PEACE BOATで世界一周の旅ーその52

アラスカのケチカン(Ketchikan)に上陸

バンクーバーを離陸し中1日置いてアメリカ・アラスカ州の最南端の港町のケチカン町に寄港しました。

人口は8千人余、先住民族はサケ漁で暮らしていましたが、1887年に白人が入植してから急速に発展してきました。当初はサケの缶詰工場が主産業でしたが、金鉱山が発見されてからゴールドラッシュの時代もあり、いまはサケ漁の本拠地であり風光明媚な景観を売り物にした観光都市として栄えています。

通常、船が接岸するとその地を見学するツアーが計画されますが今回はツアーはないため、乗船客は一斉に上陸してそれぞれの思いで、街に繰り出しました。筆者は同乗者の提案で「木こりショー」を見学に行きました。

木こりがアメリカ・カナダチームと二手に分かれて、木を切ったり、丸太乗りで相手を蹴落としたり、木登り競争をする対抗戦です。観客がアメリカ・カナダびいきの二手分かれ、声援合戦を繰り広げるというアトラクションショーです。会場を揺るがすような大声援と歓声で沸き立ち、一緒になって楽しみました。

1IMG_7465木こりが演じるアトラクションは、観客席を巻き込んで楽しい対抗戦でした。

1IMG_7467木登り競争もあり、大声援の中で競演していました。

かつてはゴールドラッシュで沸いた町という名残りなのか、多数の宝石・装飾類を販売するきれいな店舗が目につきました。一応、見学を兼ねて入りましたが、筆者には宝石を鑑定したり鑑賞する眼もなく、値段を見せられては驚くばかりの高価なものばかりでした。

指輪、ネックレス、イヤリングなど、おびただしい商品が陳列されていますが、それにも値札はなく、買うふりをして値段を聞いてみると、大きめの電卓に数字を入れて見せます。ドル建ての値段ですから頭の中で計算すると、眼が飛び出すような高価なものばかりです。

1IMG_7476 (3)観光地だけに商店街は半分が宝石類販売の店舗でした。かつてのゴールドラッシュを思い出させましたが、値段の感覚が分からないので、お買い得なのかどうかさっぱり分からない値段ばかりでした。

 試しに電卓を取り上げて、示された数字の半値を入れてみたら、相手は「冗談ではない」と眼を丸くして大げさな仕草で返し、こちらと電卓の数字を交互に入れ合い、最初の値段の7掛けくらいまでまけてきました。こんな光景があちこちで展開されており、買わなくても大変友好的であり、楽しませてくれました。

1IMG_6909 (3)ランチはご当地の名物、キングサーモンとカニにしました。どちらも大変美味でしたが、値段はやはり割高感であり、それでもビールを飲みながら乗船仲間と外の景観を楽しみ、アラスカへの8時間の上陸を満喫しました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその51

メキシコから1週間かけてカナダのバンクーバーに接岸

人口約250万人のバンクーバーの港に着くと、ノルウェーとアメリカからの豪華客船2隻が先着で接岸しており、港周辺は上陸してきた観光客であふれかえっていました。人並みを整理していた女性に「どのくらいの人が上陸しているのか」と聞いても、首をかしげ、両手を広げるだけ。「大体、3000人かな」とつぶやくように言いました。

筆者は、その昔、バンクーバーには何度も来ていますが、その当時はこれほど観光客が押しかけていませんでした。その話は最後に触れたいと思います。

0IMG_741130年ぶりに降り立ったバンクーバー。背後にある船はノルウェーの客船で、NYでも一緒でした。

 スタンレーパークでロープウエイに乗る

ツアーに参加すると船からほどない距離のスタンレーパークに連れて行かれました。バンクーバー湾に面し鬱蒼とした森に囲まれた広大な公園です。バンクーバーは、豊富な森で生産される製材業と観光が主たる産業です。移動する大型バスも清潔でよく整備されていました。

このツアーの目玉は、パークからグラス・マウンテンの山頂に行く大型ゴンドラからの見物でした。山頂まで約10分の間、眼前に広がるパノラマは、遠くに広がるバンクーバー湾を臨んで、息を呑むような素晴らしい景観でした。

0IMG_7419写真のような大型ゴンドラで山頂へ。山頂からの景観は素晴らしいの一語でした。

0IMG_7422 (2)写真で撮影して見ても、実際の景観にはとうてい及びません。何事も実物に勝るものなしということでしょうか。山頂の景観を見ながら、配布されたランチボックスを広げて、しばし参加した乗船者らと歓談しました。

サケをシンボルとした環境運動

筆者は、40年ほど前にアメリカとカナダの行政マン、メディア関係者らと一緒になってサケをシンボルとした国際的な環境運動を展開したことがありました。サケは海から川に遡上し産卵して子孫をつないでいきます。日米加いずれも同じ習性であり、しかもサケが育つ海は北太平洋であり、共通の海で成長したサケたちが、3年後には生まれ故郷に向かってそれぞれの国に帰っていくというドラマチックな話で盛り上がっていました。

元々は、ロンドンのテムズ河が大西洋のサケの習性を利用して、汚濁したテムズ河の浄化キャンペーンにサケが再び遡上する河に戻そうという運動を展開したことを受けて始めたもので、日米加英の4カ国で同時期に始めた、地球規模の珍しい環境運動でした。

そんなことを思い出しながら、木こりが演じる木材切り競争などのアトラクションを見物したりしていうち、あっという間に帰途につく時間になりましたが、少々、時間に余裕があるので、港周辺の街に探索に出てみました。

0IMG_7415原住民文化の木彫りの作品が、至る所で見かけました。宗教的な意味は薄く、表札代わりに建てていたと聞いたことがあります。

手頃なビアホールを見つけたので、生ビールとサンドイッチを注文して街行く人の観察を始めました。バンクーバーの途上を走る乗用車の多くが昼間からライトをつけています。後でガイドさんに聞いたら、昼間でもライトをつけていると事故が少ないデータがあるので、最近はエンジンを入れただけで昼夜問わず自動的にライトがつく車になっているとのことでした。

また、横断歩道では赤信号を無視して渡っていくジェイル・ウオーキング(jail walking,

刑務所に行くような違法な横断)意外と多いことに気が付きました。これも地元の方に聞いたところ認めていました。日本人は、車が来なくても信号が変わるまできちっと守っています。日本人の美徳ではないかと思いました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその50  

