PEACE BOATで世界一周の旅ーその7

オプショナルツアーの選択

今回のPEACE BOAT117は、105日間に21か所の港に停泊します。すでに中国の深圳、シンガポール、マレーシアのポートクランの3か所に停泊し、乗船客の多くが下船して見物に出かけました。PEACE BOATでは、乗船客の見物・見学の要望に応じて、多くのオプショナルツアーを用意していますが、そのコースが1つの停泊地で10個以上あることもあり、選択に迷ってしまいます。

マレーシアのポートクランに停泊したとき、同国の首都、クアラルンプールにバスで往復するツアーもありましたが、筆者は急きょこのツアーをキャンセルして、港に隣接するポートクランに行くことにしました。首都の様相は写真などで見ると、近代的なビルが林立し、いかにも国際都市の景観ですが、それよりも港に近い地区にあるインド系住民が多いポートクランという観光地域を見学することにしました。

オプショナルツアーの直前のキャンセルは、50%の払い戻しになりますが、一生に一度しか来ない都市や地域を見るためには仕方ない選択です。キャンセルして、ポートクラン地域を往復するバスコースに切り替えました。これが筆者の思惑取りの見学になりました。

インド系住民の作った観光地域

巨大なモスクに隣接する駐車道路でバスを降りて見学に出かけました。大きな通りの両側の長い長いアーケードにびっしりと商店が並んでいます。住民はインド系の人々であることは一目で分かります。

店舗の入り口付近には申し合わせたように店の男女従業員が並んでしますが、特段、客寄せする様子はなく、目が合えば軽く会釈する程度です。客寄せに熱心な他の国とは大違いです。いったいこれで商売が成り立つのだろうかと心配になるほどです。

商店街の半分くらいが女性の衣料品店であり、後の半分は、食料品から雑貨類など多様な品揃えです。

女性専用の衣料品店は、どうみても観光客目当てのお土産屋ですが、どの店もほぼ同じような構えで、同じような商品を陳列しています。これでは、どの店で買い物をするのも同じだなという印象でした。

しかし女性の観光客は次々とハシゴをしながら店に入って物色する光景を見ていると、女性が見た目では違った陳列商品になっているのでしょうか。男性専用の店を一軒、発見しましたが、外から見ただけで民族衣装系統の服飾類が多数飾ってあり、見るだけで結構という感じでした。

IMG_6029食品売り場には、多彩な調味料と香辛料が並んでいました

歩き疲れてビールでも一杯と思って気がつきました。回教徒の国なのでアルコール類は販売していません。料理は中華系が多いように見えましたが、陳列棚を見るとどれもこれも食欲がわいてこない。結局、大きなスーパーに入って、日本などから輸入した加工食品を買い求め、バスの中で食べることにしました。

この地域は、港町で栄えた観光地域のようですが、道路、建築物などの社会インフラは貧困であり、30年前の中国の地方都市よりも遅れているように感じました。どの商店もクレジットカードは使えないキャッシュオンリーであり、大きなスーパーだけがカードを使えました。

IMG_6032外は気温30度内外、湿度も高く蒸し暑いのに船に帰るとクーラーが効きすぎて小寒い。そこで婦人用のショールを防寒用に買って羽織ることにしました。これで1000円ほどの買い物でした。

隣国ブルネイとの違いにびっくり

筆者はバイオ関係の企業が進出した隣国のブルネイに行ったことがあります。ブルネイはマレー系の人たちで人口41万人の小さな国ですが、石油・天然ガス資源に恵まれた豊かな国になっています。ホテルや商店の従業員の服装やたたずまいは、先進国とほぼ変わらず、垢抜けした人々でした。

この国も厳しい禁酒国であり、アルコール飲料はごく限られたレストラン、しかも夜だけしか飲めません。国民は豊かな生活をしており、現地に進出している日本の商社や企業の人たちは「国が豊かなので国民は働かない。この国の発展は期待できない」とも語っていました。

石油資源が枯渇した時に備えて、政府は次世代産業育成のために外国産業の導入と育成に力を入れているということですが、肝心の国民が働かないというのですから、発展は無理という見方も当たっているのでしょう。

隣国同士なのにかくも違う文化が、それぞれの伝統と民族の中に形成され、存在していることを見て、世界の広さを感じた時間でした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその6

初めて知ったシンガポール歴史の真実

4月22日に筆者は初めてシンガポールを訪問しました。これまで何回も行くチャンスがあったのに、この小さな島国に行くことはできなかったので、いわば憧れの地でした。

シンガポールに特に興味があったのは、教育・研究施策がしっかりしており、科学技術の研究開発でも常に世界の上位にランクされている優れた施策を展開していることにありました。大学ランキングでも、常に日本の大学の上を行っています。

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それともう一つ興味の対象は、太平洋戦争中、マレー沖で日本陸・海軍の攻撃で撃沈されたイギリスの戦艦プリンスオブ・ウエールズと巡洋艦レパルスの歴史に触れたいという思いもありました。2隻の戦艦撃沈の報告を受けたチャーチル首相が、言葉を失ったと言われています。シンガポールは、大英帝国にとって難攻不落と言われたアジアの一大拠点だったのです。それを10日あまりで日本軍に降伏し、チャーチルはここでも「英国軍の地上最大の降伏だ」と語ったということです。

船から上陸・訪問する前日、船内で「昭南島~日本軍占領下ンガポール」というタイトルで野平晋作さんの講演会がありました。船の中では最も大きな座席数を持つプリンセスシアターでの開催ですが、筆者はこのとき、別のセッションに出ていた都合で、最後の方だけに参加しましたが、非常にためになる講演でした。

