01 日々これ新たなり

世界一周の船旅の記録その1をアップします。1~30回です。

 2024年4月から7月まで、ピースボートのパシフィック・ワールド号(7万7千トン)に乗船して、世界一周をしてきました。

 その様子を60回に渡って、ブログでアップします。

 その①1~30回分のPDFファイルをアップします。

   船旅1-30通しをダウンロード


ぶっちぎりで単独受賞した大隅良典先生のノーベル賞受賞

基礎的研究成果と単独受賞が意味するもの

 大隅良典先生(東工大栄誉教授)がノーベル生理学・医学賞を受賞した 。3年連続ノーベル賞受賞者を出したことは、日本の科学研究レベルの国際的な高さを証明したものであり大変嬉しい。

 大隅先生の受賞業績で特筆されるのは、生命現象の真理の発見と単独受賞である。1987年に「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」で、単独受賞した利根川進先生の快挙を思い出させた。

 マラソンレースに例えれば、終始トップを走っていた大隅先生が、後方を走ってくる2位、3位の姿などまったく見えない独走態勢でゴールを駆け抜けて行った光景であろう。

大隅

 利根川先生の受賞を発表したカロリンスカ研究所・選考委員会事務局長のヤン・リンドステン博士(カロリンスカ研究所教授・附属病院長)が語った「ドクター・トネガワは10年あまり、他の研究者の追随を許さず独走した」というコメントを思い出させた。

 大隅先生の発見は、生命科学の研究の歴史の中でも特筆される業績である。まさに利根川先生の業績に匹敵する真理の発見である。細胞内で営まれているたんぱく質製造の仕組みは、20世紀最大の生物学の発見とされるワトソン・クリック博士の遺伝子構造の解明によって明らかにされ、世界中の研究者に衝撃を与えた。

 それを受け継いで抗原・抗体反応の仕組みを解き明かしたのが利根川先生であり、生物・医学界に衝撃を与えた。その衝撃と同じくらいのインパクトを与えたのが、大隅先生の発見である。

 細胞内でたんぱく質を製造していることは、それまで分かっていた。しかしそのたんぱく質を細胞内で壊してアミノ酸に分解し、今度はそれを使って新たにたんぱく質を製造(オートファジー、autophagy)することを想像した生物学者はいなかっただろう。それを大隅先生は、1988年に光学顕微鏡で見た現象からヒントを得てその現象を解明した。

 この世紀の発見で大隅先生は次々と論文を発表し、世界の研究者が追試して驚き、研究はますます発展して論文数が増加していった。

 政策研究大学院大学・科学技術イノベーション政策研究(SciREX)センターの原泰史さんが早速、大隅先生の論文・特許について分析して発表している。

原さんの素早い対応にはいつも敬服する。

 http://scirex.grips.ac.jp/topics/archive/161005_625.html

燎原の火のように燃え盛ったautophagy研究

 原さんの分析によると、autophagy がキーワードに含まれる論文公刊数の推移は、この10年間で急峻的に増えて行った。真理の発見から始まった学問の進展する勢いをこれほど感じるグラフはない。

公刊論文数の推移

Thumbnail

出典:原泰史氏の分析

 さらに驚かされるのが、大隅先生の論文の被引用数の推移である。グラフで見るように2000年からこの15年間に右肩上がりの増加である。論文が引用される回数がこんなに急増することで、近年の学問の発展の傾向を見ることができる。

年次被引用数

Thumbnail

出典:原泰史氏の分析

 いかに価値ある研究だったかを裏付けたのが、大隅先生の国際的な叙勲の数々である。2012年からでも下記のような国際的に知られる叙勲に輝いている。

  • 2012年11月(平成24年) 京都賞
  • 2013年9月(平成25年) トムソンロイター引用栄誉賞
  • 2015年4月(平成27年) 日本内分泌学会マイスター賞
  • 2015年10月(平成27年) ガードナー国際賞
  • 2015年11月(平成27年) 文化功労者
  • 2015年11月(平成27年) 慶應医学賞
  • 2015年11月(平成27年) Shizhang Bei Award
  • 2015年12月(平成27年) 国際生物学賞
  • 2016年4月(平成28年) Rosenstiel Award
  • 2016年4月(平成28年) Wiley Prize
  • 2016年6月(平成28年) The Dr. Paul Janssen Award 2016

 特に2015年からの叙勲ラッシュは異常である。そのアンカーにノーベル賞が待ち構えていたことは当然であった。「ノーベル賞当選確実」だったのだ。

 特許にはほとんど無関係だった大隅先生の研究成果

 大隅先生の生命現象の維持に必要な細胞・遺伝子レベルの真理の発見は、最近になってパーキンソン病などの神経変性疾患やがんの治療に役立つのではないかとして、世界的に実用化の研究が広がっている。

 原泰史さんの追跡によると、大隅先生が発明者になっている特許出願は、次の2件になっている。

①  【公開日】平成12年2月29日(2000.2.29)、特開2000-60574(P2000-60574A)【発明の名称】オートファジーに必須なAPG12遺伝子、その検出法、その遺伝子配列に基づくリコンビナント蛋白の作製法、それに対する抗体の作製法、それに対する抗体を用いたApg12蛋白の検出法。②  【公開日】平成14年12月4日(2002.12.4)、特開2002-348298(P2002-348298A)

【発明の名称】蛋白質とホスファチジルエタノールアミンの結合体

 結果は2件とも、特許には結びつかなかった。

①  は、審査請求されず、②は拒絶査定されていたからだ。

 これは特許出願の失敗ではない。大隅先生の研究成果が、いかに真理の発見そのものの基礎研究であり、特許とは無関係だったかという証拠ではないだろうか。

 むろん今後、世界中で展開される病気の治療に役立つ発明があれば特許は出願されるだろう。実用化の研究競争は、これからが熾烈なものになるだろう。

 大隅先生の基礎研究でリードした優位を日本の研究陣は実用研究の競争でどこまで健闘できるのか。すでに中国の研究陣はこのテーマで多くの論文を出し始めている。それはいいことであり、日本にとって刺激になる。

ノーベル賞の先に次のノーベル賞がある。実用研究ですでにオートファジーの国際競争が始まっているのである。

 頑張れニッポンの研究陣!である。


1300人が見送った加藤紘一先生の葬儀

 加藤紘一先生の自民党・加藤家合同葬が、9月15日、東京の青山葬儀所で行われ、政財界関係者ら1300人が見送った。筆者がこれまで参列した葬儀の中で最も盛大な葬儀だった。

 加藤先生の遺影に向かって弔辞を読んだのは、葬儀委員長の安倍首相、YKKを組んだ盟友の山崎拓・元自民党幹事長、今井敬・経団連名誉会長、程永華・中国大使そして友人のコロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーチス氏の5人だった。

 安倍首相の弔辞は儀礼的な内容で何も感興がわかなかったが、後の4人はそれぞれの思いを語り聞く者の心に響いた。

 山崎氏はYKKとして活動した時代を振り返りながら「加藤の乱を止めることができなかったのは僕が悪かった。すまん」と語り、最後に「君に憲法9条を変えることに反対かと聞いたら、そうだと語った」と結んだ。改憲に意欲を燃やす安倍首相を牽制するように聞こえた。

 最前列に座って聞いていた小泉純一郎元首相は、終始、両眼を閉じて微動だにせずに聞いていた。葬儀後、記者団に囲まれた小泉元首相は「なぜ(加藤氏が)首相になれなかったか不思議だ。あれだけ優秀な政治家は珍しい。惜しい人を亡くした」と語ったという。(スポーツ報知9月16日付け)

 程大使の弔辞も胸を打った。1989年7月に宮沢喜一氏らと一緒に訪中した加藤先生は西安に行った。同行した程大使と、夜、一緒に街へ出た。中国の庶民の生活を見て会話をしたいと希望する加藤先生と一緒にラーメン屋に入り、中国人と懇談したエピソードを語った。

 そして「中日関係は礎の関係だという信念を持ち、中日友好のために言い尽くせないほど貢献した」と称え「中日間は必ず改善する」と決意を語るように結んだ。

 カーチス教授は、加藤先生がコロンビア大学で6週間のミニコースの日米関係セミナーを担当したことを語った。毎回2時間の講義だったが、「学生と懇談する時間を作り、学生たちとよく語りあったので人気者だった」と語った。

 英語、中国語に堪能で、国際的な視点でものを考え発信することのできる政治家だったことを改めて印象付けた。ただ、筆者にとって物足りなかったのは、科学技術についての加藤先生の業績を語った人がいなかったことだ。政界にも自民党にも科学技術に関心を持っている人物層が極めて薄く、このような時にもそれが出たのだろう。

