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2020年7 月

作曲家・古関裕而は天才だったのではないか

 いま、NHKの朝の連ドラで古関裕而の生涯をつづっている。テレビは、余り見ない方だが、この連ドラは毎日楽しみにしている。かねてから、古関裕而は天才ではないかと感じていたからである。がしかしその生まれ育ってからの生涯はほとんど知らなかった。

 筆者の父親が旧制福島商業学校出身だったが、その同窓生の古関裕而のことをときたま話をしていたことが記憶にある。今回のNHK連ドラをきっかっけに古関の生涯をネットなどで調べてみた。そして彼の残した多くの楽曲をネットで聴くことができた。

 予想はしていたが、自分がよく知っていた楽曲の多くが古関の作曲になるものだった。特に筆者が印象に残っている、あの甲子園の「栄冠は君に輝」、「東京オリンピックマーチ」、「長崎の鐘」、「とんがり帽子」そして軍歌の「若鷲の歌」、「露営の歌」など次々と流れてきた。

 戦後の間もなくの一時期、ラジオから流れてきていた歌謡曲、童謡、NHK楽曲の多くが古関の作曲であり、どれもこれも筆者の往時の光景を彷彿と引き出してくれた。NHKのラジオから流れていた昼のいこい、スポーツ実況予告の曲などもみな古関の作曲だったことを知った。

 前回、1964年東京オリンピックのとき、筆者は閉会式を見た幸運を引き当てた。そのとき会場を席巻したオリンピックマーチは、忘れることができない感情の高揚をいまなお記憶の中に残している。あれも古関の作曲だった。

 古関は、クラシック作曲から入り、歌謡曲へと転進したということも初めて知った。さらに作曲家は普通、ピアノなど楽器を駆使しなければ作曲できない。古関は、楽器を使わず、自分のイメージの中で作曲し、それを楽譜として表現していったという。数々の曲を聴いていて、これを天才と言わずして古関を語ることをできないと思った。

 人は生まれながらにして特異な才能を一つは持っているのではないかと言うのが筆者の思いである。なぜなら、世の中には優れた人が多すぎる。自分の80年の生涯を振り返ってみると、出会った人は優れた人ばかりであった。同時に新聞記者という職業柄、そのような優れた人に出会う機会が多かったことに感謝せざるを得ない。

 古関裕而に出会って伝記を書く機会があったら、どうしただろうかという幻想を楽しみながら連ドラを見る毎日である。

 2020・07・25

 


日常異変 コロナの私 

  同じタイトルで、特定非営利活動法人21世紀構想研究会HPで会員のコラムをリレーで連載している。そこへ本来なら書くべきことかも知れないが。私の場合はこちらのスペースを埋めることにした。

 日常的に、3本のコラム執筆、21世紀構想研究会、全国学校給食甲子園の雑多な仕事、それにいま、大げさに言うと生涯最後の、いや唯一の大作の原稿を書いている。これが下手すると800枚になるので、削り込みながらの執筆で時間がかかる。テーマは、沖縄返還である。

 1972年6月、アメリカの施政権から日本に帰った沖縄は、佐藤政権の最後の大仕事だった。佐藤栄作は、この返還を見届けて退陣し、直後の自民党総裁選で田中角栄が福田赳夫を破って新総裁に選出され、列島改造論へと突き進む。佐藤政権は、福田と田中という2人の実力者の運営で主流派をまとめ上げ、安定した党運営をしていたが、内実は福田・田中共に沖縄返還をめぐってそれぞれの思惑があり、それが結果的に佐藤政権を支えたものだった。

 さてコロナ禍で何がどう変わったか。原稿執筆が進んだかというとそうでもない。資料類を読みこなすだけでも精いっぱいであり、飽きると近隣の喫茶店へ行って気分を変えて資料類に眼を通す。コロナの影響で喫茶店に来る人も限られており、スカスカの空間でそれなりの快適さもある。

 これまで喫茶店でものを書いたり文献類を読むという習慣はなかった。それがコロナ禍でわざわざ外出してそういう行動に走ることは何だろうかと考えてみた。たいした理由はないが、どうやら自由に生活しているときは、わざわざ仕事を持って喫茶店に行くという発想がわかなかった。ところが行動を制限されると、家にいることが何となく苦痛になってきた。

 外出しても行くところがない。行きつけの銀座の寿司屋へ行ったら、カウンターに距離を取って座らされ、いつもなら満席の部屋がパラパラと言う感じである。注文して握ってもらってもすこぶる意気が上がらない。寿司職人に聞いてみたら同じような感想だった。握る方も客がまばらでは意気が上がらない。

 それで仕方なく喫茶店で時間をつぶすのだが、どうせなら一仕事いう発想が出てくるのではないか。ならば、家にいてやればいいのにそれが飽きてしまう。これは心理的な作用ではないかと思う。人は束縛されると反発する作用が働く。反抗期も同じ理屈ではないか。

 喫茶店で書く原稿は、集中力があるのか出来は悪くない。短時間で効率も上がる。日常異変が思わぬ発展につながったということを発見できたというのはちと大げさではあるが、生きて呼吸をしていた証拠にはなる。