会場は満席の盛況であり、最後に日本が未だにシンガポールに謝罪していないのではないかという意見を巡って、会場の人たちが激しく討論している場面に出くわしました。

昭南島とは、シンガポールをイギリスの占領・統治から奪い取った日本軍が命名して使ったこの地の名称です。シンガポールの歴史をほとんど知らなかった筆者は、イギリス統治から日本統治へ、そして戦争に負けて再びイギリス統治に至った歴史的な経過と、日本軍の侵攻時に行った現地の抗日義勇軍に対する攻撃と、民間人も巻き込んだ抗日華僑殲滅作戦の虐殺行為などを知って驚きました。

先進的で豊かな国になったシンガポール

シンガポールに足を踏み入れて見ると、この国の先進的な豊かさを肌で感じました。建物が瀟洒であり、働く人々の仕草と表情が垢抜けしていました。店頭に並ぶ商品の値段を見ると、日本より物価高かなと思いましたが、デフレ・円安で、もがいている日本の現状がこの数字でも分かりました。

ただ、街を走っている車のメーカーは、日本車が多く目につき、続いてヨーロッパ車、そして韓国車と続いていました。

世界の遺産である植物園

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シンガポールの世界的に有名な植物園は、管理が行き届いた素晴らしい規模と展示内容でした。世界の各地域の植物コレクションが約6万点展示されており、最大の観光スポットです。本来なら1日がかりで見学する場所でしょうが、こちらは1時間足らずの駆け足で回る「爆走見物」でした。

川船に乗船して川を上下するクルーズに乗りました。川風が心地よく、両岸に並ぶ新旧バランスよい景観もいい感じでした。疲れた足を休ませるためにお茶をしているとき、何の脈絡もなく、太平洋戦争のシンガポール戦を思い出していました。

筆者の知識は若いころに読んだ記録、伝記ものなどに限られていますが、日本が太平洋戦争に負けたきっかけは、シンガポール戦の勝利と戦艦プリンスオブ・ウエールズ、レパルスの撃沈勝利にあったという皮肉な史実を思い出しました。シンガポールで勝ったことが、あろうことか太平洋戦争で負けた原因になったのです。

戦艦撃沈の勝利では、日本海軍の海上からの戦闘機爆撃が有効だったことを示したもので、アメリカはこの戦況にいち早く目をつけました。戦艦や空母を撃沈するのは戦闘機爆撃が有効であると確信し、ミッドウエー海戦でこれを実行して大戦果をあげたと言うことです。

それから戦況は急激にアメリカ優位に傾き、日本の敗戦に至ったということでした。日本は戦艦大和に代表されるように巨艦主義にこだわり、近代戦への研究が足りなかったのです。科学技術で劣等国家だった日本が、今なお政治の世界では科学音痴が続いており、国家としての限界を見るような気持ちです。

旅行で訪問した国に足を踏み入れると、過去の史実を思い出してしばし感慨にふけると言うことは誰にでもあることなのでしょうか。船で一緒になった人々と会話をするうちさまざまなことを聞いて、何も知らないできた自分に気がついて驚くことがあります。しかしそんなことは誰にも言えず、自分だけにしまい込んで船に戻ってました。

 


PEACE BOATで世界一周の旅ーその5 

船上で「学校給食世界一」を講演する

PEACE BOATでは、毎日、多数のエベントが展開されています。各種スポーツ、趣味・道楽、映画、教養、音楽、語学、料理その他諸々のテーマです。朝7時から夜10時ころまで切れ目なく、船のどこかで多数のイベントが同時進行で走っています。

その中でも異彩を放っているのが自主企画です。これは乗船者が企画立案し、PEACE BOAT担当者のOKをとり、会場を確保し、船内新聞で告知してもらって参加者を集めるもので、前日の夜に部屋に配布されて来る新聞案内を見て、翌日、それぞれ興味あることに行動を起こすというものです。

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筆者はこの機会に、日本の学校給食は世界一のソフトパワーであることを知ってもらい、食育推進の理解度を高める活動を船の上でやってみることに挑戦しました。

と言うのも、船の乗客はそれなりに社会的活動をやってきた方であり、年配者が多いので今の学校給食を知ってもらうことで社会的な認知度が広がるだろうという思惑です。学校給食甲子園を知ってもらい、主催者の認定NPO法人21世紀構想研究会の活動にも触れたいと思ったのです。

フリースペースとして一番広い場所を確保しましたが、果たしてどれくらい聴者が来るかまったく未知数でしたが、フタを開けてみれば約100人を超える方々が出席したので、びっくりしました。

日本人で学校給食を体験しなかった人はいません。年代によって献立の中身が違っているだけで、脱脂粉乳、コッペパンから始まって、今風の料理に至るまで驚くほど進化してきました。その有様と学校給食の重要性をまず理解してもらうために、2枚のスライドをお見せすると、関心は一気に高まりました。

スライド2学校給食の現状を見出しだけで紹介し、続いて学校給食摂取基準で示されている栄養管理について紹介しました。

今の子どもたちは、カロリー、タンパク質、脂肪、塩分を摂り過ぎています。家庭料理と外食が摂り過ぎの原因であり、それがやがて生活習慣病に結びついていきます。子どもが摂りすぎと言うことは大人も同じだということになります。

その一方で各種ミネラル、ビタミン、食物繊維などは不足しがちになっています。

スライド10学校給食では、摂りすぎになる栄養素を抑え、不足しがちの栄養素を補充する献立を作っています。栄養教諭がその基準を守るために必死になって献立を作成し、しかも美味しいものを出さないと子どもたちに食べてもらえない。加えて最近の物価高で、食材は軒並み値段が上がり、四苦八苦して予算内で献立を作っているのです。

