Previous month:
2016年8 月
Next month:
2016年10 月

2016年9 月

1300人が見送った加藤紘一先生の葬儀

 加藤紘一先生の自民党・加藤家合同葬が、9月15日、東京の青山葬儀所で行われ、政財界関係者ら1300人が見送った。筆者がこれまで参列した葬儀の中で最も盛大な葬儀だった。

 加藤先生の遺影に向かって弔辞を読んだのは、葬儀委員長の安倍首相、YKKを組んだ盟友の山崎拓・元自民党幹事長、今井敬・経団連名誉会長、程永華・中国大使そして友人のコロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーチス氏の5人だった。

 安倍首相の弔辞は儀礼的な内容で何も感興がわかなかったが、後の4人はそれぞれの思いを語り聞く者の心に響いた。

 山崎氏はYKKとして活動した時代を振り返りながら「加藤の乱を止めることができなかったのは僕が悪かった。すまん」と語り、最後に「君に憲法9条を変えることに反対かと聞いたら、そうだと語った」と結んだ。改憲に意欲を燃やす安倍首相を牽制するように聞こえた。

 最前列に座って聞いていた小泉純一郎元首相は、終始、両眼を閉じて微動だにせずに聞いていた。葬儀後、記者団に囲まれた小泉元首相は「なぜ(加藤氏が)首相になれなかったか不思議だ。あれだけ優秀な政治家は珍しい。惜しい人を亡くした」と語ったという。(スポーツ報知9月16日付け)

 程大使の弔辞も胸を打った。1989年7月に宮沢喜一氏らと一緒に訪中した加藤先生は西安に行った。同行した程大使と、夜、一緒に街へ出た。中国の庶民の生活を見て会話をしたいと希望する加藤先生と一緒にラーメン屋に入り、中国人と懇談したエピソードを語った。

 そして「中日関係は礎の関係だという信念を持ち、中日友好のために言い尽くせないほど貢献した」と称え「中日間は必ず改善する」と決意を語るように結んだ。

 カーチス教授は、加藤先生がコロンビア大学で6週間のミニコースの日米関係セミナーを担当したことを語った。毎回2時間の講義だったが、「学生と懇談する時間を作り、学生たちとよく語りあったので人気者だった」と語った。

 英語、中国語に堪能で、国際的な視点でものを考え発信することのできる政治家だったことを改めて印象付けた。ただ、筆者にとって物足りなかったのは、科学技術についての加藤先生の業績を語った人がいなかったことだ。政界にも自民党にも科学技術に関心を持っている人物層が極めて薄く、このような時にもそれが出たのだろう。

科学技術が唯一の接点だった

 筆者が加藤先生と親しくお付き合いできたのは、科学技術の縁であり、後に知的財産と中国問題が加わった。振り返ってみると、それ以外の政策的な話はほとんどしなかった。

 加藤先生は、メディアを大事して極力取材を丁寧に受ける姿勢だった。いまになって気が付いたことは、多分、科学技術のテーマでメディアと具体的なテーマで話ができた機会は、非常に少なかったのではないか。科学技術に関して他社の記者や科学ジャーナリスト、政治家の話が出たことがなかった。

 ただ一人、谷垣禎一先生(前自民党幹事長)の同席を求め、科学技術政策について意見交換したことがあった。谷垣先生は、加藤先生がもっとも信頼していた同志でもあった。二人の会話からそういう雰囲気がにじみ出ていた。

 谷垣先生も加藤先生の影響を受け、株式会社インクスを訪問して山田眞次郎社長からIT産業革命について説明を受けたことがあった。

 加藤先生の逝去がはからずも、日本の政界は科学技術について極めて手薄であることを改めて考えさせた。

 加藤先生はそのことを憂慮し、真の科学技術創造立国を自らの手で実現したかったのではないか。政界はかけがえのない人を失った。


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う 最終回

 政界引退につながった病気と落選

 2012年12月に行われた総選挙で山形選挙区から立候補していた加藤紘一先生は、接戦の末敗れた。選挙中から体調がすぐれなかったのは、選挙直前に軽い脳こうそくに見舞われたからだった。