オーバーランドツアーの興奮を再び知る

船旅も終盤に入ってきました。船内で行き交う人のお顔もほぼ知るようになり、お名前は分からないまでも、多くの方と目線で挨拶をするようになってきました。7階の中央ロビーのソファでゆったりと座っているとき声を掛けられました。西川(さいかわ)孝純さん(76)という方で、名刺をいただきびっくりしました。元共同通信社論説委員長を務めた方で、日常的に競い合うメディア関係者として健筆を振るっていた方と分かり、いわば同業者のよしみで様々な話題で話は弾みました。

リビングストンが発見したヴィクトリアの瀑布を見てきた

5月8日に南アフリカ(南ア)に寄港した際に3泊4日のオーバーランドツアーに参加して、世界三大瀑布の一つ、ヴィクトリア瀑布を見てきたというのです。しかも筆者が南アのサファリ公園で見た野生動物たちとはスケールが違う動物群の写真も見せられました。

筆者はヴィクトリア瀑布を是非とも見たかったのですが、オーバーランドツアーに申し込んだときはすでに定員満杯であり諦めていました。しかし西川さんはキャンセル待ちに登録していたので、出発数日前に船の中でアキが出たと報告を受けて勇躍参加したということでした。

筆者が少年時代「おもしろブック」という少年雑誌があり、巻頭に様々なカラーの絵巻を入れて大人気でした。その絵巻の中にイギリスのデイヴィット・リビングストンがアフリカ探検中にこの瀑布を発見し、ヴィクリトア女王の名前を瀑布につけたのです。

毎月連載されたリビングストンのアフリカ探検記事を夢中になって読み、今でもリビングストンが瀑布を目撃した光景の見開きの絵が記憶に残っています。

西川さんの撮影した数々の写真を見せられながら、アフリカ奥地で水煙と轟音を上げて爆流する瀑布を想像しては、行けなかったことに情けない思いをしました。

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最大落差108メートル、轟音と共に滑り落ちる膨大な水量に、西川さんは度肝を抜かされたようです。「日光の華厳の滝を横に数十本並べたような迫力を感じました」とも語っていました。

DSC_1754ヴィクトリア瀑布をバックに金婚式記念写真です。こんな写真を見せられて、筆者は西川さんと同い年の奥様・治代さんご夫妻と一緒に行きたかったとの思いが募りました。キャンセル待ちをしておけば良かったと悔やみました。

 

雄大なサファリ公園もスケールが大きかった

瀑布に行く途中に国立公園のサファリを見学しました。ゾウ、キリン、カバなどアフリカ大陸に生息する大型動物の写真は、筆者が南アのサファリで見てきたものと大分、スケールが違っていました。

公園内を探検車でゆっくりと巡回しているとき、数メートル先のブッシュの中からゾウがぬっと出てきて驚いた瞬間もちゃんと撮影していました。

1ブッシュ像DSC_1694
数メートル先のブッシュからぬっと現れたアフリカゾウにはたまげたそうです。車上から静かに観察していると、ゾウは何事もなかったように去って行きました。

1カバカバの昼寝。餌は陸上の地べたに生えている草だけ食べているようです。草を食むときは、ひたすら地面を見ているだけですが、耳は発達しているので周囲の動きは音だけで判断し、しかも敏感だと言うことです。

1水浴びゾウ (2)

ゾウの水浴び。カバがいた水辺には、多くの動物と野鳥が群がり、動物天国でした。

1キリンDSC_1702キリンは遠くからでも目立つ動物です。ライオンなど肉食獣に襲われることもあるので、高い目線で監視しているようです。

金婚式と喜寿の前倒しのお祝い

西川さんはリタイアして世界一周を思いつき、PEACE BOATに乗船しました。政治部の記者時代、癌を告知され、リンパ節腫大の摘出手術を受けましたが、これを乗り越えた時期もありました。ご夫妻の金婚式がちょうど航海中にぶつかるので、そのお祝いもかねて乗船しました。金婚式当日の5月17日には、船のレストランでお祝い会をしていただき、シャンペーンを抜いて楽しんだそうです。ご夫妻はそろってことし76歳ですから、数えは77歳の喜寿です。祝い事は前倒しでやりますから、西川さんご夫妻の金婚式と喜寿は二重のお祝いだったのです。

さて、費用のことですが、オーバーランドツアーはお一人60万円ということで、ご夫妻で120万円でした。しかしそのコストに見合う光景を目蓋に焼き付け、楽しい旅の体験を身体に染みこませてきたことが、筆者との会話からにじみ出ていました。

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PEACE BOATで世界一周の旅ーその49

世界一周旅行の仕組みを知る

PEACE BOATは世界一週の旅をうたい文句にしています。確かに豪華客船に乗船し100日間ほどかけて世界を一周するようにはなっています。しかし乗船してみてよく分かったことは、各地に寄港して上陸する日数はごく僅かであり、大半は船の中にいることでした。

そんなことは乗る前から分かっていたことだろうと言われると思います。しかし実感として初乗船者には分かりませんでした。乗っているうち気が付いたことは、寄港地で上陸して各種ツアーに参加できることだけではなく、「オーバーランドツアー」と呼ばれる、特別仕立てのツアーが用意されており、それに参加すると、寄港地で上陸すると1週間から10日くらい、飛行機で移動しながら各地を見物できるツアーがありました。船が先に行って寄港する港へ飛行機で追いかけていって合流し、再び乗船してくるという仕組みです。

申し込んだが満杯で諦めた

PEACE BOAT乗船申し込みをした後、様々な情報が郵送されてきましたが、乗船するのは先の話だからろくに読みもしないでいました。それが失敗の第一でした。オーバーランドツアーを知って、慌ててネットで申し込んだときには、筆者が希望するコースは人気があるらしく、5コース申し込んですべて満杯になっていました。諦めずに空席待ちにしておけば、チャンスがあったかもしれません。

参加者に伺ったオーバーランドツアーの醍醐味

最も行ってみたかったのはダーウインのガラパゴスでした。そこへ参加した千葉県出身の田中陽子さん(68)(仮名)は、船内の「ダンスの教室」の友なので、行ってきた話をうかがいました。そのお話と提供された写真を紹介します。

