瀬木比呂志「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)に見る判事補の若造が最高裁長官に楯突く筋立てに感動

黒い巨塔

 元エリート裁判官だった瀬木比呂志先生(明治大学法科大学院教授)が、小説の手法で司法の暗部を「内部告発」した小説「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)の主人公は、最高裁判所事務総局民事局付、笹原駿・判事補である。

 任官して10年に満たない若造が、小説の最後の場面で絶大な権力を誇っている最高裁長官に楯突く。

 「長官のおっしゃる中道というのは、権力、政治、世論の力関係をみながら適宜それに合わせて調整を図っていくというやり方だと思いますが、そういう機会主義的な行き方は、はたして司法にふさわしいものでしょうか」

 戦後、日本の国と政治と行政を劣化させてきた元凶・司法の姿(筆者の私見)を、かくも明確に語った言葉として世に残るものだ。

 著者の瀬木先生が、「実録小説ではまったくない」とあとがきでわざわざ断っているように、この作品は創作である。しかし読むものは勝手に評価し、勝手に論評することは許される。

 それに従えば、この小説で書かれているような光景が、現実に最高裁・司法という巨大な組織の中で日夜繰り広げられていると言っても間違いではないだろう。

 所詮は人間世界の話である。出世栄達を願うのは当然である。司法の世界も神様の集まりではない。しかしいやしくも法治国家を標榜する日本、しかも戦争に明け暮れた日清戦争後の40年余りの馬鹿げた時代を清算し、戦後日本の民主国家建設の基盤として形作った三権分立の国体であったはずだ。

 それが司法の堕落によって崩壊していった有様をこの小説は描いていると筆者は思った。

 最後の下りは、エリート判事補の若造が最高裁長官に語った先の言葉に続いて、次のように続けている。

 「司法は、法の支配、三権分立、民主国家という観点から、国家の在り方を正し、それに確固たるプリンシパル、行動原則を提供するべきものではないでしょうか?」

 これに対し最高裁長官は言う。

 「言葉をつつしみたまえ、笹原君。君の言うことは、一から十まですべて理想論だ。そういう理想論で日本の社会が動くなら、大変、結構なことだ」

 これに対し笹原は反論する。

 「だって、司法が理想論を吐かなくてどうするんですか? 司法の役割というのは、痩せても枯れても理想論を吐き、筋を通すことにあるのではないでしょうか? 司法が立法や行政と一緒になって『政治』をやっていたら、法の支配だって、正義だって、公正だって、およそありえないと思います」

 この小説で著者の瀬木先生がもっとも言いたかったことではないか。

  市民の感覚からかけ離れた判決が続出している行政訴訟や国家賠償訴訟。原告の勝訴率がわずか12パーセントという行政訴訟、和解が異常に多い民事訴訟、そして冤罪が多い刑事裁判。「違憲状態」という奇怪な判断でごまかしている一人一票実現訴訟への「保身判決」。

 そのような現実が、何よりも笹原の言葉を裏付けている。

 憲法第76条第3項=すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

  憲法で保障された唯一の職種である裁判官の責務を自ら組織的に放棄し、さらに統治行為論によって違憲立法審査権を放棄して日本の国体を堕落させていく司法の姿をこの小説は余すところなく語っていると思う。

 小学生の時代から習ってきた日本の国体・三権分立は、砂上の楼閣だったのだ。日本の真の民主国家を誰が建設するのか。そのような宿題を投げかけた小説であり、日本の多くの人が読んでほしいと思って紹介した。

 

 

 


着実に変革する中国 ~知財現場の様変わりに驚く~

 知財制度改革から見えてきた中国の先進性

 1999年に中国に初めて渡った筆者は、中国の発展ぶりに驚き、それ以来毎年、頻繁に中国に行ってその変革ぶりを見てきた。特に筆者の注目する点は、洪水のように出回っていたニセモノだった。本物と良く似ているニセモノ製造技術を見てすっかり魅了され、「中国ニセモノ商品」(中公新書ラクレ)という本まで出したほどである。

  この本は、中国でニセモノが出てきた産業技術の必然性、日本がかつて西欧を模倣して国家形成をしてきた歴史的な解釈をしたつもりだった。しかしほどなく、中国の企業現場の技術力を様々な現場を見てそれを評価し、知財制度についても違った眼で中国を追うようになった。

 10月31日から、科学技術振興機構のミッションで中国の国家知識産権局(中国特許庁)など民間知財機関や先端企業などを駆け足で視察した。これまで筆者が取材していた対象は、地方政府の知財管轄部署、ニセモノ関連業者や機関、特許事務所や調査会社など限られた箇所であり、その取材を通して中国の様変わりを肌で感じているに過ぎなかった。

 今回は、荒井寿光団長のもとに、「中央政府機関と先端民間機関・企業」を視察する機会があった。そこで見た中国の様変わりの現場は、非常に新鮮に映った。これまで断片的に感じていた光景がにわかに鮮明な映像となって眼前に映し出されて来た。

   

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ベンチャー企業創業を推進するカフェが集結する一角 

 国ぐるみで認識して実施した知財重視の政策

 21世紀は知財を制するものが産業界を制するものだ。これは筆者が確固として持っている認識であり、これを筆者は「時代認識」と語っている。中国・国家知識産権局を訪問し、中国が知財重視国家へと変転していった歴史的な経緯を再認識した。中国政府の根幹にある国務院で「知財強国」の政策を打ち出すまでには、関係者の努力があったことを知った。そこで策定される知財政策は、いまや日本を超えている。中国政府の政策立案と実施は、着実に展開されていることは、科学技術政策でもよく知っている。沖村憲樹氏が声を大にして語っている中国の変革である。