 ややしゃべりはもつれるが話はできる。ゆっくりだが歩行もできる。しかし政治家にとってこれは致命的だった。落選もやむを得なかったと筆者は思った。

 当選13回を重ね、首相の座に最も近い位置にいながら政局の読みとタイミング、政界に渦巻く利害得失と嫉妬、派閥力学などの渦に呑み込まれ加藤政権は泡となって消えた。

加藤先生13年2月28日DSCN8910顔色もすぐれお元気だった加藤先生と(2013年2月28日)

 落選から年が明けた2013年2月、筆者はお見舞いがてら加藤先生に電話をすると、赤坂のいつものレストランで食事でもしようと誘われた。

 お会いすると顔色もすぐれ落選の失意もまったくなく、相変わらず科学技術の話で持ちきりとなった。話は2004年5月26日に衆院文部科学委員会で質問し、今でも語り継がれている日本の研究現場の欠陥と課題についてであった。

圧巻だった加藤先生の国会質問

 ニュートリノ天文学を創設してノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士とゲノム解読で世界の先端を走りながら行政と学界の希薄な問題意識の中で頓挫し、手柄をすべてアメリカにさらわれた和田昭允博士を従え、日本の科学研究現場の問題点を浮き彫りにして今後に役立てようとする質問だった。

 かなり専門的な内容にまで踏み込んだ質問であり、国会議員の中でこのような質問ができる議員は加藤先生だけだったろう。

 その質疑の政府側の答弁者の一人だった当時の文部科学省生涯学習政策局長の銭谷眞美氏(その後事務次官、現東京国立博物館長)は「今でも鮮明に覚えています」と言う。

  成功した小柴博士と失敗に終わった和田博士の事例を対照的に引き出して、「日本の研究現場の欠陥を考えさせようとしたものでした。今でもあの議事録は参考になると思います」と語っている。

 その議事録は、次のサイトから読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009615920040526022.htm

 

第6世代の中国を語りたい

 話が弾んでいるうち、自然と中国の問題へと移っていった。安倍政権になってから日中間は日増しに悪くなっていく。その現状を憂いながら加藤先生は「これから中国と付き合うのは第6世代という考えがなければ未来志向にならない」と語った。

 第1世代・毛沢東、第2世代・鄧小平、第3世代・江沢民、第4世代・胡錦濤、第5世代・習近平であり次のリーダーが第6世代となるという意味だった。

 加藤先生は、中堅リーダーとして中国共産党の次期リーダーと目されている多くの人々と親交があった。若き中国のリーダーとの交流を通じて、肌で感じた中国の第6世代リーダー候補たちの考えを分析する必要がある。

 そのような考えであり、日中間に横たわる目先の課題にとらわれずに未来志向で行けば日中にはまた新しい歴史が作られるという考えだった。

 筆者はこれを聞いてすぐに、21世紀構想研究会での講演依頼を持ち出し、加藤先生も喜んで受けてくれた。

こうして2013年4月19日、プレスセンター9階記者会見場で「中国第6世代が考える日中未来志向」のタイトルで90分の講演を行ってくれた。

加藤先生21世紀構想研究会DCIM0034第99回・21世紀構想研究会で講演する加藤先生

 これが加藤先生の21世紀構想研究会の講演では最後になった。その中身は中国との将来展望について深く考えさせたものであり、その3か月後に筆者は、加藤先生と訪中することになる。

その報告は前回のその3で報告した。

 科学技術と中国を語って止むことがなかった加藤先生の生涯を偲びながら、心から哀悼の意を表して筆をおく。

終わり


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その3

歓迎ムードで終始した加藤訪中団

  2006年8月15日の終戦記念、山形県鶴岡市の加藤紘一先生の実家が放火されて全焼した。犯人は加藤先生が中国との友好関係で活動することに反発する右翼だった。

 筆者が放火事件を心配して加藤先生にお見舞い電話をすると、動ずる雰囲気もなく「そんなことより、また科学技術の討論会をしましょう」と語った。

 東大理1に進学したかった加藤先生は、年を取るにしたがって理系への憧憬を強めているような印象を持った。

  中国を敵対する第二次安倍内閣が発足し、日中関係が緊迫していた2013年7月1日から1週間、日中友好協会会長だった加藤先生を団長に、経済界の人々など10人ほどで編成した訪中団が北京空港に降り立った。筆者は加藤先生のいわば「かばん持ち」として参加を許された。