科学技術が唯一の接点だった

 筆者が加藤先生と親しくお付き合いできたのは、科学技術の縁であり、後に知的財産と中国問題が加わった。振り返ってみると、それ以外の政策的な話はほとんどしなかった。

 加藤先生は、メディアを大事して極力取材を丁寧に受ける姿勢だった。いまになって気が付いたことは、多分、科学技術のテーマでメディアと具体的なテーマで話ができた機会は、非常に少なかったのではないか。科学技術に関して他社の記者や科学ジャーナリスト、政治家の話が出たことがなかった。

 ただ一人、谷垣禎一先生(前自民党幹事長)の同席を求め、科学技術政策について意見交換したことがあった。谷垣先生は、加藤先生がもっとも信頼していた同志でもあった。二人の会話からそういう雰囲気がにじみ出ていた。

 谷垣先生も加藤先生の影響を受け、株式会社インクスを訪問して山田眞次郎社長からIT産業革命について説明を受けたことがあった。

 加藤先生の逝去がはからずも、日本の政界は科学技術について極めて手薄であることを改めて考えさせた。

 加藤先生はそのことを憂慮し、真の科学技術創造立国を自らの手で実現したかったのではないか。政界はかけがえのない人を失った。


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う 最終回

 政界引退につながった病気と落選

 2012年12月に行われた総選挙で山形選挙区から立候補していた加藤紘一先生は、接戦の末敗れた。選挙中から体調がすぐれなかったのは、選挙直前に軽い脳こうそくに見舞われたからだった。

 ややしゃべりはもつれるが話はできる。ゆっくりだが歩行もできる。しかし政治家にとってこれは致命的だった。落選もやむを得なかったと筆者は思った。

 当選13回を重ね、首相の座に最も近い位置にいながら政局の読みとタイミング、政界に渦巻く利害得失と嫉妬、派閥力学などの渦に呑み込まれ加藤政権は泡となって消えた。

加藤先生13年2月28日DSCN8910顔色もすぐれお元気だった加藤先生と(2013年2月28日)

 落選から年が明けた2013年2月、筆者はお見舞いがてら加藤先生に電話をすると、赤坂のいつものレストランで食事でもしようと誘われた。

 お会いすると顔色もすぐれ落選の失意もまったくなく、相変わらず科学技術の話で持ちきりとなった。話は2004年5月26日に衆院文部科学委員会で質問し、今でも語り継がれている日本の研究現場の欠陥と課題についてであった。

圧巻だった加藤先生の国会質問

 ニュートリノ天文学を創設してノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士とゲノム解読で世界の先端を走りながら行政と学界の希薄な問題意識の中で頓挫し、手柄をすべてアメリカにさらわれた和田昭允博士を従え、日本の科学研究現場の問題点を浮き彫りにして今後に役立てようとする質問だった。

 かなり専門的な内容にまで踏み込んだ質問であり、国会議員の中でこのような質問ができる議員は加藤先生だけだったろう。

 その質疑の政府側の答弁者の一人だった当時の文部科学省生涯学習政策局長の銭谷眞美氏(その後事務次官、現東京国立博物館長)は「今でも鮮明に覚えています」と言う。

  成功した小柴博士と失敗に終わった和田博士の事例を対照的に引き出して、「日本の研究現場の欠陥を考えさせようとしたものでした。今でもあの議事録は参考になると思います」と語っている。

 その議事録は、次のサイトから読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009615920040526022.htm

 

第6世代の中国を語りたい

 話が弾んでいるうち、自然と中国の問題へと移っていった。安倍政権になってから日中間は日増しに悪くなっていく。その現状を憂いながら加藤先生は「これから中国と付き合うのは第6世代という考えがなければ未来志向にならない」と語った。

 第1世代・毛沢東、第2世代・鄧小平、第3世代・江沢民、第4世代・胡錦濤、第5世代・習近平であり次のリーダーが第6世代となるという意味だった。

 加藤先生は、中堅リーダーとして中国共産党の次期リーダーと目されている多くの人々と親交があった。若き中国のリーダーとの交流を通じて、肌で感じた中国の第6世代リーダー候補たちの考えを分析する必要がある。

 そのような考えであり、日中間に横たわる目先の課題にとらわれずに未来志向で行けば日中にはまた新しい歴史が作られるという考えだった。

 筆者はこれを聞いてすぐに、21世紀構想研究会での講演依頼を持ち出し、加藤先生も喜んで受けてくれた。

こうして2013年4月19日、プレスセンター9階記者会見場で「中国第6世代が考える日中未来志向」のタイトルで90分の講演を行ってくれた。

加藤先生21世紀構想研究会DCIM0034第99回・21世紀構想研究会で講演する加藤先生

 これが加藤先生の21世紀構想研究会の講演では最後になった。その中身は中国との将来展望について深く考えさせたものであり、その3か月後に筆者は、加藤先生と訪中することになる。

その報告は前回のその3で報告した。

 科学技術と中国を語って止むことがなかった加藤先生の生涯を偲びながら、心から哀悼の意を表して筆をおく。

終わり


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その3

歓迎ムードで終始した加藤訪中団

  2006年8月15日の終戦記念、山形県鶴岡市の加藤紘一先生の実家が放火されて全焼した。犯人は加藤先生が中国との友好関係で活動することに反発する右翼だった。

 筆者が放火事件を心配して加藤先生にお見舞い電話をすると、動ずる雰囲気もなく「そんなことより、また科学技術の討論会をしましょう」と語った。

 東大理1に進学したかった加藤先生は、年を取るにしたがって理系への憧憬を強めているような印象を持った。

  中国を敵対する第二次安倍内閣が発足し、日中関係が緊迫していた2013年7月1日から1週間、日中友好協会会長だった加藤先生を団長に、経済界の人々など10人ほどで編成した訪中団が北京空港に降り立った。筆者は加藤先生のいわば「かばん持ち」として参加を許された。

1*7月2日中日友好協会の昼食会1中日友好協会の昼食会での記念写真

  空港から加藤先生はVIP待遇で歓迎ムードにあり、そのときから帰国までスケジュールは歓迎行事で埋まっていた。歓迎昼食会、夕食会が続き、中国の要人が出席して、安倍政権の硬直化する日中関係を憂慮して打開することを双方で模索し合った。

 討論する会話の中で直接、打開するというような言葉は出なかったが、会談の雰囲気はいかに友好関係を保持するかという双方の思いが伝わり、最後はいつも「カンペイ、カンペイ」の大合唱で終わった。 

 北京から瀋陽市に移動し、関東軍が南満州鉄道を爆破して勃発した満州事変時代の歴史的記録を展示する「瀋陽九・一八事変歴史博物館」を見学した。北京から移動するとき、筆者は加藤先生が中国と関わった歴史を聞いた。

 加藤先生は、東大法学部公法学科を卒業し外務省に入省した。それから台湾大学に留学し、中国語を研修語とした外交官を目指す「チャイナ・スクール」に入った。中国語をマスターして香港副領事からアジア局中国課次席事務官となり父親の死後、政界へ転じる。

 外務官僚時代にハーバード大学に留学し、「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得した。後年、加藤先生がハーバード大学で講演するとき、MITから利根川博士が駆け参じた。アメリカの学生との質疑応答は、時として辛辣な場面になることを心配したが、利根川博士は「加藤君はそつなくこなして、英語力もあるなあと感心した」と語っている。

37月3日夕食会1円卓加藤訪中団を歓迎する中国の晩餐会

木寺大使取夕食かい

木寺中国大使主催の歓迎晩さん会で(右から2人目が木寺大使、その左が加藤先生)

 中国の新幹線の中での筆者とのインタビューの中で、加藤先生は「アジアと中国の歴史を研究し、日本の近代史を自分なりに見直した」と語った。

 加藤先生が北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館を見学したことがある。そのとき「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して記念館の館長に献じたと語った。

 筆者もその記念館を見学したことがあるが、中国から見た日中戦争の記録・展示内容を見て、自身の歴史観を見直すきっかけを作った。淡々と話をする加藤先生の言葉を聞きながら、先生も同じ思いだったのではないかと感じた。

 「日中不再戦」と揮毫した加藤先生

0*7月3日1の9・18 (2)

 「瀋陽九・一八事変歴史博物館」の見学の最後に、館長が硯を持ち出して加藤先生に揮毫を願い出た。加藤先生は筆を持つと「日中不再戦」と一気に書き上げた。それを見守っていた人々から拍手が起きた。

 北京に戻る道々、加藤先生は「日中が科学技術で協調したら、世界の科学技術研究のリーダーになれる。日本はもっと歴史を学ばなければならない」と語った。

 筆者が加藤先生との交流の中で確信した印象は、「科学技術」と「中国」という2つの言葉に凝縮される。

 自民党と政局という混沌とした激動の中で「加藤の乱」が語られることが多いが、加藤先生の政治信条の骨格には、「科学技術」と「中国」というキーワードもあったのだ。

 そのような政治家の実像を語るため、この追悼文を書こうと思い立った。

(つづく)