 知財現場では、制度改革だけでなく実施にも力を入れていることが分かった。たとえば、知財保護制度の中に民間からの保険制度を導入して特許侵害の被害者・加害者の救済制度を構築した。民間業者に任せていることが、実効性を担保している。それが中国政府のいいところだ。

 中国の司法で見る知財の透明性

 今回のミッションに参加して最も衝撃だったのは、中国の裁判所の制度が透明性、公開性では日本を追い抜いていることだった。荒井団長が元裁判官にインタビューした内容によると、「人民陪審制度」が着実に実行されており、裁判所での法廷の模様が、インターネットで実況中継されていることだった。法廷では口頭弁論が展開されており、弁論の場にPCやモニターを持ち込んで原告・被告が論述することも行っていた。ほとんどアメリカ型と言ってもいいだろう。知財の実務レベルでも、中国の政府機関とアメリカの政府機関は緊密に交流していると語っている。

 また民間のシンクタンク業者を訪問すると、北京知財裁判所の判決、裁判官、原告・被告の当事者情報、その代理人の詳細な情報をデータバンクにして公開・販売している業者を訪問した。これは日本にはないし、これを日本で実現するのはかなり難しそうだ。

 大学・研究機関・企業などで出てきた特許技術を移転する準公的機関も訪問した。ここでも欧米との連携が進んでいたが、日本は「蚊帳の外」という印象を受けた。

2CIMG5121特許技術を企業に移転する半民間機関の大掲示板には、売り出し中の技術リストが掲示されていた

 Huaweiに見る先進企業の躍進

 通信技術開発と製品製造で世界トップグループに立っているHuawei社のゲストハウスも訪問した。筆者が北京でHuawei社のスタッフから取材してから8年経っている。今回、北京市郊外のゲストハウスを訪問して、度肝を抜かれた。製品のショールームは豪華絢爛であり、いかにも中国風だし広大な敷地に建てられた大理石のヨーロッパ風の建築物も先端企業の意気込みを感じさせる。

 このゲストハウスは、日本では真似ができない規模である。Huaweiの勢いとエネルギーを感じさせるものであり、知財の世界でも世界の先端に躍り出た中国の力を実感した体験だった。

3CIMG5210Huaweiのショールームには先進技術製品と近未来社会が展示されている

 中国の先端の実態を報道しない日本のメデア

 日ごろから日本のメディアは、中国の遅れている面、悪い事象などを重点的に報道しているように筆者は感じている。中国政府・政権に関することも、権力闘争とか中国共産党政権のいわば「政局」報道だけに偏っているような気がする。中国共産党の一党独裁政権を日本人が批判しても意味がない。

 中国の政権が日本に及ぼす悪い影響があれば、批判する対象になるし大いに中国政府に発言していい。いま、中国と友好関係を築いて、何か日本にとって不都合なことがあるのだろうか。

 日中の長い歴史を見ると、主義信条や政治的な形態を超えて両国には密度の濃い文化の交流があった。しかし明治政府以来、日本が中国に対してとってきた「上から目線」の意識と侵略政策は、明らかに間違いだった。これを総括して反省し、終止符を打つ時代になっている。それは遅すぎるほどである。

 中国と日本は近未来どうするのか。中国人と日本人は顔も似ているし、中国大陸から入ってきた中国文化は日本の隅々までいきわたっている。中国人の考え方と日本人のそれとは明らかに違うことが多いが、それくらいの違いがあったほうが日中交流にはいい。

 中国のすべてがいいとは思わない。中国には日本と同じ比率で悪い人々がいる。人口比で言えば、日本の10倍いるから目立つだけだ。しかしそんなことはどうでもいいことだ。お互いにいい面を触発し合って発展することが大事ではないか。そのような感慨をさらに強めたミッションへの参加であった。

 

 


北京で開いたミニ馬場研に想う

 2016年10月31日から11月4日まで、JST中国総合研究交流センターが企画した中国知財戦略研究会(荒井寿光会長)の一行5人と現地参加のスタッフが、急進的に改革する中国の知財現場を視察した。

 この視察団に自費で参加した馬場研3期生で弁理士の宮川幸子さん、ジェトロ北京駐在の同1期生の阿部道太さんと3人で、ミニ馬場研を開催する機会があった。

 ホテルの朝食時の約1時間の会合だったが、あれから10年を経て社会活動をするかつての同志に会えて幸せなひと時だった。この視察団の団長の荒井さん(左端)、阿部さん(右端)と共に撮影した写真がこれである。

2016年11月3日

 修士論文を土壇場で書き直した阿部さん

 久しぶりに再会した阿部さんは、ジェトロ北京の総務部長として重要な任務を果たしており、一回り大きくたくましくなっていた。

 帰国する機中の中で、東京理科大学知財専門職大学院(MIP)で研鑽した日々を思い出していた。

 筆者は教員という肩書だったが、院生諸君と共に研鑽する同志という思いで日々を過ごしていた。修士論文作成の指導という役割があったが、気持ちとしては共に学ぶという目線だった。一緒に取材に同行して苦労した場面を思い出す。

 阿部さんの修論のテーマは「植物新品種の育成者権保護と活用の戦略に関する研究」であった。育成者権というテーマは、10年前の知財の世界ではまだなじみがない珍しいテーマだった。

 しかも阿部さんは、突然、それまでの修論テーマを変えて、10月末になってこのテーマにしたものだが、短時間の中で精力的に取材し、文献を精査して仕上げた。結果的にこれがよかったのだろう。非常に内容のある論文に仕上がった。

