科学文化学
21世紀構想研究会ー旧バージョン

日々これ新たなりー旧バージョン

 

日々これ新たなり(18)「ノーベル物理学賞と特許ロイヤリティについて 」

 ノーベル物理学賞と特許ロイヤリティについて

自然科学19人の受賞者の業績はどこであげたものか 今年のノーベル賞発表は、青色発光ダイオードの製造技術を開発した赤﨑 勇、天野浩、中村修二博士の3人が受賞して日本中が沸き返った。やはりノーベル賞は別物である。

これは日本だけでなく欧米の先進国でも同じであり別格 の顕彰なのである。 自然科学の3分野の日本人のノーベル賞受賞者は表のように19人となった。このうち2008年に物理学賞を受賞した南部 陽一郎博士と今回受賞した中村修二博士は、いずれもアメリカ国籍であるが日本人としてカウントした。

というのは、2人とも日本で生まれ、教育を受 け、受賞対象となった業績はいずれも日本国内であげたものだ。後年、アメリカ国籍を取得したのが、中村博士はアメリカの研究助成金をもらうためにアメリカ 国籍を取得したとしている。

ノーベル賞受賞業績をあげた主たる地域を調べてみると表のように圧倒的に国内であげた業績が多い。外国で あげた業績は、いずれも外国の研究者の指導によって示唆を受け開花したものである。

このようにして見ると、日本の研究基盤も決して外国に劣っている訳ではないことが分かる。これからも日本からノーベル賞受賞者が次々と出てくる可能 性が高い。

ノーベル賞と特許

世界中で誰も気が付かなかった発見、発明をしなければ取得できないのが特許で ある。ノーベル賞もまったく同じである。誰も成し遂げることができなかった業績を上げ、人類に貢献した人だけに授与される。 ノーベル生理 学・医学賞の審査機関の事務局長が来日して講演したとき、ノーベル賞受賞候補者のスクリーニングに特許の出願実績を見ていると語っている。

世界で最初 に発明した人だけに付与される特許権は、ノーベル賞授与の条件に合致していることになるから当然である。 受賞者した3人(NHKの報道から) 赤﨑勇博士が開発した青色LEDは、名古屋大学に14億円を超える特許収入をもたらしている。

赤﨑博士は、名古屋大学の助手などをへて、昭和56年か ら平成4年まで名古屋大学工学部の教授を務めた。 赤﨑博士の最初の特許は1985年だった。それからこれまでに青色LEDの基盤となる特 許6件を取得しているという。主な特許は2007年までに切れたてしまったが、こうした特許は、いずれも赤﨑博士と豊田合成の共同研究で生み出されたもの だった。

経過をたどってみると次のようになる。 1986年、JSTが名古屋大学の赤﨑教授の研究開発成果を豊田合成で実用化するた めに研究開発費の提供を申し出た。赤﨑博士は最初、時期尚早として渋ったが後で同意することになる。

JSTから豊田合成には、3.5年間で 5億5000万円の融資型助成金を提供した。そのときの条件は、研究開発期間の3.5年間はJSTより研究開発資金を提供し、研究開発が終了してJSTよ り開発 が成功と認定された後の5年間で、JST提供資金を無利子で返済することだった。

ただし、助成金による研究開発成果が売上高に貢献した場合は、売 上に応じてJSTにロイヤリティを支払う条件になっていた。 結果的に豊田合成は、この助成金で青色LEDを開発して売り出し、売上高を延ば していく。この売上高に応じて豊田合成は、1997年から2005年まで総額46億円(2013年までは総額56億円)のロイヤリティをJSTに支払った。

同社の LED売り上げは、2005年までに1480億円と推定されている。 JSTに支払われた56億円の行方 JSTに支払われた 特許ロイヤリティの56億円のうち、14億3000万円を当時の契約によって名古屋大学(当時、国立大学)へ還元した。その残りは国庫へと還元された。

名古屋大 学は、入金されたロイヤリティの一部を当時の国立大学の規定に従って、発明補償金として赤﨑教授に還元した。    ただし 上限は、当時年間600万円だった。これは当時の国家公務員の制度がそうなっていたからだ。

特許庁では上限600万円は少なすぎるとして、後に上限なしに 制度に改正している。(http://www.jpo.go.jp/torikumi/hiroba/1402-003.htm)

赤﨑教授は、この制度改正によって、当初は年間600万円以上の報酬を得た。その後はこれをはるかに超えるロイヤリティを受けていたと思 われるが、その総額がどのくらいかは公表されていないので推測でしかない。

多分、少なくとも1億円を越えるのではないかという。赤﨑博士の貢献から見ると 少なすぎる気もする。

一方、名古屋大学は赤﨑博士の業績を称えて、特許収入を基金にして平成18年に「赤﨑記念研究館」を建設し、青色 発光ダイオードなどの研究者の拠点となっている。 国内の産学連携活動で、特許ロイヤリティとしてこれだけの額が支払われたことは例がない。ただし、外国との産学連携では、北里研究所名誉理事長である大村智博士が、アメリカのメルク社から総額250億円のロイヤリティを取得している。

産学連携の特許ロイヤリティとしては、世界的に見て も破格の還元である。 次回は、中村修二博士の特許係争とロイヤリティについて検証してみる。

                                

日々これ新たなり(17)「ノーベル賞受賞で無念を晴らした中村修二教授」

 ノーベル賞受賞で無念を晴らした中村修二教授

 今回のノーベル物理学賞でまず感じたことは、産業界に近い業績でもノーベル賞に手が届くことを改めて示したことであり、日本の科学界と産業史にとって画期的な結果となった。(写真はいずれもNHKテレビから) 

 2014年のノーベル物理学賞は、青色発光ダイオード(LED)を開発した名城大学の赤崎勇教授(85)と名古屋大学の天野浩教授(54)、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の中村修二教授(60)の3人が受賞したのである。

  
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  2008年に「素粒子物理学と核物理学における自発的対称性の破れの発見」に対して3人の日本人が受賞しているが、シカゴ大学名誉教授の南部陽一郎博士はアメリカに帰化しているので、日本人とはカウントできなかった。中村教授がアメリカに帰化しているとすると今回も同じである。

   ノーベル賞は基礎研究の原理原則、真理の発見や究明をした人に与えられるとされてきた。産業技術を改良してもノーベル賞には届かないという印象を持ってい た。しかし今回の受賞者の中村教授は、もともと日亜化学工業の研究者であり、同社で開発した青色発光ダイオード製造の画期的な技術が認められて受賞したも のである。

 そ の中村教授は、「日本の司法は腐っている」と捨てぜりふを吐いてアメリカに去っていったことを思い出すが、今回の受賞によってこの無念を晴らしたのではな いか。中村教授が日亜を辞めて研究者に転進する意向を明らかにしたとき、アメリカのトップクラスの約10大学が招聘に動いたが、日本の大学や研究機関から の誘いはほとんどなかった。

 評価できなかったのは、企業や司法だけでなく日本の大学も研究機関も同じだった。

 ノーベル財団の受賞理由を読むと、まさに画期的な発明であると最大限の賛辞で評価している。日本の産業界、裁判所、大学はこのノーベル財団の評価をどのように受け止めるのか。喜ぶのか批判するのか。それを聴きたい。 

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青色発光ダイオードの職務発明裁判を改めて総括する

 青色発光ダイオード(LED)の職務発明の対価をめぐる中村教授と日亜化学工業の裁判の一審判決(三村量一裁判長)は、中村教授の発明の対価は604億円と認定したが、博士の請求額が200億円だったことから満額の200億円の支払いを日亜側に命じた画期的な判決だった。

  ところが二審東京高裁(佐藤久夫裁判長)は、本件控訴審の争点になっている「404号特許」以外のすべての中村教授関連の特許や実用新案など195件を一括したうえで、一連の「一括発明」による日亜側の利益を120億円と認定した。そのうち中村教授の貢献度は6億円(5%に相当)とはじき出し、遅延損害金を含めて8億4000万円を日亜側が支払うこととする和解を「強要」して決着した。

