PEACE BOATで世界一周の旅ーその39

7人の「ウクライナ・ユース・アンバサダー」が乗船

停戦の気配がないまま泥沼化しているウクライナ戦争の不条理と戦場の悲惨さをPEACE BOATから世界に発信するイベントが開かれました。ウクライナから参加した7人の「女性大使」が主催者になり、船の屋上の広場でアピール宣言をしました。乗船客延べ約200人が参加して大使たちを元気づけ、支援を約束していました。

IMG_6945横浜の出港時から乗船しているのは、在日ウクライナ大使館とPEACE BOATが連携して組織した「ウクライナ・ユース・アンバサダー」7人のうら若き女性大使です。20,30歳代の若さあふれる華やかさがあり、船内でも目立っていました。

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IMG_3463これまで船内のセミナーや講演で、ウクライナ戦争の悲劇だけでなく、ウクライナの歴史や文化を理解してもらうイベントを続けてきました。後半にさしかかり、一区切りの時期を捕らえて平和を訴えるアピール宣言を開催することにしました。

IMG_6956インタビューに答える3人のウクライナ乙女たち。

この日、船の屋上14階の広場には、次々と乗船客が集まり、用意しているプラカードを掲げて女性大使たちを支援し、ウクライナ国民を励ますメッセージを次々と発していました。

全員集合でアピール写真を撮影して、世界に発信して平和への願いを船上から訴えました。折しもスイスのビュルゲンシュトックでは、100カ国・機関の代表(このうち57カ国は首脳級)が出席する「世界平和サミット」が開催されました。ウクライナのゼレンスキー大統領が自らの和平案の支持を呼びかけたこともあり、PEACE BOATからの船上アピールはいよいよ盛り上がりました。

IMG_6938「大使」たちの主張を聞いていると、ロシアの侵略戦争なのに、長期化してくると世界の人々の興味が薄くなっていく。長引かせることはロシアの思惑でもある。興味を薄くして自分たちの立場を正当化していく。こうした訴えを聞いていると、やはり戦争は国家の勝手な思惑と主張から出てくるものだと思わざるえませんでした。

IMG_6946 (2)筆者は旧ソ連時代からウクライナには5回行ったことがあります。チェノブイリ原発事故調査団で行ったときは、いま石棺に封じ込まれた原発の前まで行きり、かなりの被ばくをしました。また1万年前、マンモスハンターとして広大なユーラシア大陸に広がっていたクロマニョン人の作ったマンモスの骨で作った住居や多くの石器類の遺跡を取材で尋ねたこともあり、ウクライナは筆者にとってことのほか親近感のある国です。

ウクライナは、世界の「美人国」の一つに加えられる民族であり、明るい気質はロシア人とは違った面を持っています。広大で肥沃な国土がいま戦場になっていることを憂いながら、これからも支援する約束をしました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその38

広島県から参加した元教員ご夫婦

PEACE BOATに乗船している方々は、実に多彩な経歴を持っている人ばかりです。その中から筆者が何かの縁で知り合った方をブログで紹介したいと思います。

最初に登場していただいたのは、広島県三次市から参加した藤原孝次さん(68)、ひとみさん(66)ご夫妻です。筆者が「日本の学校給食は世界一」というテーマで講演した際に参加していただきました。

1shasin 14階、船の屋上でインタビューしました。

お二人とも定年まで小中高の教員をされていた方で、最初に会ったときから率直に語るお人柄が気に入りました。お二人とも教員OB・OGということから、構想研創設25周年記念シンポジウムを思い出し、その後は日本の小中学校の教育について語り合う機会が増えました。

船旅も中間点を通過して、先日は有志参加の「学芸会」が開催されました。お二人は今回、社交ダンス発表会の出演は見送りましたが、船に乗ってからレッスンを受けており、8階のフロアで練習に励んでいる姿を時折見かけていました。ワルツ、タンゴ、ルンバ、ジルバに挑戦中で、船を下りるころにはかなりの腕前になっているでしょう。

PEACE BOATは、 持続可能な未来へ向けた自治体の取り組みを支援する国連のSDGsを推進しており、リベラル思考の活動をしていることも気に入り、このクルーズに参加したとのことです。

外国旅行は、新婚旅行でハワイに行ったときから、ほぼ40年ぶりということす。2018年にPEACE BOATに申し込んだもののコロナ禍で中断したため、今回の旅は待ちかねたものだったようです。

「1500人の乗船者ですから予想はしていましたが、若い方から年配者まで実に多彩な人生を送られてきている人ばかりで、講演や各種の集まりなどで交流が出来、楽しい船旅をしています」

これまでの寄港で上陸された都市の印象などをお聞きしました。

最初に写真で見せられたのは、なんとライオン君です。南アフリカ共和国(南ア)の自然公園のサバンナで撮影したもので、昼寝を起こされたのか大きなあくびをして歓迎してくれたそうです。観光車両から至近距離の撮影であり、珍しい写真を手に入れました。