28437CDD-4235-4AE3-9730-875B63DDAAADガラパゴス諸島は、自然を守るために厳しい観光ルールがあり、諸島に上陸する際も人数や時間が制限されていました。小型ボートに分乗して無人島に上陸して自然にどっぷり浸かりました。

 

イグアスの歓迎、野鳥の楽園

印象に残ったことを次々と話してくれました。まずガラパゴス諸島の中心部にあるサンタ・クルズ島にエクアドルから飛行機で渡りましたが、早速、イグアナ君の歓迎にあいました。あちこちにイグアナがいましたが、どれもこれものんびり寝転んでいる風で、人間のことなど眼中にないようです。

それは諸島に生息する野鳥や他の動物たちにも共通の行動であり、人間は1メートル半内に近づいてはダメというルールがありましたが、その至近距離に行っても逃げも隠れもしない。その自然生息状態に感動したということでした。

090C792B-9705-418F-984B-798B2BFCE288色鮮やかなブルーの「下着」と思いきや、青い足を見せて抱卵中の「アオアシカツオドリ」。人間の姿に警戒する様子はなく、野鳥の楽園でした。

7784C219-0556-4C41-A6A7-183A4E9E7AFBイグアナ君は自然溶け込んでおり、思わぬところから顔を出します。餌をやれば食べに来てくれそうですが、それはルール違反。見物する人間と彼らは共通の空間で過ごしていることを実感しました。

島の若者たちと植林活動をする

この島には、他からの移住者は住むことが出来ないそうです。島で生まれ育った人たちが、観光事業を生業にして、自然と共に生活しているということでした。ツアーに参加した23人の人たちとたちまち「親戚付き合い」となり、島のコーヒー園に付属している植物相を見学し、ダーウイン記念館を見聞し、樹木の植林をして大いに楽しみました。

EBFB85D6-A4C0-4078-B75B-8B138655E41D島の若者たちと一緒に植林活動。植林する人は、なにがしかのお金を払って次世代への基金になるような仕組みになっていました。

77D8B508-9A53-455D-9E6B-8C30FC512DB1ガラパゴスといえば、陸上を闊歩するゾウガメです。しかし強い日差しにたまりかねたのか、水浴びする珍しいゾウガメを撮影しました。

 

多くの生物群の食料になっているサボテン。熱帯地方の島の命となっていました。

 いったい費用はいくらなの?

オーバーランドツアーの費用は、航海中の費用とは無関係ですべて別途の持ち出しです。ニューヨークから船と分かれ、太平洋のガラパゴス諸島で観光して空路パナマに戻ってきて本船と合流します。8泊9日で64万9千円。ホテル・食事・交通費すべてです。ガラパゴス諸島には4泊しました。

陽子さんは、大手企業に定年まで勤務してリタイア後は、好きな旅行を楽しんでいるとのことです。PEACE BOATには今回、3回目の乗船であり、うまくオーバーランドツアーにも参加できた嬉しさが伝わってきました。

ED6B6F60-591C-4F0D-BB23-2A26F712030Eさらばガラパゴス。野鳥の楽園にも別れを告げ、何度も振り返りながら帰途につきました。

「たくさんの写真を撮ってきました。孫たちに大自然に生きている動植物の命と地球の命の尊さを話し、聞かせたいと思っています」

船内では、あっちでもこっちでも、そんな話が広がっています。共に楽しむ旅のひとコマであり、これもまた船旅の風景にもなっています。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその48

新札発行の肖像が変わった

7月3日、日本のお札の肖像画が変わったことにちなんで、千円札の肖像になった北里柴三郎の物語を船内で講演することになっていました。

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旧札を街の両替屋に持っていっても替えてくれないといううわさ話も聞いていましたが、船はいま太平洋上をアメリカ大陸に沿って北上しており、そんな心配もなく北里が惜しくも第1回ノーベル賞受賞を逃した話をしました。

IMG_7305会場には大勢の乗船客が聴きに来てくれました。

筆者がこの話を知ったのは、1988年の年が明けてすぐでした。京都大学の矢野暢教授がノーベル財団から入手した資料の提供を受け、第1回ノーベル生理学・医学賞の審査内容の詳細を知って度肝を抜かれました。もちろん、日本では何も知らない時代でしたから特報することにして、何日もかけて原稿内容を練りました。

北里の業績は、今でいう免疫療法の基本になったものであり、ワクチン開発への考えにもつながっていった大発見でした。抗原抗体反応の基盤を解き明かしたものでもあり、後年、遺伝子レベルで生体が抗体をつくる仕組みを解き明かした利根川進先生の大発見へとつながっていきます。こうしてみると免疫の基礎的仕組みの歴史的解明には、日本人研究者がものすごい貢献をしてきたことを改めて認識しました。

船がアフリカ大陸のガーナ沖を通過した際に野口英世の伝記を講演しました。彼もまたノーベル賞をほとんどつかみかけていた研究者でしたが、研究に取り組んでいたガーナで斃れた生涯は、日本人の心をつかんで離さないものがありました。

北里と野口。日本の医学研究の基礎を築いた明治時代の2人の巨人が、お札の肖像画でバトンタッチするという奇遇に出会い、その2人の伝記を異国を巡る船の中で講演するという珍しい体験をしたことを嬉しく思っていました。

1★★改3・北里・船PPT 北里の燦然と輝くオリジナル研究の業績。今ならベーリングと北里の共同受賞は確実ですが、当時は複数受賞の制度ではなかったので、惜しくも逸したものでした。北里の無念は115年後に大村智先生が晴らしてくれました。

ランチをしているテーブルに偶然、同席した年配の女性の方が、北里研究所の研究員だったことをお聞きしてびっくりしました。ご主人も交えて、往時の北里研究所の話になり、大村智先生の業績へと発展して話題は際限なく広がりました。近く大村先生の伝記も講演する予定です。

船内将棋大会は決勝で敗れる

日本将棋連盟の棋士、高田尚平七段の主催する船内最後の将棋大会に出場しました。今回は上級・中級・初級と分かれており、筆者は上級に出場して惜しくも決勝で敗れました。

IMG_7291盤を挟んで女性対局風景があちことで展開され、往時の将棋大会とは全く違った将棋大会の風景でした。

楽しみ・娯楽の一つですから勝敗に関係なく、和やかな雰囲気の大会でしたが、女性「棋士」が本数近くいることに時代の波を感じました。プロの世界でも女流棋士が大活躍する時代です。藤井聡太七冠がフィーバーに火をつけたこともあり、男女を問わず将棋ファンが広がっていることを実感しました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその47