1*7月2日中日友好協会の昼食会1中日友好協会の昼食会での記念写真

  空港から加藤先生はVIP待遇で歓迎ムードにあり、そのときから帰国までスケジュールは歓迎行事で埋まっていた。歓迎昼食会、夕食会が続き、中国の要人が出席して、安倍政権の硬直化する日中関係を憂慮して打開することを双方で模索し合った。

 討論する会話の中で直接、打開するというような言葉は出なかったが、会談の雰囲気はいかに友好関係を保持するかという双方の思いが伝わり、最後はいつも「カンペイ、カンペイ」の大合唱で終わった。 

 北京から瀋陽市に移動し、関東軍が南満州鉄道を爆破して勃発した満州事変時代の歴史的記録を展示する「瀋陽九・一八事変歴史博物館」を見学した。北京から移動するとき、筆者は加藤先生が中国と関わった歴史を聞いた。

 加藤先生は、東大法学部公法学科を卒業し外務省に入省した。それから台湾大学に留学し、中国語を研修語とした外交官を目指す「チャイナ・スクール」に入った。中国語をマスターして香港副領事からアジア局中国課次席事務官となり父親の死後、政界へ転じる。

 外務官僚時代にハーバード大学に留学し、「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得した。後年、加藤先生がハーバード大学で講演するとき、MITから利根川博士が駆け参じた。アメリカの学生との質疑応答は、時として辛辣な場面になることを心配したが、利根川博士は「加藤君はそつなくこなして、英語力もあるなあと感心した」と語っている。

37月3日夕食会1円卓加藤訪中団を歓迎する中国の晩餐会

木寺大使取夕食かい

木寺中国大使主催の歓迎晩さん会で(右から2人目が木寺大使、その左が加藤先生)

 中国の新幹線の中での筆者とのインタビューの中で、加藤先生は「アジアと中国の歴史を研究し、日本の近代史を自分なりに見直した」と語った。

 加藤先生が北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館を見学したことがある。そのとき「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して記念館の館長に献じたと語った。

 筆者もその記念館を見学したことがあるが、中国から見た日中戦争の記録・展示内容を見て、自身の歴史観を見直すきっかけを作った。淡々と話をする加藤先生の言葉を聞きながら、先生も同じ思いだったのではないかと感じた。

 「日中不再戦」と揮毫した加藤先生

0*7月3日1の9・18 (2)

 「瀋陽九・一八事変歴史博物館」の見学の最後に、館長が硯を持ち出して加藤先生に揮毫を願い出た。加藤先生は筆を持つと「日中不再戦」と一気に書き上げた。それを見守っていた人々から拍手が起きた。

 北京に戻る道々、加藤先生は「日中が科学技術で協調したら、世界の科学技術研究のリーダーになれる。日本はもっと歴史を学ばなければならない」と語った。

 筆者が加藤先生との交流の中で確信した印象は、「科学技術」と「中国」という2つの言葉に凝縮される。

 自民党と政局という混沌とした激動の中で「加藤の乱」が語られることが多いが、加藤先生の政治信条の骨格には、「科学技術」と「中国」というキーワードもあったのだ。

 そのような政治家の実像を語るため、この追悼文を書こうと思い立った。

(つづく)


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その2

Img125

 加藤紘一先生をまん中にしたこの写真は、1999年に株式会社インクスを訪問したときのものだ。右端のインクス社長の山田眞次郎氏は、当時、ベンチャー企業の雄として日本のもの作り現場をIT化するための「伝道師」として脚光を浴びていた。

  筆者は、山田社長の「信者」になり、急進的に変貌する世界のもの作り現場を社会に報告して啓発する役目を担った。

 IT産業革命である。その手段と道具の一端は、インターネットと光造形装置である。そのことを加藤先生に解説したら「是非、現場を見に行きたい」とおっしゃる。山田社長に伝えると、びっくりしながらも喜んで受け入れると言って、部外秘の工場も案内して説明してくれた。

 光造形装置はあっという間に進化して3Dプリンターに変貌し、いま世界中に燎原の火のように広がっている。この分野でノーベル賞が出るのは間違いないだろう。

 インクスに加藤紘一先生が興味を持ったのは、「動物的勘」だろうと筆者は思った。その背景には、分野は違うがノーベル賞受賞者、利根川進先生との交流の影響が大きかったと思う。