 このとき、1期生に中国人留学生の姜真臻(きょう・しんしん)君がいた。いまダイキン工業の知財スタッフとして活躍している。修了する1期生の諸君に向かって筆者が書いたはなむけの言葉は、中国人留学生の姜君を意識しながら「21世紀は中国の時代である。ビジネスで最も関わりがある隣国をよく知る同士と今後も付き合い、いつまでも共有した時間を思い出して欲しい」と書いている。

特許ステーキ特許ステーキ「カタヤマ」で。右端に片山さんも入ってくれた。(2007年3月)

 中国の大学とMIPを掛け持ちした宮川さん

 今回の視察団に自費で参加したのが宮川幸子さんだ。MIPに進学してきた当時、環境関係の企業で活動する社会人であり同時に中国の大学にも籍を置いて学習しており、日中をビジネスと学業で往復する多忙な日々であった。

その合間を縫って知財学会では「中小企業活性化のための日中国際産学連携に関するシステムの提案」のタイトルで堂々と発表した。 

宮川学会日本知財学会で発表する宮川さん(2008年7月)

 2008年度の馬場研論文集を開いてみると、冒頭の言葉として筆者は「3期生のメンバー7人は、MIPの中でも精鋭の集まりであり、修士論文のテーマ設定から調査研究・分析・執筆活動まで共通認識に立った研究の雰囲気を終始保持し、論文執筆に取り組むにふさわしい研究室であった」と書いている。

宮川さんの修士論文は、「中国の大学生における模倣品に対する意識と行動」という大胆なテーマであった。大連、上海、北京、広州という4都市で約450人の大学生、大学院生を対象に模倣品の意識を聞き取るという調査は、世論調査が禁止されている中国でも初めてだったろう。もちろん日本でも初めての報告であり、オリジナルな調査として他の研究者の学術論文に引用されるほどだった。

宮川さんの意欲的な姿勢は修了後も持ち続け、弁理士試験に挑戦して見事に合格した俊英であった。今回の中国知財現場の取材でも、得意の中国語を駆使して積極的に交流を行い、独自の人脈を築いていった。

馬場研は、合計30人を輩出して終了したが、どの修了生も優れていた。いま社会人としてそれぞれの分野で中堅幹部になろうとしている。教員は年々老いていくが共に研鑽した同志たちは、日々輝きを増していく。その秘かな喜びをどうしても書きたいと思ってこれを書いた。

 


京都の「菊乃井」主人・村田吉弘氏の学校給食論評は天下の暴論だ

悪意に満ちた「週刊現代」での村田氏の告発

 ことの発端は、「週刊現代」2016年9月24日の4ページ特集記事から始まる。

 「全国の親、祖父母必読 ミシュラン三つ星料亭「菊乃井」店主・村田吉弘氏が問う」として「不味すぎる学校給食 こんなものを子供に食べさせていいのか」という大見出しの報道である。

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          放映された「初耳学」という番組より

 おかしな献立という学校給食をいくつか挙げ、日本全国でこのような献立が日常的に提供されているかのような書きぶりである。一読して「悪意に満ちた告発もの」と筆者は思った。

 親から徴収した給食費の260円の使途で110円は不明であると書いてある。しかも管理栄養士の語ったらしい食材費の明細も書いていない。いかにも上納金のような見えないお金があり、それが使途不明のように書いてある。

 魚もすべて冷凍であり、ろくなものを使っていないような書きぶりだ。

 この記事は、村田氏が週刊誌の記者に書かせたものであり、執筆者もろくに取材をしないで、告発した村田氏の言い分をそのまま書いたものだろう。歴史に残る「間違いだらけの学校給食」報道である。

   これでは現場で日夜苦労している栄養教諭、学校栄養職員、調理員が怒るはずだ。案の定、全国の栄養教諭らから怒りのコメントが筆者あてに殺到してきた。

 輪をかけたTBSの「初耳学」という放映

 2016年10月23日夜10時15分からTBSで放映された「初耳学」という番組で、またも村田店主が登場し、まったく見当違いの学校給食批判を主張していた。

 「食の危機 今の給食を食べさせていいのか」というタイトルを掲げている。

 放映された大写しの画面は以下のようになる。

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 「週刊現代」と同じように、日本中の学校給食がまずいと言わんばかりにテレビ番組でも展開したもので、筆者は断固としてこの「インチキ主張」を許さないと思った。

 番組の中で高カロリー、高脂質、肥満傾向児出現が学校給食に原因があるように誘導しているが明らかに間違いだ。学校給食では各栄養素とカロリーの摂取基準を法令で定めており、学校栄養士は日夜、その規定の中でおいしい給食を作るために 1食270円前後の予算で献立作成に取り組んでいる。

 たとえば、家庭料理では不足しがちなミネラル、ビタミン類は、学校給食で補っているし、太り過ぎないようにカロリー制限もしているし、適宜な食物繊維の摂取も決めている。子どもは野菜や魚嫌いが多い。それを乗り越えようと栄養士は必至に献立作りに取り組んでいる。

 ピーマンやにんじんをどのように調理すると子供はおいしいと言って食べてくれるか。学校栄養士の涙ぐましい努力を筆者はあちこちで聞いている。

 学校給食では、残食が出ないように学校栄養士も必死である。各栄養素を満たしたうえおいしい学校給食を出せば完食になるが、なかなかそうはいかない。和食だけを出せばいいわけではなく、洋食、中華など多彩な食の文化を学校給食で学ぶことも食育である。

 村田氏がテレビで展開したように、成人病予備群や肥満児の出現を学校給食になすり付けるような主張は断固として許されない。

 学校給食の予算に比べると「菊乃井」の途方もなく値段の高い料理を毎日食べていると健康を維持できるのか。

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 「ミシュラン三つ星料理人が学校給食の改善に着手」として京都の小学校で和風給食を行っていると紹介している。