陽気な歓迎と高い物価

中南米3つ目の国・メキシコは、入国審査もないフリーパスの入国でした。太平洋に面したメキシコの重要な貿易都市のマンサニージョ市は、接岸した岸壁から歩いてすぐ、観光都市風の陽気な歓迎の雰囲気になりました。

1IMG_7261船を出ていきなり、美男美女の歓迎グループに取り囲まれて記念写真。楽しい国への第一歩という感じでした。

筆者は、風邪気味のため大事を取って出歩くことは避け、お昼からのメキシコ料理ミニレッスンのツアーに参加することにしました。

船内の温度調整には、乗船者がみな不平不満を漏らしており、筆者の船室の温度調整はきかず、レストランはやたら肌寒く、外は暑い夏の季節というのに、船内はクーラーが効きすぎて半袖シャツに何かを羽織っている人がほとんどです。エアコンが効かないようで、診療所に薬をもらいに行ったら、多数の方が列を作っていたのにびっくりでした。

すりつぶすだけのメキシコ料理だが・・・

メキシコ料理は、時たま東京のメキシコ料理専門のレストランに行っていたので、馴染みがあるので期待して参加しました。バスで市場を見物してから景色のいい海岸に面したホテルに到着しました。

各自のテーブルには、トマト・タマネギ・唐辛子の入った石臼が用意されており、早速、料理に取りかかりました。写真で見るように石臼の食材を石の棒で力任せに砕く作業です。

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1IMG_7272食材を細かく砕くというのですから力仕事です。料理とはほど遠いものでした。岩塩をパラパラと入れただけでできあがり。

食べてみると超激辛。生の唐辛子を潰して入れているので当たり前ですが、これが思いのほか美味しい。トマトとタマネギ。これを潰して塩味だけ。こんな簡単レシピ初めてでしたが、意外と美味しい。ただ激辛なので、みんなハーハー泣きながら食べていました。筆者は半分、残しました。

続いて出てきたのは、またまた、トマトとタマネギ、そしてアボガド。トマトとタマネギは、今度はナイフで刻んでまぜこぜにしてアボガドを入れるだけ。岩塩パラパラ。これって料理でも何でもないなあなどと思いながらちょっと味見をしみるとこれまた意外と美味しい。

トウモロコシの煎餅のようなものが配布され、そこにこの餡を盛って、上からチーズと生クリームを散らしてかぶり付きました。食べにくいのですが、メキシコ料理は基本的に手で食べるものですから、ナイフ・フォークは要らない。手づかみでかぶり付く。食べてみるとこれまた美味しい。先ほど激辛で残しておいたものを少々入れてみると、辛みが効いてさらに美味しい。

1IMG_7274メキシコのコロナビールを飲みながら、たちまちご機嫌のランチ会となり、なんだかだまされたような思いで両手でかぶりつく、大騒ぎの料理レッスンでした。

日本の円安を知って買い物にも影響

昔、日本円が強かった時代、外国に行ってブランド品を買いあさる日本人観光客は、現地の人からバカにされているような感じでした。筆者は、ヨーロッパで何度か、そのような光景を見て、恥ずかしい思いをしたこともありました。

しかしいま、ご婦人たちの買い物を見ていると、実に手堅いのです。スマホ片手に値札の数字を日本円に換算しては、品定めをしています。「高い?」、「安い?」こんな会話が聞こえてきますが、大体は「高いね」という言葉に落ちついています。日本円が安いので、高く感じるのです。

PEACE BOATで乗船者に配布しているパンフレットに、諸外国の現地価格と日本の物価を比較する数字があります。ファストフードのハンバーガーを例にして日本と諸外国の価格比べを示していますが、日本のハンバーガーは、半分から3分の2程度の価格です。

これを逆に外国人から見ると「やす~い」となります。この春、ヨーロッパに出張から帰国した人に聞いた話ですが「帰国してほっとしています。日本は物価が安いし食べ物が美味しい」というのです。その実感が、外国旅行してよく分かりました。アイスランドのコンビニでみた板チョコが2000円だったのでぶったまげましたが、現地の価格が高いのではなく、日本円が安過ぎるのです。

1IMG_7268現地の豊富な果物類。かつてのような割安感は感じませんでした。

この日の夕飯の食卓でお土産物の値段の話になり、国際通のご婦人が「中南米でこんなに高いお土産物って初めてです」と語っていました。円安になると輸出産業が伸びます。安い日本製製品が外国で売れるからです。

大もうけした製造業が利益を内部留保してきましたが、このところようやく人件費増加に回すようになりました。しかし設備投資による次世代挑戦にはなっていないように筆者は思います。そんなことを考えながらメキシコを後にしてカナダへ向かいました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその46

朝の食卓にのぼった世界一住みよい国

午前6時半、筆者の朝の食事の時間です。5階の和食レストランに乗船客が三々五々集まり、5,6人の食卓が数十ある大きなレストランで朝食が始ります。メンバーは毎日、変わります。先着順にテーブルに座っていくので、さまざまな方々と同席になります。2か月の船旅ですから、お顔を見ればああ、あの方かなと名前は知らなくても顔見知りになります。

朝の食卓は、昨日の反省会と今日の予定の期待感とで、話題が広がることがほとんどです。大体は話上手なご婦人がリードして話は際限なく広がっていきます。

「今日は世界一幸せな国に上陸するんですよ。ワクワクだわねえ」という発言に、食卓一同、顔を見合わせながら発言したご婦人に釘付けとなりました。聞けば、寄港するコスタリカは、イギリスのシンクタンクの調べで、世界一幸せな国の指標でトップになったというのです。部屋に帰って調べてみると、イギリスの「ニュー・エコノミクス財団」が発表している「地球幸福度指数(Happy Planet Index)」の2020年の結果によると、コスタリカは幸福度で世界トップになっていました。

教育費、医療費は基本的に無料。環境政策にも実績を出し、高い教育レベル、高い平均寿命など中南米ではトップにあるようで、これまでもたびたび、この種のランキングでトップになった実績もありました。ちなみに日本はと見ても見当たらない。ない、ないと探して57位で発見。あったからほっとしました。