 利根川先生とは、都立日比谷高校の同級生であり、二人は折に触れて意見交換をしていた。利根川先生は、来たるべき21世紀の日本の研究現場を充実させるためには、ポスドク制度を機能させるべきと強力に進言し、当時、自民党政調会長だった加藤先生の主導で「ポスドク1万人計画」を推進して実現した。

 また加藤先生の郷里の山形県鶴岡市出身に杉村隆博士がいた。杉村博士は国立がんセンター名誉総長であり、いま学士院院長の科学者だ。杉村博士と懇意だった筆者が、あるとき博士と話をしていて加藤・杉村の交流がよくあることを知った。

 加藤先生は、医療問題とがん撲滅戦略などについて、杉村博士から相当な知識と最新情報を得ていたと思う。そう考えたくなる知見と政策を語ってやまないことがあった。

 加藤先生と話をしていると、ゆっくりとした口調の中からよく最新の話題が出てきた。ニュートリノの学術研究にも興味を示していたのでびっくりしたことがあった。

 加藤先生はよく、「将来は世界中から患者が日本に集まるような先端医療の治療体制を作りたい。そういう力量を日本人は持っている。政策と制度を整備すれば実現できる」と言うのが口癖だった。

 21世紀構想研究会でも交流を深める

 筆者は1997年から、特定非営利活動法人21世紀構想研究会という政策提言集団を創設して、多くの識者を集めて研究会をしていた。この研究会に加藤先生はこれまで6回、参加してくれた。2000年5月には利根川博士と一緒に顔を見せ、日米研究体制の違いなどについて討論に加わった。

 「加藤の乱」のあとの2001年5月18日には「加藤政局を語り、科学技術創造立国を語る」として1時間ほどの講演と討論を行った。

 さらに2004年の21世紀構想研究会の50回記念シンポジウムでは、 「ほんとにどうする日本改革」のタイトルでパネルディカッションに参加し、2013年の21世紀構想研究会100回記念講演シリーズでは、 「中国第6世代が考える日中未来志向」 のタイトルで1時間半の講演を行った。

 21世紀構想研究会会員のベンチャー企業創業者との交流をいつも大切にし、楽しみにしていた。2000年11月20日の加藤の乱が起きたその翌日に、21世紀構想研究会のベンチャー企業の社長有志の10人ほどと会食が予定されていた。生島和正・武蔵エンジニアリング株式会社社長ら元気のいい中堅企業の経営者が多かった。

 しかし国会と自民党の内外は大騒ぎであり有志との会食どころではないと考えた筆者が、電話で延期を申し出たところ「社長さんたちも忙しい中でスケジュールを組んでくれたのだから、延期はしません。必ず行きます」と言って加藤先生はきかなかった。

 門前仲町の隠れ家のように使っていた会場のレストランに、予定から30分ほど遅れて加藤先生は出席した。しかし引きも切らずに携帯に連絡が入り、見かねた出席者が加藤先生を「解放」することにし、先生を車まで連れ出して見送りした。

 そのような交流は、銀座、赤坂などで5、6回はやっただろう。訃報を聞いた社長の一人は「深く思索する政治家だった。首相にしたかった」と逝去を心から惜しんだ。

(つづく)


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その1

  20160910-00010006-storyfulp-000-2-view[1]

 安倍政権の集団的自衛権の行使容認は「徴兵制まで行きつきかねない」と反対を訴え、従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官談話の見直しを進めようとする安倍首相を批判していた元自民党幹事長の加藤紘一氏が亡くなった。

 自民党の最リベラリストであり良識ある政治家であった。主義主張、政治哲学だけでなく科学技術に関しても並々ならぬ関心と展望を持っており、加藤政権が実現したときには、知的財産権意識を日本全土に広げたいという「挑戦的な政策」を胸に秘めていた。その「野望」も日の目を見ることなく、ひっそりと政治活動の幕を引いた。

 加藤先生との最初の接点は、1999年7月、突然、加藤自民党幹事長から電話をいただいたときから始まる。筆者はそのとき、読売新聞論説委員であり主として科学技術のテーマで社説を書いていた。