食べるものに事欠いた戦後間もない時代は、コッペパンに脱脂粉乳、それに簡単なおかずだけという献立であり、船上客の大方がこの時代でした。それから時代を追って、日本の経済発展と歩調を合わせて学校給食の献立も激変していきます。

やがて飽食の時代になり、家庭環境も両親が働くようになって家族団らんの食卓は徐々に姿を消して行きます。子どもの睡眠不足と朝食抜きが問題点として浮上し、ファストフードの普及と子どもの健康が語られる時代になってきました。

そうした時代背景の中でも学校給食の栄養管理は徹底しており、ヘルシーな食事は肥満児出現で世界最低の実績を誇り、諸外国からは「日本の長寿国家は学校給食に原点あり」とまで、言われるようになってきました。

2005年に制定された食育基本法と栄養教諭制度のスタートで、食と健康を学び世界の食文化を知り、健康に生きていく基本行動と知識を身につける教育がいま、確かに根付いてきました。その実情を知ることで人それぞれが健康を考え、100歳時代に近づいていく状況を改めて認識しましょうというのがこの講演の狙いでもありました。

最後に、こんなに栄養管理ができた美味しい給食になった最大の功績者は誰か、質問しました。

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 正解は3の児童・生徒です。子どもたちはまずければ食べません。学校給食での食べ残しは献立を作り調理している栄養教諭と調理員の最大の課題になっています。美味しく食べて完食すれば、調理場だけでなく保護者も生産者も学校関係者はみな喜び、国民全体の健康保持にもつながっています。

 最後の問いかけの内容と正解は、聴者の皆さんにも意外感があったようで、ここで学校給食の理解度がさらに高まったように感じました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその4

船長主催の歓迎会

深圳で乗船した中国の人たちを迎えて、1300人の乗客が一通り揃い、船長が主催するウエルカムセレモニーが船のど真ん中の7階ふき抜けの大ホールで開催されました。船上とは思えない規模と豪華さ、歓待するスタッフの立ち居振る舞いもそれなりに洗練されています。船長からのウエルカム・ドリンクのシャンペーンが配布され、式典が始まりました。

1IMG_5881ウエルカムセレモニーは吹き抜け大ホールで華やかに展開されました

前日の船内新聞で、「思い思いのおしゃれをして」参加してくださいという呼び込みがあり、会場に行ってみると和洋それぞれに着飾った女性陣の華やかに圧倒されました。男性陣もそれなりに「趣向」をこらしており、筆者はタキシードに帽子をつけて出席しました。社交ダンスを20年間習ってきたので、燕尾服もタキシードもそれなりに着こなしてきたつもりですが、久しぶりのタキシードを身につけてみるとビシッと姿勢がよくなるのがいいところです。

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映画「風とともに去りぬ」のヒーロー、Rhett Butler を気取ったつもりでしたが・・

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式典は日・中・英の3か国語の通訳が入るのですが、日本人が大多数、そこへ互いに顔では見分けがつかない中国、台湾、韓国からの乗船客が混じり、あちこちに西洋人の顔立ちの人が散見しています。互いに運命共同体の船に乗ったfamilyですから、言葉は交わさなくても、そこはかとなく同胞・仲間・同志・戦友・・という意識が芽生えてくるから不思議です。

歓迎のバンド演奏やらスピーチと花束贈呈など一通りの式典が終了すると、ダンスパーティが始まりました。

式典後はダンスパーティで爆発

筆者が社交ダンスを始めたきっかけは、友人の整形外科医の助言からでした。膝関節から下肢全体に老化現象が見え、あぐらもかけない硬直化が顕著になって来たとき、脚を使うダンスがいいと薦められたのです。最初は、東京・日比谷の東宝ダンスホールで習っていましたが、そこの教師の紹介で、江東区門前仲町の毛塚ダンスアートアカデミーの会員となり、本格的に習い始めました。

社交ダンスはタンゴ、ワルツ、スローステップ、ルンバ、チャチャチャなど種目がいろいろありますが、どれひとつとっても際限なく奥が深いものです。習い始めて徐々にこの「道楽」の深淵をのぞき見ては、ため息をついてきたものです。

船上での記念ダンスパーティは、端的に言うと「イモ洗い」の様相でした。ともかくも船でダンスを踊ってみたいという気持ちがあるためでしょうか。華やいだ会話と笑いが会場全体を盛り上げ、ま、言ってみれば高齢者の合コンでしょうか。

タキシードで決めてきたのに、完全に浮いています。ステップなどというものではなく、足踏みしては誰やらの足を踏んだり蹴ったりの有様ですが、それがまた途方もなく楽しく愉快ですからどのお顔も幼児の時代に戻っていました。

日本と遮断された閉空間を楽しむ

新聞、テレビなど情報と手段がないので、日本国内と国際的な動きは、この1週間、完全に遮断されています。スマホとPCを持っているので、Wi-Fiにつないでネット情報は国内と同じ環境で見聞できますが、大きな制約がありました。Wi-Fi接続は船を通じてやるので、その料金がバカにならない。乗った当初は、誰もがWi-Fi接続を求めてサポートデスクに殺到しましたが、つないでみると国内と同じ環境になりますが料金が高い。

料金はスマホやPCに流通するデータ量に比例してかかりますが、YouTuberなどで映画を見ればあっという間に数千円になるという噂を聞いて、みな尻込みを始めました。きめ細かく使用するたびにセットしたり切ったりすれば節約できますが、これが面倒だから時間とともにスマホ・PCから離れて行ってしまう。