2IMG_3109 (1)次に見せられたのは、茫漠と無数の砂丘が連なっているナミベア共和国の砂漠で撮ったものです。世界最古のナミブ砂漠は、無数の砂丘を連ねたような雄大な景観です。藤原さんは「砂の粒のきめ細かさを手のひらで感じました。数千年の自然環境の中で出来た奇跡の産物です」という感想でした。

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小中学の教育問題で船内グループに参加

現役だったころは、二人とも初等中等教育の最前線で教師をしていたので、乗船客の若手グループが企画している「小中学校の教育を考える」会に参加しました。教育の立て直しなどを討論し、シンポジウム開催にも参加して教育問題の課題解決の提言もする予定とのことです。

いま話題になっている工藤勇一先生の著書も何冊か読んで感銘を受け、「素晴らしい論点ですが、具体的に工藤先生の提示する教育現場を実現するには、大きなハードルがあります。しかしそれを乗り越えて教育再生をはかるための方策も考える必要があります」と言います。ひとみさんのご意見も同じであり、二人の意見を調整しながら発言していく方針のようです。

アジア・アフリカ・ヨーロッパと回ってきて地球を半周したことになりますが、諸国で見聞して何が一番印象的だったのでしょうか。

「先史時代の歴史的遺跡から現代の社会の様子まで、時空を超えて見聞して私たち夫婦の視野を広げる機会になりました。人間のやってきたことは、人種とか肌の色とかに関係なく闘争の歴史であり、人を殺し、勝ったものが略奪する人間の闘争本能を垣間見たところがありました。毎日が社会科の勉強のような気持ちです」

数学の教師らしい孝次さんの感想でした。リタイア後は地域の民生委員などいくつかの社会貢献の役職を委嘱されており、今回は多忙の合間を縫ってのPEACE BOAT参加でした。

5ノルウェーノルウェーのベルゲン市では、フロイエン山頂からの絶景をバックに記念撮影。世界には息を呑むような光景が随所にあることを知り、日本の風光明媚を一瞬、忘れるところだったようです。

4IMG_4233 (1)セントポール大聖堂の前で。そのほか、ロンドン塔、大英博物館、ウエストミンスター寺院などを見学しました。ロンドン塔は13世紀から処刑する監獄にもなりました。ひとみさんは「多くの政治犯が処刑されていった話を聴いて胸が痛みました」と語っています。また「大英博物館」の見学では、諸国からの財宝・秘宝を集めた展示品を見て、英国の歴史的な「活動歴」を改めて認識したようでした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその37

船内の大劇場で乗船客主体のイベントを開催

「地球一周中間発表会」という催事があることは、繰り返し船内新聞でも告知があったので知っていました。10日ほど前から船内のあちこちで、何やら準備する様子を見ていましたが、なに、たいしたこともできないだろうと見ていました。

先にも紹介しましたが、船内にはさまざまなテーマの集まり、グループが出来ており、多分その数は50くらいあるでしょう。そのグループの人たちが何やら趣向を凝らしてビスタラウンジという学校の講堂を思わせる広い会場で披露するのです。

演劇が出来るほどの広いステージもあり、ちょっとした劇場にも見えます。そこのステージでグループが準備した演題で発表するというものです。聞けば、大人の「学芸会」というものだそうで、筆者はどこにも属していないので何も予定はなく、当日は見物人として覗くくらいの気持ちでいました。

突然の申し入れにびっくり

前日の6月12日の夕方、船内を歩いていたら突然、韓国の女性から呼び止められ「明日のヨガの会で出て欲しい」という相談を受けました。ヨガの会が盛況であることは見て知っていましたが、やったことはない。聞けば、ヨガの会の有志がステージに上がり、音楽に合わせてゴーゴーを踊るので、それに合わせてステージ下のフロアでジルバを踊ってほしいと言う話です。

リーダーになる男性が1人どうしてもいないので、是非、お願いしたいという申し入れです。ダンスレッスンのときに筆者がジルバを踊っていたのを見ていた婦人が、船内で歩いているうち出会い頭に思いついての懇請でした。

予定がなかった筆者は、これを引き受けました。ぶっつけ本番の「出演」です。多少不安はありましたが、学生時代にジルバに狂っていたことを思い出し、なんとかなるだろうという気分でした。

0プログラム学芸会当日、早めに会場に行くと、すでに始まっており、驚いたことにこの日の昼と夜で37演題の発表があることでした。終わってみれば延々6時間に及ぶ船の「学芸会」でした。

2IMG_6887ステージ下まで繰り出してのチーム体操?でしょうか。力作でした。

3IMG_6888楽器に合わせて詩の朗読もありました。どちらも聴かせました。

日中韓・ベトナムなど国際色豊かですが、日本人主催が圧倒的に多く、その中に外国人が混じっているという感じです。出し物は、歌と踊りが多く、民族楽器の演奏や子どもを交えた体操もありました。

