自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その2
2016/09/11
加藤紘一先生をまん中にしたこの写真は、1999年に株式会社インクスを訪問したときのものだ。右端のインクス社長の山田眞次郎氏は、当時、ベンチャー企業の雄として日本のもの作り現場をIT化するための「伝道師」として脚光を浴びていた。
筆者は、山田社長の「信者」になり、急進的に変貌する世界のもの作り現場を社会に報告して啓発する役目を担った。
IT産業革命である。その手段と道具の一端は、インターネットと光造形装置である。そのことを加藤先生に解説したら「是非、現場を見に行きたい」とおっしゃる。山田社長に伝えると、びっくりしながらも喜んで受け入れると言って、部外秘の工場も案内して説明してくれた。
光造形装置はあっという間に進化して3Dプリンターに変貌し、いま世界中に燎原の火のように広がっている。この分野でノーベル賞が出るのは間違いないだろう。
インクスに加藤紘一先生が興味を持ったのは、「動物的勘」だろうと筆者は思った。その背景には、分野は違うがノーベル賞受賞者、利根川進先生との交流の影響が大きかったと思う。
利根川先生とは、都立日比谷高校の同級生であり、二人は折に触れて意見交換をしていた。利根川先生は、来たるべき21世紀の日本の研究現場を充実させるためには、ポスドク制度を機能させるべきと強力に進言し、当時、自民党政調会長だった加藤先生の主導で「ポスドク1万人計画」を推進して実現した。
また加藤先生の郷里の山形県鶴岡市出身に杉村隆博士がいた。杉村博士は国立がんセンター名誉総長であり、いま学士院院長の科学者だ。杉村博士と懇意だった筆者が、あるとき博士と話をしていて加藤・杉村の交流がよくあることを知った。
加藤先生は、医療問題とがん撲滅戦略などについて、杉村博士から相当な知識と最新情報を得ていたと思う。そう考えたくなる知見と政策を語ってやまないことがあった。
加藤先生と話をしていると、ゆっくりとした口調の中からよく最新の話題が出てきた。ニュートリノの学術研究にも興味を示していたのでびっくりしたことがあった。
加藤先生はよく、「将来は世界中から患者が日本に集まるような先端医療の治療体制を作りたい。そういう力量を日本人は持っている。政策と制度を整備すれば実現できる」と言うのが口癖だった。
21世紀構想研究会でも交流を深める
筆者は1997年から、特定非営利活動法人21世紀構想研究会という政策提言集団を創設して、多くの識者を集めて研究会をしていた。この研究会に加藤先生はこれまで6回、参加してくれた。2000年5月には利根川博士と一緒に顔を見せ、日米研究体制の違いなどについて討論に加わった。
「加藤の乱」のあとの2001年5月18日には「加藤政局を語り、科学技術創造立国を語る」として1時間ほどの講演と討論を行った。
さらに2004年の21世紀構想研究会の50回記念シンポジウムでは、 「ほんとにどうする日本改革」のタイトルでパネルディカッションに参加し、2013年の21世紀構想研究会100回記念講演シリーズでは、 「中国第6世代が考える日中未来志向」 のタイトルで1時間半の講演を行った。
21世紀構想研究会会員のベンチャー企業創業者との交流をいつも大切にし、楽しみにしていた。2000年11月20日の加藤の乱が起きたその翌日に、21世紀構想研究会のベンチャー企業の社長有志の10人ほどと会食が予定されていた。生島和正・武蔵エンジニアリング株式会社社長ら元気のいい中堅企業の経営者が多かった。
しかし国会と自民党の内外は大騒ぎであり有志との会食どころではないと考えた筆者が、電話で延期を申し出たところ「社長さんたちも忙しい中でスケジュールを組んでくれたのだから、延期はしません。必ず行きます」と言って加藤先生はきかなかった。
門前仲町の隠れ家のように使っていた会場のレストランに、予定から30分ほど遅れて加藤先生は出席した。しかし引きも切らずに携帯に連絡が入り、見かねた出席者が加藤先生を「解放」することにし、先生を車まで連れ出して見送りした。
そのような交流は、銀座、赤坂などで5、6回はやっただろう。訃報を聞いた社長の一人は「深く思索する政治家だった。首相にしたかった」と逝去を心から惜しんだ。
(つづく)
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