こうなると、完全自由時間。しかも3食、昼寝付きでタダ。実際はそれなりの料金を払っているのを忘れて天国気分。こうして船旅は、一週間が過ぎていきました。

IMG_5904毎日沈み行く太陽をデッキから眺めています


PEACE BOATに乗船し世界一周の旅に出る その3

最初の寄港地・深圳(シンセン)で事件勃発

神戸港を出てから2日余で中国の深圳に接岸しました。最初の寄港地であり、ここから中国人乗船客が多数、乗ってきます。

深圳は常に、中国近代化のトップ引きとなって発展している大都市で、広東省の省都でもあります。ほぼ10年ぶりの訪問なので、都会の様相がどのように変わったか期待していましたが、港の周辺をバスと徒歩で2時間ほど回っただけなので深圳の全貌は窺いべくもない短時間でした。

深圳深圳の港の一角は観光客で賑わっていました

経済特区で売り出した都市ですが、筆者の専門分野の知的財産施策でも、常に特区扱いで新施策が導入され、たびたび北京の中央政府の先を行く知財推進政策や助成金制度などを断行し、話題になってきました。往時の深圳発展の出来事を思い出しながらビールを一杯飲み、さて船に帰還する時間になって「事件」が勃発しました。

日本のVISAカードは使えない

レストランに入るとき、受付の女性にVISAカードを見せて、これで勘定はできるかと聞いたところ、問題ないという回答。そばにいた男性従業員も、同意の意思表示です。

簡単なおつまみとビールで、こちらはいい気分です。昔、中国ではビールを冷やして飲む習慣がなく、飲むときはあらかじめ冷やしておくように注文したことを思い出しました。ビールを常温で飲むのは旧ソ連のロシアも同じでした。いまは黙っていても、冷えたビールが出てきますが。

さて、船に帰るバスの時刻も迫ってきたところでお勘定となり、カードを挿入して暗証番号を入れたところで拒否されました。何度やっても受け付けない。筆者は、現金ゼロ、クレジットカード一枚だけで下船したのでさあ、困った。中国では、日本のクレカは使えないことが多いとアドバイスを受けてことを軽視していた失敗です。

とっさに北京に駐在している、JST(国立研究開発・科学技術振興機構)の米山春子さんを思い出し、WeChatで連絡するとうまくつながりました。WeChatは、中国独自のSNSです。日本のラインのような存在であり、中国圏に入ったとたん、国家の方針でPEACE BOATのWi-Fiは繋がらなくなり、ラインもメールもまったく使えません。命の綱はWeChatだけなのです。筆者は、このサイトができた当時から使っているので、大助かりでした。

「文無し」の事情を米山さんから話すように、レストランの女性にスマホを手渡しました。米山さんが自分のデジタル口座で支払うことを申し出て、なんなくこの事件は解決となりました。

 JST時代、春子さんとは中国総合研究センターで、日中科学技術交流、さくらサイエンスプランなどで日中両国の反日・反中勢力を乗り越えながら交流推進に取り組んだいわば同志です。こういうときこそ、一番頼りにする仲だったのです。地獄に仏とはこのことです。

筆者は飲み逃げ同然で急いで帰りのバスに駆け込みました。その直後、北京にいる米山さんと深圳のレストランが通信のやりとりをし、いとも簡単に勘定が払われたのです。その勘定書きのWeChat画面をバスの中で見たときは、感動しました。「やったね、中国!」という気分でした

日本でもこういうことができるのでしょうか。寡聞にして知りませんが、ネット社会、デジタル時代の実用化では、中国の方が日本を超えていったことは10年ほど前から知っていました。ああ、中国が先を行くと何度も思ったものです。キャッシュレス時代の先頭を切った国であることは、間違いないことを自分の体験で確認したような気持ちでした。

PEACE BOATって何だ

出発前、船に乗る話をすると決まっ聞かれるのが「PEACE BOATって何だ」という言葉です。ピースボートって聞いたことはあるが、それがどのような組織で運営されているのか。拠点は日本なのか外国なのか、旅行会社なのかNGOなのか。筆者を含め、多くの人が曖昧なままになっています。

深圳2船の全景を撮影するのは無理。船尾の方だけ入れました

この機会に急いで調べて、筆者なりに分かりやすく整理してみました。

  • イタリアで建造された客船「パシフィック ワールド号」を41年前に組織された日本の国際NGO・PEACE BOATがチャーターして運営する「船旅で世界の人と人をつなぐ」活動です。
  • 船のサイズは、7万7400トン、全長261m。15階建てビルを乗せたような巨船で、2か所で数台のエレベーターを動かし、4層吹き抜けのアトリウム空間は、船内とは思えない豪華な空間です。
  • 一流ホテル並みの設備を備えており、教養、娯楽、趣味、スポーツ、音楽など広範囲なプログラムが常時、走っていて乗船客を退屈にさせません。PEACE BOATスタッフが、すべてサポートしていますが、乗船客が自主的に企画したイベントも目立ちます。
  • 船舶を利用して世界中を航海し、異なる文化や国々の人々との交流を促進します。参加者は、船上でのワークショップやディスカッション、文化交流イベントなどを通じて、相互理解や国際協力の重要性を学びます。
  • 1983年の出航から今回の117回航海まで延べ8万人の人々が世界中の250を超える港に停泊して大自然や世界遺産を見学、それぞれの国や地域の人々と交流してきました。世界の平和、人権、地域紛争、核や環境問題と真摯に向き合うリベラルな姿勢が強く、国連の特別協議資格を持っています。
  • 今回のVoyage117の乗船状況は、大まかにまとめると次の通りです。

20か国・地域以上にまたがる乗客1300人とスタッフ600人が乗船

乗客の男女比は7対3で女性優位。

乗客の年齢別構成は以下の通りです。

30歳以下  18%

31-60歳    10%

61-79歳  63%

80歳以上  9% 

最高齢は95歳で2人

平均年齢は、筆者の想像では70歳代前半かなと思います。

自由な雰囲気で健康歓談する

乗客同士は、非常にフランクな付き合いです。レストランに行けば、案内人が相席させて客同士のコミュニケーションが自然にとれるように配慮しています。名刺交換などの挨拶もなく、自己紹介を印刷した名刺や紙を出す人もいますが、それはまれです。筆者も知人のアドバイスで自己紹介の名刺をPCで作成して持っていますが、それを出す機会はほとんどありません。