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その2

Img125

 加藤紘一先生をまん中にしたこの写真は、1999年に株式会社インクスを訪問したときのものだ。右端のインクス社長の山田眞次郎氏は、当時、ベンチャー企業の雄として日本のもの作り現場をIT化するための「伝道師」として脚光を浴びていた。

  筆者は、山田社長の「信者」になり、急進的に変貌する世界のもの作り現場を社会に報告して啓発する役目を担った。

 IT産業革命である。その手段と道具の一端は、インターネットと光造形装置である。そのことを加藤先生に解説したら「是非、現場を見に行きたい」とおっしゃる。山田社長に伝えると、びっくりしながらも喜んで受け入れると言って、部外秘の工場も案内して説明してくれた。

 光造形装置はあっという間に進化して3Dプリンターに変貌し、いま世界中に燎原の火のように広がっている。この分野でノーベル賞が出るのは間違いないだろう。

 インクスに加藤紘一先生が興味を持ったのは、「動物的勘」だろうと筆者は思った。その背景には、分野は違うがノーベル賞受賞者、利根川進先生との交流の影響が大きかったと思う。

 利根川先生とは、都立日比谷高校の同級生であり、二人は折に触れて意見交換をしていた。利根川先生は、来たるべき21世紀の日本の研究現場を充実させるためには、ポスドク制度を機能させるべきと強力に進言し、当時、自民党政調会長だった加藤先生の主導で「ポスドク1万人計画」を推進して実現した。

 また加藤先生の郷里の山形県鶴岡市出身に杉村隆博士がいた。杉村博士は国立がんセンター名誉総長であり、いま学士院院長の科学者だ。杉村博士と懇意だった筆者が、あるとき博士と話をしていて加藤・杉村の交流がよくあることを知った。

 加藤先生は、医療問題とがん撲滅戦略などについて、杉村博士から相当な知識と最新情報を得ていたと思う。そう考えたくなる知見と政策を語ってやまないことがあった。

 加藤先生と話をしていると、ゆっくりとした口調の中からよく最新の話題が出てきた。ニュートリノの学術研究にも興味を示していたのでびっくりしたことがあった。

 加藤先生はよく、「将来は世界中から患者が日本に集まるような先端医療の治療体制を作りたい。そういう力量を日本人は持っている。政策と制度を整備すれば実現できる」と言うのが口癖だった。

 21世紀構想研究会でも交流を深める

 筆者は1997年から、特定非営利活動法人21世紀構想研究会という政策提言集団を創設して、多くの識者を集めて研究会をしていた。この研究会に加藤先生はこれまで6回、参加してくれた。2000年5月には利根川博士と一緒に顔を見せ、日米研究体制の違いなどについて討論に加わった。

 「加藤の乱」のあとの2001年5月18日には「加藤政局を語り、科学技術創造立国を語る」として1時間ほどの講演と討論を行った。

 さらに2004年の21世紀構想研究会の50回記念シンポジウムでは、 「ほんとにどうする日本改革」のタイトルでパネルディカッションに参加し、2013年の21世紀構想研究会100回記念講演シリーズでは、 「中国第6世代が考える日中未来志向」 のタイトルで1時間半の講演を行った。

 21世紀構想研究会会員のベンチャー企業創業者との交流をいつも大切にし、楽しみにしていた。2000年11月20日の加藤の乱が起きたその翌日に、21世紀構想研究会のベンチャー企業の社長有志の10人ほどと会食が予定されていた。生島和正・武蔵エンジニアリング株式会社社長ら元気のいい中堅企業の経営者が多かった。

 しかし国会と自民党の内外は大騒ぎであり有志との会食どころではないと考えた筆者が、電話で延期を申し出たところ「社長さんたちも忙しい中でスケジュールを組んでくれたのだから、延期はしません。必ず行きます」と言って加藤先生はきかなかった。

 門前仲町の隠れ家のように使っていた会場のレストランに、予定から30分ほど遅れて加藤先生は出席した。しかし引きも切らずに携帯に連絡が入り、見かねた出席者が加藤先生を「解放」することにし、先生を車まで連れ出して見送りした。

 そのような交流は、銀座、赤坂などで5、6回はやっただろう。訃報を聞いた社長の一人は「深く思索する政治家だった。首相にしたかった」と逝去を心から惜しんだ。

(つづく)


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その1

  20160910-00010006-storyfulp-000-2-view[1]

 安倍政権の集団的自衛権の行使容認は「徴兵制まで行きつきかねない」と反対を訴え、従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官談話の見直しを進めようとする安倍首相を批判していた元自民党幹事長の加藤紘一氏が亡くなった。

 自民党の最リベラリストであり良識ある政治家であった。主義主張、政治哲学だけでなく科学技術に関しても並々ならぬ関心と展望を持っており、加藤政権が実現したときには、知的財産権意識を日本全土に広げたいという「挑戦的な政策」を胸に秘めていた。その「野望」も日の目を見ることなく、ひっそりと政治活動の幕を引いた。

 加藤先生との最初の接点は、1999年7月、突然、加藤自民党幹事長から電話をいただいたときから始まる。筆者はそのとき、読売新聞論説委員であり主として科学技術のテーマで社説を書いていた。

月刊誌「諸君!」(文藝春秋社、1999年7月号)に「ニッポン科学技術立国の迷信」とのタイトルで論文を書いたが、その中身について意見交換をしたいという加藤先生の申し出だった。

 この論文で筆者は、歴代自民党政権が掲げてきた「科学技術立国」を国是とする政策は、いかにインチキであり砂上の楼閣のような政策であるか具体的な事例と数字をあげて激しく批判したものだった。

 数日後に出会った加藤先生に筆者が「自民党議員に科学が分かる先生がいることを嬉しく思います」と言うと、すかさずこう言った。

 「私は理系人間ですからね。最初の受験は東大の理1を受けたが落ちましてね。1浪後にもう一度と思ったら、先生が理1は保証しないが、文1なら保証するというから文1を受けて法学部に入った。文1より理1の方が難しかった。それなのに法学部の方が日本を牛耳っている」と言って笑わせた。

 科学技術の先端研究のことをよくご存じであり、それから様々なテーマについて意見交換する機会を作ってくれた。加藤先生が科学技術に明るいのは、高校時代の同級生であるノーベル賞受賞者の利根川進先生と仲が良かったことだった。

 たまたま筆者も取材を通じて利根川先生とは懇意にしていただいていたので、3人でお会いし、お二人から日本の科学技術政策について意見をうかがったこともあった。

筆者が東京理科大学で授業をしていた「科学文化概論」にも加藤先生にゲスト講師として来ていただき、日本の科学技術政策の課題と将来展望を語っていただいたこともあった。

加藤紘一先生2東京理科大学の「科学文化概論」の授業で講義する加藤紘一先生


 元自民党幹事長であり、宏池会会長という派閥の領袖であり、首相に最も近い距離にいた政治家であった。そういう大物が講義に来ても、学生たちはほとんど感動を示さなかった。そのような時代になってきていた。

 もし加藤政権が実現した暁には、どのような科学技術政策をするべきか。そういう突っ込んだ話を何回かしたこともあった。21世紀を目前にした時代だったが、知的財産権に対する理解も深く、次のような構想を話し合ったこともあった。

 それは竹下政権のときに打ち出して話題となった「ふるさと創生交付金1億円」に習って、「ふるさと創生・市町村特許出願運動」を打ち出そうという構想だった。日本全国の市町村に必ず1件以上の特許を出願させる運動であり、特許の価値に応じて交付金を出そうという構想だった。「特許1件1億円」というキャッチフレーズまで用意していた。

 すべては幻に終わった。「加藤の乱」で知られる政局の激動の中で加藤政権の芽は消えてしまったからである。その不運に追い打ちをかけるように、加藤事務所の所得税法違反事件で衆議院議員を辞職する。

 辞職したその日の夜、襟元の議員バッチを裏返しにした加藤先生と二人だけで赤坂の焼肉屋でお会いしたことがあった。そのようなときでも科学技術政策の夢を語っていた。聞いていて涙が出そうになった。

 加藤先生は、筆者がもっとも濃密にお付き合いした政治家であった。

(つづく)


伊藤真先生が「憲法の価値を学ぼう」と熱く語った90分(第129回21世紀構想研究会報告)

路整然とした解説にたちまち日本国憲法の虜になりました

1CIMG4308
憲法を学ぶいいチャンスである

 2015年9月19日の戦争法の強行採決から1年を迎える。伊藤先生は、あの暴挙を機会に憲法を学ぼうと呼びかけて講演が始まった。

 「私たちは誰もが政治や憲法に無関心ではいられても、無関係ではいられない」と言う名言を吐き、憲法を学ぶ意義を次のように整理した。

1 憲法を使いこなして自分らしく生きる力を身につけるため(自分が幸せになるために)

2 社会のメンバーとしての役割を果たすため(社会をよりよくするために)

3 憲法改正国民投票や選挙のときに、自分の考えでしっかりと判断できる力をつけるため(未来を灰色にしないために)