 日本列島どこでも、学校給食は米飯・和食が主体であり、何も料理人の指導など受けなくても栄養教諭、学校栄養職員は日常的に和風献立に取り組んでいる。子どもたちにおいしく食べてもらうためには、それなりの工夫が必要であり、料亭の献立・調理のやり方がすぐに学校給食に応用できるものでもないだろう。

 フランスのタイヤ会社の宣伝戦略で始まったミシュランの何とか星を日本では有りがたがり、過ぎるのではないか。それを表看板にして、学校給食の現場をよく知っているとも思えない人物がバッサリと一方的に現場の仕事を切って捨てるような論評は暴論である。

 日本の学校給食は、栄養、健康面から見ても全国ほぼ均一に実施さている実績を見ても世界トップだろう。長年現場を見て来た筆者が自信をもって言えることである。

 


許しがたい「違憲状態」という保身判決  

  先の参院選岡山選挙区は、著しい一票の格差があるので「違憲、選挙無効」を訴えていた升永英俊、久保利英明、伊藤真弁護士を代理人とする一人一票実現運動訴訟に対し、広島高裁岡山支部は「違憲状態」にあるとしながらも選挙は有効という判決を出した。

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 「違憲」と言い切らずに「状態」という適当な語彙を付け加えた「違憲状態」という判決は、過去にも最高裁で出ているが、これはごまかしである。司法がここまで腐敗してきた証拠であり、文言で適当にごまかして逃げる「保身」の象徴的判決である。

 今回の判決直後、原告の弁護団が「保身判決」という旗を掲げたが、その通りである。戦後、廃墟と化した国家からはい上がり、高度経済成長を実現して先進国の一角にようやく食い込み、バブル経済を経てこの20年間、成長なき衰退する国家へと推移してきた。

 高齢化社会、少子化社会が拍車をかけたことは事実だが、十分に予想されたこのような国家の趨勢に対応できるだけの国の施策を実現できなかった国家のリーダーは、ぼんくらだったということだ。それだけの責任を担っていたはずだが、名誉と報酬を得ただけで役割を全うできなかった。

三権分離が機能していない日本の国家体制

 日本の国家体制は、立法・行政・司法の三権分立の中で民主国家が形成されるとされてきた。中学校の社会科ではそのように教えてもらった。しかし日本には三権分立は事実上ない。司法は、立法府と行政府に隷属された機関に成り下がっているからだ。40年近く新聞記者をしていたので、司法判断は常に取材テーマの中に存在していた。

 しかし様々な取材をしているうち、裁判所の判決ほどわからないものはないという確信を持つようになった。日本社会で最高のエリート集団とされる司法がこの体たらくでは、国家も国民も浮かばれない。なぜそうなったのか。

 たとえば憲法第76条第3項を読めば明らかだ。

憲法第76条第3項=すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

  ひとつつの職業の役割を憲法で規定し保障しているものは裁判官だけである。それだけ特異で強い権限を保障されているのである。国家のエリートという位置づけである。しかし現実にはこの権利は行使されずに裁判官の個人的な生き方で適当に行使されている。

 一人一票実現運動を展開する原告団が、判決直後に旗で示した「保身判決」とは、裁判官が本来行使すべき正義とはかけ離れた個人的な事情で出した判決だという意味だろう。日本の裁判所も裁判官も正義とはかけ離れた特殊な権力機関に成り下がっているのである。

司法権力の象徴として屹立する最高裁判所

 日本の行政訴訟の原告勝訴率が1割そこそこという数字が、国民感覚とはかけ離れた司法判断がまかり通っている現実を明確に示している。行政にはほぼ絶対に勝てないという意識を国民に植え付けたのが司法である。

 知財関係の訴訟でも、まず原告は勝てない。大企業優先思想、ことなかれ判断が蔓延しているような印象を与え、事の本質をうやむやにする和解が多いのも事実だ。

 今日の政治の劣化、行政の劣化、メディアの劣化に拍車をかけてきたのが司法判断だろう。司法が毅然とした正義の味方、というよりも憲法第76条第3項で規定していることをそのまま実行しているなら、日本はもっとまともでましな国家になっていたはずだ。それを台無しにしてきたのは司法の責任である。

 司法が正義にのっとり毅然とした態度で判断をし、判決を積み上げてきたなら、立法も行政も緊張感が高まり、結果的に矜持ある国家になっていたはずだ。同時に司法判断は国民に多大な影響を与え、民主主義国家を意識する国民へと誘導しただろう。

 エリート裁判官として務め上げ、いま大学に転じて司法の問題点を赤裸々に告発している瀬木比呂志・明治大学教授は、間もなく刊行する「黒い巨頭 最高裁判所」(講談社)で、司法・最高裁のインチキぶりを小説という形で世に告発するという。

「黒い巨頭 最高裁判所」の予告編はこちらのサイトにあります。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49800

 司法の巨塔として屹立する最高裁だが、その内実は保身の固まりとして出来上がった巨大な黒い機関であることを瀬木教授の小説は語っている。

 一票の格差訴訟の「違憲状態」判決は、現在の司法の暗部と実態を象徴的に表現した「名判決」である。


「4人目の受賞者」に泣いた新海征治先生の輝ける業績

新海教授が受賞者から漏れたのはなぜか

 2016年の自然科学分野のノーベル賞受賞者が出そろった。

 生理学・医学賞で大隅良典先生が単独受賞したのは、先生の受賞が予想されていたこととはいえ、単独受賞という画期的な成果に日本の研究現場に多大な勇気と誇りを与えた。

 しかし、10月5日に発表された化学賞では一瞬、筆者はわが眼を疑った。

 授賞理由は、「分子機械の設計と合成」であり、受賞者は米・仏・オランダの3人である。1990年代からこの分野で先端を走っていた先生の名前がない。この分野なら当然、受賞すると思っていた新海征治先生(崇城大学教授、九州大学名誉教授、九州大学高等研究院特別主幹教授)のお名前がないことにショックを受けた。

