・皇后だけである。労働の尊さと農業の重要性を象徴的に示されているのだろう。

 もの作りは、時代と共に中身が変わってきた。コロナ禍にあっても情報通信、電子機器類の企業は大幅に収益を伸ばしている。コロナ禍で伸びた企業と下降した企業と業種がくっきりと分かれた。これに拍車をかけたのがコロナ禍による生活と勤務状況の急激な変化である。これは社会構造の変革に発展し、産業構造の変革へとつながった。

 GAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)に代表されるIT関連企業は、空前の活況を呈している。グーグルは検索と広告、フェイスブックは広告業で世の中の価値観を変えたが、この2社が伸びたのは、広告業で儲けたカネを次の世代の産業に投資し、その成果が出始めていることだ。果敢な未来への挑戦である。

 新興勢力だけではない。マイクロソフトは、クラウド時代のITシステムで市場に参入し、これまで確保してきたMSのソフトを武器に新たな市場を形成していった。アマゾンも宅配業で儲けた利益をクラウドIT産業に参入して新たな企業構造に作り替えてきた。

 日本にはそのような企業も産業も見当たらない。あるのだろうが目立たない。いつまでたっても日本の大企業の名前は従来とさして代わり映えしない。それでもいいが、企業は中身の勝負である。日本の企業であっても、世界の大競争の中でもまれているからまだいいが、政府・行政システムの時代遅れは、コロナ禍によって暴かれてしまった。

 いまどき電話・ファクス主体の情報のやり取りが指摘されたり、巨額の税金を投与してマスクを配布したピンボケ施策は世界中の笑いものになっている。日本の組織は新しい改変に臆病である。前例を尊重することで結果的に無難な選択になっている。かつての時代はそれでもよかった。

 いま情報は瞬時に地球を駆け巡り、工業生産の設計はすべて電子情報となった。世界を席巻した日本の金型技術は、いま機械と情報に置き換わってしまった。名人芸にまで昇華した金型職人ワザは必要なくなり、コンピュータと機械に置き換わった。それもたった20年の間に世界は変わった。トップランナーは中国だった。日本はとうに中国に抜かれていったのである。

2020年8月7日


メディア報道と取材方法について

 前回、このブログで2019年10月28日に発行された「夕刊フジ」に、東京理科大学の「不祥事」が報道されたことを取り上げた。

 このような大学経営がニュースになることを恥ずかしく思いながら、大学執行部のお粗末さを追及した。

 取材する立場と告発する状況

 今回は、このようなニュースを掲載する際の取材方法について、筆者の体験から書いてみたい。

 メディア報道で不祥事を取り上げる際は、ほぼすべてが書かれる立場の人間や組織は、書かれて欲しくない事情にある。

 世間に知られたくないことを突き破って真相を知り、社会正義の立場でそれを世間に告発するのがメディアの役割である。

 筆者はかつて警視庁、司法(地検や裁判所)、行政組織の記者クラブに所属して、熾烈な取材競争を体験してきた。こうした機関や組織では、世間に知られたくない、もしくは発表する前の極秘事項を多数、日常的に抱えている。

 捜査当局が刑事事件の被疑者の逮捕状を裁判所に求める書面、家宅捜索礼状など当事者しか知らない書面や事実でも、時として発表前にスクープされることは珍しくない

 ネタ元は捜査当局や裁判所や役所だから、記者は法律違反を犯して情報を仕入れているし、同時に違法行為の中で情報を漏洩している公務員や組織人がいることになる。

 機密を漏らした官僚は国家公務員法違反に問われるし、それを教唆したと認められれば取材者、つまり新聞記者も国家公務員法に問われて逮捕されるリスクがある。しかし記者は、世間に告発するべきと考えたとき、社会正義の規範から行動に出るし被取材者もまた社会正義に同調して協力する。それが一般的である。

 犯人探しと恫喝

 企業や法人や組織から秘密が漏れてメディアに露出されると、ほとんどの組織では犯人探しを始め、組織内の人間から情報が外部に漏出することを嫌って組織の締め付けを行う。漏出させた人が分かれば「厳重に処罰する」という恫喝が組織の幹部から必ず発せられる。

 しかしほとんどは効果がない。なぜならそのようなことを行う執行部は、ほとんどが組織内で信用を失っている腐った執行部になっており、多くの組織人から信任されなくなっているからだ。

 さらにもっと重要なことは、秘密の情報漏洩があった場合、漏洩が疑われる人物がいたとしても、その当事者から漏洩を否定されれば、執行部なり当局が漏洩したことを特定して立証しなければならない。そんなことはまず不可能だ。

 何が秘密になるのか

 多くの執行部や当局は、何でもかんでも秘密にしたがる。自分たちの都合に合わせて、広く知られないうちに、こそこそと何事も進めることが最も効率がいいと信じているからだ。