 続いて近代日本の歩みとして明治から先の太平洋戦争終結までの時代に憲法と国民はどのように移り変わったかを解説した。

終戦までの日本国民に人権はなく、すべて天皇ため国家のために自己犠牲することが価値あることと位置付けられていた。それは軍備拡張、富国強兵、経済発展、国家優先という思想を実現するため、国民を誘導して利用するためだった。

戦前のドイツと日本の共通点も解説した。ドイツではナチズムによって個人は民族の中に埋没し、個人と国家の区別、対立関係自体が消滅し、国家権力を制限する憲法も必要なくなった。

一方、日本では国体思想の下、世界恐慌後、軍部のプロパガンダに乗せられ、閉塞した政治や社会の変革者として軍部を圧倒的に支持したのは、貧困にあえぐ大衆であった。

国家から個人へ変わった戦後憲法

 戦後、明治憲法から日本国憲法へと変わり、国家・天皇を大切にすることから個人を大切にする憲法へと変わった。国民主権、戦争できない国、差別のない国、福祉を充実させる国、地方自治を保障する国、個人のための国家へと価値観を180度切った。

 日本国憲法は「人々が個人として尊重されるために、最高法規としての憲法が、国家権力を制限し、人権保障をはかるという立憲主義の理念を基盤としている」

と語り、国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義を基本原理としているとした。

そしてそれは、憲法前文に凝縮された文言として存在し、国民の行動規範も示されていると語った。

 ここで伊藤先生は、ドイツのナチス政権の台頭とヒットラーの思想戦略について具体的な例を挙げながら解説した。

聞いていて思ったことは、人間の心、考えていることをある恣意的な戦略によって簡単に変えて行くことができることに改めて驚いた。

と同時に、人間の心の強さと弱さが表裏一体の関係で存在することも知った。

伊藤先生は、憲法の必要性を次のように定義した。

多数意見が常に正しいわけではない。だから多数意見にも歯止めが必要である。多数意見でも奪えない価値があるはずだ。これを予め決めておくのが憲法であると。

そして政治家は人間なので誰でも自分勝手に権力を行使してしまう危険がある。だから、政治を憲法で縛っておかなければならない。これが立憲主義であると語った。

1CIMG4313

戦争放棄を目的として立憲主義

憲法は文化・歴史・伝統・宗教からは中立であるべきという視点にも眼を開かされた。憲法とは、国家権力を制限して国民の権利・自由を守る法であり、近代国家の共通として「あくまでも人権保障が目的」となっているという。

さらに日本国憲法は、戦争放棄を目的としていることに日本の立憲主義の特長が出ている。安倍内閣は、勝手にそれを無視して自分の思うとおりの政治を進めようとしているのではないか。

また伊藤先生は、個人の尊重と幸福追求権として憲法13条にある「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」をあげた。

これは「誰にも価値があり、幸せになる権利を持つということだ。自分の幸せは自分で決める(自己決定権)ものであり、「自分が幸せになれる国づくりのために選挙に行く」と語った。

日本国憲法は誰もが知るように第9条で交戦権を認めていない。だから自衛隊には交戦権がなく、海外で敵の殺傷ができない部隊であり、法的には通常の軍隊とはいえない。

これに対し集団的自衛権は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を,自国が直接攻撃されていないにもかかわらず,実力をもって阻止する権利」としていた。(1981年5月29日,政府答弁)

ところが安倍政権は、閣議決定の解釈変更で「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」として、自衛の措置として海外での武力行使容認のためにはときの政府が総合的に判断できるように変えてしまった。

さらに自民党の改憲草案をみると問題点が散見していることを指摘した。集団的自衛権を容認して国防軍を創設することにより日米同盟を強化し、米国の期待に応えたいという。これは軍事力による国際貢献をしたいということと同義語である。

「個人の尊重」よりも、軍事的経済的に「強い国」づくりをしようという思想は、戦前回帰・富国強兵政策への回帰である。

さらに問題なのは、第21条(表現の自由)である。

1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。

2項 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

第2項によって、事実上、表現の自由はなくなり、中国憲法と同じになる。

伊藤先生は「日本はどんな国に変わろうとしているのか。私たち自身が何をめざすかを考えなければならない」として「改憲の必要性が本当にあるのか。憲法は魔法の杖ではない。慎重すぎるくらいがちょうどいいのである。自分の生活がどう変わるかへの想像力を働かせることも重要だ。10年後、20年後への想像力、そして歴史を学ぶ勇気と誇りをもとう」と語りかけた。

そして最後に次のスライドを見せて私たちの行動力に期待をかけた。

3CIMG4316

 


平和国家を捨てようとする日本なのか 終戦記念日に想う

 戦争か平和かに両極化した歴史

 江戸時代以降から現代に至る日本の歴史を見ると、平和に徹するか戦争を起こすか、そのどちらかに両極化していることに気が付いたのは、10年ほど前である。

 1603年の徳川家康の天下統一から明治維新まで平和国家を維持

  江戸時代の265年間、日本は内乱が収まり鎖国で外国との交流を絶ち、ひたすら平和国家を維持した。

 暗い戦争の時代

  1868年明治維新以降、それまで中国から移入していた文化をすべて捨て、西欧文化一辺倒になった。

  明治27年の日清戦争から昭和20年8月の太平洋戦争終結までの46年間、日本は外地で戦争を起こすか、ひたすら外地を侵略する戦争に明け暮れた。

 日清戦争1894年(明治27年)8月~1895年(明治28年)3月

 日露戦争1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月
 
 日中戦争1937年(昭和12年)7月~1945年(昭和20年)8月
 
 太平洋戦争1941年(昭和16年)12月~1945年(昭和20年8月)
 
 この時代に暗殺された総理大臣は5人にのぼる。戦争責任を問われて絞首刑となった総理大臣は2人、戦争責任から自殺した総理大臣は1人である。
 
 このような歴史を持っている国は稀有ではないか。そのような事実を私たちは、きちんと学校で習った覚えはない。断片的に記述されている教科書や本は読んでいても、長期的俯瞰で歴史を学ぶことはなかった。
 

 暗殺された総理大臣を列挙してみる

  • 伊藤博文 1909年(明治42年)0月月26日、ハルビン駅頭で暗殺
  • 原 敬   1921年(大正10年)11月4日、東京駅頭で暗殺された。
  • 犬養 毅  1932年(昭和7年)5月15日、515事件で暗殺された。
  • 高橋是清 1936年(昭和11年)2月26日、226事件で暗殺された。
  • 斎藤 実  1936年(昭和11年)2月26日、226事件で暗殺された。

 戦争責任によって死亡した総理大臣

  • 近衛文麿 1945年(昭和20年)12月16日、自宅で服毒自殺。
  • 東条英機 1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所内で死刑執行
  • 広田弘毅 1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所内で死刑執行
 515事件と226事件は、失敗に終わった軍事クーデターである。ドラマなどでは「憂国の青年将校らの決起」などと美化するような表現も見かけるが、要するに軍部のテロであった。この2つの事件についても、学校時代に歴史できちんと習ったことはなかった。
 誰がおこし、どのような責任をとったものか。今ではネット情報でたどるよりない。
 
 初代総理大臣の伊藤博文から戦争の時代の最後の鈴木貫太郎まで42代の総理大臣がいるが、そのうち延べ13代(全体の31%)は、暗殺か戦争責任で死亡した総理大臣になる。
 
 この時代、日本の指導者、政治家は血塗られた歴史の中で活動したということだ。このような暗い史実を持っている国はないだろう。私たち日本は、そのような歴史をたどってきたという事実を国民の共通認識として持つべきである。その上に立って、自分たちの国の在り方を考える必要がある。

 このような歴史の反動から、1945年以降の戦後、延々と平和を守ろうとするうねりが続いていた。戦前の軍国主義の流れをくんだ一群の強固な政治勢力はあったが、平和憲法を必死に守ることは、過去の暗い戦争の時代から逃れようとした国民の想いであったはずだ。平和主義に徹したのは、過去の過ちから逃れたいとする日本国民の想いであったはずだ。

 ところが、そのような流れを止めようとする政治的な動きが顕著になってきたのは安倍政権からである。憲法解釈を閣議で勝手に変え、安保法案を成立させ、これから憲法改正を実現しようとしている。軍事力を保持することを正当化するような改正をしようとしているように見える。

 自民党の改憲案を見ると、言論の自由は実質的に認めない条文になっている。恐ろしい政権である。55年体制以降、一時期を除いてほとんど政権を握ってきた自民党であったが、過去の党内事情では左派の言動を許していたし、またそのような党内左派の力を温存することでバランスの取れた政権運営を行ってきた。

 いま政権与党に、反主流派、非主流派というようなかつて自民党に存在した勢力は見られない。自民党にすり寄っているだけの公明党はもとより、そのような勢力は皆無である。官邸にたてつくような議員は、選挙で不利に立たされるという恐怖感を植え付けている。