 東京高裁は和解勧告の中で、判決を出してもこれ以上の金額が示されることはなく、最高裁へ上告しても算定基準などを判断することはないので、中村教授が法廷で闘える機会は事実上失われていることを示唆したとされている。高裁は強い「訴訟指揮」で日亜と中村教授に和解でこの裁判を決意させたものと受け止められており、それは判決を避けたという見方が当たっている。

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  一審判決では、中村教授が青色LEDの研究開発に取り組んだいわば「創業者貢献」を認めたものであり、判決文全体にその考えがにじみ出ていた。高裁の判断では、争点になっている404号特許だけでなく、中村教授に関連する特許・実用新案などすべての知的財産権を一括して対価の対象にしたものであり、一審とは違った土俵での和解条項にした。

  高裁はその理由を「(中村教授関連の)すべての職務発明の特許の権利について和解し、全面的な解決を図ることが極めて重要」(要旨)と述べている。しかしこれは、裁判所がやるべきことから逸脱している。日本の特許裁判は、真理の究明による判断ではなく、文言・レトリック勝負であり、法学部出身の法律家はこれを「技術で裁くのではなく法理で裁く」と語っている。実体は技術オンチの裁判官が裁くものであり、これでは真理の究明からは程遠い結果になってしまう。

   中村教授が発明した青色LED訴訟をめぐる一審判決と二審和解の結果を見ると、日本の裁判所の限界を示していることをノーベル賞によって明確に示したことになる。企業は自社の研究社員に対し「ノーベル賞をもらうほどの技術発明をせよ」とはっぱをかけているが、価値ある発明をしても企業も社会も大学も正当な評価ができなければ、研究者は外国へ逃げていくことになるだろう。

  今回のノーベル賞は、発明の正当な対価を改めて考えさせた日本にとって歴史的な出来事だった。 

 日々これ新たなり(16)「赤木順彦さんを偲ぶ会」

 赤木さんが亡くなってから早くも丸6年になる。その七回忌が9月27日、長野県上田市で行われた。初めて墓参をしたが、西側を向いた立派な墓石の下にあの赤木さんが眠っている現場を見て、こみ上げるものがあった。

 赤木さんが亡くなったときに霊前に捧げた追悼文をここに掲載して、偲ぶことにした。

  駆け抜けた時代の寵児赤木順彦さんのこと

 千葉県房総半島の東京湾沿いを走る内房線・五井駅の改札口に立っている体格のいい男、それが初めて出会った赤木順彦さんであった。コンピュータにしがみついている線の細い男を想像していた私は、その第一印象に意外感を持った。

  1995年の夏、暑い日盛りの午前、私たちは初めて言葉を交わした。その当時、まだほとんどの人が使っていなかったパソコンメールとポケットベル表示以外 は連絡を受けない、電話はお断りという赤木さんの要望を人づてに聞いていたので、慣れないメールとポケベルを駆使してようやく連絡を取り合い、約束の時間 に五井駅に降り立った。

  本当にその人は来るのだろうか。不安を抱きながら改札口を通過した私に、人懐こい笑顔で赤木さんは声をかけてきた。自宅兼事務所に案内されると、そこには 見たこともない機器類が足の踏み場もないほど散らかっていた。30歳になっていた赤木さんは、青年のように弾んだ言葉で押し寄せるインターネット社会の到 来を語ってやむことがなかった。

  全米科学財団(NSF)傘下の学術研究用だったネットワークが一般に開放され、マックに対抗するOSの「ウインドウズ95」がアメリカで発売され、日本で も間もなく販売される予定になっていた。インターネットという言葉は、日本ではまだ市民権を得たわけではなかったが、その後爆発的に広がるであろうネット ワーク社会の予兆として、誰言うともなく肌で感じさせる時代の風が吹き始めていた。

  その時代の風を満身に受けて、赤木さんはトップを切って走っていた。事務所で一番目を引いたのは、コンピュータの画面の上にセットされていた大きな目玉の ようなものであり、それは何ですかと聞けばカメラだという。そのカメラで自分の顔を写して相手に送り、相手の顔もまた画面に写してコンピュータ通信をする という。「ええ! そんなことができるんですか?」「最近は飽きちゃって、もう、やってないです」

  異星人に出会ったような気分で赤木さんの話に引き込まれていった。そのときの取材の一端は、1995年10月2日付け読売新聞社説の冒頭で紹介する。その 社説を書くために開かれた論説委員会で私が説明を始めると、並みいる委員たちは理解できない顔つきで聞いていた。一人が「その赤木さんとかいう人は、信用 できる人なんですか?」と言って皆を笑わせて会議はお開きとなった。

  赤木さんと私は、そのころマック族であったが、何も知らない私はなにもかもすべて赤木さんに聞いた。おびただしいメールを交換し、分からないことは隅から 隅まですべて赤木さんに聞いた。どのような難問にも愚問にも彼は即座に回答して私の疑問を解決してくれた。私が人より先んじてコンピュータのあれこれがで きたのはすべて赤木さんのお陰であった。

  あるとき、それは1996年の春ごろである。コンピュータで作成した多数の原稿類をバックアップする方法を例によって赤木さんに相談した。すると東京・門 前仲町の拙宅まで車を飛ばしてきて、見るからに高価そうな装置を使って円盤のメディアに記録してくれた。それは今で言うCDRであり、私は茫然としてその 操作を眺めていた。誰よりも先んじてコンピュータツールを導入して使いこなし、誰よりもマシンを愛した男であり、そして常にコンピュータ・ネットワーク社 会の先端を走っていった男であった。

  その赤木さんが、突然、姿を消した。何の予告もなく風のように逝ってしまった。短すぎる彼の生涯を一言であらわせば、それは「時代の光芒」であった。IT 産業革命が勃発した20世紀の最後の時代に現れ、その才能を思うままに駆使して時代の寵児となり、さまざまな足跡を残して逝ってしまった。

  自信に満ちて語ってくれた若き日の赤木さんの声と姿は、私の脳裡に焼き付いて消えることはない。恐ろしい速さで技術革新が進み、秒進分歩と言われる時代の 変転の中で、赤木さんは躍動しエネルギーを発散しそして燃焼した。時代の移り変わりをいち早く知らなければならない宿命を負っているジャーナリストの私 に、世間でまだ知られていなかったユビキタスという言葉とその意味を最初に教えてくれたのは赤木さんであった。

 メールと宅急便を連動させた新しい宅配方法を発明し、特許を取得したのも赤木さんであった。その豊かな才能を惜しげもなく捨て、彼はさよならも言わずに去っていった。

  しかし「時代の光芒」は、輝きを失うことなく私の胸の内で輝き続けるだろう。マックマシンを語り、その操作方法を伝授し、嘆き、笑い、共鳴し、ともに語っ た時間こそ、まぎれもなく私たちが共有したかけがえのない青春時代であった。もし彼とまた遭遇することがあったとしても、また同じ話題を語り、笑い、嘆き そして際限なく語り明かすだろう。

 赤木さんとの別れは痛恨の極みであり、できることなら今一度でいいから会いたかった。会って往時の熱気を思い出させ、新たなエネルギーを復活させてやりたかった。今一度この世に引き戻し、マシンと格闘する機会を彼に与えたかった。

 さよなら赤木さん。短かったけれども濃密だった珠玉の時間を感謝し、茫々とけむる追憶の中で彼の姿を探し求め、果てしなく魅了してやまなかった二人の共有した時間をいつまでも繰り返し思い起こすことだろう。 

                                

日々これ新たなり(15)「難局を打開して中日交流を推進しよう」程永華中国大使の講演                    

「東京都・北京市友好都市提携35周年と今後の中日関係」をタイトルに中国の程永華大使が、9月4日18時30分から、東京市谷のJST本部で講演した。 

 大使は吉林省長春市出身であり、学生時代を含めると21年間日本に滞在しており、東京の日本大使館への勤務は通算で17年間に及ぶ知日家である。流暢な日本語で心に響く中日感を語って感銘を与えた。

  大使は、冷え込んでいる日中の現状認識について3点に絞って話を進めた。

 まず第1点は、二千年に及ぶ日中間の歴史の深さを大事にするべきだと語った。歴史には多くのエピソードが残っており、中日双方の言葉はもちろん、文化、宗教、建築、服装からお茶やインゲン豆まで多くの共通の価値観や歴史やエピソードを残した。 

