コロンビアに惹かれたあのころ
バーミューダトライアングルの荒れる海を乗り越えて接岸するコーヒーの名産地コロンビア随一の観光都市カルタヘナ。6日ぶりの上陸に乗船客はみな期待するお顔であふれていました。
筆者はコロンビア人のことで、一時期、深く取材で関与したことがあり、そのことをしきりに思い出していました。日本列島の人類の「血縁」が、まるで飛び地のようにコロンビアに残っているというのです。見せられたコンビア現地人の写真をみると、日本人そっくり。しかも筆者に解説した人は京都大学医学部の日沼頼夫先生でした。成人T細胞白血病ウイルス(ATLV)の発見者でノーベル生理学医学賞受賞候補者になっていた先生です。
偶然が重なりました。札幌医大医学部病理学教室にいた研究者が、同時期に筆者にATLVの抗体保有者がコロンビアに多いと言う不可思議な情報をもたらし、日沼先生に伝えたら「そうなんだよ。医学と人類学が交差したんだ」と言うのです。筆者はその続きの話が聴きたくて、京大・日沼研究室にしばらく通いました。
話はこうでした。九州地方や北海道の海岸沿いの居住者に多いATLV抗体保有者が、飛び地のように南米コロンビア地域にも多いことが病理学・血清学の研究で分かってきたというのです。それ以外の地域ではほとんど見られない。朝鮮半島・中国にもほぼない。日本人類学会に取材に行ったら、もっとびっくりしたことが発表・討論されていました。
日本列島の南側の海岸線に居住していた人たちが、氷河期の陸続きの時代、北海道から千島列島さらにアリューシャン列島を伝って北米大陸へと広がり、さらに南下して南米大陸へと広がっていったことを推測する世界地図と共に、遺伝子人類学の壮大なスケールの話に話題が広がっていました。コロンビアに否応なく引きつけられていきました。
初めて来た風光明媚なカルタヘナでは、さまざまな思い出がにわかに吹き出した場所でした。
カルタへナってどこかで聞いたような
PEACE BOATの旅程を見たときから「カルタヘナ」ってどこかで聞いたよなあという思いがありました。上陸して一日コースのバスで見聞しているときガイドさんに「カルタヘナって有名ですよね」とつまらないことを言うと「そうですよ。ずいぶん前から世界遺産になっています。それから遺伝子の保護もここから始まったのです」という言葉にあっと驚きました。
そうだった、遺伝子組み替えを視野に遺伝子の保全と確保、安全な移送についての「カルタヘナ議定書」は、1999年の条約特別締約国会議の開催地だったカルタヘナにちなんでつけられた名前だったのです。いまでは遺伝子の健全な保護、発展の世界の基本的なルール確立の論議では、よく出てくる議定書名であり、人の名前だったかなとも思っていました。
ATLVとカルタヘナ議定書。ここに来なければ、生涯二度と思い起こすことがないだろう事実にぶつかり、筆者の感動はいよいよ高まりました。
スペインが作った堅牢な要塞
堅牢な要塞は、半端なものではありませんでした。日本の城も一国の藩主・殿様を守った象徴的建造物ですが、ここの要塞をみるとお城などおもちゃに見えてきました。分厚い岩壁、基礎構造を重視した建造物は、見だけで重厚さが伝わってきます。何に備えたのか。押し寄せる英・仏・オランダなどを原籍とする海賊でした。1741年には海賊船186隻、2600人が来襲したのですが、カルタヘナ軍は600人の勇者で迎撃し、ことごとく打ち破って勝った歴史がありました。
スペインはインカ帝国から奪った金、銀、エメラルドやカカオ、タバコ、香辛料などをスペイン本国へ送り出す港にしたので、難攻不落の要塞が必要だったのです。そして要塞の周辺にはコロニアル風の街並みが広がり、コバルトブルーの海と一年中安定した常夏の地は栄えていったのです。
見るからに堅牢不落の要塞。建造には、アフリカから30万人もの黒人奴隷が動員され、酷使されたという暗い歴史も背負っていました。
難攻不落の要塞都市には有り余る富が集まり、ボリバール広場を中心にカテドラルや旧宗教裁判所など、スペイン風の美しい建造物が多数、残っていました。
ガルシア・マルケスに出会った!
突然のバスのガイドで、ガルシア・マルケスの名前を聞いて、またまた興奮しました。1982年にノーベル文学賞を授与されたコロンビアの作家です。そのころ筆者はノーベル賞の取材で何回もストックホルムを訪れ、文学賞選考委員会のあるスエーデンアカデミーにも数回足を運び、ノーベル賞授与の最終決定の投票は、古風な銅製の蓋付きの壺に投票用紙を入れて決めるという壺を思い出していました。
マルケスが執筆していた住まい、と言っても瀟洒な石作りの建物ですが、バスはあっと言う間に通過してしまい、写真撮影は出来ませんでした。「予告された殺人の記録」、「百年の孤独」などの名作は、このような風土と環境の中で執筆されたのだろうか。マルケスの筆致は、ノンフィクション執筆の基本になるという思いが筆者に芽生え、貪るように読んだことを思い出しました。コロンビアを聞いたときになぜ思い出せなかったのか、我が身の記憶装置の劣化を嘆きました。
マルケスが執筆していたあたりも、写真で見るような歴史的建造物が随所にありました。マルケスは学生時代に首都のボゴダからこの地に転居してきました。勉強と執筆バイトで忙しかったそうです。コロンビア国立大学法学部のエリート学生だったそうですが、家の都合でカルタヘナ大学へ転校したということでした。
貧富の差があり治安が悪い国
駆け足で見学したコロンビア、カルタヘナ市ですが、治安が悪いことはガイドさんがよく語っていました。かつては麻薬生産・取引で悪名を馳せた国でもありますが、麻薬撃滅は相当に功を奏したようです。しかし貧困と失業などの課題は残されていました。現在、平均月収400ドル、消費税11%、男性は58歳定年とのこと。都市部と地方の格差が相当あると言うことでした。
1994年のサッカー世界選手権でオウンゴールした選手が帰国後、レストランを出た後に口論となり、射殺される悲劇も思い出しました。怖い国という印象を世界中に広げました。
海沿いの瀟洒な風景とそよ風の吹き込むレストランで食べたランチは、日本人好みの海産物、特にエビを主体にしたもので、大変美味しくいただきました。そういえばコロンビアは世界一の美人の産地と聞いてきました。かつてのミスユニバースで何人も栄冠を獲得しています。
写真で見えるバナナの葉で来るんだ中身は、エビを焼いたり揚げたりした美味しい料理でした。写真の上方にある隣席の方の皿の中に見えます。皿の手前にある平たいものは、煎餅のようなパンのようなもので、これも美味しいものでした。
港に戻るバスの中で、もう一つ数奇な思い出が浮かんできました。日本とコロンビアの人類学・医学の共同研究を筆者が提案し、当時の笹川財団(現在の日本財団)に紹介して面倒なその手続きまで準備しました。財団からの助成金が付与されることになり、日本とコロンビアの研究者には大変感謝されました。そのときコロンビア政府から研究チームと一緒にコロンビアへ招待されましたが、社の都合で行けませんでした。新聞記者の身分という遠慮もありました。駐日コロンビア大使が名産のコーヒー豆を持って会いに来てくれたことを思い出しました。
こうしてコロンビアの思い出を書き換えながら、翌日は隣国のパナマに向かって出航しました。