 アメリカのワシントンポスト紙が、「オバマ大統領の核先制不使用の方針に安倍総理が反対することを米軍幹部に伝えていた」とするスクープを報道している。安倍首相の本音と思想がこの言動に出ている。

 中国を敵視するような時代錯誤の政権

 筆者は、これまで60回ほど中国に渡航し、主として中国の産業現場と知的財産、特に模倣品についての取材を精力的に続けてきた。またJSTの中国総合研究交流センターのスタッフの一員として、2006年の創設以来、中国のあらゆる動向を見てきた。

 中国は共産党一党独裁国家でありながら、自由主義経済を認める一国二制度のような特異な国である。長所もあれば短所もある。短所を見れば限りなくおかしな国に見えるが、長所を見ると驚くほど効率のいい国家体制に見える。そういうアンバランスの国家体制にありながら、中国は着実に先進国をキャッチアップし、経済力をつけてきた。

 筆者の観点を言えば、中国の科学技術は日本と肩を並べ、部分的に追い抜いて行く分野も間もなく出てくるだろう。たとえば宇宙技術はすでに日本を追い抜いて行った。知的財産の制度も、多くの点で日本を追い抜いているように見える。制度だけでなく、実効性がどの程度あるかいま精査しているが、日本はいずれ抜かれるだろう。

 そのような中国を敵視するような政策をとって何を得するのか。遣唐使の時代から日本ほど中国の文化を移入し、恩恵をもらった国はないだろう。皇室に子が誕生したり改元すれば、その名を中国の哲学書の文字からもらうことが普通だった。中国人は、その事実を半ば誇りにしていたと筆者は思う。

 上海博物館に展示されている漢字文化の地図を見ると、日本は漢字文化の「少数民族」と位置付けられていた。中国から見ると私たちは、漢字文化の少数民族だったのだ。そういう中国人の歴史観をみて、筆者はむしろ嬉しくなった。日本語は紛れもなく中国5千年の歴史と文化を踏襲したものである。

 そのような国の歴史と民族的つながりを見れば、中国と協調する政策をとるのが普通である。日本のメディアを含めて政治家も企業人も一般社会人も、中国と中国人を見下すような視点に立っているように見える。遅れている中国という思いがどこかにある。中国は賄賂の国であり、ビジネス社会に倫理観は乏しいという指摘はあたっている。

 しかし日本はどうか。中国に負けないほどの驚くほど馬鹿げたことが今なおまかり通っている。東芝の不正会計、三菱自動車の捏造データなどは、世界的に知られている日本を代表するブランド企業の信じられないような不正である。恥ずかしくて外国人に説明できない。東芝や三菱がやっているのだから、日本は普通にこのような不正や理不尽なことをやっているのだろうと外国人は思うだろう。

  高齢者らから嘘をついてカネを巻き上げる「振り込み詐欺」「おれおれ詐欺」などは、「日本人だからできる詐欺だ」と外国人から指摘されたことがある。他人を簡単に信用する日本人の性善説思考、電話一本で手の込んだ架空話で信用させる手口を指しているようだ。この犯罪は、中国、韓国にも伝播していると聞く。犯罪を輸出するまでになったのだ。

 日本と日本人は、近代日本の歴史をもう一度総括し、今の時代に取るべき「時代認識」を明確に持つべきだ。日本人は対外的にもっと謙虚に考え行動を起こすことが大事なのである。

 中国や朝鮮半島を侵略したのは、資源と領土をほしかっただけであり、そのほかの理由は見つからない。そのようなことを外国や外国人から指摘されるまでもなく、日本人として総括することが必要だ。理不尽だったことを認め日本人としての矜持を示すことで外国からも日本と日本人を再認識してもらう機会になる。

 終戦記念日を挟んで考えを巡らせたことを書いた。

 

 

 

 

 

 

中国アップルのiPhone6の意匠権侵害をめぐる熾烈な争い

中国アップルのiPhone6の意匠権侵害をめぐる熾烈な争い|潮流コラム一覧|特許検索の発明通信社

このコラムは発明通信社のHPの馬場錬成のコラム「潮流」から転載しました。

  中国でiPhone6、iPhone6 Plusを販売している中国現地法人のアップルコンピュータ貿易(上海)有限公司(以下、中国アップル)は、北京知的財産法院に対し、北京市知的財産局の判断を取り消すように行政訴訟を起こしていたが、同法院はこれを受理したとこのほど発表した。

 これによって中国でのiPhone6、iPhone6 Plusの意匠権をめぐる争いが、また振り出しに戻ったのではないかとの観測が流れるなど、知財業界の注目を集めている。

 この紛争について、北京銘碩国際特許法律事務所(http://www.mingsure.com/Japanese/about.asp)の金光軍弁理士らの解説をもとに紹介してみる。

紛争になっている意匠権について

 シンセン市佰利営销服務有限公司(以下、佰利=バイリ=公司)は、2014年12月、中国アップルが売り出したiPhone6、iPhone6 Plusがそれぞれ自社の意匠専利を侵害したと主張し、北京市知的財産局に二つのスマートフォンの販売の差し止めを命じるよう求めた。

 佰利公司が取得した意匠権は同年1月13日に出願された「ZL201430009113.9」などであり、同年7月9日に登録公告された。

 その意匠権とiPhone6、iPhone6 Plusを比較してみると次の通りである。iPhone6 PlusはiPhone6に比べて、ただサイズだけ異なるので、iPhone6 Plusと係争意匠専利の対比は省略する。

 

意匠権は維持され販売停止の命令

 意匠権侵害と訴えられた中国アップルは、2015年3月30日、国家知識財産局(SIPO)の専利復審委員会(審判部)に、佰利公司の所有する専利は無効であるとする無効審判を起こした。

 これに対し専利復審委員会は、2016年1月6日、意匠権の有効性を維持する決定を行った。

 この決定を受けて北京市知的財産局は、iPhone6、iPhone6 Plusが意匠権を侵害したと認定。中国アップルにiPhone6、iPhone6 Plusの販売を差止める決定をくだした。地方行政機関は賠償金額を決定する権限がないので、この決定に基づく賠償金支払いの命令はなかった。

紛争は振り出しに戻る

 中国アップルはこれを不服として、北京知的財産法院に対し、北京市知的財産局が認めた専利侵害紛争処理決定書を取り消し、iPhone6、iPhone6 Plusが意匠権の保護範囲に属していないことを認める行政訴訟を起こした。

 北京銘碩国際特許法律事務所の解説によると、北京市知的財産局の行政処理決定は終局の決定ではない。しかし中国アップルが行政処理決定を受領した日から15日以内に法院に提訴しなかったり、販売中止をしないと北京市知的財産局は法院に強制執行を申請できる権限があった。

 そこで中国アップルは、北京知的財産法院に行政訴訟を提起したもので、同法院は6月15日にこれを受理した。

 紛争は決着がついていないので、iPhone6及びiPhone6 Plusの販売には影響がないという。

知財法院がどう裁くか注目集まる

 ここで注目したいのは、知財専門の裁判所として中国でスタートして知財法院が独自の判断でどのような判決をくだすかである。とかく中国の裁判所や行政組織は、中国企業と外国企業が争った場合、自国や自国企業に有利な判断をくだす保護主義がまかり通ると感じていることが多かった。

 特に地方での争いでは、地方保護主義が堂々とまかり通り、外国企業には理不尽な判断や判決が下ることが珍しくなかった。

 国家知識産権局でもこうした地方保護主義があることを公式に認めたことがあり、「北京・上海には地方保護主義はない」との発言もあった。

 知財制度、政策では欧米先進国と肩を並べるまでに整ってきた中国だが、果たしてこの意匠権をめぐる紛争に知財法院がどのような判断をくだすか、中国の知財関係者も非常に注目しているようだ。

 

 

 


食育シンポジウムの報告

食育シンポジウム 7月30日に開催されたシンポジウムを報告します。 

パネルディカッション:「学校給食から発信する日本のSHOKUIKU」

パネリスト
 
金丸弘美 (食環境ジャーナリスト、食総合プロデュサー)
齊藤るみ (文部科学省初等中等教育局健康教育・食育課学校給食調査官)
宗像伸子 (管理栄養士、東京家政学院大学客員教授、全国学校給食甲子園審査委員)
吉原ひろこ (学校給食研究家・料理研究家)
モデレ-タ- 馬場錬成 (21世紀構想研究会理事長、全国学校給食甲子園実行副委員長)

司会(大森・学校給食甲子園事務局長)

 ただいまより、食育シンポジウムの第2部、パネルディカッションを開始いたします。パネリストの先生方は食環境ジャーナリストの金丸弘美様、学校給食研究家の吉原ひろこ様、文部科学省学校給食調査官の斉藤るみ様、そして先ほど基調講演を頂きました宗像伸子様です。
 モデレーターは、全国学校給食甲子園の主催団体、特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長の馬場錬成です。それではパネルディスカッションの進行をよろしくお願いいたします。