漢字はもちろん書道、水墨画は中国と日本人しかその価値が分からない。両国関係の交流の歴史を大事にしなければならないと主張した。

 

第2点は互いの関係は、重要な関係であることを改めて認識する必要があると説いた。中国国民も日本国民もお互いの国の70パーセントが重要だと認めている調査結果もあるという。

国交正常化後に貿易は年々盛んになり、いまはお互いに欠かせない貿易相手国になっている。 

 

 このような交流になったのは先人の努力があったからであり、その努力を忘れてはならない。中国には水を飲むときにその井戸を掘った人を忘れないという言い伝えがあるが、まさにそのことをしっかりと認識しなければならない。

  そして現状の中日間には、領土問題、歴史認識などの難題があるがこれを超えていく必要がある。日本側にとっては、過去の日本の侵略戦争の責任を明確にし、そしていまその侵略戦争と一線を画するということが必要だ。A級戦犯が祀ってある靖国神社の参拝は戦争責任をあいまいにするものではないか。 

 中国は日本にとってどういう国か、中国にとって日本はどんな国かを客観的に見なければならない。最近の日本のメディアは、中国にことさら泥を塗って悪く言っているように思う。 

 中国脅威論をことさら大きく取り上げて、日本の安全保障政策に利用しているのではないかとも見られる。日本は、戦後の平和主義の国であることを続けるのかどうかを示す必要がある。 

そして3点目として、このような難題を乗り越えて交流を引き続き進めて行くことは中日双方に大きな利益をもたらすものだ。両国はこれからの平和的発展を維持する能力を持っている。日本の経済にとっても中国との友好関係はチャンスを作ることになる。

 

中国との友好は、「日本の経済と科学技術の発展をすることにつながるし、理解と信頼を深める必要がある」と語り、最後にこの日聴講に来た人とともに「中日の友好と発展を祈ります」と結んだ。

 

程大使は中国政府の主張する対日要求をきちんと踏まえて語ったものだが、その語り口は冷静でむしろ説得力を感じた。

 中国語には「推心置腹」という言葉がある。「誠意をもって人と接する」という意味だろうか。日本語で語る大使には、そのような雰囲気を感じた。 

 質疑応答のときに筆者も質問した。最初に「科学技術と青少年」という2つをキーワードをあげ、「日中で若者の交流が非常に需要だ。さくらサイエンスプランで中国の高校生らを招聘し、多くの感銘を与えたが、日本が招へいするだけでなく日本の高校生が中国の大学を訪問したり、科学技術研究現場を見学する交流があってもいい」とし、大使の意見を聞いた。 

 程大使は、「感受性の強い若い世代が交流することは大事だ。双方向で交流することも大事であり、今後も積極的にお互いが訪問する交流に拡大していきたい」と語った。  

                               

日々これ新たなり(14)「安倍政権とは何者なのか?」

  国民の生活基盤と将来を描かない安倍政権

 先の衆参選挙は違憲状態という最高裁判決を無視して何もやらず、憲法解釈の変更や靖国神社参拝などに心血を注ぎ「戦後レジームからの脱却」などという文言を掲げて、自分だけが酔っているような政策を進める安倍政権とは、一体、何者なのか。

 時代が変わったから戦後レジームから脱却するという言い方は、太平洋戦争の廃墟から働き詰めで這い上がってきた日本の政治・経済・社会の過去の歴史をま るで否定するような軽薄な表現である。時代が変わったから政治も変えるなどというのは、安倍晋三さんに言われなくても誰もが分かっていることである。 日本のために、いま政治は何をやるかが重要なのである。

 少子高齢化、人口減少への対応策、多くの成熟した産業をどう転換するべきか。もっと卑近な課題を言えば、若い世代の理科離れ、覇気の喪失。そのような日 本の現状、そして地方の疲弊、これを解決して次世代の日本をどのように築いていくのか。その明確な政策と実行こそがいま求められている最大の政治課題では ないのか。

 近隣諸国との摩擦を増長するような政策や行動をすることが戦後レジームからの脱却と思っているとしたら、甚だ方向違いの政策である。

 「3本の矢の経済政策」とは聞こえはいいが・・・

 安倍政権は、「アベノミクス3本の矢」を掲げている。①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資を喚起する成長戦略である。①は、日銀の量的緩和策をとることで円安に誘導し、輸出企業に大きな利益をもたらした。しかしこれは為替による見せ掛けの事業実績である。

 過去2番目となる超大型補正予算の執行で賑わっているのは、②の財政政策である。ハコモノ主導の「土建屋政治」であり、一過性の景気対策である。これこ そ旧式の自民党景気対策から一歩も出ていない前時代の政策である。③の3本目の矢である成長戦略こそ安倍政権の成否を占う政策であるが、これはほとんど期 待できない。

 なぜそうなっているのか。それは安倍政権のやっていることが、国民生活の実態から乖離していること、旧来の産業構造の延長線上で産業政策を考えていること、政治家は二世、三世が跋扈し「政治ごっこ」で終わっていることにある。いまの政治家には使命感と迫力がない。

 違憲状態であると司法が判決を出しても、それに真剣に反応する政治家がいない。日本共産党をはじめとする野党も同じである。三権分立を標榜する国家であ るなら、司法の判断を最優先させて取り組むような立法府のエネルギーがなければ、途上国以下の国家である。法の理念も国民主権もないに等しいと言わざるを 得ない。

 国民が求めている真の政策

 集団的自衛権の是非を問うよりも、いま日本の国民にとって重要な課題は経済活性化とそれをテコにして構築しなければならない社会資本の再興である。安倍 さんが言っていることで唯一いいことは「女性が輝く日本」という政策である。遅きに失した感はあるが、女性の登用は日本の活性化への大きなカギを握ってい る。

 女性政策を除くとおよそ何もないという政権では、国民が沈んでいくだけである。安倍政権は、よほど現実的な政策転換をしない限り、「政治ごっこ」をして 潰れる政権になるだろう。メディアが実施している内閣支持率など当てにならない。政権とはいったん下降線を辿ると奈落の底に一直線である。

 そうなる前に少なくとも違憲状態を解消する選挙制度を改革し、出直し選挙による政権を樹立して真の民主国家を実現しなければならない。そのためには、一人一票実現運動に命をかけている升永英俊弁護士の市民活動を盛り上げていくことだ。

                                

日々これ新たなり(13)「82年前に発生した5・15事件に思う」

     首相を殺害したテロ集団

 いまから82年前の1932年(昭和7年)5月15日に発生した「5・15事件」は、日本の歴史上、血なまぐさい軍国主義に走り出した重要な出来事であ る。総理官邸に乱入して犬養毅首相を殺害した軍人は死刑にならず、禁固刑として受刑したが恩赦で釈放されるという非常識な国家の対応だった。

 これが日本を誤った道・軍国主義へと進ませた発端となったのである。

 国を想えば何をやっても許される

 5・15事件を起こした軍人は大日本帝国海軍の青年将校と若い兵士たちである。その動機はワシントンとロンドンで開催された軍縮会議で欧米列強に対して日本は対等ではないとして政府の対応に不満を募らせ、首相らを粛清して軍事政権を立てようとしたものだった。

 1936年(昭和11年)2月26日に発生した「2・26事件」は、陸軍の部隊が総理官邸などを襲撃して首相らを殺害した軍事クーデターだったが、5・ 15事件は、大川周明らから資金と拳銃の提供を受けて軍人が決行したものであり、クーデターというよりもテロ事件と理解するべきだろう。

 「昭和維新」を掲げてテロ軍団を組織した軍人たちは、総理大臣官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部を襲撃し、昭和維新に共鳴する大学生2人が財閥の代表として三菱銀行に爆弾を投げこんだ。さらに警視庁と東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃した。

 これは東京を暗黒化する目的だったとされている。総理官邸でテロ軍団と遭遇した犬養首相は、腹部と頭部に銃撃を受けて死亡した。

当時の世相は、1929年(昭和4年)の世界恐慌の影響を引きづっており、企業の倒産が相次ぎ社会的に閉塞感が漂っていた。日本ではようやく議会制民主主義が根付き始めたころだが、しかし一方で国民は政党政治の腐敗に嫌気がさし反感を抱いていた。