急ごしらえの学芸会にしては、どの演題もなかなかの出来映えです。

アイスランドから次の寄港地のニューヨークまでは少々日数がかかるので、その間、船内での余興大会で盛り上げようというPEACE BOATの思惑でしょうか。


4IMG_6901気功の披露もあり、会場と一体になった演技でした。

IMG_6899出番が回ってきました。パートナーさんとして踊る韓国婦人は、年齢不詳ですがプロポーションのいい方で、見るからにダンスの出来そうな方でした。しかしジルバはそれほどやったことはないそうで、どうやらお相手もぶっつけ本番の様子で「安心」しました。

IMG_6909 (1)にわかコンビのジルバでしたが、船の揺れに乗って?うまく踊れました。

曲目が流れてすぐに始まりました。ステージの上では、老若男女が軽快なステップを踏んだり、体を動かし、それが音楽に合っているのです。終了後にわかったことは、ヨガが終わると毎日、練習に励んでいたということでした。

筆者も、踊り始めると「昔取った杵柄」と言う古い言葉で言えるほどに、軽快にパートナーさんを回し、自身も船の揺れに合わせて踊るという得意技を発揮して、あっという間に制限時間を終えて、大喝采の中で退場しました。この機会にヨガの会にと誘いを受けましたが、それは丁寧に断って早々に退散しました。

日本のお札のリニューアルが心配事

ランチの食卓で話題になったのは、日本のお札のリニューアルのことです。千円、5千円、1万円札の肖像が変わるのは7月3日と聞いています。すでに一部の街の両替屋では、日本のお札は間もなく新札が出るという理由で拒否するという話も出ています。外貨が手元にないとタクシーや街頭の店ではカード決済が出来ません。そこへこんな話が出てきたのです。

セーシェルでタクシー観光したあとの支払いで、ドル札を出したら2008年以前の発行年のものは取らないと拒否されたそうです。持っていたドル札は古いものばかりでしたが、いずれもいま使われているお札です。居合わせた6人が急いでお札を出し合ってギリギリの金額がそろったそうですが、日本のお札も新札が出たら古いお札は拒否されるのではないかという心配事です。

タクシーの運転手さんの話では、客からドル札(外貨)を受け取って、現地の銀行や両替屋に持っていき現地のお金に替えようとしても、発行年が古いと出来ないということでした。いま流通しているかどうかの判断ではなく、現地の金融筋の意向だという話でした。

ニューヨークに行ったら、少々多めに両替しておかないと中南米や南米ではどうなることか。そんな心配事で話題が広がっています。

船旅も後半を迎えて隣近所の付き合いに広がる

船は北極海に入ったコースをたどりながら北米大陸へと航路をとる予定でしたが、北の海が荒れており、天候不順ということで航路を変更し、一直線に北米からニューヨークへと向かう航路になりました。確かに海のうねりが大きくなり、船内の廊下を歩いていても左右の壁にぶつかりながらの移動になってきました。

昨日から甲板へ出るのは禁止。時化の海で船は大揺れに揺れています。これまで一番の揺れかもしれません。窓から見た海はモヤの中に呑み込まれており、船腹で打ち返されささくれだった波が恐ろしげな泡を巻いて限りなく繰り返していきます。

IMG_6930自室の窓から海を見るとモヤに呑み込まれて何も見えず、船腹にぶつかって出来た恐ろしげに渦巻く白い波だけが繰り返し去って行きました。

海上の風も強く外の気温は6、7度、水温も同じと言うことで、屋外のジャクジー風呂も閉鎖になっていました。

船旅も後半に入ると、乗船客同士、顔見知りが多くなり、行き交う人が軽く会釈をすることが多くなりました。朝夕のレストランの食卓も、やあやあと挨拶する人が増えて会話も広がり、雰囲気が変わってきました。

筆者はこれまで4回の講演をしました。学校給食は世界一、沖縄返還の密使・密約問題と真実の追究、イベルメクチンとコロナの真実、野口英世のノーベル賞物語がそのテーマでしたが、いずれも好評をいただき、知らない人から「面白かった」という感想をいただいていました。

今後も新札の肖像替えで登場する北里柴三郎物語などいくつかのテーマを準備しており、PEACE BOAT関係者からも相談を受けるテーマも出てきました。構想研究会創設25周年記念シンポジウムを自分なりに総括する講演も準備を進めています。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその36

動く地球表層の岩盤(プレート)の上に立つ

氷河と火山の国、アイスランドの首都・レイキャビクへの上陸は、寒空の中で始まりました。首都としては世界最北の北緯64度8分です。この日の日の出は午前3時3分、日の入りは午後10時24分ですから白夜です。

アスランド旅行が日本人に人気があると聞いていたのですが、筆者には大きな関心事が2つありました。一つはプレートテクトニクスの現場が地上に露出しているのをこの眼で見たいという願望と、世界で最も男女平等を実現している国の現実を見てみたいというものでした。

プレートテクトニクスは、地球の表面を覆っている厚さ数十キロの岩盤(プレート)が常に移動しており、その岩盤が地球の地表に10数枚あるというのです。プレートがぶつかり合う場所で地震が発生し、アイスランドと日本は地震国・火山国・温泉国として共通の運命にあるのです。