 秘密漏洩だと騒いだとしても、それが秘密であるかどうかまず争われる。司法の場で争いがあれば、そこから始まる。たとえば、理事会の開催で理事長がドタキャンしたことを外部に漏らした場合、当局がその事実は秘密だと騒いだとしても、それが秘密となるかどうかが争われることになる。なんでもかんでも秘密扱いにすれば、実質的に秘密はないに等しい。

 大学経営の基本規則の寄附行為

 私立大学法人の設立の目的、基本規則などを定めた文書を寄附行為と呼んでいる。寄附行為は、私立学校を経営・運営するためのいわば「憲法」の役割となる。いかなる経営・運営も、「寄附行為」を侵してならない。もしこれに違反すれば不正行為であり、違法性が問われることになる。

 学校法人という法人格が認められていなかった戦前は、各種学校の経営は旧民法上の財団法人の扱いだった。財団法人は設立の際に寄付を行うところから、「寄付された財産の使われ方の基本規則」を「寄附行為」と呼んだ。

 戦後、学校法人という法人格が認められたが、名称だけがそのまま残った。法令上は寄附行為であるが、この名称は分かりにくいので大学によっては「大学規約」「大学規則」に括弧つきで「寄附行為」としている。

 寄附行為は、大学経営の基本規則だから公開が原則であり、多くの大学ではホームページで公開していたが東京理科大学では寄附行為を秘密扱いにし、ホームページでも公開していなかった。

秘密文書

 こうした指摘を受け、最近になってようやくホームページでも公開を始めた。

 https://www.tus.ac.jp/info/pdf/kihu.pdf

                                 (つづく)

 


東京理科大の現ナマ2万円支給に込められた意味

 バラまきの意味が不明だ

 2019年10月28日に発行された「夕刊フジ」に、筆者の母校である東京理科大学の「不祥事」が報道された。

 「不祥事」としたのは、次の見出しにメディアが取り上げた目的が凝縮されているからだ。

『東京理科大、教職員1300人に現ナマ2万円バラマキの波紋』

 この主見出しを見て驚愕した人は少なくなかっただろう。驚きの理由は、次のようなものだっただろう。

・今どき現ナマ2万円を袋に詰めて全教職員1300人に支給!

・中身は、1万円のピン札2枚と理事長のコメントカードだけ!

・支給明細書もなく、税引きなのかどうかも不明の現ナマ!

・もしかしたらこれはヤミ給与?

本山メッセージ現金2万円と一緒に入っていた理事長からのカード

      突然、前触れもなく袋をもらった教員は次のように語っている。

 「中を開けたらピン札で2万円あり、明細書などは何もナシ。理事長からのカードがあったが支給した理由もなし。ははあ、これは理事長のポケットマネーで、選抜された教員だけに支給された報奨金なんだと思いました」

 「理事長カード」を読んでも支給の理由が不明である。何のために支給したのか。そこまで考えた教員は、選び抜かれた人だけに支給された理事長のポケットマネーだ。そう理解したという。

 大学の予算から支給されたカネと知った教職員は、理事長のカードを見ると分かるように自身の「人気取り」のバラまきかなと理解した人も多かったという。

 本当に理事長の人気取りのために支給したピン札2万円だったのだろうか。まさかそんなバカなことはあるまい。そういうひそひそ話が学内に広がっていった。

 経費節減したカネを教職員で山分け?!

 夕刊フジの記事にあるように、このバラまきは「管理経費が削減されてきた。教職員の頑張りに敬意を表する報い方」で一時金を出したという。

 これが事実なら、大学経営者としてバカげた考えである。削減して生み出したカネがあるなら、教育と研究に役立てるのが大学経営である。削減したカネを、1300人の教員に一律2万円を支給して費消する。これは教職員の「山分け」ではないのか。

 経費節減で生まれたカネがあるなら、学生のために費消することが第一であり、合計2600万円のカネができたら、研究費に回すことこそ大学経営の根幹である。

 その証拠に、夕刊フジの報道にあるように、教職員の間では受け取りを潔しとせず寄付や義援金に回し、封も切らずに机の中に放置している人もいるという。

 ある事務職員が筆者に語った言葉は「わざわざ封筒を作り、意味のない理事長のカードを作り、ピン札を用意して担当事務職員総出で袋詰めする手間ひまこそ無駄遣いであり、誰もがあきれていました」という。

 建学の精神に泥を塗った執行部の愚策

 東京理科大学は、明治11(1878)年に東京大学理学部仏語物理学科を卒業した若き学徒が中心になって創設した東京物理学講習所から始まった大学である。

 創設時20歳代だった青年たちは、昼間勤務して得た給与から削り取ったカネを原資にして夜間の学校を経営し、理学の普及に命を懸けた志士たちであった。

 その伝統を守って現在の東京理科大学へとつながってきたはずである。それがいま、管理経費を節減して絞ったカネを全教職員で山分けするような支給をしている。

 「バラまき」「山分け」。そのような言葉が浮かぶほど低次元の経営手法が、夕刊フジによって世間に知らされた。

 東京理科大学OBとしてこれは許されない。この責任を追及しなければ筆者は収まらない。

(つづく)