 このため犬養首相を殺害し、多くの被害を出したテロ集団に対しても同情する雰囲気が広がり、殺害犯人の将校たちの助命嘆願運動が巻き起こり、彼らの刑は 軽いものとなった。これはのちに2・26事件を起こした陸軍将校たちの判断を後押ししたと言われている。憂国の志士として反乱を起こしても刑は軽いもので 済むだろうとする楽観視である。

 戦争に彩られた近代史

 明治維新(1868年)、日清戦争(明治27年、1894年)、日露戦争(明治37年、1904年)、韓国併合(明治43年、1910年)、満州事変 (昭和6年、1931年)、日中戦争(昭和12年、1937年)、太平洋戦争(昭和16年、1941年)と並べてみると、日清戦争から太平洋戦争まで47 年間は、戦争に彩られた近代史であった。

 日清戦争以来、日本はひたすら外地に資源を求めて侵略を繰り返し、最後に対米戦争を仕掛けて自滅した。これらの戦争は、すべて日本から仕掛けたものである。

 そのような血なまぐさい歴史に歩きだし太平洋戦争へと流れていくきっかけを作った事件として5・15事件は忘れてはならない事件である。

 大陸進出を図った軍部の言い分は、東アジア諸国を欧米列強から解放するというものだったが、日本が欧米の植民地政策に割り込もうとして加わったものであるという見方のほうが正しいのではないか。その一方で、日本列島は無傷で守り通した。

 太平洋戦争は、100%負ける戦力で戦いを起こしたものであり、多くの若者を戦場に送り込んで戦死させた。誰にも責任がないというのでは、社会正義の原理に反する。為政者の戦争責任は厳然と問われなければならない。

 だれが責任者であるか明確に総括するべきである。責任者をどのように処罰するかは別問題である。日本人として責任の所在を明確にすることがなければ、いつまで経っても日本に真の民主主義は確立できないだろう。

                                

日々これ新たなり(12)「3Dプリンターを発明したのは日本人である」

         拳銃を3Dプリンターで製造して逮捕された

 3Dプリンターに関するニュースが、思わぬ形で注目を集めている。アメリカから設計データを導入した日本人が、拳銃を3Dプリンターで製造して逮捕され たニュースである。筆者は、1996年ころから3Dプリンターのことを取材していたので、このような展開になってきたことに驚いている。

 1996年ごろは、3Dプリンターなどとは呼んでいなかった。光造形装置と呼んでおり、横文字では、ラピット・プロトタイピング( rapid prototyping) と呼んでいた。これでは、何がなんだか分からなかったが、その価値をいち早く見抜いて日本へ導入したのが、株式会社インクスを創業した山田眞次郎氏であっ た。

 山田氏は三井金属でドアロックの設計をしており、90年代のアメリカ・クライスラーのドアロックの全車種の設計をした男として知られていた。ドアロック とは、車のドアの部分一式である。ドアを閉めたときに「バタン、カチッ」と快い響きを残してきちんと締まるあのドアの部分の設計のプロだった。

 山田氏は、設計・試作そして量産する工程を熟知していたので、光造形装置が実用化してきたとき、試作する行程が飛躍的に迅速・効率化すると見抜き、製造 現場が激変すると感じたのである。山田氏は三井金属を辞めて、光造形装置をアメリカから輸入して販売し、日本の製造現場にいち早く変革を起こさせようと起 業家に転進したのであった。

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最新の3Dプリンターを操作する山田氏(右)
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 ところで、この光造形装置の原理を世界で最初に発明した人は、名古屋市工業研究所の研究員だった小玉秀男氏(現在、特許業務法人快友国際特許事務所所 長)である。小玉氏の発明の話を聞き、光造形装置を初めて筆者が見たとき、これは立体プリンターだと思ってコラムにもそう書いたことがある。

 立体プリンターとは、いい名称だと今でも思っているが、むろん3Dプリンターでもいい。小玉氏と会ってインタビューし、その発明へのストーリーを聞いて 興奮したことを思い出す。当時、コンピュータのアウトプットは、紙に印刷するものだけだった。今でもほとんどはそうである。

 小玉氏の優れていたことは、コンピュータの中で3次元の立体設計ができ、しかもそのデジタルデータが形成されるのだから、立体的にアウトプットできないかと考えたことにある。プリントとして紙に出すことはできても、立体形で出すということは普通は考えない。

 小玉氏は、たとえて言えば、コンピュータの内部で設計したデータを100万回印刷を重ねていけば、立体形になるはずだという考えだ。積層技術の最初の発想である。光を当てると瞬時に固まるプラスチックの装置を作れば積層して立体形が出来上がっていくと考えた。

 そして小玉氏は、実際に自宅の設計データを自作の光造形装置で積層させて、立体モデルをアウトプットしたことである。しかもその技術の全てを英文の論文 として仕上げてアメリカの物理学会誌「REVIEW OF SCIENTIFIC INSTRUMENTS」(1981年、Vol.52 No.11)に投稿して掲載されたことだ。これこそ3Dプリンターの最初のアイデアと実践を記載し た世界で最初の論文として燦然と輝く業績である。

 
 
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世界で初めて作成した3Dプリンターの作品が論文となって写真も掲載されている。

 この積層技術でノーベル賞が出るとしたら小玉氏は間違いなく入るだろう。この優れたアイデアを思い出しながら、3Dプリンターで拳銃を製造した事件報道の推移を見ているが、3Dプリンターのメーカーはアメリカメーカーが大半を占めているのは残念である。

 小玉論文がアメリカで掲載された直後に、アメリカ人がこの原理を特許として出願し取得している。実用化と産業ツールとして世に出したのはアメリカ人だったのは残念だ。原理原則は日本人が発明し、実用化にはアメリカ人が貢献した典型例である。

 3Dプリンターについては、今後も適宜このコラムで取り上げていきたいと思う。

                                

日々これ新たなり(11)「STAP細胞の存在は真実か思い込みかそのどちらかである」

                 

 小保方さんのSTAP細胞は「真実」か「思い込み」かそのどちらかである

 STAP細胞の論文をめぐって渦中にある小保方晴子さんの記者会見の実況中継をテレビで観た。筆者は午後1時からのニッポン放送「大谷ノブ彦 キキマス」という番組に、この記者会見と同時進行でコメントするためにスタジオに入っていた。

 大掛かりな会見場と多数の報道関係者、そしてその質問内容を聞いていて、一種の査問委員会のようにも感じたし芸能人の会見にも等しい雰囲気を感じた。学術研究の適否をめぐって、落ち着いた雰囲気の中でやり取りするような会場の雰囲気でないことに違和感を持った。

 その番組でも語ったコメントを整理し、改めてこの問題について述べてみたい。

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 ニッポン放送「大谷ノブ彦 キキマス」に出演。スタジオ内で番組開始直前に撮影。左がアシスタントの脊山麻里子さん、真ん中が大谷さん。明るく率直な雰囲気で自由に話が出来た。

 小保方さんの発言で印象に残ったことは2つある。まず第一に論文作成に際し不注意、不勉強、未熟、自己流だったと反省を何度も述べ、それが疑念を生んだ 根源であると反省し、理研と共同研究者らに多大な迷惑をかけたと率直に詫びた点である。これは論文の不備を認めて謝罪したという点で評価したい。

 第二の印象は、小保方さんと報道関係者の一問一答を聴いていると、小保方さんはSTAP細胞の存在は真実であるという確信に立っていることだった。記者 の質問に「STAP細胞はあります」と毅然として言ったその言葉の調子と態度は確信がなかったら言えないものと感じた。 なかったものをでっち上げたとは到底思えない。

 この二つの印象から筆者は、小保方さんはSTAP細胞の作製に成功したことは間違いないと確信しているので、論文作成のときの画像の取り違いや画像の張 り替えは、本質的な過誤ではないと主張したかったのではないか。画像の張り替えは、自分で実験して出した画像を使ったのだから、許されると思っていたふし がある。