プレートが露出している場所に行くバスツアーに参加しました。噴火した溶岩でできたレイキャネス半島の荒れ果てた荒野の中でバスを降りて歩いて行きました。奇妙な橋が見えてきました。その橋こそ、北アメリカプレートとユーラシアプレートを結んでいる橋なのです。

何十億年という地球の表面の岩盤の移動で北アメリカプレートとユーラシア大陸プレートがこの地で出会い、それが地上にそのまま露出して、今なお年間2センチの移動をしているというガイドの説明に興奮を覚えました。

写真1冷たい風を避けた防寒具を着込んで、プレートテクトニクスの「現場」に立ちました。

筆者が立っている写真の向かって右の岩盤が北アメリカプレートで、左の岩盤がユーラシアプレートです。その裂け目をつないだ橋がバックに見えます。両方のプレートが押し合っているのでしょうか。ユーラシア大陸プレートをたどっていけば、日本列島を載せているプレートにつながっているはずです。

こんなプレートの出会いの現場に立つとは夢にも思っていなかったので興奮しました。1970年代になってからプレートテクトニクス論が日本でも盛んに紹介され、それを知った筆者は多くの文献を貪るように読みました。今ではすっかり忘れてしまいましたが、その興奮がよみがえったのです。

女性大統領が当選したばかり

今月1日、アイスランドでは大統領選挙がありました。投票率は約80%。12人が立候補し半分が女性です。女性候補で投資会社経営者のハトラ・トーマスドッティルさん(55)が当選して8月1日に就任するそうです。アイスランドでは2人目の女性大統領です。最初の女性大統領は、1980年に当選したビグディス・フィンボガドッティルさん(94)で、世界で初の女性大統領として話題になったそうです。

アイスランドの国会議員は、男女ほぼ同数ずつです。世界経済フォーラムが発表する「ジェンダーギャップ報告書」で初版の2006年から14回連続1位になっています。世界で最も男女平等に近い国として知られているそうです。

ツアーのガイドさんの説明では、アイスランドには専業主婦はいないので、子育てや家事も男女平等でやります。育児休暇は、夫婦できちんと取ってお互いに助け合って子育てします。教育費と医療費はタダ。ただし給与のほぼ半分が税金でもって行かれるので、物価高の中での生活はそれほど楽ではないと言います。とはいうものの、日本に比べれば遙かに優れた福祉国家になっています。

人口僅か38万人の国ですが、悩みはそれなりにあるのでしょう。そのひとつがアルコール依存症が比較的多いと言うのです。長くて暗い冬の期間、アルコールに走る人が多いと言います。ネットで調べてみるとたいしたことではなく、年間のアルコール一人摂取量は、世界の国々では真ん中あたり。日本よりは多いですが、韓国、アメリカなどよりは少ない現状でした。

アメリカ大陸の発見者はコロンブスではない!

今回のツアーで最初に行ったのは、丘の上に立つハットルグリムス教会でした。アイスランドのランドマークタワーとして象徴的な建物で、遠くからはまるでアメリカのスペースシャトルの形にも見えました。そばまで行ってみると高さ74.5メートルある重量感に圧倒されました。ミサが始まるので中には入れませんでしたが、この教会の前に大きなブロンズ像があります。これはアメリカ大陸を史上初めて発見したアイスランド人のレイフ・エリクソンの像で、教会を背にして眼下に広がる市街地を見下ろすように屹立していました。

写真2アメリカ大陸発見は1492年のコロンブスと知られていたはずですが、今では985年ころにエリクソンが最初に発見したと史実が書き換えられたというガイドさんの説明でした。日本の小中学校の教科書にも書いてあると言うことでした。エリクソンは、グリーンランドを発見して住み着いたバイキングの末裔であり、グリーンランドとアメリカ大陸を行き来していたとも聞きました。

IMG_6837このブロンズ像は、アイスランド建国1000年を祝って1930年にアメリカから贈られたものと言うことです。強い逆光で正面からは撮影できないので、後ろから撮りました。

博物館の巨大画面でオーロラを見ました

ペルトラン博物館の巨大画面では、オーロラを見せてくれました。オーロラ見物のために日本からも多くの観光客が来るそうですが、運が良ければ見られるという自然現象です。こうして実際の光景を見る気分で巨大スクリーンで見るオーロラは迫力がありました。

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余った電力を輸出

アイスランドのエネルギー源は、地熱発電や風力発電だけであり、自然エネルギーだけで国が成り立っています。電車や地下鉄はなし。バスはすべて電気自動車です。電力は余っているので海中ケーブルでイギリスに輸出しているのです。この国の産業は、①観光、②漁業、③アルミ加工というのです。アルミ加工は電気を食うので、外国企業が、電気代の安いアイスランドに進出して経営していると言うことでした。