軍隊を持たない国

この国を国際的に有名にしたのが軍隊の保有を禁止する憲法を1949年に制定したことです。87年にはその功績などでノーベル平和賞を授与されています。

パナマのすぐ隣の国です。面積は5万1,100平方キロで九州と四国を合わせたくらいです。人口は515万人(2021年)で、東京都のざっと半分です。カトリック教が国教ですが、憲法で信教の自由を保障しています。現在は雨期ですが、最高気温が30℃前後、最低気温が18℃前後で、雨が不規則に降ってきますがまあ、過ごしやすい土地のようです。

IMG_7212バスの車窓から見た熱帯雨林の景色。終日、雨模様であり深い緑の山地は、日本の森とよく似ていました。松の枝のように張り出している樹木もありましたが、よく見るとまったく違う樹木であり、熱帯地方の林相は緑の重層でした。

 コスタリカと聞いて、選挙の「コスタリカ方式」を思い出していたので、訪問したら真っ先にそれを聞きたいと思っていました。何だろうか、コスタリカ方式とは。ネットで調べて見たら、びっくりすることが書いてありました。

ホンモノのコスタリカ方式は有権者と議員の癒着を防ぐ制度

小選挙区比例代表並立制の選挙戦術の一つ。同じ政党または友党に競合する候補者が存在する選挙区では、1人を小選挙区に、もう1人を比例区に単独で立候補させ、選挙ごとにこの2人を交代させる方式である。

それはなんとなく分かっていましたが、それと国のコスタリカとどんな関係があるのだろうか。ネット解説によると「コスタリカでは、選挙区内有権者と議員との癒着を防ぐ目的で、国会議員の同一選挙区における連続再選を禁じたもの」とありました。なんと崇高な制度ではないでしょうか。

日本の「コスタリカ方式」とは、なんの関係もない立派な政治目的を持ったコスタリカの選挙制度でした。小選挙区比例代表並立制導入当時、森喜朗・自民党幹事長がコスタリカの選挙制度を参考に命名したとありますが、コスタリカの人々には恥ずかしくて言えない命名に呆れてしまいました。

IMG_7221 ショッピングセンター内には、世界的に有名なブランド店を始め、多種類の店舗が並んでいました。日本ブランドもありました。ピッカピカで清潔。ゴミの分別もきちんとされており、これまで訪問したどの国よりも清潔感がありました。

船から2時間かけて首都のサンホセへ出向きました。車窓から見る景色は深い森に包まれた環境で、この日は終日雨模様でした。道路は、よく整備されており、行き交う車は韓国車が目立ちました。バスから降ろされたのは、どでかくてしゃれたショッピングセンターでした。ここを拠点にあとは自由行動で、勝手に街を散策して、また2時間かけて夕方に船に戻るというコースです。

見通しのいいコーヒーショップにゆったりと座って、しばらくこの国の人々を観察することにしました。最初に気が付いたのは、ここはヨーロッパのどこかの国ではないかという錯覚でした。大人も子どもも、男女とも実に整った美形のお顔であり、女性は均整のとれた金髪が多い。思いのほか、ワンちゃんを連れている人が多いことにも気が付きました。

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ワンちゃんが次から次とやってきます。どの犬も毛並み鮮やか、よく訓練されており、行き交う人に話しかけられるとちゃんとお行儀良く振る舞います。生活環境の余裕が、ワンちゃんの振る舞いにも出ているようです。

IMG_7218 (3)ワンちゃんトリミングのお店は、外からよく見えました。実にお行儀良く毛作りを受けており、ワンちゃんと息の合ったトリマーの見事な手さばきに見とれました。

子ども連れの人も多くいました。子どもたちの服装や仕草・行動を見ていれば、大人や社会の様子も見えてきますが、どの子もいい子に見えます。ふざけあいじゃれ合うのは、どの国の子も共通ですが、お母さんたちの様子を見ていると、実に落ち着いています。雨降りの中でスクールバスを待っている団体にも出くわしましたが、バスが来ると子どもに続いて大人という順番が決まっているのか、実に見事な流れで乗っていました。

世界一幸せな国の一端をいやというほど見せられました。年収、賃金、社会制度、企業環境などから人の幸せ感を測りがちですが、人々の動作・表情を見ているだけで、幸せ感が伝わることを初めて実感しました。

D17086d47122df6cd08316ce788f3bd4国民が誇りにしている新古典的様式の国立劇場。この建物を守るために戦争をしなかったと言われているそうです。

翌日の朝食テーブルでは、前日見てきたコスタリカの話題になりました。メンバーは全く違っていましたが、意外なことを見聞したご婦人もいました。港の近くの地域には、物乞いがいたし、とても世界一幸せな国ではなかったという報告です。皮膚の色などから原住民の系統らしく、貧富の差、失業率の改善などこの国にも課題があることを知りました。駆け足で見聞したコスタリカですが、訪問した国の中でもいい印象に持った国の一つでした。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその45

年中気温30度を超える熱帯雨林の国へ

中南米の大西洋・カリブ海と太平洋を隔てている南北アメリカ大陸の細長い陸地の中で、最も狭い地点にいわば穴を開けて船舶の通過を可能にしたのがパナマ運河です。その運河を目指して航海が続いていました。目指すはパナマ運河の玄関口である、パナマ共和国のクリストバルです。

港が近づくにつれて大きな船舶が、海上に点々と列をなして停泊しているのが見えます。巨大なタンカー、コンテナ船、鉱石船などで、いずれもパナマ運河を通過する順番を待っているのです。運河については、後述します。

接岸と当時にすぐに上陸が許可されました。オプショナルツアーに参加して、首都パナマシティへ向かいました。旧市街カスコ・アンティグア地域は、世界遺産に登録されたコロニアル建築のきれいな街並みが続いています。東西に細長い国で、面積は北海道よりやや小さめで、人口は440万人。

歴史的にカトリック系の信者が多く、立派なカテドラルが目に付きます。気候は熱帯雨林地帯であり、雨期と乾期が交互に来ます。いまは雨期にあたり、はっきりしない曇り空が続いていました。道路の周辺は深い熱帯の森が続いており、色鮮やかな野鳥が見えます。港のバスターミナル付近は、ちょっとした自然公園になっており、ここには放し飼いなのか、はたまた自然に集まったのか分かりませんが、リスなど小動物やクジャクなどがそこここに姿を見せ、楽しませてくれました。