Bernard L. Feringa  J. Fraser Stoddart  Jean-Pierre Sauvage

2016年のノーベル化学賞を受賞した左より
Bernard L. Feringa、J. Fraser Stoddart、Jean-Pierre Sauvage の3博士。(ノーベル財団HPより転載)

 同じようにショックを受けたと思われる奥和田久美・文部科学省科学技術学術政策研究所・上席フェローは「非常に残念に思う。10年くらい前に、この分野の研究に化学賞が出たら可能性があったかもしれないのに」と語っている。ノーベル賞は、確かに授与する時期とも密接に関係する。

 新海先生の「4人目の受賞者」の悲運を感じ、しばらく何がそうなったのか考えを巡らせた。

 科学史やノーベル賞の歴史の研究者が集まっているフランスのパスツール研究所では、ノーベル賞をとりそこなった研究者を「4人目の受賞者」と呼んでいる。ノーベル賞は1分野、3人までと規定されているからだ。だから4人目になった人が次点者となる。つまり4人目は、ノーベル賞受賞者と同等の業績を上げている研究者という理解でもいいだろう。

 ただし、受賞者の人数が単独、2人では、次点者は「2人目」「3人目」となるが、次点者という意味ですべて「4人目」と呼ばれている。

 近年、日本人の研究者の中で「4人目」が多く出ていると筆者は感じている。4人目になったのは、ノーベル賞選考委員会の判断でそうなったものだが、3人目(あるいは2人目)とは間違いなく紙一重だったと思う。

 その選考委員会での選考経過は、50年後に明らかになる。その記録は必須の科学史の文献になるが、そのころには関係者はほぼ没している。だからこそ明らかになった経過には価値があるということだろう。

4人目を列挙してみた

 これまでに「4人目の受賞者」を筆者の独断であげれば次のようになる。

・豊橋技術科学大学の大澤映二教授のケース

 1996年、フラーレン(C60)の発見でハロルド・クロトー博士ら3人が化学賞を受賞した。1970年に大澤栄治教授は、これを予言した論文を発表したが、論文は日本語だったため国際的に認知されなかった可能性が強い。

・東北大名誉教授の西澤潤一先生のケース

 2009年の物理学賞は「光通信用ファイバー中の光伝達に関する業績」で上海生まれの物理学者、C.K.カオ博士に授与された。この分野で終始、世界先端を走っていた西澤潤一先生が選に漏れて涙をのんだ。

・飯島澄男教授のケース

 2010年の物理学賞は、炭素原子1個分の厚さのシート、グラフェンの発見でアンドレ・ガウム博士ら2人が受賞した。これでカーボンナノチューブの発見者、飯島澄男教授の受賞の可能性が薄くなった。しかし今後、受賞するするチャンスはある。筆者はそれに期待している。

・審良静男・阪大教授のケース

 2011年のノーベル生理学・医学賞は、「動物の体で働く免疫の働きに関する研究成果」の業績で3人に授与された。しかしそのうちの一人である米ロックフェラー大学のラルフ・スタインマン教授は、受賞発表時に死去していたことが判明した。

 ノーベル財団の内規では、「受賞者は存命中」という規定があり、スタイマン教授の受賞はこれに違反していた。しかしノーベル財団は特例として受賞者とした。もしスタイマン教授が除外された場合、審良教授が浮上した可能性が非常に高い。

・東北大の蔡安邦教授のケース

 2011年の化学賞は、準結晶の発見でイスラエルのダニエル・シェヒトマン博士が単独受賞した。この分野では準結晶の9割を発見した東北大蔡安邦教授が共同受賞してもおかしくなかった。しかしノーベル賞選考委員会は、研究のオリジナルを重視していることを痛感させた。

・水島昇・東大教授のケース

 2016年に生理学・医学賞を単独受賞した大隅良典教授と共同研究で多くの実績をあげていた。しかし大隅教授の独創性が高く、単独受賞になったため逸した。今後、オートファジー分野が基礎・実用研究共に発展することは間違いないので、これからの業績によってノーベル賞に輝くことは夢ではない。

 このように4人目の科学者が日本に何人もいるという筆者の独断ではあるが、ノーベル賞を研究しているものとして非常に勇気を与えられる。

 筆者が独断で作成している「ノーベル賞受賞者候補者」のリストを見ると、物理学賞が13人、化学賞は31人、生理学・医学賞は22人にのぼっている。

 かつてストックホルムのノーベル財団の関係者に取材して受けた印象を言うと、自然科学3分野はいずれも授与する分野として、毎年20分野ほどあがっているという。

 「ノーベル賞は、分野に授与すると考えてもらいたい。その分野でもっとも貢献した3人までが受賞者になる」と生理学・医学賞を選考しているカロリンスカ研究所のある選考委員は語っている。

 つまり、受賞者個人の業績から予想するのではなく、いま世界を変えている業績は何か、その業績に最も貢献した科学者は誰かという視点を持ってほしいと示唆したものである。

 2017年の受賞者は誰か。筆者の興味は次に移っている。


ぶっちぎりで単独受賞した大隅良典先生のノーベル賞受賞

基礎的研究成果と単独受賞が意味するもの

 大隅良典先生(東工大栄誉教授)がノーベル生理学・医学賞を受賞した 。3年連続ノーベル賞受賞者を出したことは、日本の科学研究レベルの国際的な高さを証明したものであり大変嬉しい。