月刊誌「諸君!」(文藝春秋社、1999年7月号)に「ニッポン科学技術立国の迷信」とのタイトルで論文を書いたが、その中身について意見交換をしたいという加藤先生の申し出だった。

 この論文で筆者は、歴代自民党政権が掲げてきた「科学技術立国」を国是とする政策は、いかにインチキであり砂上の楼閣のような政策であるか具体的な事例と数字をあげて激しく批判したものだった。

 数日後に出会った加藤先生に筆者が「自民党議員に科学が分かる先生がいることを嬉しく思います」と言うと、すかさずこう言った。

 「私は理系人間ですからね。最初の受験は東大の理1を受けたが落ちましてね。1浪後にもう一度と思ったら、先生が理1は保証しないが、文1なら保証するというから文1を受けて法学部に入った。文1より理1の方が難しかった。それなのに法学部の方が日本を牛耳っている」と言って笑わせた。

 科学技術の先端研究のことをよくご存じであり、それから様々なテーマについて意見交換する機会を作ってくれた。加藤先生が科学技術に明るいのは、高校時代の同級生であるノーベル賞受賞者の利根川進先生と仲が良かったことだった。

 たまたま筆者も取材を通じて利根川先生とは懇意にしていただいていたので、3人でお会いし、お二人から日本の科学技術政策について意見をうかがったこともあった。

筆者が東京理科大学で授業をしていた「科学文化概論」にも加藤先生にゲスト講師として来ていただき、日本の科学技術政策の課題と将来展望を語っていただいたこともあった。

加藤紘一先生2東京理科大学の「科学文化概論」の授業で講義する加藤紘一先生


 元自民党幹事長であり、宏池会会長という派閥の領袖であり、首相に最も近い距離にいた政治家であった。そういう大物が講義に来ても、学生たちはほとんど感動を示さなかった。そのような時代になってきていた。

 もし加藤政権が実現した暁には、どのような科学技術政策をするべきか。そういう突っ込んだ話を何回かしたこともあった。21世紀を目前にした時代だったが、知的財産権に対する理解も深く、次のような構想を話し合ったこともあった。

 それは竹下政権のときに打ち出して話題となった「ふるさと創生交付金1億円」に習って、「ふるさと創生・市町村特許出願運動」を打ち出そうという構想だった。日本全国の市町村に必ず1件以上の特許を出願させる運動であり、特許の価値に応じて交付金を出そうという構想だった。「特許1件1億円」というキャッチフレーズまで用意していた。

 すべては幻に終わった。「加藤の乱」で知られる政局の激動の中で加藤政権の芽は消えてしまったからである。その不運に追い打ちをかけるように、加藤事務所の所得税法違反事件で衆議院議員を辞職する。

 辞職したその日の夜、襟元の議員バッチを裏返しにした加藤先生と二人だけで赤坂の焼肉屋でお会いしたことがあった。そのようなときでも科学技術政策の夢を語っていた。聞いていて涙が出そうになった。

 加藤先生は、筆者がもっとも濃密にお付き合いした政治家であった。

(つづく)


伊藤真先生が「憲法の価値を学ぼう」と熱く語った90分(第129回21世紀構想研究会報告)

路整然とした解説にたちまち日本国憲法の虜になりました

1CIMG4308
憲法を学ぶいいチャンスである

 2015年9月19日の戦争法の強行採決から1年を迎える。伊藤先生は、あの暴挙を機会に憲法を学ぼうと呼びかけて講演が始まった。

 「私たちは誰もが政治や憲法に無関心ではいられても、無関係ではいられない」と言う名言を吐き、憲法を学ぶ意義を次のように整理した。

1 憲法を使いこなして自分らしく生きる力を身につけるため(自分が幸せになるために)

2 社会のメンバーとしての役割を果たすため(社会をよりよくするために)

3 憲法改正国民投票や選挙のときに、自分の考えでしっかりと判断できる力をつけるため(未来を灰色にしないために)

 続いて近代日本の歩みとして明治から先の太平洋戦争終結までの時代に憲法と国民はどのように移り変わったかを解説した。

終戦までの日本国民に人権はなく、すべて天皇ため国家のために自己犠牲することが価値あることと位置付けられていた。それは軍備拡張、富国強兵、経済発展、国家優先という思想を実現するため、国民を誘導して利用するためだった。