★IMG_7183パナマシティの旧市街地の見学会です

★IMG_7190海岸線に沿って椰子並木のある海浜公園が続き、パナマ運河で働いた人のモニュメントがいくつも建っていました。

初めて知ったパナマ運河の構造

旧市街観光の翌日は、早朝から運河を渡る準備が始まり、船内放送でいよいよ運河に入ることが予告されました。運河は海と海の間の陸に、溝のような回路を作り、その回路を船が通過するものと思っていました。ところが、ここまで来て初めて知ったのですが、パナマ運河は船が陸に上がって山を越えていく独特の構造で出来ているすごい運河でした。関心を持って調べることをしなかったので、ここに来て興奮することになります。

グーグルマップによると、パナマ運河の広域図と拡大図は次のようになります。

1パナマ運河地図2大西洋と太平洋を結ぶ長さ80キロの運河は、難工事を経て1914年に開通しました。運河は大西洋側・カリブ海のコロンから太平洋側パナマ市まで続いており、ここを通過するにはほぼ8時間かかるというのです。

いよいよ運河に突入です

パナマ運河が近づいてきました。前述したようにパナマ運河が閘門(コウモン、ここでは水門と表記します)と次の水門に閉じ込められて水位を変え、徐々に上に上がって山を越え、そしてまた同じ方法で山を下って向こう側の海に出て行くというものです。

パナマックスという言葉を初めて知りました。

 

全長

全幅

喫水

パナマックス

366

49

15.2

PEACE BOAT
(
パシフィック・ワールド号)

261

32.3

8.1

パナマックススとは、パナマ運河を通過できる船舶の最大サイズを言うものです。PEACE BOATの「パシフィック・ワールド号」は、そのいずれもパナマックスより下回っているので通過できるのですが、世の中にはもっと巨大な船舶が多数あることを知って驚きました。

言葉で分かっても、7万7千トンの巨船が、実際にどうやって山を越えるのか。興味津々でした。前方の巨大な水門が徐々に近づいてきますが、全幅33メートルもある船が入るような場所ではありません。ところが、船はとても入れないと思っていた隙間を目指してゆっくりと巨船は進み、船を突っ込んだあたりでエンジンを止めました。そこからは運河に沿ってレールが走っており、船をロープで引っ張る動力車がゆっくりと船を引いて水門と水門の間に閉じ込めます。そして頂上にあるガトゥン湖から淡水を入れて水位を上げて持ち上げていくのです。

自分が乗っている船の状況は、自分ではカメラで撮影できないので分かりませんが、多分、遠目にはまさに陸の上に登る船に見えるのではないでしょうか。

1IMG_7202 (1)運河は、写真のように2列の水門回路があります。右側の水門がこれから船が入っていく水門です。手前にぐるりと船上から見学する乗船客が取り巻いています。船の上は広々としていますが、下に向かって船体は急激に細くなっていくので、写真のような狭く見える水路でも浮かんだ状態で進めるのです。ただし、水路の壁と船の間は、数センチ程度にしか開いていないそうです。すれすれで水路をそろりそろり進んでいきます。

実際に船が徐々に上に行く様子が、周囲の景色を見ていると分かります。「上がってる、上がってる」という声があちこちで飛んでいました。簡単に言えば、洗面器に小さな船を浮かべ、周囲から水を足してやれば船は上昇していきます。あのアルキメデスの原理で船が安定して浮かんでいる状態を利用して、周囲の水かさをあげて船を上にあげるのです。アルキメデスの原理を彼が考えついたのは、お風呂に浸かっているときだと子どものころ習いました。ほんとかなあ・・・。

そんなくだらないことを思い出しているうち、上下26メートルもある水位差を水門の構造を利用して3か所で上に上げ、頂上部分にあるガトゥン湖に出て航行し、太平洋側の入り口の湖岸に来ると今度は反対に船を下げる水門を利用して太平洋の水位に戻し、広い海に進入していきました。全長82キロを渡るのに8時間かかりました。まさに巨船が山を越える。これは人間の英知でしょう。

太平洋側に出てみると、こちら側にもパナマ運河を渡って大西洋へ出る船が、多数、海上で待機していました。

上下26メートルを水門の構造を利用して3か所で上に上げ、頂上部分にある湖を航行して太平洋側の入り口に来ると、今度は反対に船を下げる水門を利用して太平洋に進入していきます。

IMG_7204運河の最終地点に差し掛かると、向こうに大きなアメリカ橋が見えてきます。この橋を通過すると太平洋へと出ます。

パナマ運河は、スエズ運河をつくったレセップスの手で開発に着手されました。しかし難工事とマラリアの蔓延などで工事は中断され、その後アメリカが水門方式の運河を開発。10年の歳月をかけて1914年に開通しました。マゼラン海峡、ドレーク海峡などを回りこまずにアメリカ大陸の東海岸と西海岸を船舶が行き来できるようになったのです。

2000年1月1日から、運河はアメリカからパナマに返還され、その後はパナマ共和国のパナマ運河庁が管理・運営しています。

毎年の運河通航隻数は、13,000隻から14,000隻です。 通航料以外の運河関連収入を含めると、2020年の総収入は34億ドルとなります。しかし液化石油ガス(LPG)の価格上昇を受けて通航料も急上昇を続けているといわれ、かつての2倍になっているとも聞きました。世界の物価高の影響をもろに受けているようです。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその44

コロンビアに惹かれたあのころ

バーミューダトライアングルの荒れる海を乗り越えて接岸するコーヒーの名産地コロンビア随一の観光都市カルタヘナ。6日ぶりの上陸に乗船客はみな期待するお顔であふれていました。

筆者はコロンビア人のことで、一時期、深く取材で関与したことがあり、そのことをしきりに思い出していました。日本列島の人類の「血縁」が、まるで飛び地のようにコロンビアに残っているというのです。見せられたコンビア現地人の写真をみると、日本人そっくり。しかも筆者に解説した人は京都大学医学部の日沼頼夫先生でした。成人T細胞白血病ウイルス(ATLV)の発見者でノーベル生理学医学賞受賞候補者になっていた先生です。

偶然が重なりました。札幌医大医学部病理学教室にいた研究者が、同時期に筆者にATLVの抗体保有者がコロンビアに多いと言う不可思議な情報をもたらし、日沼先生に伝えたら「そうなんだよ。医学と人類学が交差したんだ」と言うのです。筆者はその続きの話が聴きたくて、京大・日沼研究室にしばらく通いました。