IMG_6873 (1)遠くから見た地熱発電所。この国は森は少なく、荒れ地のような平原が広がっていました。

年金平均70万円だが・・・

ランチに出てきたタラのムニエルも美味しかった。写真を撮るのをうっかりして食べてしまいましたが、タラ漁業が大きな輸出産業になっていました。

リタイア後の年金は、平均で毎月70万円相当と言うことにびっくりしましたが、かなりの物価高で生活は思ったほど楽ではないようです。ランチに3千円から4千円。夜のレストランの食事はワインを楽しんで一人2,3万円ということです。

お土産ものを物色しましたが、ちょっと大きめのチョコレートが1枚2000円、コースター枚1500円。ちょっと魅力的なストールは4万円と言う値札でした。一緒にツワーに参加したご婦人たちもこの値段には驚いて、財布は出てきませんでした。

アイスランドの一日だけの上陸ツアーは、盛りだくさんの見聞の中で白夜は暮れていきました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその35

白夜の船内生活

アイスランドに向かっての航海は、白夜の船旅です。6月8日の日の出が午前2時41分、日の入りが午後11時30分ですから、太陽が隠れている時間はたった3時間あまり。部屋のカーテンを閉めておかないと、明かりに負けて寝付かれません。

船内の室温管理がうまくいっていないようで、筆者の部屋はひんやりして寒い。室温を最高にしていますが、コントロールがきかないらしく、寒いのです。体を動かしていれば寒さを感じないのかスポーツ関係のイベントはどこもほぼ満杯の盛況です。

筆者の日常生活の一端を披露すると、ほぼ毎日通っているのは、オカリナ教室と社交ダンス教室です。オカリナは船に乗ってから習い始めたもので、初心者ですからいい音が出せない状態が続いています。

ダンスは、歩行強化のために20年前から近所のダンス教室に通い、年に1,2回のデモにも出演して鍛えてきましたので船では上級のクラスでも踊れるようになりました。

船内生活の写真集を作りました。

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ヨガ教室はいつも満杯の人気です。写真は、全体の一部だけです。ジム
アスレチッククラブも時間によりますが、満杯状況も少なくありません。

筆者は隣室のサウナを利用するのが日課になっています。

IMG_6821写真は折り紙クラブ。このような少人数の趣味・習い事のプログラムが多数あります。例えばこの日の船内新聞の案内をみると、お茶さろん、般若心経を唱える、切り絵、大喜利得意な人の集まり、ペタンクを楽しむ、水彩画教室、お手紙書き方、トランプマジック、各種ダンス教室、日本語・英会話教室、各種教養講演、映画、太極拳、浴衣を着て踊る会・・・まだまだキリがありません。

IMG_6818 (1)船内のあちこちに、写真のようなコーナーがあり、自由に使用できます。大抵は読書、PCなどの操作で趣味や仕事、談笑の場などに利用されています。

寿司寿司屋もあります。ネタはすべて日本から持ってきたもので、世界各地の魚の提供は禁止されていると聞きました。衛生上などの問題のようです。女性や外国人が握っています。写真は上寿司でこれで5千円です。寿司飯も国産のコメで美味しくいただきました。カウンターに座って握ってもらうという方法はなく、すべてこのようなセットの寿司提供です。

IMG_6803生バンドも毎日演奏しています。夜になると時間を区切って出演しますが、フロアもあるので音楽に合わせてダンスを踊ったり、ゴーゴーで盛り上がっています。主催者が設置する各種催し物の夜は、毎回、満員の盛況です。レストランでボックスに料理を入れて持ち込み(無料)も可能なので、大変、便利です。飲み物も、ワイン一杯500円程度ですから、割安感があります。

IMG_6737「今日のランチはラーメン・餃子らしい」というので行ってみたら、写真のようなトレイでした。ラーメンっぽいものに、餃子2個、麻婆豆腐ごはん、ザーサイもちょこっとあってま、久しぶりの中華ご飯に満足でした。

IMG_6825この日は全員の防災訓練も行われました


PEACE BOATで世界一周の旅ーその34

ヨーロッパ最大級の氷河が作るフィヨルドを船上から見学

今回はスエズ運河航海を断念してアフリカ大陸最南端を回った航海になったため、ヨーロッパの魅力ある国への寄港が出来ませんでした。そのためもあって、フィヨルドの船上見学は楽しみの一つに浮上していました。ノルウェーのベルゲン港を出港した後、船は観光の拠点になっているフィヨルドに入り込み、船上から360度迂回して景観を見せるというのです。その様子は、12階のプールを囲んだ空間に乗船客が集まり、集合記念写真を撮るという趣向です。

4甲板に出てみると寒い寒い。前日、購入したフード付きウインドブレーカーで凌ぎました。背景に見えるのがフィヨルドで露出した陸地ですが、曇り空でやや霧もかかり、よく見えません。甲板の天井には、スクリュー付きの大型救命ボートが設置されているのが見えます。