馬場錬成冒頭あいさつ

 全国学校給食甲子園大会の主催者である特定非営利活動法人21世紀構想研究会(http://www.kosoken.org/ )は、1997年9月に設立されました。

 現在、学校給食甲子園を実施している教育委員会(銭谷眞美委員長)、知的財産委員会(荒井寿光委員長)、生命科学委員会(黒木登志夫委員長)などが 活動しており、適宜、テーマによる討論を通じて政策提言集団として活動しております。過去には知的財産委員会で、小泉内閣に知財改革への提言を行い、ほぼ 丸のみされる活動もしてきました。

 学校給食甲子園は、学校給食現場で日夜活動している栄養教諭、学校栄養職員、調理員の皆さんの活動を知ってもうことと、学校給食を広く理解してもらうこと、そして食育推進に寄与したいとの目的で始めたものです。

 本日は、銭谷眞美委員長の21世紀構想研究会教育委員会の主導による学校給食甲子園10回記念の食育シンポジウムであります。パネリストの先生方と フロアの皆様のご意見をいただきながら意義あるものにしたいと思います。それではこれから、パネリストの先生方から冒頭のご発言をいただきたいと思いま す。最初に金丸先生からお願いいたします。

金丸弘美先生の冒頭発言

 2005年、佐賀県唐津市・浜玉中学校で公開学校給食を行いました。栄養士さんが、地域を巡り食材を調達し、地産地消を推進。栄養バランスも地域の食も配慮した給食を作られていました。しかし、地域でなかなか広がらない、知られていない。そこで公開でとなったわけです。

 紹介している給食は、100パーセント地元産食材を使ったものです。高価な佐賀牛も入っています。佐賀牛のような高い食材も安い切り落としを使い、里芋の親芋の安い食材と組み合わせて学校給食の1食270円で提供できるようにしています。

 

 公開学校給食といっても一般の方は30人くらいしか入れない。そこで地元の新聞・テレビなどのメディア、「ソトコト」など、取材を11社取り付けま した。参加者にもメディアにも、優れた給食を知ってもらうために、給食の考え、栄養バランス、食材の内容などをテキストにして配布し、給食代込み入場料 500円で公開学校給食をしたわけです。

 浜玉中学校での公開学校給食を行い、各地の学校給食を取材をしてきたことから、各地の給食の集いに呼ばれるようになりました。2014年からは、農 水省・学校給食等地場食材利用拡大委員会委員(運営:まちむら機構)になりました。そこで私たちが提案をしたのが、現地に行き合宿をして給食のノウハウを 連携する公開給食でした。これは鹿児島県肝付町、福井県鯖江市など、2年間で8か所が実現。全国から行政、栄養士など多くの方たちに参加していただきまし た。

 このなかで、行政の各部署とデータの連携を呼びかけました。学校給食は、子供の健康と栄養バランス、地産地消を掲げて、優れた取組がされています。 しかし、給食は年間180食ほど。普段の朝、夜の食事、休みのときの食事は家庭で食べます。普段の食生活と健康を配慮した食事を親も知ってもらう必要があ ります。そうでないと子供の健康な未来は創れません。

  一方、保健課の健康調査のデータをみると、どの自治体や地域でも、医療費が高騰。ガン、高血圧、肥満、糖尿病、若い女性の痩せすぎが目立ちます。ま た教育委員会のデータをみると小学生低学年でも肥満が約1割、運動不足、夜10時以降でも起きている児童が3割近くあることがわかります。

 全体のデータを把握し、医療費を削減し、児童の健康に投資をしよう。未来の子供の健康を創ろうと呼びかけています。

 2015年、長野県の朝日村での公開学校給食では、北海道から沖縄まで120人が集まって行われました。地元の農家のお母さんたちが、積極的に給食 にかかわり、生産した野菜を提供しています。こういう優れた活動も現場に行かないと学べません。その内容は専門誌・月刊「学校の食事」(学校給食研究会) で特集される予定になっています。

 私が講義をしているフェリス女学院大学、明治大学農学部では、八王子にある牧場「磯沼ミルクファーム」を開放してもらい、学生が参加し、ピザやデ ザートまで創る、フルコースの牧場の料理会を開いています。牧場では、ジャージー、ブラウンスイス、ホルスタインなどが飼われています。牛の品種によるミ ルクの違い、見た目、味わい、香り、食感などについて学習する「味覚ワークショップ」を開いています。また牛の飼育の環境やエサがどこからくるのかなども 学びます。「味覚ワークショップ」をカリキュラム化し実施しているフランス、イタリアのスローフードのワークショップも学びに行きました。

 味覚の授業は、五感を使い、食べ物を表現することで、個性を育み、語彙を豊かにしていくものです。また、料理会をするにあたっては、食材の成り立ち や文化的な背景がわからないと、きちんと学生にも、参加者にも伝えることができません。そこで食材のテキストを作成し、料理まで展開をするという食のワー クショップを各地で開くようになったというわけです。

 鹿児島奄美諸島徳之島での食育シンポジウムでは、沖縄・大宜味村と徳之島との長寿の食の調査を行い、現在の人たちと長寿と言われた世代の人たちが食 べていた食材を比較検討することも行いました。というのは、若い世代で生活習慣病が広がり、早世が増えているからです。沖縄も奄美も長寿世代と現代では食 べ物も生活スタイルも大幅に変わってきていることがわかりました。

 こうした体験から、データをきちんととって、健康の成り立ちをしっかり総合的にとらえることを提唱するようになりました。学校給食は、栄養バランスもしっかり考えられています。その取組と考えを広げようと、公開学校給食を行い、今年も4か所で合宿が予定されています。

齊藤るみ先生の冒頭発言

 学校給食は、栄養バランスのとれた豊かな食事を提供することにより、心身の健康の増進や体位の向上を図るほか、食に関する指導を効果的に進めるための重要な教材になります。

 給食の時間では、準備から後片付けの実践活動を通して、計画的・継続的な指導を行うことにより、児童生徒に望ましい食習慣と食に関する実践力を身に付けさせることができます。
 学校給食の歴史を見ますと、明治22年に山形県で日本初の学校給食が行われ、戦後はユニセフ等からミルクの寄贈を受けてユニセフ給食が開始されました。昭 和26年には完全給食が開始され、昭和29年に学校給食法が施行され、平成17年に栄養教諭の配置、食育基本法が施行されました。
 学校給食法の第2条にある学校給食の目標には、スライドにあるようなことが書かれています。

 これを見ても分かるように、学校給食は単に昼食を提供するのではなく、望ましい食習慣から生命及び自然を尊重する精神、勤労を重んじる態度、伝統的 な食文化や生産・流通などの目標を掲げて、教育の一貫として行っています。このような学校給食は世界でも類を見ないものではないかと思います。
 次に、栄養教諭の役割についても学校給食法に示されています。こちらの2枚のスライドを見ていただきたく思います。

 食に関する指導は、給食の時間や教科等において学校教育活動全体を通じて行います。給食の時間における食に関する指導としては、教科等で取り上げら れた食品や学習したことを、学校給食を通して確認させることができます。また献立を通して、食品の産地や栄養的な特徴などを学習させることができ、実践を 通して学校で学び、これを家庭での実践につなげることを目指しております。

 このスライドは、学校給食を生きた教材として活用するための工夫を示したものです。栄養バランスのとれた魅力ある美味しい給食であること、安全・安心な給食、教科書と関連した献立作成、地場産物の活用などについても工夫することが必要です。
 最後に第10回全国学校給食甲子園大会で優勝したみなかみ町月夜野学校給食センターの優勝献立をお見せしたいと思います。

吉原ひろこ先生の冒頭発言

 全国学校給食食べ歩きをしている吉原ひろこです。私が学校給食現場で一番見たかったのは子供たちの顔でした。それと、学校給食現場の栄養教諭、学校 栄養職員の先生方、調理員の方々にスポットライトを当てたかったのです。 

 給食に携わられる方々は子どもたちの体を食で作る縁の下の力持ち、本当に大事なお 仕事です。私は、それらを見据えた学校給食応援団として活動しています。

 学校給食の歴史を見ますと、最初は食べ物が不足していた時代の昼食として始まりました。戦後は占領軍からの救援物資(小麦粉と脱脂粉乳)による学校 給食もありました。それからおよそ70年、長い間、パンの給食でしたが、それがこの10年間で米飯給食になってから料理も多彩になり、和食の多い献立に なっていきました。
 主食が米飯ですと、地産地消の食材を使った、慣れ親しんだ日本の料理や郷土料理がぴったり合います。そこからはっきりと、学校給食が真の「日本の学校給食」として誇れるものに生まれ変わってきたと思います。直近の10年間は、学校給食の一大変革期だったと思います。