口火となる話題は、出てくる料理や食べ物から始まり、決まって健康の話、病気の話へと発展します。年配者が多いので自然そういう流れになりますが、面白いのは健康を自慢する人はおらず、大体はいかに健康維持が難しいかを語って聞かせ、相ずちをうち、距離感がなくなり、それから話題は世の中の出来事へと発散していきます。

自分の経歴や体験を話す人はまれですが、話せば決まって興味があり引き込まれていく内容なので、座は一気にまとまり散会するときには10年の知己になるという雰囲気です。

社会的地位や学歴や職歴などとは無関係で、お互いにフラットな立場で自由に発言できる不思議な空間を作っています。

深圳3さらば深圳

IMG_5878船の最後尾から深圳に別れを告げました

ここまで書いたところで船は深圳を離れて一路、シンガポールへと向かいました。


PEACE BOATに乗船し世界一周の旅に出る その2

一直線で200m超の船室廊下

左右の舷側に並んだ船室は、外から見るといかにも豪華客船という風景ですが、中に入って驚いたのは、船室が左右に並んだ一直線廊下の長さでした。全長330メートルの巨大な客船ですから、真ん中に背骨のように伸びた一直線の廊下が200m以上あっても驚くことはありませんが、その廊下を見たとたん、向こうの端が小さく点になっており、人の姿も見分けがつきませんでした。

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左右の壁はすべて、ホテルと同じような船室になっており、そこに個室から、2人、3人、4人部屋と並んでいます。筆者は、1人部屋の並みですが、入ったところ15平米はありそうで、大きなダブルベッドを備えた広い部屋であり、大きな窓も気に入りました。

乗船客の出会いの会があり参加してみました。席の近隣同士がたちまち仲良しグル-プを形成し、話題はどんな部屋で何人で参加しているかということになり、誰言うともなくそれぞれの部屋を見せてもらう「部屋見学会」となりました。

相部屋の楽しさと難しさ

中部地方から参加した女性は、窓なしの2人部屋でした。2つのベッドが並んだ、ま、行ってみれば大きめのツインルームの感じであり、中央にバカでかい鏡があります。その時点では、相部屋の方がまだ部屋に来ていないとのことでしたが、どこの誰が来るかは未定とのこと。

しかし事務局は、年齢がほぼ同じであり、双方の希望なども勘案して相部屋の人を選ぶそうですが、相性がいいかどうかは実際に生活してみないと分からないらしい。相性が悪いと最悪の旅になるそうで、事務局が最も腐心するメンバー選びということでした。

バルコニーは海と隣接する贅沢でした

2人部屋でもバルコニー付きの部屋に案内されると、広さは変わらないのにバルコニーに出て見ると途方もなく開放的な気分になりました。海と直接ふれ合うことは素晴らしい環境であることを知りました。

3人部屋、4人部屋も見せてもらいましたが、間取りと天井の高さ、他人との間隔などに設計者の工夫が見て取れて、それなりに生活環境としては満足できる間取りになっていました。


Mariko

IMG_5860バルコニーに出てみると海風の快適さに驚きました

3人以上の相部屋は、若い人たちが比較的多いと聞きましたが、確かに学生たちの合宿気分を思い出させるグループも見えており、外国人も混じった華やいだ雰囲気でした。若者たちと雑談を交わしましたが、ショックを受けたのは「日本はもうダメです。みんなそう思っています」という言葉です。3人いた女性がみな、そう言ってうなずきます。

そうなったのは、私たち壮年以上の日本人の責任でもあるのです。3人のうち1人は学生、2人はボランティア活動をしているとのこと。再会を約束して別れました。

交流会で東京人が少ないのはなぜなのか

乗船客の住所別・地域別で交流する会にも出て見ました。都道府県や地域別に分けての交流ですが、東京からきた人の出席者が少ないことに違和感がありました。全員の参加ではないので、大勢参加しているはずの東京からの人は、こうした交流会は出ないか苦手なのか。大都会人の「疎遠で無関心・無関係」に徹する状況がここにも出ているようにも思いました。

もう一つ意外だったのは、お一人参加者が多いことでした。正式な発表はないのですが、7,8割が単独で参加しているようであり、ご夫婦とおぼしきペアは意外と少ない感じでした。


PEACE BOATに乗船し世界一周の旅に出る その1

Thumbnail ビルような巨船に乗船しました

 乗客2000人、平均年齢70歳代半ばの客船「パシフィック ワールド号」(PEACE BOAT117)に乗船して、105日間の世界一周の旅に出ました。

4月13日、土曜日、横浜港の大桟橋を出港したPEACE BOAT117(以下、PB117と表記)は、神戸港で乗船客を乗せ最初の寄港地、中国の深圳に向かいます。

航路は上の地図で見るように、アフリカ大陸の喜望峰をぐるりと回って北上し、イギリス、フランス沿岸からスカンジナ半島さらに、レイキャビクからニューヨークへ向かいます。北米大陸を南下してパナマ運河を経て太平洋へ。メキシコ沖から北上してカナダ、アラスカを経てアリューシャン列島沿いに日本へ向かい、7月27日に横浜港に帰ってきます。

船は7万9千トンと言いますから戦艦大和と同等以上の排水量です。15階建てのバカでかいホテルが海上を移動していく感じです。左右の舷に分かれて配置された船室は、ホテルと同じようにずらりと窓際に並んでいます。その廊下は一直線に200メートル以上のまっすぐで細い廊下ですから、一番向こうは人間が豆粒ほどのサイズでしか見えません。

