自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その3
2016/09/12
歓迎ムードで終始した加藤訪中団
2006年8月15日の終戦記念日、山形県鶴岡市の加藤紘一先生の実家が放火されて全焼した。犯人は加藤先生が中国との友好関係で活動することに反発する右翼だった。
筆者が放火事件を心配して加藤先生にお見舞い電話をすると、動ずる雰囲気もなく「そんなことより、また科学技術の討論会をしましょう」と語った。
東大理1に進学したかった加藤先生は、年を取るにしたがって理系への憧憬を強めているような印象を持った。
中国を敵対する第二次安倍内閣が発足し、日中関係が緊迫していた2013年7月1日から1週間、日中友好協会会長だった加藤先生を団長に、経済界の人々など10人ほどで編成した訪中団が北京空港に降り立った。筆者は加藤先生のいわば「かばん持ち」として参加を許された。
空港から加藤先生はVIP待遇で歓迎ムードにあり、そのときから帰国までスケジュールは歓迎行事で埋まっていた。歓迎昼食会、夕食会が続き、中国の要人が出席して、安倍政権の硬直化する日中関係を憂慮して打開することを双方で模索し合った。
討論する会話の中で直接、打開するというような言葉は出なかったが、会談の雰囲気はいかに友好関係を保持するかという双方の思いが伝わり、最後はいつも「カンペイ、カンペイ」の大合唱で終わった。
北京から瀋陽市に移動し、関東軍が南満州鉄道を爆破して勃発した満州事変時代の歴史的記録を展示する「瀋陽九・一八事変歴史博物館」を見学した。北京から移動するとき、筆者は加藤先生が中国と関わった歴史を聞いた。
加藤先生は、東大法学部公法学科を卒業し外務省に入省した。それから台湾大学に留学し、中国語を研修語とした外交官を目指す「チャイナ・スクール」に入った。中国語をマスターして香港副領事からアジア局中国課次席事務官となり父親の死後、政界へ転じる。
外務官僚時代にハーバード大学に留学し、「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得した。後年、加藤先生がハーバード大学で講演するとき、MITから利根川博士が駆け参じた。アメリカの学生との質疑応答は、時として辛辣な場面になることを心配したが、利根川博士は「加藤君はそつなくこなして、英語力もあるなあと感心した」と語っている。
木寺中国大使主催の歓迎晩さん会で(右から2人目が木寺大使、その左が加藤先生)
中国の新幹線の中での筆者とのインタビューの中で、加藤先生は「アジアと中国の歴史を研究し、日本の近代史を自分なりに見直した」と語った。
加藤先生が北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館を見学したことがある。そのとき「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して記念館の館長に献じたと語った。
筆者もその記念館を見学したことがあるが、中国から見た日中戦争の記録・展示内容を見て、自身の歴史観を見直すきっかけを作った。淡々と話をする加藤先生の言葉を聞きながら、先生も同じ思いだったのではないかと感じた。
「日中不再戦」と揮毫した加藤先生
「瀋陽九・一八事変歴史博物館」の見学の最後に、館長が硯を持ち出して加藤先生に揮毫を願い出た。加藤先生は筆を持つと「日中不再戦」と一気に書き上げた。それを見守っていた人々から拍手が起きた。
北京に戻る道々、加藤先生は「日中が科学技術で協調したら、世界の科学技術研究のリーダーになれる。日本はもっと歴史を学ばなければならない」と語った。
筆者が加藤先生との交流の中で確信した印象は、「科学技術」と「中国」という2つの言葉に凝縮される。
自民党と政局という混沌とした激動の中で「加藤の乱」が語られることが多いが、加藤先生の政治信条の骨格には、「科学技術」と「中国」というキーワードもあったのだ。
そのような政治家の実像を語るため、この追悼文を書こうと思い立った。
(つづく)
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