 この写真はお米のおいしい新潟県の後山(うしろやま)小学校へ行ったときの給食です。文字通り後ろに山が控えている学校です。日本の器での給食です。

 こちらは京都の伊根町の小学校でいただいた給食です。この学校は港のすぐ近くにある学校で、その日に取れた新鮮な魚を学校給食に出しています。

 献立表には、単に魚料理としか書いてありません。その日獲れた魚の調理に合わせて学校給食に出すというぜいたくな学校給食でした。

 この学校には和室があり、時々ここで正座して食べることで居住まいを正して食に向かい合います。

 それにはこのようにお盆 と立派な食器があるといいということで、ホテルで使用していた食器類を格安で譲ってもらい、豊かな学校給食が展開されていました。他にも本当に家庭的な献 立の学校給食がたくさんありました。

 学校給食を食べ歩いて強く思ったことがあります。それは学校給食の時間の持つ3つの「リ」の意味の再認識です。①リラックス、②リフレッシュ、③リ セットです。午前中の授業が終わったあとのお昼ご飯の時間は、この3つの「リ」を生かしてこそ、午後の授業に集中でき、能率も上がります。

 しかし学校給食の時間は中学校が30分、小学校は長くて45分程度です。この時間内で着替えて、配膳して食べて後片付けですから、あまりにも忙しくてタイトなのが現実です。給食は食育ととらえて、私は給食の時間を1時間にと提案しています。

 たとえば東京都内の中学校に行った時、郷土の多彩な食事を味わおうということで、八丈島から早朝届いたアシタバ、トビウオを使ったとても手の混んだ おいしい学校給食が出されました。でも時間が足りないために十分に食べられなくて、食べ残しが多く出るというとてももったいないことが起きていました。

 短い時間では、リラックスしてゆっくり味わって食べるというのは無理があります。やはり楽しく食べるためにはもっと時間が必要だと思います。また、トレイにきれいに配膳すること、器に丁寧によそうことなどもしっかり教えていきたい大切なことです。

馬場

 パネリストの先生方から、大変、興味のある意見発表がございました。ここで食育という概念がなぜ出てきたのか。宗像先生の基調講演であったことを思い出したいと思います。
 核家族化、インスタント食品の普及とか、スーパーなどの進出、ライフスタイルの多様化などが指摘されました。大変、的確に分析した内容だったと思います。
 宗像先生に質問したいと思います。先生は食事力と言うキーワードで講演され、食事力とは食行動を自己管理することとおっしゃっています。言われてみるとそ うですが、それでは一体、何が一番大事なことでしょうか。自己管理で私たちがやってみるべきことの第一は何でしょうか?

宗像

 皆さん、朝昼晩と3食食べていますが、この3食全体で食管理になるわけです。この3食をきちんととらないと、必要な栄養素を採れなくなるという恐れが強くあります。自己管理とは食に関心を持ってもらうことと同意語と思っていただきたいと思います。

馬場

 食に関心を持つということは簡単なことでありながら、簡単ではない。忙しい時は、貧弱な食事で間に合わせてしまうことがあるわけです。
 さて、ここで全国1000か所くらい食の現場を調査・研究しておられる金丸先生にお聞きしたいと思います。先生は、地域食材のテキストを作る活動をしておりますが、典型的な事例をもう少し広げてご披露をお願いいたします。

金丸

 2005年に大分県竹田市で食育推進をしたいと言って呼ばれました。ご当地は、豆腐とコメがある。食育ブランド事業と言っていますが、ここで作 られているコメは新潟のコメ、山形のコメとどう違うか。品種は、栽培方法は、農薬は、香りや味はどう違いますかと質問したら「分かりません」という回答で した。それでは食育できませんということで、たとえば豆腐の原料の大豆やトマトは2千種以上あります。だから特定しないとその食べ物の本質が分かりませ ん。
 学校給食法に文化を伝えると書かれています。たとえば茨城県の常陸太田市のお蕎麦のブランド事業をやったときですが、日本の産地のトップは北海道、二番目 が茨城県、三番目が長野県です。ところが茨城県のお蕎麦はあまり知られていませんでした。ご当地にはお蕎麦が16種類ほどあります。実はタバコ栽培が主体 でお蕎麦は売るものではなかったのです。
 これを売り出したいということで北海道や長野のお蕎麦と品種は、栽培法は、香りと味わいはどう違うのかと聞いたら、ここでも「分かりません」という回答でした。それで売ろうというのはおかしいと指摘しました。
しかもお蕎麦は、昆虫が媒介して受粉をしています。どんな昆虫が受粉していますかと聞いたら、これも「分かりません」と言う。そこで筑波大学と一緒に調べたら70種類も虫が介在している。

 そこで栽培時の虫の媒介のことからお蕎麦の種類、味から流通まで学校給食法に書かれている文化・流通まですべて調べて伝えることを目指し、そこでこのようなテキストを作りました。これが生きた食育になるわけです。

 兵庫県の豊岡市ではお米を売りたいと相談にきました。コメの消費量が減っているときですからやめなさいとアドバイスしました。ここにはコウノト リが生息しています。

 コウノトリの食生態から学校給食の内容、なぜコウノトリが戻ってきたのか、それは農薬を使わなくなったからです。農産物の植生から生 息する魚や昆虫などの生態まで知らなければ食育もできません。それでテキストを作って食育に役立てるという活動です。

馬場

 食育に役立てるテキストの作る過程を聞いてびっくりしました。基本的で詳しく情報を整理していかないとテキストはできないことがわかります。さらにテキストに沿った食育、ブランド戦略も効率よく出来ないということを知りました。
 さて、吉原先生にお聞きしてみたいと思います。先生は、全国の学校給食のカレーライスを食べ歩いていましたが、なぜカレーライスなのかお聞きしたいと思います。

吉原

 子供たちにとって学校給食で一番人気があるのがカレーです。好きだから何を入れても食べてくれる。つまり嫌いなものでも食べてくれるのです。そ して全国には地元の食材に合わせ、季節に合わせた食材で作ってくれるカレーがあります。富山県では自衛隊カレーがある。聞いてみると、最後にインスタント コーヒーを入れる特製のカレーだったりします。
 カレーに限らず学校給食を食べ歩くのは、それぞれの学校で工夫しておいしい学校給食を作る現場に立ち会うことができるからです。バランス良くおいしい学校給食は児童・生徒の家庭にも広がっていき、食育へつながっていくのです。

馬場

 斉藤先生は学校での食育は、栄養教諭や学校栄養職員だけがやるのではなく、学校全体で取り組むというのが大事とご指摘されています。特に文部科学省で全国の学校に要求している学校での食育とは、どのような活動を展開していくべきなのでしょうか?

齊藤

 一言で申し上げるのは難しい質問ですが、全教職員が食育の重要性を理解し、共通認識のもと学校全体で進める必要があると思います。給食の時間を 中心にしながら、教科や学校の活動を通して教職員が組織的に一体となった取り組みが必要になってきます。年間の指導計画を作ることで食育の実効性が高まり ます。
 また栄養教諭、学校栄養職員が作る献立も、教科と連携でき、食に関する指導に活用できる献立が求められます。

馬場

 先生の言葉では正統な内容で、一般的には分かりにくかったように思います。そこで私が理解していることを申し上げますと、理科、社会、道徳、家 庭科など科目によって、食育を教えています。その教科に対応する教材を昨年度、文部科学省が作成しました。完成したものは、文部科学省のホームページから ダウンロードで誰でも入手して使えるようになっています。
 いまはインターネットで、自分で教材を入手して使うことになります。その教材を作成するときに中心的にかかわってきた全国学校栄養士協議会副会長の駒場啓 子先生が、会場にいらっしゃいます。駒場先生に、学校での食育をどのように取り組むべきかをご意見をお聴きしたいと思います。

駒場

 齋藤調査官が仰る通りに学校全体で取り組むということだと思います。教材は、学校全体で活用しようという視点から作成したものです。個々の先生 方も食育に取り組もうという視点はあると思いますが、どのようなやり方が食育として最善かは模索していると思います。

 そのような先生方の参考になる教材を 目指して作成したものです。

馬場

 駒場先生、ありがとうございました。吉原先生にお聞きしますが、毎年、フランスに行かれていますが、フランスの学校給食はどのようなものなのか、日本の学校給食と比較するとどんなものなのか、先生のご感想をお聞きしたいと思います。

吉原

 フランスは、高校までの授業料は無料、廉価で学校給食を提供しています。税金が高いからかもしれません。フランスの人たちは、「子どもに食べ物 を与えるというのは親の権利だ」と言い、その代わりに食べさせる責任も伴いますので、まかせっきりではありません。

 またフランスでは、食事は教室で食べる ものではなく、ランチルームで食事にきちんとと向かい合って食べるべきだという考え方なので、日本でやっている教室で食べることを不思議だと言っていまし た。
 日本でも、すべての学校にランチルームができることを願っています。