船室、つまり乗船客の部屋の扉に、小さな白板で外出先(といっての船内のどこかですが)を書いたメモ用紙が張り出されていたり、簡単な連絡メモなどを張り出している部屋もあります。乗船客とクルーの身分はすべて把握され、しかも全員が「身柄拘束」されています。その上外からは誰も侵入できない船内ですから、セキュリティは万全というわけで、きわめてオープンムードになっています。

一晩かけて14日の日曜日に神戸港に接岸しました。ここで船客を拾って日本を離れ、いよいよ世界一周の旅に出ます。接岸すると手が届くような距離の向こう側に、見送りする人々が多数いるのでびっくりしました。お顔もはっきりと分かる距離ですから、お互いに目線が合うと手を振り合って出会いと出港の挨拶をします。

賑やかな出港のイベントが終わると間もなく、ボワーッと腹に響くような汽笛が何度か鳴り、巨船は静かに岸壁を離れていきます。すると双方が手を大きく振って、しばしの別れを惜しみます。筆者も知らない人々に向かって手を振り、それにこたえて岸壁の人たちも手を振ってきました。徐々に距離が開いていくだけで、例えようもない心細い感情が湧き上がってきます。

岸壁での別れは、誰もが感傷的になるのかもしれません。旅立つ人としばしの別れというのに、岸壁で涙を拭いている光景も見えます。そのとき筆者は、戦争に駆り出されていった人々の別れの有様を思いおこし、胸に突き上げてくるものがありました。死地への旅を送った人々と戦場に向かっていった人たちのことです。

岸壁を船が徐々に離れていったとき、兵隊さんとその恋人や肉親たちはどれほど別れを惜しんだことか。その別れを包むように、いま聞こえてくるむせび泣くような汽笛が流れていったのです。

複雑な感傷に浸りながら、神戸港を魅惑的に囲む美しい夜景を飽かずに眺めました。こうして筆者の旅路は始まりました。


男性諸君だけ読んでください(女性には無関係の話なので読むだけ時間の無駄になるからです。男性は読む価値があります)

 右股関節の痛みはダンスレッスンのせい?

 歩くたびに右の股関節が痛いなあと感じながら2,3日過ごしていました。椅子から立ち上がるとき、座るときにも右の股関節が痛む。ああ、あれのせいだという思い当りがありました。

 2月下旬に、社交ダンスの発表会があり、そこでやや動きの激しいクイックステップを踊るため、レッスンを続けていたのです。その無理がたたって、股関節を痛めたかなとも思っていました。

 こういう時は、お風呂に入って、股関節辺りをモミモミすれば快方に向かうのではないか。午後の早い時間に、温泉気分でお風呂を沸かし、ゆったりと湯船につかって、さて、右の股関節マッサージをと始めました。

 すると股関節の痛みはない。痛いのは股関節と至近距離に存在するあれです。そう、英語でscrotumという器官です。中には大事なtestesという器官が収納されています。湯船の中を覗き込みました。お湯の中で揺れるものを3秒間、凝視しました。

 見た瞬間、慄然とした光景

 その時、襲ってきた戦慄感はたとえようもないほどのショックでした。Scrotumくんが異様に膨れているのです。右側にいびつに膨れ、まるで洋梨(そう、用ナシともいう)のように揺れているのです。洋梨くらいに大きく膨れており、恐る恐る触ってみると痛い。触った感じは、明らかに中にあるものが腫れている感じで、ちょっと力を入れると痛い!

 ああ、ついにこやつが命取りに来たんだ。私の寿命もこれまでか。これはただ事ではない。湯船から飛び出ました。鏡に映った光景は、この世のものとも思えないような恐ろしい光景が眼前にありました。

 ネットで早速調べてみると日本泌尿器学会のHPにあるガイドラインに、筆者の症状とそっくりの病状を解説しているページが出てきました。

    https://www.urol.or.jp/public/symptom/11.html

 図解入りだからよくわかります。自己診断では、右の精巣が何らなの原因で腫れて痛くなっている。この解説から、感染症の疑いがある。つまり尿道辺りから何らかの細菌が入り込んで精巣に巣食い、そこで繁殖して炎症を起こしているのではないか。

 そこまで考えて、早速、都心部のときたま通院しているS病院泌尿器科のS医師の外来に、急患として診察をお願いしました。なぜ。泌尿器科にときたま通院していたかは、この後で話をします。

 一目見たS医師は「ああ、大丈夫です」

 男性諸君!とまあ、偉そうに言って見ましたが、S病院に行ったときは、意気消沈してもはやこれまでと言う沈んだ気分でいました。だからS医師もその表情から、すぐにベッドに寝かせて診察に入りました。

 服は着たまま、靴は履いたままでいいと看護師さんが笑顔で言います。下着まですべて下におろしてベッドに仰向けに寝ます。つまり服は着たまま、靴は履いたまま、下半身だけ露出させて仰向けに寝るのです。男性諸君、我が身を想像してみてください。

 なんだか自分でもおかしくなって、笑ったかもしれません。カーテンを開けて入ってきたS医師は、患部をしげしげと診て、それから触って「痛いですか?」と言うので「痛い!」とやや大げさに言うと「大丈夫です! 感染症科に回しますから治してもらいましょう」と言います。