フィヨルドに船が入り込んだころ、船の7階の1周500メートル強の甲板廊下に出て、フィヨルドで出来た陸地の景観を見て歩きました。途中で、乗船している日本将棋連盟の棋士、高田尚平七段と出会い、甲板で記念写真を撮影しました。

5高田七段とツーショットの栄誉をいただきました。

この地域の天候は、晴れたり曇ったり、雨が降ったりやんだりと山の天気と似ています。気温は日本の冬並みで風も強い。冬支度をしてこなかった筆者は、ベルゲンでフード付きウインドブレーカーを購入しました。厳しい冬をしのいでいる国の製品ですから、日本で見るウインドブレーカーとは全く違ったもので、流石によく出来ています。購入と同時にスーツの上から着てみたら、別天地のように保温効果がありました。

船はフィヨルドの名所へと入っていきました。ノルウェー南西部にあるフィヨルドで、全長113キロメートル、最大水深564メートル。ヨーロッパ最大級の氷河から出来たノールフィヨルドです。午後6時半から、12階の広場に行って見ると乗船客が集まっていました。

1モヤにけぶるフィヨルドの景観です。天気(自然現象)次第の景観というのもオーロラに似ています。

薄日の差す天気と思いきや、5分後には曇りになり数分後には雨から氷雨になり震え上がりました。船が旋回を始めた時に合わせての記念写真でした。海上に開放された空間です。風があるし体感温度は5、6度ですから、前日、ベルゲンで買い込んだフード付きウインドブレーカーにマフラーを巻いて参加しました。

IMG_6797船の12階広場に集まって集合写真の撮影です。船が旋回して360度の景観を見せるという趣向でしたが氷雨の中で震え上がりました。


フィヨルドは、数万年もの時間をかけてつくられた氷河が自身の重みで斜面を滑り落ちながら地面を深く鋭く削り取り、深い谷を形成するのです。氷期の終わりごろ(約1万2000〜1万5000年前)に氷が溶けて海面が上がったため、深い谷の一部が海に沈むことでフィヨルドができたという説明でした。

急に気温が低下してきたので、早々に集合写真を撮影すると、退散する人が続出してきたので筆者も早々に帰宅(部屋に戻ることを帰宅と言うようになってきました)。部屋の窓からフィヨルドに別れを告げていると、空は明るくなり、なんと薄日も差してきました。向こうに見える陸地では、色とりどりの家が見え、どこもかしこも緑の山と稜線がきれいな景観を作っていました。

この日の日の入りは23時19分ですから、まだまだ日は高いのです。いよいよスカンジナ半島から離れてアイスランドへの航海が始まりました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその33

冷涼明媚なスカンジナビア半島に接岸

ロンドンから北上してスカンジナビア半島随一のベルゲン港に接岸されました。ノルウェーの首都オスロに次ぐ第二の都市であり、昔はヴァイキングの拠点でもあり、その後は交易都市として栄えてきた港です。今回の旅では、最も寒い地域に上陸するので、防寒には気を遣いました。次の寄港地のアイスランドは、もっと寒くなりそうです。

ノルウェー人は背が高い。第一印象がそれでした。男女とも金髪・碧眼でプロポーション随一の民族です。有名なベルクマンの法則では「恒温動物は寒冷に生息するほど体重が重くなる」とありますが、人間もクマやシカ類も野鳥も同じです。動物はすべて北方にいくほど同じ種でも大型になります。筆者が札幌に転勤でいたころ、スズメ・カラスの類いからすべての生息動物は、同種でありながら本州のそれよりも大型であり、ベルクマンの法則を知ったことを思い出しました。

ベルゲンは、その昔はヴァイキングの拠点のひとつであったようで、その後は海洋商業都市として栄え、ドイツのハンザ商人で形成していたハンザ同盟都市となって、スカンジナビア半島地域の仲介交易を独占していました。港湾に面した地域に、その歴史をとどめる古い建物と独特の商圏都市の風景をいまなお残しており、ユネスコの世界遺産にも認定されています。

IMG_6739船の窓から見た最初の光景は息をのむほどきれいでした。

タラ料理を食べ歴史を知る

バスを降りるといきなり魚市場に案内されました。タラ、カニが山と積まれ、北方海域で採れた豊富な海産物は日本向けにも輸出されています。日本ではタラちり程度でしか食べていませんでしたが、こちらではタラのムニエル、スープ、フライなど豊富なレシピがあることを知り、いくつも食べましたがこれが例外なく美味しい。料理法によってこんなに違うことを知り、この魚を見直しました。帰国したら、タラ料理を習熟したいと思ったほどです。

IMG_6761街並みは清潔感があり、多くの観光客と一緒になりました。
ベルゲンの歴史は、火災の歴史そのものであることも知りました。商都として栄えた1000年ほど前から商圏を巡る紛争や略奪、海賊襲来などで火を放たれることも多く、のたびに教会はおろか木造建築物はあらかた焼失していたと言うことです。

