許しがたい「違憲状態」という保身判決
2016/10/15
先の参院選岡山選挙区は、著しい一票の格差があるので「違憲、選挙無効」を訴えていた升永英俊、久保利英明、伊藤真弁護士を代理人とする一人一票実現運動訴訟に対し、広島高裁岡山支部は「違憲状態」にあるとしながらも選挙は有効という判決を出した。
「違憲」と言い切らずに「状態」という適当な語彙を付け加えた「違憲状態」という判決は、過去にも最高裁で出ているが、これはごまかしである。司法がここまで腐敗してきた証拠であり、文言で適当にごまかして逃げる「保身」の象徴的判決である。
今回の判決直後、原告の弁護団が「保身判決」という旗を掲げたが、その通りである。戦後、廃墟と化した国家からはい上がり、高度経済成長を実現して先進国の一角にようやく食い込み、バブル経済を経てこの20年間、成長なき衰退する国家へと推移してきた。
高齢化社会、少子化社会が拍車をかけたことは事実だが、十分に予想されたこのような国家の趨勢に対応できるだけの国の施策を実現できなかった国家のリーダーは、ぼんくらだったということだ。それだけの責任を担っていたはずだが、名誉と報酬を得ただけで役割を全うできなかった。
三権分離が機能していない日本の国家体制
日本の国家体制は、立法・行政・司法の三権分立の中で民主国家が形成されるとされてきた。中学校の社会科ではそのように教えてもらった。しかし日本には三権分立は事実上ない。司法は、立法府と行政府に隷属された機関に成り下がっているからだ。40年近く新聞記者をしていたので、司法判断は常に取材テーマの中に存在していた。
しかし様々な取材をしているうち、裁判所の判決ほどわからないものはないという確信を持つようになった。日本社会で最高のエリート集団とされる司法がこの体たらくでは、国家も国民も浮かばれない。なぜそうなったのか。
たとえば憲法第76条第3項を読めば明らかだ。
憲法第76条第3項=すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
ひとつつの職業の役割を憲法で規定し保障しているものは裁判官だけである。それだけ特異で強い権限を保障されているのである。国家のエリートという位置づけである。しかし現実にはこの権利は行使されずに裁判官の個人的な生き方で適当に行使されている。
一人一票実現運動を展開する原告団が、判決直後に旗で示した「保身判決」とは、裁判官が本来行使すべき正義とはかけ離れた個人的な事情で出した判決だという意味だろう。日本の裁判所も裁判官も正義とはかけ離れた特殊な権力機関に成り下がっているのである。
司法権力の象徴として屹立する最高裁判所
日本の行政訴訟の原告勝訴率が1割そこそこという数字が、国民感覚とはかけ離れた司法判断がまかり通っている現実を明確に示している。行政にはほぼ絶対に勝てないという意識を国民に植え付けたのが司法である。
知財関係の訴訟でも、まず原告は勝てない。大企業優先思想、ことなかれ判断が蔓延しているような印象を与え、事の本質をうやむやにする和解が多いのも事実だ。
今日の政治の劣化、行政の劣化、メディアの劣化に拍車をかけてきたのが司法判断だろう。司法が毅然とした正義の味方、というよりも憲法第76条第3項で規定していることをそのまま実行しているなら、日本はもっとまともでましな国家になっていたはずだ。それを台無しにしてきたのは司法の責任である。
司法が正義にのっとり毅然とした態度で判断をし、判決を積み上げてきたなら、立法も行政も緊張感が高まり、結果的に矜持ある国家になっていたはずだ。同時に司法判断は国民に多大な影響を与え、民主主義国家を意識する国民へと誘導しただろう。
エリート裁判官として務め上げ、いま大学に転じて司法の問題点を赤裸々に告発している瀬木比呂志・明治大学教授は、間もなく刊行する「黒い巨頭 最高裁判所」(講談社)で、司法・最高裁のインチキぶりを小説という形で世に告発するという。
「黒い巨頭 最高裁判所」の予告編はこちらのサイトにあります。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49800
司法の巨塔として屹立する最高裁だが、その内実は保身の固まりとして出来上がった巨大な黒い機関であることを瀬木教授の小説は語っている。
一票の格差訴訟の「違憲状態」判決は、現在の司法の暗部と実態を象徴的に表現した「名判決」である。
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