 感染症と聞いて、筆者は「ああ、やっぱり、ネット情報のように雑菌がおふくろさんの中まで入ってきて、飲めや歌えの大盤振る舞いをして痛みと腫れを引き起こしているんだ。

 見るからに頼りになりそうなごつい感じの感染症科のI医師も、診て触ってすぐに「抗生剤の点滴をします」と言います。そして紙に図解入りで説明をしてくれます。

 それが患者の疑問点を先回りして解説するような名講義なのです。思わず筆者は「分かりやすいですね」と褒めたかも知れません。

 するとI医師は「ここは外国人の患者さんが多いので、説明をきちんとやるのですよ」と言います。

「多分、大腸菌が入り込んで繁殖し、悪さをしていると思いますので、これをたたきます。3日間、通院して、点滴をしましょう」といいます。

 「ま、心配いりません。たたいて終わりです」とも言います。それだけでなんだか、半分治ったような気分でした。

 普通は入院ですが元気だから通院です

 最後の診察の際に語った感染症科のI医師は、「普通は入院して点滴をしますが、あなたは元気そうだし通院で十分と思ったのですよ。本日で全快です。後は泌尿器科のS医師の診察を受けてください」と言う。

 泌尿器科のS医師にかかったのは、数年前に夥しい血尿を出し、この時もびっくりして泌尿器科に駆け込んだものでした。いろいろ診察を受けましたが、結果的には原因不明で、前立腺からの出血と言うものでした。精密検査でも血液検査でも、がんなどの悪性病状の気配はなく、偶然の出血らしいということでした。

 そのとき、前立腺が老人特性で肥大しており、世に言う「おしっこが近くなっている」症状もあり、しばらく肥大症を抑えるお薬を処方するので、3か月おきくらいに通院していました。そのS医師から、今度は「右精巣上体炎」(この診断名は、感染症科のI医師によるものです)という診断名で診てもらうことになったのです。

 若者とご老体と両極端に出る感染症

 一体全体、こんな感染症になぜかかったのか。感染症科のI医師に訊いても判然とはしませんでした。ただ、「最近は若者とご老体の両極端に分かれて多い」と言います。

 若者は、性行動が元気なので淋菌などが尿道から入り込んで炎症を起こすことがあるそうです。淋菌と聞いて、風俗などで感染するのだろうかと想像しました。

 ご老体はというと「大腸菌が入って来ることが多いのですが、菌株までは特定できません」と言います。大腸菌と聞いて、腸内細菌の一大勢力ですが、大体は無害と思い込んでいました。ところが高齢者になると免疫力も低下するので、大腸菌が紛れ込むとこれを叩く免疫力が負けてしまい、炎症を起こすということでした。

 

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 ということで、高齢者になると思わぬ疾患、病に見舞われるということでしょうか。誰にも言えない話ですが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 この炎症が鎮まるまで、PCにとりついて仕事を続けていましたが、それはいけないと思いながら、おりしもNHK・BSの連続シリーズで放映していた黒澤明監督の映画を堪能しました。

 七人の侍  椿三十郎  隠し砦の三悪人  蜘蛛の素城 

 筆者の青年時代に夢中になって観た名画ばかりでした。 

 テーブルの上で咲き誇っているボケの花に水やりしながら、楽しみました。

 ボケの花は、意外と水飲みです。水が途切れるとしぼんでいく。似ています。

 お粗末の一席でした。


沖縄返還交渉の密約文書を外務省から入手して逮捕された元毎日新聞政治部記者の西山太吉氏が死去

沖縄返還交渉の密約文書を外務省から入手して逮捕された元毎日新聞政治部記者の西山太吉氏が死去

西山氏が2月24日、心不全のため北九州市内の介護施設で亡くなった。91歳だった。

さる2月2日、西山氏から提供された外務省機密電信文を根拠に国会で激しく密約を追求した横路孝弘氏が82歳で亡くなったばかりである。その死を追うように西山氏も逝った密約外交を追求した2人が相次いで世を去ったが、日本の外交史上に残した汚点は消えることはない。

西山氏は、沖縄返還交渉で日米が外交折衝をしているとき、日米間で密約があるのではないかと取材をはじめ、その証拠となる機密電信文を外務省女性職員から入手した。

それをもとに西山氏は解説記事など4本の独自記事を書いたが、実物の証拠を示さなかったために政府から無視されていた。そのことに怒りを感じた西山氏は、同僚に託して当時、社会党のプリンスと言われていた横路孝弘代議士(元衆議院議長)に提供し、代議士は1972年3月の衆院予算委員会で、この電信文をもとに激しく追及する。この追及で佐藤政権は立ち往生し、翌年の予算案は年度内に国会を通過せず、暫定予算を組んで急場をしのぐという大失態を演じた。ところがその数日後、機密電信文を漏洩した女性職員が西山氏に渡したことを告白し、二人は国家公務員法違反で逮捕された。西山氏は国家公務員ではなかったが、公務員をそそのかして漏洩させたとして逮捕された。

一審東京地裁で女性職員は、執行猶予付きの刑を言い渡され、西山氏は正当な取材活動として無罪を言い渡された。女性職員は一審判決を受け入れて決着。西山氏の判決については国側が控訴し、二審東京高裁で執行猶予付きの逆転有罪になり最高裁でも有罪で決着した。西山氏はこの判決でジャーナリストとしての命脈を断たれた。

この裁判は国家権力によって曲げられた判断と筆者は確信している。一審で無罪を言い渡した裁判官は、のちに弁護士になり「取材方法がけしからんという理由で二審及び最高裁は有罪にしたが、けしからんと咎める法律はない」と激しく逆転有罪判決を批判していた。

西山氏がある人(毎日新聞社の同僚記者)を介して機密電信文を横路氏に提供したことは間違いないが、横路氏はそれ以前に西山氏から取材して、密約があるに違いないと確信して独自に調べ、その結果をもとに国会で数回にわたって追及していた。しかし当時の首相、外相、外務省高官らはことごとく、密約はないという嘘の答弁で切り抜けていた。しかし後年、嘘の答弁をした外務省の元局長、米国の公文書公開、密約をおぜん立てした首相密使の若泉敬氏の暴露本によって、密約は真実であったことが明らかになった。