 大隅先生の受賞業績で特筆されるのは、生命現象の真理の発見と単独受賞である。1987年に「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」で、単独受賞した利根川進先生の快挙を思い出させた。

 マラソンレースに例えれば、終始トップを走っていた大隅先生が、後方を走ってくる2位、3位の姿などまったく見えない独走態勢でゴールを駆け抜けて行った光景であろう。

大隅

 利根川先生の受賞を発表したカロリンスカ研究所・選考委員会事務局長のヤン・リンドステン博士(カロリンスカ研究所教授・附属病院長)が語った「ドクター・トネガワは10年あまり、他の研究者の追随を許さず独走した」というコメントを思い出させた。

 大隅先生の発見は、生命科学の研究の歴史の中でも特筆される業績である。まさに利根川先生の業績に匹敵する真理の発見である。細胞内で営まれているたんぱく質製造の仕組みは、20世紀最大の生物学の発見とされるワトソン・クリック博士の遺伝子構造の解明によって明らかにされ、世界中の研究者に衝撃を与えた。

 それを受け継いで抗原・抗体反応の仕組みを解き明かしたのが利根川先生であり、生物・医学界に衝撃を与えた。その衝撃と同じくらいのインパクトを与えたのが、大隅先生の発見である。

 細胞内でたんぱく質を製造していることは、それまで分かっていた。しかしそのたんぱく質を細胞内で壊してアミノ酸に分解し、今度はそれを使って新たにたんぱく質を製造(オートファジー、autophagy)することを想像した生物学者はいなかっただろう。それを大隅先生は、1988年に光学顕微鏡で見た現象からヒントを得てその現象を解明した。

 この世紀の発見で大隅先生は次々と論文を発表し、世界の研究者が追試して驚き、研究はますます発展して論文数が増加していった。

 政策研究大学院大学・科学技術イノベーション政策研究(SciREX)センターの原泰史さんが早速、大隅先生の論文・特許について分析して発表している。

原さんの素早い対応にはいつも敬服する。

 http://scirex.grips.ac.jp/topics/archive/161005_625.html

燎原の火のように燃え盛ったautophagy研究

 原さんの分析によると、autophagy がキーワードに含まれる論文公刊数の推移は、この10年間で急峻的に増えて行った。真理の発見から始まった学問の進展する勢いをこれほど感じるグラフはない。

公刊論文数の推移

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出典:原泰史氏の分析

 さらに驚かされるのが、大隅先生の論文の被引用数の推移である。グラフで見るように2000年からこの15年間に右肩上がりの増加である。論文が引用される回数がこんなに急増することで、近年の学問の発展の傾向を見ることができる。

年次被引用数

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出典:原泰史氏の分析

 いかに価値ある研究だったかを裏付けたのが、大隅先生の国際的な叙勲の数々である。2012年からでも下記のような国際的に知られる叙勲に輝いている。

  • 2012年11月(平成24年) 京都賞
  • 2013年9月(平成25年) トムソンロイター引用栄誉賞
  • 2015年4月(平成27年) 日本内分泌学会マイスター賞
  • 2015年10月(平成27年) ガードナー国際賞
  • 2015年11月(平成27年) 文化功労者
  • 2015年11月(平成27年) 慶應医学賞
  • 2015年11月(平成27年) Shizhang Bei Award
  • 2015年12月(平成27年) 国際生物学賞
  • 2016年4月(平成28年) Rosenstiel Award
  • 2016年4月(平成28年) Wiley Prize
  • 2016年6月(平成28年) The Dr. Paul Janssen Award 2016

 特に2015年からの叙勲ラッシュは異常である。そのアンカーにノーベル賞が待ち構えていたことは当然であった。「ノーベル賞当選確実」だったのだ。

 特許にはほとんど無関係だった大隅先生の研究成果

 大隅先生の生命現象の維持に必要な細胞・遺伝子レベルの真理の発見は、最近になってパーキンソン病などの神経変性疾患やがんの治療に役立つのではないかとして、世界的に実用化の研究が広がっている。

 原泰史さんの追跡によると、大隅先生が発明者になっている特許出願は、次の2件になっている。

①  【公開日】平成12年2月29日(2000.2.29)、特開2000-60574(P2000-60574A)【発明の名称】オートファジーに必須なAPG12遺伝子、その検出法、その遺伝子配列に基づくリコンビナント蛋白の作製法、それに対する抗体の作製法、それに対する抗体を用いたApg12蛋白の検出法。②  【公開日】平成14年12月4日(2002.12.4)、特開2002-348298(P2002-348298A)

【発明の名称】蛋白質とホスファチジルエタノールアミンの結合体

 結果は2件とも、特許には結びつかなかった。

①  は、審査請求されず、②は拒絶査定されていたからだ。

 これは特許出願の失敗ではない。大隅先生の研究成果が、いかに真理の発見そのものの基礎研究であり、特許とは無関係だったかという証拠ではないだろうか。

 むろん今後、世界中で展開される病気の治療に役立つ発明があれば特許は出願されるだろう。実用化の研究競争は、これからが熾烈なものになるだろう。

 大隅先生の基礎研究でリードした優位を日本の研究陣は実用研究の競争でどこまで健闘できるのか。すでに中国の研究陣はこのテーマで多くの論文を出し始めている。それはいいことであり、日本にとって刺激になる。

ノーベル賞の先に次のノーベル賞がある。実用研究ですでにオートファジーの国際競争が始まっているのである。

 頑張れニッポンの研究陣!である。


1300人が見送った加藤紘一先生の葬儀

 加藤紘一先生の自民党・加藤家合同葬が、9月15日、東京の青山葬儀所で行われ、政財界関係者ら1300人が見送った。筆者がこれまで参列した葬儀の中で最も盛大な葬儀だった。