話はこうでした。九州地方や北海道の海岸沿いの居住者に多いATLV抗体保有者が、飛び地のように南米コロンビア地域にも多いことが病理学・血清学の研究で分かってきたというのです。それ以外の地域ではほとんど見られない。朝鮮半島・中国にもほぼない。日本人類学会に取材に行ったら、もっとびっくりしたことが発表・討論されていました。

日本列島の南側の海岸線に居住していた人たちが、氷河期の陸続きの時代、北海道から千島列島さらにアリューシャン列島を伝って北米大陸へと広がり、さらに南下して南米大陸へと広がっていったことを推測する世界地図と共に、遺伝子人類学の壮大なスケールの話に話題が広がっていました。コロンビアに否応なく引きつけられていきました。

1IMG_7173 (1)初めて来た風光明媚なカルタヘナでは、さまざまな思い出がにわかに吹き出した場所でした。

カルタへナってどこかで聞いたような

PEACE BOATの旅程を見たときから「カルタヘナ」ってどこかで聞いたよなあという思いがありました。上陸して一日コースのバスで見聞しているときガイドさんに「カルタヘナって有名ですよね」とつまらないことを言うと「そうですよ。ずいぶん前から世界遺産になっています。それから遺伝子の保護もここから始まったのです」という言葉にあっと驚きました。

そうだった、遺伝子組み替えを視野に遺伝子の保全と確保、安全な移送についての「カルタヘナ議定書」は、1999年の条約特別締約国会議の開催地だったカルタヘナにちなんでつけられた名前だったのです。いまでは遺伝子の健全な保護、発展の世界の基本的なルール確立の論議では、よく出てくる議定書名であり、人の名前だったかなとも思っていました。

ATLVとカルタヘナ議定書。ここに来なければ、生涯二度と思い起こすことがないだろう事実にぶつかり、筆者の感動はいよいよ高まりました。

スペインが作った堅牢な要塞

堅牢な要塞は、半端なものではありませんでした。日本の城も一国の藩主・殿様を守った象徴的建造物ですが、ここの要塞をみるとお城などおもちゃに見えてきました。分厚い岩壁、基礎構造を重視した建造物は、見だけで重厚さが伝わってきます。何に備えたのか。押し寄せる英・仏・オランダなどを原籍とする海賊でした。1741年には海賊船186隻、2600人が来襲したのですが、カルタヘナ軍は600人の勇者で迎撃し、ことごとく打ち破って勝った歴史がありました。 

スペインはインカ帝国から奪った金、銀、エメラルドやカカオ、タバコ、香辛料などをスペイン本国へ送り出す港にしたので、難攻不落の要塞が必要だったのです。そして要塞の周辺にはコロニアル風の街並みが広がり、コバルトブルーの海と一年中安定した常夏の地は栄えていったのです。

1IMG_7154見るからに堅牢不落の要塞。建造には、アフリカから30万人もの黒人奴隷が動員され、酷使されたという暗い歴史も背負っていました。

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難攻不落の要塞都市には有り余る富が集まり、ボリバール広場を中心にカテドラルや旧宗教裁判所など、スペイン風の美しい建造物が多数、残っていました。

ガルシア・マルケスに出会った!

突然のバスのガイドで、ガルシア・マルケスの名前を聞いて、またまた興奮しました。1982年にノーベル文学賞を授与されたコロンビアの作家です。そのころ筆者はノーベル賞の取材で何回もストックホルムを訪れ、文学賞選考委員会のあるスエーデンアカデミーにも数回足を運び、ノーベル賞授与の最終決定の投票は、古風な銅製の蓋付きの壺に投票用紙を入れて決めるという壺を思い出していました。

マルケスが執筆していた住まい、と言っても瀟洒な石作りの建物ですが、バスはあっと言う間に通過してしまい、写真撮影は出来ませんでした。「予告された殺人の記録」、「百年の孤独」などの名作は、このような風土と環境の中で執筆されたのだろうか。マルケスの筆致は、ノンフィクション執筆の基本になるという思いが筆者に芽生え、貪るように読んだことを思い出しました。コロンビアを聞いたときになぜ思い出せなかったのか、我が身の記憶装置の劣化を嘆きました。

1IMG_7165マルケスが執筆していたあたりも、写真で見るような歴史的建造物が随所にありました。マルケスは学生時代に首都のボゴダからこの地に転居してきました。勉強と執筆バイトで忙しかったそうです。コロンビア国立大学法学部のエリート学生だったそうですが、家の都合でカルタヘナ大学へ転校したということでした。

貧富の差があり治安が悪い国

駆け足で見学したコロンビア、カルタヘナ市ですが、治安が悪いことはガイドさんがよく語っていました。かつては麻薬生産・取引で悪名を馳せた国でもありますが、麻薬撃滅は相当に功を奏したようです。しかし貧困と失業などの課題は残されていました。現在、平均月収400ドル、消費税11%、男性は58歳定年とのこと。都市部と地方の格差が相当あると言うことでした。

1994年のサッカー世界選手権でオウンゴールした選手が帰国後、レストランを出た後に口論となり、射殺される悲劇も思い出しました。怖い国という印象を世界中に広げました。

海沿いの瀟洒な風景とそよ風の吹き込むレストランで食べたランチは、日本人好みの海産物、特にエビを主体にしたもので、大変美味しくいただきました。そういえばコロンビアは世界一の美人の産地と聞いてきました。かつてのミスユニバースで何人も栄冠を獲得しています。

2IMG_7170

写真で見えるバナナの葉で来るんだ中身は、エビを焼いたり揚げたりした美味しい料理でした。写真の上方にある隣席の方の皿の中に見えます。皿の手前にある平たいものは、煎餅のようなパンのようなもので、これも美味しいものでした。

港に戻るバスの中で、もう一つ数奇な思い出が浮かんできました。日本とコロンビアの人類学・医学の共同研究を筆者が提案し、当時の笹川財団(現在の日本財団)に紹介して面倒なその手続きまで準備しました。財団からの助成金が付与されることになり、日本とコロンビアの研究者には大変感謝されました。そのときコロンビア政府から研究チームと一緒にコロンビアへ招待されましたが、社の都合で行けませんでした。新聞記者の身分という遠慮もありました。駐日コロンビア大使が名産のコーヒー豆を持って会いに来てくれたことを思い出しました。

