「知は海より来たる」 江戸時代に西洋の科学を日本に紹介した津山藩の科学者を取材
2016/04/21
岡山県津山市は、江戸時代津山藩として栄えた城下町である。その地には西洋の文化を日本に紹介し、日本の科学の黎明期に輝いていた先達がいたという。
さる4月25日、白川英樹先生は21世紀構想研究会で「科学は日本語で考えることが重要」のタイトルで講演し「江戸時代の津山藩の宇田川家三代の科学者が日本の科学の扉を開いた」と紹介した。
早速、岡山市から車で1時間ほどの津山市に行ってみた。目指した「津山洋学資料館」は、昔の街のたたずまいを残している古い住宅街の一角にあった。
門を入るとブロンズ像が多数並んでいる。それはすべて江戸時代末期から明治維新、明治・大正時代へとつながっていく偉大な津山の科学者たちだった。
宇田川玄随(げんずい)は、津山藩の江戸屋敷に生まれ、町医者だった父親の教えを受けて漢方医学を学んでいた。西洋医学には反発していたが、オランダ語で医学を学ぶ人たちと交友するうち西洋医学に興味を持ちオランダ語で書かれた医学書を読むようになる。そしてオランダのヨハネス・ゴルテルが書いた医学書を翻訳して、日本で初めての内科書の「西説内科撰要」18巻として出版した。
二代目の玄真(げんしん)は、玄随の後を継いで、江戸時代末期のヨーロッパの最新情報だった医学書を次々と翻訳し「医範提鋼」、「和蘭薬鏡」、「遠西医方名物考」などを出版して、全国の医師を指導した。また津山藩の若い医師たちの箕作阮甫(みつくりげんぽ)、緒形洪庵らを指導し、「蘭学中期の大立者」と言われた。
宇田川家三代目の榕菴(ようあん)は、さらに西洋から入ってきた学問を発展させ、植物学や化学を日本で初めて開拓していった。日本で初めての西洋植物学の解説書「植学啓原」、イギリスのウイリアム・ヘンリーの化学書「舎蜜開宗(せいみかいそう)」の翻訳など、最新の西洋化学を日本に紹介し、多くの若き科学者を育てた。
津山から世界に目を向けさせ、そして多くの弟子を育て、日本の科学の黎明期に活躍した先達の一端を見て、本当に感動した。資料館には多数の資料が展示されており、宇田川家三代の科学者、箕作阮甫らの活動など興味あふれる内容だった。
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