IMG_6741日本の魚港とは違った風情がありました。

イギリス、オランダ、ドイツとの交易や大戦による敵対関係の戦争もありましたが、その後の復興で建てられた家屋は、やがて近代的でモダンな北欧文化を体現したような瀟洒な住宅や建築物になりました。世界遺産になるほどの美しい景観をつくったのです。

IMG_6744 (2)ケーブルカーで昇った山頂から見た雄大な景色は素晴らしいの一語で、しばらく見とれました。この景観を見に来る観光客が大勢来ており、写真撮影に追われましたが、絶景とはこういうものかと思いました。やはり実際に眼にする景観はとうてい写真などでは表現できないものでした。

山頂に、バカでかい奇妙な人形があり、大人気でした。筆者もちゃっかり子どものように握手してきました。

IMG_6757ノルウェー伝説・トロール人形と握手。怒らせるといたずらをするが、大切にすると幸せを運んでくる巨大なトロール人形でした。今もなお、ノルウェーに生き続けているそうです。

作曲家・グリークの家を訪問する

港街からバスで移動して、大作曲家エドヴァルド・グリークの家を訪問しました。グリークについては、筆者が中学生時代から姉の影響で、組曲・ペールギュント、ピアノ協奏曲などさまざまな名曲を聴いていたので、とりわけ親近感がありましたが、ノルウェー人とは知りませんでした。

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行って見ると丘の麓から始まるこんもりした森の中に、緑に包まれた瀟洒な家があり、小さな博物館になっていました。グリークが作曲していた部屋もそのまま保存されており、ピアノ演奏家としても名を残したグリークのピアノもありました。

この家の前方には湖が見え、緑の濃い森の中に息づく芸術家のたたずまいを感じました。あの爽やかなペールギュントの出だしの朝が、すぐに筆者の中で演奏が始まりました。誰でも一度は聴いたことがあるあの曲です。筆者は数え切れないほど聴いてきた曲なので、心の中でも自然と鳴り出しました。この名曲もこの森と湖の中で作曲されたのでしょうか。感動してしばらくたたずみました。

IMG_6766グリークが今、そこにいるような雰囲気の部屋でした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその32

悲喜こもごもロンドン後遺症

ロンドンの2日間の観光は、土日になったうえ、大規模な2つのデモとサッカーの国際試合が重なり、交通大渋滞などで上陸したツアーは、さまざまな影響を受け帰船後もあちこちで話題が沸騰していました。

オプショナルツアー参加者は、場所によって影響軽微だったグループもありましたが、もろにかぶって観光どころではなかったというグループもいました。

ロンドンの土日は、クローズしている商店や機関もあり、観光施設でも閉館という場所があったようです。何よりも土日は、観光地への人出が多く、接岸スケジュールに工夫がなかったのかという意見も出ていました。

世界観を変えたスマホ文化と自由行動

ツアーグループに対して、それなりに楽しんだのは個人で自由に市内を観光した人でした。電車や地下鉄、タクシーなどをうまく利用して目的施設に直行し、デモに遭遇した人もいましたが、異国のデモ風景を見てそれなりに「観光」になったようでした。英語が通じることも自由行動に駆り出した理由になっていました。

話を聞いていて感心したのは、年代に関係なくスマホをうまく利用していることでした。若い人たちのスマホ利用術は別として、60歳代以上の高齢者の方たち、特にご婦人の方のスマホ利用術が筆者の想像を遙かに超えて習熟していることに感心しました。というよりも感心する筆者の方が未熟者にとどまっているのでしょう。そういうことを感じることが、ままありました。

IMG_6313焼酎のボトルキープ、3千円。夕食時になるとボトルを出し合って、あちこちで宴が始まります。貴重な情報交換の場になります。

実用的なスマホ活用は、体験がモノを言います。この種のツールは「習うより慣れろ」というように、体験することが最大の習得術になります。さらにご婦人たちは、スキルを伝搬させるスピード感が男性よりも遙かに早い。

ご婦人たちはきめ細かく、地図や施設の検索や確認。地下鉄などの交通情報の検索と確認。種々の買い物情報など実にきめ細かく情報を入手していました。

男性は気がついても機会がなければ黙っていますが、女性はおしゃべりの中であっという間に伝授していきます。そのような場面に出くわすと筆者は、関心しきりということになります。外国旅行でのスマホ利用は、想像以上の武器になることを船旅で感じました。船内でのWi-Fi利用を始め、うまくこのツールを使いこなせば、格段に便利で効率のいい旅につながっていくようです。

IMG_6047屋上のデッキに集まってあれこれ話題を語り合うことも

情報交換の重要な場になっています。

一方で「スマホなんて関係ねえよ」と語っている一群の人たちもいます。PEACE BOATでは、さまざまなプログラムを準備して提供し、さらに乗船客が自主的に余技や趣味を披露・伝授して楽しませてくれるプログラムが毎日、開催されています。1500人の小さな「村」が息づいていることを実感する日々でもあります。