 STAP現象とSTAP細胞の違いはなるのか 

 この2つの印象から、筆者の考えを言えば、最初のお詫びの部分は小保方さん自身が何度も語っているように科学者としてやってはいけないことをやったこと を認めて謝罪したことでありそれ以上でもそれ以下でもない。しかしこの謝罪表明とSTAP細胞の存在の有無は別問題として切り分けたことだ。小保方さんが 強く主張していることは、「STAP細胞はあった」ということである。

 ただ、気になるのは「STAP現象は何度も確認された」という言葉を使ったことだ。これはSTAP細胞とSTAP現象という2つの言葉の意味に根本的な 違いがあるのではないかと思わせた。前者は文字通り現象であって途中経過かもしれないし存在として残るものでもないという意味で小保方さんが言ったのかも しれない。

 こうなるとSTAP細胞の存在を実現することが、この問題に決着をつける唯一最大の課題になってきた。 ただしここにも筆者には不安が出てきている。小保方さんが確信しているSTAP細胞は、もしかしたら小保方さんだけの「思い込み」でありSTAP細胞と信 じてやっていた実験だが、実際にはSTAP細胞ではなかったのではないかという疑念だ。

 「ネーチャー」誌に論文を掲載された科学者に対して、甚だ失礼な見方になるが、科学者にはえてして思い込みがあることがある。科学者自身それを知ってい るからこそ、繰り返し繰り返し、念には念を入れて実験を積み上げて結論を出すのが普通だ。もし万一、小保方さんの思い込みでありSTAP細胞がなかったと したら、それは共同研究者らにもその責任のいったんは問われるべきである。

 しかし、筆者はやはりSTAP細胞はあったのだと思いたい。小保方さんは「200回以上、STAP現象があった」とここでも「現象」として語ってはいる が、これを信じたい。実験にはコツやレシピがあるので難しいとの見解も語っていた。科学実験では、このようなコツやノウハウがあるのは理解できる。特許出 願の明細書にしても、他人に真似されないためにもコツやノウハウは極力書かないものだ。

 STAP細胞再現実験には「どこにでも行く」という小保方さんを信じたい

 小保方さんは会見の中で、もし要請されるならSTAP細胞再現実験のために「どこへでも行きます」という主旨の発言をしていた。これはやはり存在を確信しているからと理解した。

 ただ実験ノートは、4冊程度しかなかったことも語っていた。これだけの実験を積み上げてきた実績から見ると、いかにも少ない。日本の研究現場では実験 ノートの重要性が20年も前から指摘されてきた。アメリカは、先発明主義だったこともあって、大学でも企業でも研究現場での実験ノートは非常に重要だっ た。

 若い小保方さんに対し、その点で理研の同僚や先輩が指導・助言できなかったことは、研究現場の不備であり理研の反省点である。そのような教育がされてこ なかった小保方さんだけに責任をすべてかぶせてはならない。共同研究者と理研の研究体制にも相当なる責任があったことは間違いないことであり、この問題に 対する調査結果だけではなく、理研の反省点を明確にして後世に残す必要もあると思う。

                                

日々これ新たなり(10)「STAP細胞の存在は、本当に捏造だったのか」

 小保方さんにSTAP細胞確認のチャンスを与えるべきだ

 理化学研究所の研究ユニットリーダー、小保方晴子さんらが発表したSTAP細胞発見の論文発表で、理研は「論文画像に意図的な改ざんと捏造があった」として、著者全員に論文取り下げの勧告をおこなった。

 筆者は小保方さんを信じている。ないものをあったかのように最初から実験成果を捏造したとは到底思えない。もしSTAP細胞を発見していなかったとしたら、それは重大なミスではあるが研究者には思い込みということがよくある。

 間違いなくSTAP細胞だと断定したものであっても、よくよく精査してみれば違うものだったという間違いはなきにしもあらずである。

 理研の衝撃的な結論に悄然としたが、ここは冷静に考える必要がある。小保方さんが国際的な科学誌「ネーチャー」に論文を発表したとき、筆者はコラムでその快挙を称え特に若い女性研究者を育ててここまで引き上げた研究現場を褒めた。

 画像の不自然さを指摘された後、小保方さんをめぐる研究スキャンダルは、メディ報道でエスカレートする一方だった。研究室のボスとの男女関係など、本来なら研究と無関係な話にまで話題が広がり、 もはや学術研究の話からは遠ざかるようになっていた。

 理研が出した「研究不正」との調査結果に対し、小保方さんは弁護士を通じで猛烈に反発している。彼女のコメントを読むと「驚きと憤り」と表現し、「改ざ ん、捏造と決め付けられたことは承服できない」とした上で「STAP細胞の発見自体が捏造であると誤解されかねない」としている。

 もちろん今回のような論文の場合、あってはならない思い違い、思い込みであっても、研究者はまだ30歳の若さである。研究仮説も研究手法も何もかも経験 不足であった。STAP細胞だと本人が思い込んだことが間違いだったとしたら、共同研究者として名前を連ねているベテラン研究者らに責任がないわけではな いだろう。

 小保方さんから「画像の取り違え」と言われてもにわかには信じ難いし、博士論文の画像を使い回したと理解されても、これを覆すことは困難だろう。だから と言ってSTAP細胞まで捏造したというには、小保方さんが可愛そうだ。現時点ではそう思いたい。彼女が「承服できない」というのは、STAP細胞発見を 信じているからである。

 STAP細胞はあったのかなかったのかという観点で見れば、追試で実現できていないことから考えると「なかった」ようにも思える。しかし真実はまだ分か らない。小保方さんはこのような評価を覆すべく、全力を上げてSTAP細胞を確認して欲しい。そうでなければ、すべては捏造だったということにされてしま う。

 この30歳の若い研究者にもう一度チャンスを与えたい。STAP細胞さえ存在すれば、画像の捏造と糾弾されていることから少しは救われるだろう。すべて 免罪になることはあり得ないが、少なくとも研究者として土俵際に踏みとどまり、再起をかける研究人生に立つことが出来る。

 日本の科学界に汚点を残したことは事実だが、それでもなおSTAP細胞の存在でこの汚点を挽回するチャンスがあることを理研と研究スタッフは考えて欲しい。 そのためには、小保方さんにもう一度、研究現場を用意する必要がある。何もかも奪うことがあってはならない。

 彼女の仕事の主要な部分は、ハーバード大学で行われているようだ。しかしハーバード大に頼らず、理研は研究現場を提供するべきだ。結果としてSTAP細胞の存在が確認できなかったとしても、その成否を確認することは日本の研究現場の責務である。

 小保方さんの研究未熟さを、日本の研究現場がカバーする必要がないという意見も出るだろう。しかしそれを超えて成否の決着をしなければならない。それは若い研究者のためであり日本の科学研究のためでもある。

                                

日々これ新たなり(9)「アホウドリの研究にかけた長谷川博先生」

                               
                 
 この写真は長谷川先生のHPからの転載です

  退職記念パーティに集まった仲間たち

 絶滅に瀕していたアホウドリを復活させ、この鳥の生態の研究に人生をかけた長谷川博・東邦大学理学部教授の退職記念シンポジウムとパーティが、2014年3月8日、東邦大学習志野キャンパスで開催され、長谷川先生の研究仲間と友人、知人が集合して盛り上がった。

 
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  長谷川先生の人をそらさないお人柄と明るいキャラクターは、多くの人々に愛されてきたがこの日のパーティもそのような雰囲気が会場を包み込み、楽しい懇談の宴だった。

   35年ほど前、東京・晴海ふ頭に接岸した船から降り立った長谷川先生を筆者が呼び止めたことから、先生とのお付き合いが始まった。鳥島から帰ってきた長谷 川先生を、筆者は待ち構えていた。鳥島の様子を取材してアホウドリの生息状況を報道しようと意気込んでいた。その当時、確認されているだけで世界で数十羽 ほどしかアホウドリは生息していなかった。