戦前のドイツと日本の共通点も解説した。ドイツではナチズムによって個人は民族の中に埋没し、個人と国家の区別、対立関係自体が消滅し、国家権力を制限する憲法も必要なくなった。

一方、日本では国体思想の下、世界恐慌後、軍部のプロパガンダに乗せられ、閉塞した政治や社会の変革者として軍部を圧倒的に支持したのは、貧困にあえぐ大衆であった。

国家から個人へ変わった戦後憲法

 戦後、明治憲法から日本国憲法へと変わり、国家・天皇を大切にすることから個人を大切にする憲法へと変わった。国民主権、戦争できない国、差別のない国、福祉を充実させる国、地方自治を保障する国、個人のための国家へと価値観を180度切った。

 日本国憲法は「人々が個人として尊重されるために、最高法規としての憲法が、国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤としている」

と語り、国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義を基本原理としているとした。

そしてそれは、憲法前文に凝縮された文言として存在し、国民の行動規範も示されていると語った。

 ここで伊藤先生は、ドイツのナチス政権の台頭とヒットラーの思想戦略について具体的な例を挙げながら解説した。

聞いていて思ったことは、人間の心、考えていることをある恣意的な戦略によって簡単に変えて行くことができることに改めて驚いた。

と同時に、人間の心の強さと弱さが表裏一体の関係で存在することも知った。

伊藤先生は、憲法の必要性を次のように定義した。

多数意見が常に正しいわけではない。だから多数意見にも歯止めが必要である。多数意見でも奪えない価値があるはずだ。これを予め決めておくのが憲法であると。

そして政治家は人間なので誰でも自分勝手に権力を行使してしまう危険がある。だから、政治を憲法で縛っておかなければならない。これが立憲主義であると語った。

1CIMG4313

戦争放棄を目的として立憲主義

憲法は文化・歴史・伝統・宗教からは中立であるべきという視点にも眼を開かされた。憲法とは、国家権力を制限して国民の権利・自由を守る法であり、近代国家の共通として「あくまでも人権保障が目的」となっているという。

さらに日本国憲法は、戦争放棄を目的としていることに日本の立憲主義の特長が出ている。安倍内閣は、勝手にそれを無視して自分の思うとおりの政治を進めようとしているのではないか。

また伊藤先生は、個人の尊重と幸福追求権として憲法13条にある「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」をあげた。

これは「誰にも価値があり、幸せになる権利を持つということだ。自分の幸せは自分で決める(自己決定権)ものであり、「自分が幸せになれる国づくりのために選挙に行く」と語った。

日本国憲法は誰もが知るように第9条で交戦権を認めていない。だから自衛隊には交戦権がなく、海外で敵の殺傷ができない部隊であり、法的には通常の軍隊とはいえない。

これに対し集団的自衛権は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を,自国が直接攻撃されていないにもかかわらず,実力をもって阻止する権利」としていた。(1981年5月29日,政府答弁)

ところが安倍政権は、閣議決定の解釈変更で「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」として、自衛の措置として海外での武力行使容認のためにはときの政府が総合的に判断できるように変えてしまった。

さらに自民党の改憲草案をみると問題点が散見していることを指摘した。集団的自衛権を容認して国防軍を創設することにより日米同盟を強化し、米国の期待に応えたいという。これは軍事力による国際貢献をしたいということと同義語である。

「個人の尊重」よりも、軍事的経済的に「強い国」づくりをしようという思想は、戦前回帰・富国強兵政策への回帰である。

さらに問題なのは、第21条(表現の自由)である。

1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。

2項 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

第2項によって、事実上、表現の自由はなくなり、中国憲法と同じになる。

伊藤先生は「日本はどんな国に変わろうとしているのか。私たち自身が何をめざすかを考えなければならない」として「改憲の必要性が本当にあるのか。憲法は魔法の杖ではない。慎重すぎるくらいがちょうどいいのである。自分の生活がどう変わるかへの想像力を働かせることも重要だ。10年後、20年後への想像力、そして歴史を学ぶ勇気と誇りをもとう」と語りかけた。

そして最後に次のスライドを見せて私たちの行動力に期待をかけた。

3CIMG4316