自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う 最終回
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1300人が見送った加藤紘一先生の葬儀

 加藤紘一先生の自民党・加藤家合同葬が、9月15日、東京の青山葬儀所で行われ、政財界関係者ら1300人が見送った。筆者がこれまで参列した葬儀の中で最も盛大な葬儀だった。

 加藤先生の遺影に向かって弔辞を読んだのは、葬儀委員長の安倍首相、YKKを組んだ盟友の山崎拓・元自民党幹事長、今井敬・経団連名誉会長、程永華・中国大使そして友人のコロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーチス氏の5人だった。

 安倍首相の弔辞は儀礼的な内容で何も感興がわかなかったが、後の4人はそれぞれの思いを語り聞く者の心に響いた。

 山崎氏はYKKとして活動した時代を振り返りながら「加藤の乱を止めることができなかったのは僕が悪かった。すまん」と語り、最後に「君に憲法9条を変えることに反対かと聞いたら、そうだと語った」と結んだ。改憲に意欲を燃やす安倍首相を牽制するように聞こえた。

 最前列に座って聞いていた小泉純一郎元首相は、終始、両眼を閉じて微動だにせずに聞いていた。葬儀後、記者団に囲まれた小泉元首相は「なぜ(加藤氏が)首相になれなかったか不思議だ。あれだけ優秀な政治家は珍しい。惜しい人を亡くした」と語ったという。(スポーツ報知9月16日付け)

 程大使の弔辞も胸を打った。1989年7月に宮沢喜一氏らと一緒に訪中した加藤先生は西安に行った。同行した程大使と、夜、一緒に街へ出た。中国の庶民の生活を見て会話をしたいと希望する加藤先生と一緒にラーメン屋に入り、中国人と懇談したエピソードを語った。

 そして「中日関係は礎の関係だという信念を持ち、中日友好のために言い尽くせないほど貢献した」と称え「中日間は必ず改善する」と決意を語るように結んだ。

 カーチス教授は、加藤先生がコロンビア大学で6週間のミニコースの日米関係セミナーを担当したことを語った。毎回2時間の講義だったが、「学生と懇談する時間を作り、学生たちとよく語りあったので人気者だった」と語った。

 英語、中国語に堪能で、国際的な視点でものを考え発信することのできる政治家だったことを改めて印象付けた。ただ、筆者にとって物足りなかったのは、科学技術についての加藤先生の業績を語った人がいなかったことだ。政界にも自民党にも科学技術に関心を持っている人物層が極めて薄く、このような時にもそれが出たのだろう。

科学技術が唯一の接点だった

 筆者が加藤先生と親しくお付き合いできたのは、科学技術の縁であり、後に知的財産と中国問題が加わった。振り返ってみると、それ以外の政策的な話はほとんどしなかった。

 加藤先生は、メディアを大事して極力取材を丁寧に受ける姿勢だった。いまになって気が付いたことは、多分、科学技術のテーマでメディアと具体的なテーマで話ができた機会は、非常に少なかったのではないか。科学技術に関して他社の記者や科学ジャーナリスト、政治家の話が出たことがなかった。

 ただ一人、谷垣禎一先生(前自民党幹事長)の同席を求め、科学技術政策について意見交換したことがあった。谷垣先生は、加藤先生がもっとも信頼していた同志でもあった。二人の会話からそういう雰囲気がにじみ出ていた。

 谷垣先生も加藤先生の影響を受け、株式会社インクスを訪問して山田眞次郎社長からIT産業革命について説明を受けたことがあった。

 加藤先生の逝去がはからずも、日本の政界は科学技術について極めて手薄であることを改めて考えさせた。

 加藤先生はそのことを憂慮し、真の科学技術創造立国を自らの手で実現したかったのではないか。政界はかけがえのない人を失った。

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