  絶海の孤島となっていた鳥島には、かつて島を埋め尽くすほどのアホウドリが数百万羽生息していた。翼を広げほとんど滑空だけで大空を飛翔するアホウドリの乱舞は、圧倒する光景だったと想像できる。それが翼をたたんで陸上にいるときは、よちよち歩きですぐに捕獲できる。 

 良質な羽毛は、 羽根布団の材料として大正時代から昭和時代にかけて貴重な日本の輸出製品になっていた。鳥島に上陸した日本人が鈍感なアホウドリを撲殺してその肉と羽毛を ほしいままに略奪した。その乱獲によって、アホウドリは瞬く間に絶滅に瀕することになる。 太平洋戦争で負けた日本にやってきた欧米の生物学者は、アホウ ドリの生息を調べたがその個体を確認できず、一時は絶滅宣言されたこともあった。

 しかしアホウド リは奇跡的に生き延びていた。その証拠写真を偶然にも撮影していたのは読売新聞のカメラマンだった。 その歴史的な写真は、読売新聞社のデータベースに保 管されており、撮影者も生存していた。長谷川先生と一緒に興奮してそのカメラマンにインタビューに行ったこともあった。

  アホウドリの復活は日本人の使命

  絶 滅に瀕していたアホウドリを復活されるのは、日本人の使命であると長谷川先生は考え、京都大学卒業後には、アホウドリの研究家に転じた。 研究家と言って も、まずアホウドリの種の保存に長谷川先生は取り組んだ。毎年、繁殖期の冬季になると、八丈島から漁船をチャーターして単独で鳥島に上陸した。

 アホウドリの生 態を研究するだけでなく、アホウドリの繁殖地を安定されるために、ハチジョウススキを移植する作業を単独で始める。 アホウドリが崖地に卵を産んでも、卵 が転がっていく危険性をハチジョウススキを植えることで防止し、少しでも繁殖ができる環境を整える取り組みをした。そのような活動を知った筆者は、長谷川 先生のその取り組みを読売新聞や系列の日本テレビで報道することで支援しようと考えた。

  地道な研究活動を報道することで世間の耳目を集め、研究費確保に結び付けられると考えたのである。長谷川先生はそのときのことを覚えていて、この日の退職記念パーティの会場でも「私の研究活動のプロデューサーです」と筆者を持ち上げてくれた。

  そのような地道な努力が実を結び、アホウドリはいま世界中で優に1000羽を超えるまでに復活した。「もう絶滅することはありません」と誇らしげな手紙を先生からもたったときは、わがことのように嬉しかった。

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 記念パーティで乾杯をする長谷川先生ご夫妻
 

 オキノタユウと改名する日が来るだろう 

 長谷川先生の研究活動は、アホウドリ復活にかけたものであり、特異な研究活動であった。しかしこれが終わったわけではなく、長谷川先生の研究活動はまだまだ続く。そのひとつがアホウドリの改名である。 アホウドリとは、簡単に撲殺できる阿呆な鳥という意味で付けられた。

 英語名はアルバトロス(albatross)であり、ゴルフをする人なら憧れの呼称である。ゴルフでパーから数えて3打少なくホールを終えるのがアルバトロスである。ダブルイーグルとも呼んでいる。 

 大空を飛翔するアホウドリの姿を長谷川先生は「たとえようもなく美しい」と語っている。その鳥の呼び名がアホウドリとは余りにひどい。英名ではalbatrossであり、ゴルフ競技でもアルバトロスは尊敬される呼称になっている。 それが日本ではアホウドリとは余りにひどい。

 そう考えた長谷川先生は「オキノタユウ」と和名にすることを提唱し、自身ではずっとこの和名を使っている。これは日本での鳥の公式名を変えることになるので容易に改名することはできない。しかし長谷川先生は諦めない。 この日のシンポジウムでも、2050年ころには間違いなくアホウドリの復活が世界的に認められるだろう。そのときこそオキノタユウに改名するときだという提案に、会場は大きな拍手で沸き返った。

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 写真は、記念パーティで配布された「長谷川博新聞」。一面トップには、アホウドリが太平洋を埋め尽くすという夢のニュースが特報されている。絶滅宣言 から奇跡的に回復した種として、アホウドリは永遠に語り継がれるだろう。その第一の貢献者は長谷川先生であり、アホウドリとともにその名を永くとどめるだ ろう。

                                

日々これ新たなり(8)「死の灰」という言葉を創った辻本芳雄氏

  1954年3月1日、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で、アメリカが水爆実験を行った。1946年から20回以上の水爆実験をビキニ環礁で行っ ており、この日の実験は最大規模のものであった。広島に投下された原爆の1000倍以上の威力があったというから、聞くだけで恐ろしい話である。
 ビキニ 水爆 
 
爆発実験直後に、空からハラハラと灰が降ってきた。放射性物質を含む「死の灰」である。当時、ビキニ環礁付近を航行していた静岡県のマグロ漁船「第五福 竜丸」の乗組員23人が死の灰に触れて被ばくし、無線長の久保山愛吉さんが半年後に亡くなった。周辺の島々に住む人たちも被ばくし、長い間、健康被害を訴 えることになる。

 あれから60年経った。メディアが一斉に被爆60年の報道をしていた。 筆者はこの事件が発生した当時、中学生だったので、記憶はおぼろげながら残っている。大学卒業後に読売新聞社に入社した。そこで最初に出会った人が辻本芳雄氏だった。

 体格のいい人で、言葉遣いに関西弁の名残りを残したやさしい響きを持っており、初対面から親しみの持てる人だった。この人が、読売新聞社会部の敏腕記者 だったことはすぐに分かった。名文を書くだけでなく、ニュースセンスを持った優れた社会部記者だったことを多くの先輩記者から聞いてびっくりした。

 何かのときに辻本氏は「死の灰という言葉を創ったのはわしや。デスクをしているとき、漁船員が振ってくる灰に被爆した話を聞いて、そりゃ死の灰やと言っ たら見出しになった」と語った。写真は当時の読売新聞の紙面である。「死の灰」という言葉が世に出た最初の紙面であり、この言葉はたちまちジャーナリズム の世界を席巻することになる。 

 
 

 その話を聞いて驚いている筆者に、辻本氏は「原子爆弾が爆発する理屈も、放射性物質の恐ろしさも、実は新聞記者のほとんどが知らなかった」と打ち明け た。この事件が発生した直後、東大の原子核物理学者を社に来てもらって講義を受け、にわか勉強をしてその理屈と恐ろしさを知ったという。

 辻本さんは新米記者だった筆者に、知識はなくても勉強すれば新たな知識を蓄積できるという当たり前のことを語り、普段から知識の吸収を心がけるようにさ としたのである。辻本さんからは、時たま声をかけられて飲みに連れて行かれた。自宅を訪問して有意義な話を聞いたことが何回もあった。それはジャーナリス トとしての心構えであり、 取材にかける記者魂の真髄を語ったものでもあった。

 辻本さんは社会部長から編集局次長を務め、その後「昭和史の天皇」という長期連載のデスク兼執筆者となった。「昭和史の天皇」の連載は、その後菊池寛賞 を受賞している。受賞の報を聞いたとき、胸が熱くなったことを覚えている。筆者はそのころ、日曜版に連載をはじめた「人間この不可思議なもの」という大脳 生理学と分子生物学を解説する長期連載を社会部の中澤道明デスクと2人で取材・執筆していた。

 社会部のラインを離れ、別室に取材拠点を構えたが、それは辻本氏が執筆している部屋だった。辻本氏が原稿用紙に書き付けている姿を、いまでもありありと 思い起こすことが出来る。取材から帰って部屋に入り、辻本氏が原稿用紙に鉛筆を走らせている姿を見たとき、奮い立つような気持ちが沸き起こった。 新聞記者として圧倒的な存在感があった。

 丸々一年間だった。辻本氏のすごそばで記者業を出来たことは望外の幸せだった。辻本氏の謦咳に触れる機会があったればこそ、その後の活動といまがあるのではないか。ふとしたときに、そのような感慨を持つこともあったが、これを誰にも語ったことはなかった。

 しかし第五福竜丸事件から60年のニュースを見聞しているうち、辻本氏と筆者は並々ならぬ縁で結ばれていたことに気がつき、にわかに筆をとった。辻本氏ご夫妻は、筆者の結婚式の媒酌人でもあった。茫々とけむる往時の日々を想い出させた「死の灰」の報道であった。