こうしてコロンビアの思い出を書き換えながら、翌日は隣国のパナマに向かって出航しました。


PEACE BOATで世界一周の旅ーその43

バーミューダトライアングルに突入

多くの方はご存じと思いますが、フロリダ州マイアミ、バミューダ諸島、プエルトリコを結ぶ三角形の海域は、バミューダトライアングルと呼ばれています。バーミューダトライアングルは別名、「魔の三角海域」とも呼ばれており、海が荒れ狂うことで知られています。

面積は約100平方キロメートルで、この海域での船舶や航空機などの遭難が多く、過去100年間に多くの船や航空機が遭難し、跡形もなく消えているという衝撃事故が相次ぎました。

その魔の三角海域に、自分の乗船した船が入っていくとは思ってもいませんでした。毎日のように7階のPEACE BOAT事務局に張り出される航海の海図は、最初こそ珍しさもあってよく見に行きましたが、そのうち忘れてしまうほど存在感が薄くなっていました。

トライアングル海図の中の青い線が航海路です。赤い線の三角形がバーミューダトライアングルです。ニューヨークからコロンビアのカルタヘアに向かっている航海図です。

ニューヨークを出て2日目くらいから、船の揺れが大きくなってきました。食卓の話題も船が揺れる話が多くなり、ついに船酔いになったという告白も聞きました。そのとき筆者は忽然とバーミューダトライアングルを思い出し、航海海図を急いで見に行って、まさにそのトライアングルのど真ん中を航海していることに気が付きました。

ここまで2ヶ月余の航海の中で一番、揺れが大きく激しいのです。しかし船は、荒れ海に立ち向かうように速度を上げています。船が蹴散らしていく白い波頭も恐ろしいほど荒々しい飛沫をあげている様子が窓からも見えます。これで本当に大丈夫なのだろうか。そのさなかに乗員スタッフだけの救難訓練があって、装備したスタッフが船の要所に配置され、訓練動作の確認などをしていますが、特段の緊張感もなさそうだし、いつもの訓練の一環であるようでした。

沖縄の日にPEACE BOATと共催の講演会

6月23日は、先の大戦で亡くなった「沖縄戦犠牲者への哀悼の意と世界平和を願う慰霊の日」になっており、PEACE BOATでも沖縄慰霊や今の沖縄を紹介する催事などが開催されました。その中で筆者にも沖縄講演会の再演の依頼が来ました。

先の講演会は筆者の講演時間の勘違いから2回に分けて行ったことになりましたが、今回はさらに内容を発展させ、日本の民主主義を考えることまで広げることにしました。

歴史的事実を検証しない日本に民主主義はない

筆者の講演内容の前半は、前回と同様、国会にも国民にも真実を知らせない沖縄返還の密使・密約外交のすべてを検証した結果を紹介しました。

繰り返しになるので、ここでは詳しくは書きませんが、拙著「沖縄返還と密使・密約外交、宰相佐藤栄作最後の一年」(日本評論社)は、昨年度の日本新聞協会賞の候補作として推薦を受けたものでしたが、結果は賞の授与までには至りませんでした。しかし今でも、読んだ方からありがたい感想が寄せられています。

ま、そんなことは言いませんでしたが、事実だけ、と言っても筆者が調べたことはほとんどなく、すべてはアメリカの公文書公開、琉球大学の我部教授の研究成果、西山太吉氏らの資料公開訴訟の裁判資料、密使なった人の暴露書籍などで「丸裸」に露出されてしまった事実でした。この調査をした筆者は、アメリカの民主主義を担保する仕組みがよく分かりました。

IMG_6027会場となったビスタラウンジ(船の中の大講堂)は、空席がないほど多数の人が聴講に来てくれました。

法治国家アメリカの沖縄返還時の体制

アメリカは沖縄返還をするための国家の意思統一をジョンソン大統領時代から始め、ニクソン大統領時には返還条件を決めていました。簡単に言えば「核の有事持ち込み、米軍基地の自由使用、返還時の補償は1ドルとも払わない」でした。日本はこうした国家の政策決定は何もなく佐藤総理が「本土並み、沖縄はタダで還ってくる」という言い方の繰り返しでした。

日米間の返還条件は、ものすごくかけ離れていました。それでも返還になったのは、佐藤が任期中に返還実現を目指したため、アメリカ側の要請にことごとく譲歩し、ともかくも形はどうであれ返還さえ勝ち取ればそれでいいという方針でした。

それが今となっては負の遺産として残されており、米軍基地の永久的施設と自由使用、これに関わるさまざまな不平等条約、思いやり予算の継続です。

驚いたことは、こうした返還交渉でもアメリカは、法に則った手続きを進めており、日本側の特に佐藤総理の弱点をうまくつかんで日本側にすべてを譲歩させた交渉戦略は見事でした。米国の公文書公開でこうした実態がすべて露見してしまったのです。

スライド10沖縄返還に臨む日米政府の戦略を見ると、アメリカは国策として一貫した方針があり、交渉術で勝ち取る戦略ですが、日本は政府内がバラバラであり、佐藤の思惑が先行しました。その足下の脆弱性をアメリカは利用したのです。

日本の民主主義は司法が崩壊させている

筆者の前からの主張ですが、三権分離で民主義を担保しているはずの日本で、民主主義は形と言葉になっているだけであり、まったく機能していないことを講演でも語りました。

例えば沖縄返還でも、機密電信文を外務省職員から提供されたとして逮捕された西山太吉毎日新聞記者も、一審・東京地裁では憲法で保障された報道の自由による正当な取材活動として無罪であったものが、二審、最高裁でいずれも逆転有罪にされました。

スライド35

他の沖縄返還関連の訴訟でも、一審で原告勝訴となっても二審、最高裁でひっくり返された事例があり、他の重要な行政訴訟でも同じように二審・最高裁で逆転で負けて、国のいいなりになるという事例が余りに多いのです。

行政訴訟は、日本では勝てないというのが通説になっており、国民間には何をやっても変わらない国という諦めが先行し、本来優れた国家として興隆されるはずの国が停滞のままに放置されている現状を主張しました。

スライド52講演後にさまざまな場所で乗船者と出会う機会があり、皆さんから分かりやすくてよく理解できたという感想をいただきました。