沖縄2教養講演が、毎日、船内のどこかで開催されています。



PEACE BOATで世界一周の旅ーその31

憧れの巨大な遺跡列岩を見に行く

船が寄港地に寄る時間は1日か2日と決まっています。イギリスはロンドンから40キロの距離にあるテムズ河口のティルベリー港に接岸して2日滞在し、上陸して見物する10本のツアーが用意されていました。その中から1つだけ選ぶのは相当に迷いますが、1泊2日でストーンヘンジ(stone henge)に行くツアーに参加しました。

初日のロンドン観光は、前回書きましたが記録的な大規模デモの規制を受けてほぼバスに缶詰状態。2日目は早朝からバスに乗り込み、ひたすらストーンヘンジに向かって走ります。前日はバスに閉じ込められて終わった反動もあり、広々とした平原と羊たちの群れを飽かずに見ていました。

突然、眼に入ったのは平原の彼方にうごめく一本の線でした。あれは何だろう。アリの行列のように何かに向かってうごめいています。その先端まで追いかけてみると、そこに大きな岩石のようなものが点々と見えます。筆者はあっと心で中で叫びました。ついに来たのです。ストーンヘンジの独特の形が並んでいます。長い間、実際にこの眼で見たいと思い続けてきた憧れの巨大な岩石遺跡です。

すと2長い人の列が巨大遺跡群につながるように尾を引いていました。

シャトルバスで至近距離まで接近して見学

バスは遺跡から遠く離れたセンターに着き、そこからシャトルバスに乗り換えてストーンヘンジまで運ばれていきます。この巨大な岩石遺跡に筆者が注目したのは、少年時代でした。いまから4500年も前に、なぜにしてあのような巨大岩石を人々が組み立てたのか。少年雑誌に特集として写真入りで掲載されていました。その雑誌のことは大人になってもしばらく思い出すことがありました。

構成する何十トンという巨大な岩石は、数十キロ離れた山地から運んできたものです。先史時代に誰が何の目的でこの平原まで運び、組み立てたものなのか。野の原の中に屹立する岩石の構造体を筆者はいま見ようとしています。わくわくするうちに、それが眼前に現れました。

ストーンヘンジ見学は、遠巻きに一周するようにコースが出来ており、歩いてほぼ1時間で終了します。筆者の記憶では、1963年にイギリスの有名な天文学者、ジェラルド・ホーキンスが「ネイチャー」に論文を発表し、この遺跡岩の配置は、天文学的に考えたものであり、月と太陽の位置関係を配慮したもので日食を予測していたというものでした。

しかしこの見解もその後、否定的に見る研究者が現れており、この遺跡岩の配置と存在の意味は、まだ何も確定していません。しかし、遠隔地からこの平原まで人力だけで運び、それを組み立てていまの状態にした意味は何か。不可思議を超えて際限なく人間の才知を感じさせます。

ストーンヘンジをバックにした写真は、長い間筆者の憧れでした。人類の英知と力量を感じるからです。

スト1見る角度によって容貌が変わる遺跡群像

現場を一周して分かったことは、見る角度によってストーンヘンジの光景が変わっていきます。つまりストーンヘンジの容貌が変わるのです。だから私たちがさまざまな写真で見ている遺跡岩は、皆違う光景であるはずです。

一周するようにコースを作ったのは、その全貌を見て欲しいという配慮からでしょう。しかも10メートルにも満たない至近距離から見る位置にも行くように、作ってありました。その地点には幾重にも人の輪が広がりました。

数メートルの距離になるとその存在感が、あたりを払うように押し寄せてきました。

すと4写真で見るようにすぐ近くで手で触れるくらいの距離に来ると、圧倒的な質量感が迫り、この岩を「屋根」まで載せて作った先史時代の人たちは何を考えていたのだろうかと思わずにいられませんでした。屋根に当たる平らな岩石と、それを支える2本の岩柱との接点には、落下を防止するちょうつがい構造で固定されているというのです。

手で触れるくらいの距離から飽かずに観察する機会に感動しました。ゴツゴツした岩の構造物が、後生の人間に感動を与えるだろうと彼らが考えたことはないでしょう。しかしこれをつくった人たちは、現代人と同じような英知を備えていたでしょう。

すでにマンモスは滅び、現世の動物とほぼ同じ種に置き換わっていた動物群を追い求めていたクロマニヨン人たちは、私たち農耕民族とはまた違った価値観の中で独自の狩猟民族文化を築いていったに違いありません。

帰り際、ストーンヘンジに別れを告げようとしたとき、ある角度に気がつき、急いで回って撮ったのがこの写真です。

正面3
この角度で見た遺跡構造体が最も整っていると思ったからです。これこそストーンヘンジの正面から見た顔ではないだろうか。これをつくった一群のリーダーも、同じ思想で完成させたのではないだろうか。そういう思いを巡らせながら、撮影してきたスマホの写真を繰り返し眺めては、帰りのバスの席に埋もれていました。

さらばストーンヘンジ。もう二度と出会うことはないでしょう。しかしそれらは筆者にとって、永遠の輝きを宿して決して消えることない顔貌を心のひだに刻みつけたのでした。