                                

日々これ新たなり(7)都知事選の結果を総括する

  過去ワースト3の低投票率に泣かされた細川護煕さん

 東京都知事選は、自民、公明両党の推す舛添要一氏が当選した。筆者が願っていた細川護煕知 事の実現は夢と消えたが、その主張と選挙運動の実績まで消滅したわけではなく、即脱原発運動の火種を残したことは間違いない。今後、既成の原発利権と脱原 発技術開発志向のせめぎ合いが続くだろう。

 投票率46.15パーセントとは、驚きの数字である。前日、記録的な大雪に見舞われた東京 だったが、投票日の日曜日はまずまずの天気だった。しかし蓋を開けてみればこの数字である。投票行動が、大雪の後遺症に阻まれたのだろう。投票率が低けれ ば、組織的に運動を展開する候補者に有利になる。舛添、宇都宮両候補の票は、その基礎票だけだったのではないか。

 それにしても細川・小泉両首相の街頭演説には、多くの人たちが足を止め、拍手や声援も多 かった。銀座で行われた舛添候補と細川候補の演説会を筆者も聴いたが、人も熱気も細川さんの方が格段に多かった。各地の演説会でも同様だった。しかしこの 熱気が、そのまま票となって現れなかった。

 その原因として考えられるのは、細川さんの政策の内容が、有権者に正確に伝わらなかったか らではないだろうか。即脱原発の内容もそうである。筆者は、なぜいま脱原発なのか、なぜ都知事選の政策テーマになるのか、なぜ首相経験者が立ち上がったの かなどについて、友人・知人に片っ端から説明して細川支援を訴えたが、言われるまで細川さんの脱原発の理由や動機が分かっていなかった人が多数だった。

 硬い公明党支持者に説明し、舛添候補から細川候補へ「寝返る」ことに成功した例が5人ほどあった。この体験からしても、運動する日数が足りなかったのだと思う。逆にきちんと説明すれば、理解度が格段に高まったと思われるだけに今回の選挙結果は本当に無念残念である。

 NHK、新聞各社などの事前の世論調査によると、有権者に関心があるテーマは医療・福祉、景気や雇用、原発・エネルギーなどの順になっていた。即脱原発を主張した細川さんが、相対的に不利になることは当初から危惧されていた。

 2月10日に掲載された読売新聞朝刊の出口調査結果は、239投票所での投票者、8180 人から回答を得たものであり、統計的にはかなり参考にできる内容である。これによると投票先(候補者)を選ぶ際に重視した政策は、原発などエネルギー政策 をあげた人は、細川さんに投票した人の62パーセントでダントツであり、舛添候補への投票者はきわめて少なかった。宇都宮候補も医療や福祉が重視されて投 票されていた。

 無党派層がもっとも重要視した政策は、原発などエネルギー問題が最も多く24パーセントであり、次いで医療や福祉が18パーセント、景気や雇用が16パーセントだった。 無党派層がもっと投票所に足を運べば、違った得票率になっただろう。

 即脱原発問題はこれから本格化する課題である

 来年4月は統一地方選挙である。原発は地方に散在しておりその地域では最重要関心事になる だろう。脱原発で自然エネルギーを開拓するという課題は、技術立国の日本にとっては魅力あるテーマである。日本列島近海には、日本のエネルギーの100年 分のメタンハイドレートが眠っているという。

 メタンハイドレートを海底からくみ上げる技術開発に成功すれば、日本はエネルギー大国にな る。そのような具体的なテーマがありながら、国をあげてこのエネルギーの実用化に取り組む姿勢は出てこない。これは原発などの利権集団が、他のエネルギー 開発を消極的にブロックしているからと筆者は見ている。

 積極的にブロックすれば目立つが、他のエネルギー開発を無視したり開発予算も積極的につけ ないように放置しておくのは消極的ブロックである。エネルギー政策を国家的な視点で考えるのではなく、既得権益や事勿れ主義の中で考えているとしか思えな い。 企業・政治家・官僚・ジャーナリストの既得権益集団である。

 危険な地殻に立地されている日本の原発

 日本列島の地殻は、地球を覆っている4枚のプレートの衝突部に位置しており、世界的にも大地震多発国である。世界中でこの90年間に発生したマグニチュード7以上の地震は900回ほどあるが、そのうち約10パーセントは日本で発生している。

 マグニチュード8クラスの巨大地震は、日本海溝、南海トラフなどに集中して発生しているの だから、日本は元々原発の立地には適していない国なのである。細川さんを支援した小泉元首相も、「原発は安全、コスト安と専門家に言われて信じてきたが、 この大震災とその後の対応で間違いであることが分かった。脱原発して2年も経っている。再稼動する必要はない」と訴えた。

 万一、原発立地地帯に直下型大地震が発生して原発大事故につながれば、甚大な被災をこうむるだけでなく日本は世界から信用を失うだろう。そのような危険と隣り合わせでいるのだから、脱原発から新エネルギー開発に舵を切ることは最重要課題である。

 細川さんの知事選敗退は、終わりの始まりである。いまこそ脱原発から自然エネルギー開発への機運を盛り上げなければならない。

 

日々これ新たなり(6)「過ちては改むるに憚ることなかれ」

 
 「過ちては改むるに憚ることなかれ」=過ちを犯したことに気がついたら、体裁や対面、立場などにとらわれず、ただちに改めるべきだ。

  2014年2月2日、東京・銀座4丁目交差点で、細川護煕・都知事選候補の立会い演説のとき、小泉純一郎元首相の言ったこの言葉が頭から離れず、翌朝になっても小泉さんの絶叫を思い出していた。
 小泉さんは、行政トップの首相のときに、原発は安全でコスト安だと専門家に言われ、原発推進政策をしてきた。細川元首相も同じだった。

 しかし、大震災のあの原発事故を体験し、ヨーロッパ諸国などの実情を検分した結果、その知 識は誤りだったと分かった。小泉さんは、ドイツが脱原発に踏み切ったことや、自然エネルギー実現を目指して本格的に開発に取り組み始めたヨーロッパの国々 の実情を検分してきたことを語った。そしてこう絶叫した。

  「過ちては改むるに憚ることなかれ。私は騙されていた。それが分かったいま、これをただし、脱原発に舵を切った。若い世代に原発を残してはならない。細川さんと私の(元総理経験者の)2人がやむになまれぬ気持ちから立ち上がった」と訴えた。
 ライオン髪を振り乱して訴えたあのポーズとあの場面が、脳裏に焼きついて離れない。 

 この言葉に感動した。日本の総理大臣経験者で、国の根幹に関わるような政策について、過去の不明を国民の前で明確に語った人は初めてである。反省したのではなく、ここで明確に過去の不明、つまり過ちを認めて新たな政策転換に舵を切ったのである。

 2人の首相経験者が、同じ思いで都知事選で訴えていることを日本国民は真摯に受けたとめなければならない。 政治家に限らず企業人であれ組織のトップに居座っている人であれ、自身の過去の失敗や不明に直接関係する事がらを検証することを好まないのが普通である。

 まして自身の不明や瑕疵をあからさまに自ら語り、しかも方向転換することまで一般大衆の前 で宣言することは、歴代の政治家にはなかったことだ。 小泉元首相は、原発の安全性を信じてきた過去の「不明を恥じる」とまで国民の前で語った。そうまで語った元首相の脱原発宣言は、信念から出た言動である。 細川さんも同じである。

 小泉・細川両氏が自身で語っている要旨を言えば「原発を稼動していく負の遺産を後世の若い人たちに残してはならない。いま、われわれ(老年)が立ち上がらなければならない責任がある」との訴えは、真摯に受け止めるべきである。

 小泉氏は、演説の最後に声をからして訴えた。「われわれ(自身と細川氏)は、年も年だし長く活動できるものではない。しかし原発の問題は、若い世代の問題だ。是非、若い人たちに考えてもらいたい」(要旨)。若い世代の決起を呼びかけたものであった。

        