2020・7・21


物の品質では勝てなくなった日本

 今朝(7月14日)の日本経済新聞朝刊一面に、トヨタが電磁波鋼板と呼ばれる高機能鋼材を中国の最大手鉄鋼メーカーの宝武鋼鉄集団から一部、入れることにしたとの報道が出ていた。

 これまでトヨタは、この種の特殊鋼板は、品質で世界トップを誇る日本メーカーだけから入れていた。それが中国製品を入れるということは、品質が追い付いてきたので後は値段の安い方を買うという理屈だろう。あらゆる製品は、品質が同じなら購入者は安い方を買うにきまっている。服飾などのブランド製品は違うが。

 中国製品は粗悪品とレッテルを貼って敬遠されたのは昔の話である。戦後間もなくの時代、日本製は粗悪品として世界で有名だった。それが世界に通用する品質を目指して努力して、ついに高性能、高品質の製品を世界に供給できるまでになった。

 中国の品質向上については、筆者はニセモノ製品を見てきたからよく分かっていた。2000年ころ、筆者はしょっちゅう中国に渡航してニセモノ調査をしていた。ニセモノ製造業者に取材に行って怖い思いもしている。目的は、知的財産への取り組みと権利による収益の在り方や仕組みを調べることにあった。日本企業の知財戦略は、中国のニセモノ社会を見ることでよく分かった。その結果は、おいおい書くことにしたい。

 この10年足らずの間に、中国のニセモノの品質が急激にあがった。一見してニセモノと分かるようでは、中国では売れなくなった。文具類は冗談で、本物より品質がいいとも言われた。真似された日本の文具メーカーは怒るだろうが、中国人から見るとそうなってしまう。

 もの作りと言う言葉がある。文字通り、製造業を称する言葉だが、今やリアルでものを作るのではなくバーチャルでものを作って、どこかに作らせる時代になった。企画・設計・金型・量産という流れは、もの作りの工程を言うものだが、日本のお家芸は金型・量産で差を付けることにあった。品質はこの工程で差がつく。

 しかし金型は、機械化されて誰が作っても同じものができるし、量産化も同じである。機械が作る時代になった。もの作りは、企画・設計で差を付けないと勝てなくなった。工程の上流で差を付けるのであり中下流では、同じレベルと言う時代だ。日本の中小企業の仕事が、急速に中国、台湾、韓国へと取られていったことも同じ理由だ。

 ものの品質だけでなく、国の品質も同じである。情報通信関係のインフラでは、中国に遥かに追い抜かれたという実感がある。中国に行くとその変貌ぶりを実感するからよく分かる。ものの品質では勝ったか負けたか、ものを手に取ると分かるが、情報通信の世界では社会インフラと文化と言う手に取れない仕組みで差がつくから怖い。

 国家の品質はなんで決まるのか。いろいろあるだろうが司法・立法・行政の三権分立という国の仕組みで決まるということも間違いではないだろう。いずれそのことを書きたい。

 2020年7月14日

 


コロナ禍とめまい 

 不都合なことが起きるとなんでもかんでもコロナのせいにしがちですが、このところ軽いめまいに襲われ、これはもしやと疑ってみたものです。

 夜中にふと目が覚めて、頭を動かしたとたんに天井がぐるぐると回りだし、思わずベッドにしがみつくことが数回ありました。トイレに起きたとき、戻って横になったときも同じように天井ぐるぐるが続いてあわてました。

 ぐるぐるは、ほんの数秒間ですが、これは三半規管に故障が起きた場合など、あまりよくない病気の初期症状かも知れない。丁度、聖路加病院で定期検診があったので、担当の医師にめまいを訴え、耳鼻科の医師を紹介してほしいと申し出ました。

 「はい、いいですよ」と親切な若い医師は答えましたがすぐに「2か月以上先になりますが、それでは遅いでしょうね」と言う。

 「そんなに、混んでいるのですか?」

 「はい、当院は通常、2か月は先になります。近くの耳鼻科のクリニックに行った方が早いですよ」と言う。

 それで近くの門前仲町の耳鼻科のクリニックへ電話すると「すぐにでも来てください」というのですぐに行ってみました。お医者さんは50歳前後の女医先生で、大きな声で問診が始まりました。それが非常に優しく丁寧で、小学校の児童になった気分でサクサクと答えました。

 大きなレンズ状のお面をかぶらされ、上半身を上下左右に動かし、医師もまた私の頭を抱えていろいろ診断します。立ち上がって目をつぶってという動作の診療もあり、20分ほどで診断結果。つまるところ、運動不足のような話でした。「パソコンの前に長時間、座っていませんか」という問いかけに頷くよりありません。

 コロナ禍になってから外出も散歩もしなくなったので、そのために老化現象に追い打ちをかけるようにめまい症状が来たようです。改善する簡単な体操のイラストをいただき、帰宅後早速、イラストを見ながら体を動かす「簡易体操」を数回試みました。

 恐る恐る、ベッドにひっくり返って体を左右に動かしましたが、軽いめまいがあったはずがウソのように消えていました。ということから、これはコロナ禍めまい症候群という勝手な病名を付けて簡易体操を続けています。

 これはやはり、コロナ禍のひとつではないでしょうか。同じようなこと、つまり体のありこちの異変が高齢者の間で起きているような気がします。

2020年7月12日