瀬木比呂志「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)に見る判事補の若造が最高裁長官に楯突く筋立てに感動
2016/11/22
元エリート裁判官だった瀬木比呂志先生(明治大学法科大学院教授)が、小説の手法で司法の暗部を「内部告発」した小説「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)の主人公は、最高裁判所事務総局民事局付、笹原駿・判事補である。
任官して10年に満たない若造が、小説の最後の場面で絶大な権力を誇っている最高裁長官に楯突く。
「長官のおっしゃる中道というのは、権力、政治、世論の力関係をみながら適宜それに合わせて調整を図っていくというやり方だと思いますが、そういう機会主義的な行き方は、はたして司法にふさわしいものでしょうか」
戦後、日本の国と政治と行政を劣化させてきた元凶・司法の姿(筆者の私見)を、かくも明確に語った言葉として世に残るものだ。
著者の瀬木先生が、「実録小説ではまったくない」とあとがきでわざわざ断っているように、この作品は創作である。しかし読むものは勝手に評価し、勝手に論評することは許される。
それに従えば、この小説で書かれているような光景が、現実に最高裁・司法という巨大な組織の中で日夜繰り広げられていると言っても間違いではないだろう。
所詮は人間世界の話である。出世栄達を願うのは当然である。司法の世界も神様の集まりではない。しかしいやしくも法治国家を標榜する日本、しかも戦争に明け暮れた日清戦争後の40年余りの馬鹿げた時代を清算し、戦後日本の民主国家建設の基盤として形作った三権分立の国体であったはずだ。
それが司法の堕落によって崩壊していった有様をこの小説は描いていると筆者は思った。
最後の下りは、エリート判事補の若造が最高裁長官に語った先の言葉に続いて、次のように続けている。
「司法は、法の支配、三権分立、民主国家という観点から、国家の在り方を正し、それに確固たるプリンシパル、行動原則を提供するべきものではないでしょうか?」
これに対し最高裁長官は言う。
「言葉をつつしみたまえ、笹原君。君の言うことは、一から十まですべて理想論だ。そういう理想論で日本の社会が動くなら、大変、結構なことだ」
これに対し笹原は反論する。
「だって、司法が理想論を吐かなくてどうするんですか? 司法の役割というのは、痩せても枯れても理想論を吐き、筋を通すことにあるのではないでしょうか? 司法が立法や行政と一緒になって『政治』をやっていたら、法の支配だって、正義だって、公正だって、およそありえないと思います」
この小説で著者の瀬木先生がもっとも言いたかったことではないか。
市民の感覚からかけ離れた判決が続出している行政訴訟や国家賠償訴訟。原告の勝訴率がわずか12パーセントという行政訴訟、和解が異常に多い民事訴訟、そして冤罪が多い刑事裁判。「違憲状態」という奇怪な判断でごまかしている一人一票実現訴訟への「保身判決」。
そのような現実が、何よりも笹原の言葉を裏付けている。
憲法第76条第3項=すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
憲法で保障された唯一の職種である裁判官の責務を自ら組織的に放棄し、さらに統治行為論によって違憲立法審査権を放棄して日本の国体を堕落させていく司法の姿をこの小説は余すところなく語っていると思う。
小学生の時代から習ってきた日本の国体・三権分立は、砂上の楼閣だったのだ。日本の真の民主国家を誰が建設するのか。そのような宿題を投げかけた小説であり、日本の多くの人が読んでほしいと思って紹介した。
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