 これはある中学校の学校給食のメニューです。ちゃんと給食時間が1時間あります。日本と違って順番に食べます。前菜は冷たい料理が、それから メインには温かい料理が。チーズが出て、必ずデザートがつきます。学校給食の中にも、国の食文化を守り、食の基本を示すという目的が強くあるように感じま す。

金丸

 マイケル・ムーア監督の映画で「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」(2015年アメリカ)という映画の中に、フランスの学校給食が出てきま す。アメリカは戦争ばかりやって何も解決できなかった。だから世界戦略に行こうというのでまずフランスに行き学校給食に出会います。「フレンチポテト食べ ているが、そんなもの誰も食べていない」と言って冷蔵庫あけてみるといろんなチーズが入っている。カマンベールがおいしい。フランス人はこんなにおいしい チーズ食べているの、これなら侵略するに値するというシーンが出てきます。
 次にアメリカの学校給食を見せたらフランスの子供たちが「まずそう」と笑うシーンがあります。
ちなみに日本でもランチルームを持っている学校がいくつかあります。

吉原

 私が行った学校では、給食の時間は、450人の生徒数に対して13人、食事をサポートする人が入り、その人たちが子供たちに食事のマナーなどを 指導していました。このようなことができるのも、税金が高いからというだけではなく、むしろ、食事というものを大事な時間と位置付けているからだと思いま す。

馬場

 世界三大料理に日本料理が入るのか、従来から言われているトルコ料理が残るのか。そのような話題が出ていますが、世の中グルメ時代です。ミシュ ランのランキングは世界的にもてはやされています。一方で味覚を科学的に解明して、おいしいものを料理人の腕ではなく化学的な分析手法でうま味を作ってし まう。そのような時代が見えてきたようにも思います。
 このようにグルメ時代の食事力とは、どのように理解するべきでしょうか。
 あるいはグルメと食事力は、あまり関係ないということでしょうか?

宗像

 大変難しい問題ですね。確かにフラスコの中で操作して簡単においしいものを作るというような話題がありましたが、食の文化に戻って考えてほしいと思っています。
 グルメの話で思い出しますのは、若い時代に勤務していた病院は、政界、財界、芸能界の患者さんが多く、全員が栄養士で給食を出していました。グルメ好きの 患者さんの口に合うよう、早番が終わった後、和食は築地の料亭に、また、その頃は欧米人も入院していましたので、イタリアやフランスからシェフが来日すれ ば講習会に出たりして、舌を肥やしたものでした。若いときにおいしい味を覚えることは、それからの人生に大変に役に立つと思います。その頃、有吉佐和子さ んが時々入院されていて、「このカレーライスは秀逸です」というメッセージをいただいたことが思いだされます。
 グルメというと、動物性脂肪やたんぱく質の多い食事と思われがちですが、1日に適量な食品と量を把握していれば、グルメ志向の方でも健康を維持できると思 います。食事力をつけるために、1日にどんな食品をどのくらいとったらよいかを話をしましたが、もっと簡単に言えば、献立のスタイルとして主食、主菜、副 菜の皿数を整えることで栄養素バランスがとり易くなります。このようなとり方であれば、グルメの方でもそうでない方でも食事力はアップすることができま す。しかし、朝食をとらない、昼食を簡単なもので済ませてしまう、という食事パターンは、栄養素の偏りがでて、食事力の低いものになってしまいます。

金丸

 ただ、グルメイコール健康とはならないと思います。

宗像

 グルメの方でも、食事力を身につけていただければ健康な食事をとることができると思います。

金丸

 フランスで言う美食(ガストロノミー)とはただ料理のことではなく、経済、健康などすべての科学的な背景を持ったものが美食と言っています。味 覚、視覚など5体を全部含めて考えないと脳の活性化には結びつかないと語っています。そこまで考えないと食育にならないと思います。

吉原

 先ほど馬場先生からおいしさを化学的に分析する時代も来るのではという危惧を語っていました。確かにおいしさを分析して化学的に合成することが 可能な時代に来ていますが、学校給食に限っては、そのような安易な方法ではなく、伝統的な調理法と地場産物の食材で、今まで通り安心安全な給食を提供して ほしいと思います。

馬場

 はい、その通りだと思います。斉藤先生にお伺いします。斉藤先生は、文部科学省の初等中等教育局学校健康・食育課の学校給食調査官をされており ます。中央行政官庁で食育という文字が入った部署としては初めてのものと思います。学校の各科目の先生方や専門の先生に食育について期待しているものはご ざいますか?

齊藤

 先ほどの説明と重なるところがございますが、教員一人一人が食の大切さを理解することが食育につながっていくと思います。
 以前は私も学校に勤務しておりましたが、例えば地場産物を活用することは新鮮な食材の利用につながり、食材本来の美味しさを子供たちに伝えることができます。
食育の重要性を教員も一緒になって共有するという意識を一番期待したいと思っています。

馬場

 会場からご意見をお受けしたいと思います。第10回全国学校給食甲子園大会で優勝した群馬県みなかみ町月夜野学校給食センターの栄養教諭、本間ナヲミ先生にお伺いしたいと思います。
 本間先生が日ごろからとりくんでいる学校給食と食育とはどのように結び付いているのか、その活動について現場からご意見をいただきたいと思います。

本間

 これまで先輩の学校栄養士の先生方にご指導受けて、ここまでやってくることができました。その中で、学校給食でいいものを出さないと児童・生徒 の指導はできないよと言われました。作っている学校給食がいかに授業に取り入れられるかということを意識しています。

 いつ授業に取り入れてもらっても教材 になる給食を出したいと思っています。いろいろな能力や特性を持っている子供たちがいますが、その子らだけでなく教員にも受け入れられる給食が大事だと 思って日ごろから取り組んでおります。

馬場

 有難うございました。さすがに優勝栄養教諭のコメントでした。
 それでは最後にパネリストの先生から「私と食活動」として最後の一言を語っていただいて締めたいと思います。

金丸

 子供たちに健康な未来を手渡すことです。自分の子供と同年齢の子供の3割以上にアトピーの子がいました。いま女子大で授業をしてアンケートを 取っています。体調不良の子が6割あります。きちっとしたバランスのいい食事をとっていない。ダイエットが一番になっているので朝食を食べない、運動はし ていないという比率が高くなっています。
 学校給食だけでは健康を保てない。親も地域も生産者も含めてトータルで食育に取り組み、その中で学校給食がどれだけの位置づけになるかを認識したい。今後も公開学校給食、テキスト作りを続けたいと思います。

齊藤

 一言で言えば子供の心身の健全な育成です。学校給食は食育の中心として重要な役割を担っています。学校給食関係者は学校給食に携わっていることに誇りと責任をもって、取り組んで頂きたいと思っています。

宗像

 一人ひとりが食の味に関心を持っていただきたい。味付けにこだわることでも、よりおいしい給食が出せると思います。ときにはおいしいと言われるお店などで舌を養っていただければと思っています。

吉原

 給食は子どもたちのために作ると言うことです。教育に携わる人たちが勉強する大学の教育学部に食育科ができるといいと思います。

馬場

 本日は、各界のご専門の4人の先生にお集まりいただき、楽しいシンポジウムになったと思っております。私の考えを述べますと、食育とは、学校給 食、家庭、地域社会、文化という局面から生まれてくるものだと思い、私たちは新しい概念としてとらえていかなければならないと感じました。
 それと食に関心を持つということは簡単ですが非常に難しいということが、日ごろからの行動を通じて感じております。食の関心の究極のところにグルメがあるのでしょうか。
 本日のシンポジウムを通して、日本の食文化は伝統的で歴史的な重要なものが流れていることを感じました。この重要な要因を大事しながら、世界でどこもやっていない食育を世界に発信していきたいと思いました。
 最後まで熱心にお聞きいただき、有難うございました。

司会

 それでは最後に閉会の言葉を全国学校給食甲子園大会実行委員で公益社団法人全国学校栄養士協議会会長の長島美保子からお礼とご挨拶を申し上げます。

長島

 本日は暑いさなかに学校給食10周年記念の食育シンポジウムにお運びいただき、有難うございました。基調講演のあと第一線のパネリストによる学校給食および子供たちの食をめぐる様々な課題について示唆をいただき、またご提言をたくさんいただきました。
 皆さんともに大変、有意義な時間を共有できたことを嬉しく思っております。学校給食が子供たちの心身の健康に寄与するとともに、合わせて食育の重要な現場になっております。それを担うのが私たち栄養教諭、学校栄養職員の献立力であります。
 全国学校給食甲子園が長きにわたってその資質向上に大きく寄与しているものと確信しております。また、今後に期待したいと思います。
 先般、第3次食育推進計画が策定されました。この中で中学校給食の推進が示されており画期的な国の施策と思っております。中学校の学校給食の実施率をいずれ90パーセントに高めるというものです。
世界に冠たる学校給食であります。これがさらに発展するためにも全国学校給食甲子園大会は重要なものと考えております。今後とも皆様のご協力をお願いして閉会の挨拶とします。
 本日は有難うございました。