 加藤先生の遺影に向かって弔辞を読んだのは、葬儀委員長の安倍首相、YKKを組んだ盟友の山崎拓・元自民党幹事長、今井敬・経団連名誉会長、程永華・中国大使そして友人のコロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーチス氏の5人だった。

 安倍首相の弔辞は儀礼的な内容で何も感興がわかなかったが、後の4人はそれぞれの思いを語り聞く者の心に響いた。

 山崎氏はYKKとして活動した時代を振り返りながら「加藤の乱を止めることができなかったのは僕が悪かった。すまん」と語り、最後に「君に憲法9条を変えることに反対かと聞いたら、そうだと語った」と結んだ。改憲に意欲を燃やす安倍首相を牽制するように聞こえた。

 最前列に座って聞いていた小泉純一郎元首相は、終始、両眼を閉じて微動だにせずに聞いていた。葬儀後、記者団に囲まれた小泉元首相は「なぜ(加藤氏が)首相になれなかったか不思議だ。あれだけ優秀な政治家は珍しい。惜しい人を亡くした」と語ったという。(スポーツ報知9月16日付け)

 程大使の弔辞も胸を打った。1989年7月に宮沢喜一氏らと一緒に訪中した加藤先生は西安に行った。同行した程大使と、夜、一緒に街へ出た。中国の庶民の生活を見て会話をしたいと希望する加藤先生と一緒にラーメン屋に入り、中国人と懇談したエピソードを語った。

 そして「中日関係は礎の関係だという信念を持ち、中日友好のために言い尽くせないほど貢献した」と称え「中日間は必ず改善する」と決意を語るように結んだ。

 カーチス教授は、加藤先生がコロンビア大学で6週間のミニコースの日米関係セミナーを担当したことを語った。毎回2時間の講義だったが、「学生と懇談する時間を作り、学生たちとよく語りあったので人気者だった」と語った。

 英語、中国語に堪能で、国際的な視点でものを考え発信することのできる政治家だったことを改めて印象付けた。ただ、筆者にとって物足りなかったのは、科学技術についての加藤先生の業績を語った人がいなかったことだ。政界にも自民党にも科学技術に関心を持っている人物層が極めて薄く、このような時にもそれが出たのだろう。

科学技術が唯一の接点だった

 筆者が加藤先生と親しくお付き合いできたのは、科学技術の縁であり、後に知的財産と中国問題が加わった。振り返ってみると、それ以外の政策的な話はほとんどしなかった。

 加藤先生は、メディアを大事して極力取材を丁寧に受ける姿勢だった。いまになって気が付いたことは、多分、科学技術のテーマでメディアと具体的なテーマで話ができた機会は、非常に少なかったのではないか。科学技術に関して他社の記者や科学ジャーナリスト、政治家の話が出たことがなかった。

 ただ一人、谷垣禎一先生(前自民党幹事長)の同席を求め、科学技術政策について意見交換したことがあった。谷垣先生は、加藤先生がもっとも信頼していた同志でもあった。二人の会話からそういう雰囲気がにじみ出ていた。

 谷垣先生も加藤先生の影響を受け、株式会社インクスを訪問して山田眞次郎社長からIT産業革命について説明を受けたことがあった。

 加藤先生の逝去がはからずも、日本の政界は科学技術について極めて手薄であることを改めて考えさせた。

 加藤先生はそのことを憂慮し、真の科学技術創造立国を自らの手で実現したかったのではないか。政界はかけがえのない人を失った。


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う 最終回

 政界引退につながった病気と落選

 2012年12月に行われた総選挙で山形選挙区から立候補していた加藤紘一先生は、接戦の末敗れた。選挙中から体調がすぐれなかったのは、選挙直前に軽い脳こうそくに見舞われたからだった。

 ややしゃべりはもつれるが話はできる。ゆっくりだが歩行もできる。しかし政治家にとってこれは致命的だった。落選もやむを得なかったと筆者は思った。

 当選13回を重ね、首相の座に最も近い位置にいながら政局の読みとタイミング、政界に渦巻く利害得失と嫉妬、派閥力学などの渦に呑み込まれ加藤政権は泡となって消えた。

加藤先生13年2月28日DSCN8910顔色もすぐれお元気だった加藤先生と(2013年2月28日)

 落選から年が明けた2013年2月、筆者はお見舞いがてら加藤先生に電話をすると、赤坂のいつものレストランで食事でもしようと誘われた。

 お会いすると顔色もすぐれ落選の失意もまったくなく、相変わらず科学技術の話で持ちきりとなった。話は2004年5月26日に衆院文部科学委員会で質問し、今でも語り継がれている日本の研究現場の欠陥と課題についてであった。

圧巻だった加藤先生の国会質問

 ニュートリノ天文学を創設してノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士とゲノム解読で世界の先端を走りながら行政と学界の希薄な問題意識の中で頓挫し、手柄をすべてアメリカにさらわれた和田昭允博士を従え、日本の科学研究現場の問題点を浮き彫りにして今後に役立てようとする質問だった。

 かなり専門的な内容にまで踏み込んだ質問であり、国会議員の中でこのような質問ができる議員は加藤先生だけだったろう。

 その質疑の政府側の答弁者の一人だった当時の文部科学省生涯学習政策局長の銭谷眞美氏(その後事務次官、現東京国立博物館長)は「今でも鮮明に覚えています」と言う。

  成功した小柴博士と失敗に終わった和田博士の事例を対照的に引き出して、「日本の研究現場の欠陥を考えさせようとしたものでした。今でもあの議事録は参考になると思います」と語っている。

 その議事録は、次のサイトから読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009615920040526022.htm