筆者が2022年5月に上梓した「沖縄返還と密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の1年」(日本評論社)でその一部始終を書き残した。上梓本の原稿段階で、西山氏と横路氏に読んでいただき、いくつかの表現で意見をいただき修正したところがあったが、大筋では「よく調べた作品である」(西山氏があるジャーナリストに漏らした言葉)との評価をいただき、横路氏からも「事実として間違いない」とのコメントをいただいていた。

日本政府、外務省、外交専門家の一部は、いまなお密約はなかったという見解だが、真実を認めない国家は衰退をたどる。「歴史の証人」として外務省機密電信文の存在を忘れてはならない。

写真はその機密電信文である。この文書には、左端に昭和47年4月7日付けで「極秘指定を解除した」とある。国会でこの電信文のコピーを突き付けられ、外務省が数日後にしぶしぶ「この文書の決済した同じものが省内に保管されていた」と認めた。このコピーが世間に知れ渡ったため、極秘扱いしても意味がなくなり極秘指定を解除したものだろう。

機密電信文


横路孝弘先生に今一度お聞きしたかった

元衆議院議長でリベラルな政治家として政界に屹立していた横路先生が、2月2日、胆管癌で亡くなった。82歳だった。筆者は2021年6月28日の午後、横路先生と衆議院第2議員会館の面談室で2時間ほど会見したことがあった。

横路先生の元政務秘書だった国際ジャーナリストの北岡和義氏(2021年10月19日死去)が仲介して実現したインタビューであり、目的は佐藤栄作政権の沖縄返還交渉と西山記者逮捕事件を聞くためだった。

1横路・馬場2021年6月28日衆院第2議員会館2021年6月28日、衆議院第2議員会館で

毎日新聞政治部の西山太吉記者から、外務省の機密電信文が間接的に横路先生に渡り、それをもとに1972年3月の衆議院予算委員会で密約の存在を追求した。国会が紛糾して次年度の予算案が衆院を通過せず、急ぎ暫定予算を組んで切り抜けるという大失態になった。

しかし佐藤政権は、警察権力を指揮して西山記者逮捕へと事態は急展開し、沖縄返還後に佐藤総理は退陣して一件落着し、あいまいな「史実」だけが残された。西山記者は一審東京地裁で「正当な取材活動」として無罪となったが、控訴審の東京高裁、最高裁の判断では有罪となり、国家権力に追従した曲げた法理の判断(私見)として残された。

西山情報から追求した事実

西山記者からの外務省機密電信文は、毎日新聞のある記者を通じて横路先生に渡ったものだが、それが最初の情報ではなかった。その電信文を入手する半年ほど前に、横路先生と西山記者は面談しており、そこで西山記者が機密電信文の内容に即した事実を詳細に語っている。西山記者は横路先生に機密電信文を見せもしないし存在も明らかにしなかった。しかし詳細な内容から外務省の機密文書だろうと横路先生は推測したという。

3時間に及んだという西山記者からの情報をもとに、横路先生は日本が肩代わりする密約の根拠はアメリカの法律にあると睨み、国会図書館と共同で調べその法律を突き止めた。それを根拠に1971年12月の衆議院連合審査会などで追及する。

佐藤政権は、この追及にたじたじとなるが、すべて事実と違う嘘の答弁を繰り返して切り抜けていく。しかし横路先生は、諦めなかった。絶対に密約があると信じ、粘り強く証拠となる文書を探し求め、ついに西山記者が入手していた機密電信文を間接的に入手する。それをもとに衆議院予算委員会で再度、追求したものだった。

機密電信文西山記者が入手した外務省極秘電信文の一部(故北岡和義氏提供)

その事実は初めて横路先生が語ったものであり、拙著「沖縄返還と密使・密約外交 宰相佐藤栄作、最後の一年」(日本評論社)で詳述した。西山記者逮捕に至った史実と確信している。

歴史の証言者として語るべきことがあったはずだ

横路先生とお会いした1年半前には、非常に元気そうに見えた。子供のころにケガをした古傷が痛み出し、歩くのがやや不自由になったというが、語り口は記憶をたどりながら滑らかだった。もっと聞きたいことがあったが、コロナ禍の最中であり、札幌に帰る直前の時間だったので2時間ほどで切り上げた。

拙著を上梓してから連絡はしなかったが、もう一度お会いして政治家としての足跡を聞きたかったことがあった。

特に沖縄返還で横路先生が国会で追及し、佐藤内閣は命運尽きたかに見えたが国会対策委員会、与野党の幹事長・書記長会談など国会運営のハラの探り合いから「落としどころ」を決め、何もかもまあまあでことを済ませる立法府の悪しき実績を作った。

そのころから「国体政治」という言葉が歩き出し、メリハリのない国会運営が始まり、同時に社会党の凋落が始まった。衆議院当選2回でしかなかった横路先生は、その体たらくを「月刊社会党」(1972年6月号)で痛烈に執行部批判の論陣を張り、馴れ合いで流れていく国会運営を批判した。

その後、社会党は事実上消滅し、横路先生も北海道知事に転出後、国政に復帰したが社会党には戻らず、旧民主党から国政に参画した。平成21(2009)年9月から3年余衆議院議長を務め、2016年5月、政界を引退した。

筆者は沖縄返還の密約だけでなく、戦後政界の変転をよく知る政治家から直接お聞きしたいことが多数あった。横路先生と筆者は同時代を生きてきた政治家とジャーナリストという立場であり、今一度取材する機会を失ってしまったことは誠に残念だった。