 

第6世代の中国を語りたい

 話が弾んでいるうち、自然と中国の問題へと移っていった。安倍政権になってから日中間は日増しに悪くなっていく。その現状を憂いながら加藤先生は「これから中国と付き合うのは第6世代という考えがなければ未来志向にならない」と語った。

 第1世代・毛沢東、第2世代・鄧小平、第3世代・江沢民、第4世代・胡錦濤、第5世代・習近平であり次のリーダーが第6世代となるという意味だった。

 加藤先生は、中堅リーダーとして中国共産党の次期リーダーと目されている多くの人々と親交があった。若き中国のリーダーとの交流を通じて、肌で感じた中国の第6世代リーダー候補たちの考えを分析する必要がある。

 そのような考えであり、日中間に横たわる目先の課題にとらわれずに未来志向で行けば日中にはまた新しい歴史が作られるという考えだった。

 筆者はこれを聞いてすぐに、21世紀構想研究会での講演依頼を持ち出し、加藤先生も喜んで受けてくれた。

こうして2013年4月19日、プレスセンター9階記者会見場で「中国第6世代が考える日中未来志向」のタイトルで90分の講演を行ってくれた。

加藤先生21世紀構想研究会DCIM0034第99回・21世紀構想研究会で講演する加藤先生

 これが加藤先生の21世紀構想研究会の講演では最後になった。その中身は中国との将来展望について深く考えさせたものであり、その3か月後に筆者は、加藤先生と訪中することになる。

その報告は前回のその3で報告した。

 科学技術と中国を語って止むことがなかった加藤先生の生涯を偲びながら、心から哀悼の意を表して筆をおく。

終わり


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その3

歓迎ムードで終始した加藤訪中団

  2006年8月15日の終戦記念、山形県鶴岡市の加藤紘一先生の実家が放火されて全焼した。犯人は加藤先生が中国との友好関係で活動することに反発する右翼だった。

 筆者が放火事件を心配して加藤先生にお見舞い電話をすると、動ずる雰囲気もなく「そんなことより、また科学技術の討論会をしましょう」と語った。

 東大理1に進学したかった加藤先生は、年を取るにしたがって理系への憧憬を強めているような印象を持った。

  中国を敵対する第二次安倍内閣が発足し、日中関係が緊迫していた2013年7月1日から1週間、日中友好協会会長だった加藤先生を団長に、経済界の人々など10人ほどで編成した訪中団が北京空港に降り立った。筆者は加藤先生のいわば「かばん持ち」として参加を許された。

1*7月2日中日友好協会の昼食会1中日友好協会の昼食会での記念写真

  空港から加藤先生はVIP待遇で歓迎ムードにあり、そのときから帰国までスケジュールは歓迎行事で埋まっていた。歓迎昼食会、夕食会が続き、中国の要人が出席して、安倍政権の硬直化する日中関係を憂慮して打開することを双方で模索し合った。

 討論する会話の中で直接、打開するというような言葉は出なかったが、会談の雰囲気はいかに友好関係を保持するかという双方の思いが伝わり、最後はいつも「カンペイ、カンペイ」の大合唱で終わった。 

 北京から瀋陽市に移動し、関東軍が南満州鉄道を爆破して勃発した満州事変時代の歴史的記録を展示する「瀋陽九・一八事変歴史博物館」を見学した。北京から移動するとき、筆者は加藤先生が中国と関わった歴史を聞いた。

 加藤先生は、東大法学部公法学科を卒業し外務省に入省した。それから台湾大学に留学し、中国語を研修語とした外交官を目指す「チャイナ・スクール」に入った。中国語をマスターして香港副領事からアジア局中国課次席事務官となり父親の死後、政界へ転じる。

 外務官僚時代にハーバード大学に留学し、「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得した。後年、加藤先生がハーバード大学で講演するとき、MITから利根川博士が駆け参じた。アメリカの学生との質疑応答は、時として辛辣な場面になることを心配したが、利根川博士は「加藤君はそつなくこなして、英語力もあるなあと感心した」と語っている。

37月3日夕食会1円卓加藤訪中団を歓迎する中国の晩餐会

木寺大使取夕食かい

木寺中国大使主催の歓迎晩さん会で(右から2人目が木寺大使、その左が加藤先生)

 中国の新幹線の中での筆者とのインタビューの中で、加藤先生は「アジアと中国の歴史を研究し、日本の近代史を自分なりに見直した」と語った。

 加藤先生が北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館を見学したことがある。そのとき「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して記念館の館長に献じたと語った。

 筆者もその記念館を見学したことがあるが、中国から見た日中戦争の記録・展示内容を見て、自身の歴史観を見直すきっかけを作った。淡々と話をする加藤先生の言葉を聞きながら、先生も同じ思いだったのではないかと感じた。

 「日中不再戦」と揮毫した加藤先生

0*7月3日1の9・18 (2)

 「瀋陽九・一八事変歴史博物館」の見学の最後に、館長が硯を持ち出して加藤先生に揮毫を願い出た。加藤先生は筆を持つと「日中不再戦」と一気に書き上げた。それを見守っていた人々から拍手が起きた。

 北京に戻る道々、加藤先生は「日中が科学技術で協調したら、世界の科学技術研究のリーダーになれる。日本はもっと歴史を学ばなければならない」と語った。

 筆者が加藤先生との交流の中で確信した印象は、「科学技術」と「中国」という2つの言葉に凝縮される。

 自民党と政局という混沌とした激動の中で「加藤の乱」が語られることが多いが、加藤先生の政治信条の骨格には、「科学技術」と「中国」というキーワードもあったのだ。

 そのような政治家の実像を語るため、この追悼文を書こうと思い立った。

(つづく)