日々これ新たなり(5)「STAP細胞の発見に見る若い才能を伸ばすようになった日本の研究現場」

  STAP細胞の発見に見る
「若い才能を伸ばすようになった日本の研究現場」

 第3の万能細胞「STAP」を作成した理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの小保方晴子さん(30歳)とその共同研究者の成果は、日本の科学研究現場が間違いなく様変わりしてきたことを実感させたビッグニュースだった。
 ここで筆者が主張することは、小保方さんの才能の顕彰ではなく、彼女の才能の華を開かせた日本の研究現場への賞賛である。

 動物の組織・器官を製造する遺伝子を備えてコントロールする細胞は、長い間、神が作った領域のものとして私たちは崇めてきた。しかし科学の進歩、平たく言えば人間の飽くなき好奇心がこの聖域を徐々に侵し始め、神の領域の扉を少しずつ開き始めた。
 ノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の山中伸弥教授が発明したiPS細胞は、人工的に神の領域に踏み込み、人類の手で生命活動をコントロールできることを実証して世界中を驚かせた。

 小保方さんの成果は、iPS細胞の作製で難しい手法となっていた手順をきわめて簡略化し、臨床応用のときに危惧を抱かせていたがん化のリスクを低減できる可能性も示唆する画期的な手法の開発だった。
 この成果は再生医療の決定打になるだろうか。そうはいかないことを筆者は自信を持って主張することができる。科学研究には、自然現象の究極的な真理の発 見以外、決定打というものはほとんどない。画期的な成果の次に新たな研究テーマが提起され、その命題でまた科学者たちは必死に取り組む時間が与えられる。 科学研究の歴史的な流れを見ていると、数十年単位で展開されるその繰り返しである。

 多くの報道では、小保方さんの30歳という若さに焦点を当てているが、筆者はそれよりもこの若き才能を伸ばしてきた日本の研究現場の成長に、眼を見張り 賞賛したい気持ちになった。山梨大学の若山照彦教授と理研という組織とそのスタッフたちは、日本の科学研究現場の近代化に大きな貢献をしたと言っていいだ ろう。

 小保方さんがこの成果のきっかけに気がついたのは、留学先のハーバード大学で24歳のときだった。これは不思議でもなんでもない。この年代の頭脳は、過去の科学実績にとらわれず柔軟に独自の発想を膨らませる時期なのである。
 20世紀最大の物理学者とされるアルバート・アインシュタインは、スイス特許局の職員をしていた26歳のときに、光電効果に関する論文や特殊相対性理論を発表している。
20世紀最大の生物学の発見とされている遺伝子の塩基配列を解明しジェームズ・ワトソンが偉大な発見をしたのは25歳のときである。
 量子力学と生命科学の創始につながる偉大な業績を作った二人の天才は、かくも若き年齢でこのような成果を打ち立てた。

 日本人にもいる。2002年に「生体高分子の質量分析法のための穏和な脱離イオン化法の開発」でノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一さんが、この成果を発見したのは26歳のときだった。
 「ノーベル賞をもらうほどの画期的成果」を社員が出しておきながら、島津製作所はこの成果を企業活動に生かすことができず、それを生かして産業界に貢献したのはヨーロッパの企業だった。

 小保方さんの成果は、産業現場でなく学術現場でのものだが、彼女のひらめきとその実績を公正に評価し、後押ししたのは若山教授と理研の研究スタッフである。日本の研究現場は長い間、ともすれば出る杭を打ち若い才能を伸ばしきれないできた。
 芽を出しかけた才能に気がつかず、みすみすつぶす結果をつながることも数多くあった。長い間、科学研究現場を取材してきた筆者は、そのような事例を多数見てきた。
 しかし今回は、小保方さんの才能を認め、それを支援して画期的な成果へとつなげた点で日本の研究現場の進歩を見たと思った。

 小保方さんがノーベル賞に届くような成果をだしたことは間違いない。これが本当にノーベル賞に輝くかどうかは、このSTAP細胞が臨床実験に結びつき、さらに実際に再生医療現場で数々の実績を残したときである。
 常識的に考えれば10年かかる。しかし10年経っても小保方さんは40歳という若さである。日本の研究現場は、栄冠に向かってこの芽をさらに伸ばしてもらいたい。
 久しぶりに美味しいお酒を飲むことができた。
 有難う小保方さんとその研究仲間たち。

                               

日々これ新たなり(4)「大学の競争力とは何か」

                               
                 

  「めざせエベレスト! 山は登ろうと思わないと登れない」

  このようなスローガンを掲げて大学経営の年頭の方針を発表したのは、東京理科大学理事長の中根滋氏である。恒例になっている新年茶話会で、理事長ビジョンを5つのあるべき魅力としてパンフレットにまとめて出席者に配布した。

 第1の魅力は、科学の基本を学べる大学である。第2の魅力は、教えるのが世界一うまい大学 である。第3の魅力は、女性にも若手にも十分な自己実現のチャンスが開かれている大学である。第4の魅力は、卒業生がその大学生であることを誇りに思って いる大学である。第5の魅力は、世界がいちもく置く大学である。

 5つの魅力には、さらに各論的にあるべき大学の経営、方針が盛り込まれている。新年にあ たって、大学経営の最高ポストにいる理事長が、このように発信した姿勢に好感を持った。企業にあっては、よく見られることかもしれないが、大学経営者が大 学の教職員と学生に向かって、新年早々発信したその姿勢を評価するとともに、大学の競争力とは何かを筆者なりに考えてみた。

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 写真は、新年茶話会の3次会に、たまたま集合したメンバーの記念写真。 写真では、にこやかに笑っている面々だが、ここでかなり熱い論議が展開された。後列左端の中根理事長のお顔の表情に、その雰囲気が少々残っている。

 大学は研究と教育が双璧である

 筆者は読売新聞論説委員を最後にリタイアした後、縁があって母校の東京理科大学知財専門職 大学院の常勤教授として6年間勤務した。それまで母校とは縁もゆかりもなかったが、写真の前列右端にいる前理事長の塚本桓世氏から2003年に突然呼び出 しを受け、それから東京理科大学にかかわるようになった。

 取材する立場にあったときは、多くの大学人と会見し論議する機会があった。そのほとんどは 研究者である。新聞記者がニュースを求めて取材に行く研究者は、トップクラスの実績を出している研究者である。教育者としての大学人に取材したこともある が、やはり大学トップの人か特別の実績を誇っている人に限られていた。

 つまり筆者の体験では、日本のトップクラスの大学人、研究者と教育者から研究内容や見解を 聞き、それを社会に伝える役をしていたことになる。自分が大学の教員になったときに、今度は大学の当事者としての立場に立ったことを意識し、それまでの取 材内容を考える機会がたびたびあった。

 過去の取材で蓄積した人脈があればこそ、多くの難問を解決する手段が見つかり、その活動の中で自分を磨く機会も出てきた。筆者は教員という立場よりも、学生、研究生という意識を持つことにし、自分の研究室に所属した院生諸君とともに研鑽する日々でもあった。

 筆者が担当した科目は、知財戦略論、科学技術政策論であり、このほかに修士論文を書く院生 諸君を指導する立場になった。自分自身を客観的に見れば、知的財産に関する法律や制度を学術研究してきたものではなく、ジャーナリストとして知的財産に関 わる内外の動きや政策を見聞し、本に書いて発表してきた実績はあった。

 つまり筆者にとっての専門知識は、実学で蓄積した知的財産に関する情報であり、ジャーナリ ストとしての勘から得られる内外の動向とそれへの対応の検証である。たとえば筆者は、中国が驚異的な速さで工業化へと発展するその状況をつぶさに観察・検 証し、それと同時平行で雲が沸く如く出てきた模倣品被害の実体の取材と中国の知的財産制度の動向取材であった。

 このテーマには、誰にも負けないと思うほど中国通いをして現場から取材し、その視点で「中国ニセモノ商品」(中公新書ラクレ、2004年)と「変貌する中国知財現場」(共著、日刊工業新聞社、2006年)の2冊も上梓した。

 顧客満足度にこだわった

 大学の顧客は、学生・院生である。特に筆者が教員をしていた専門職大学院とは、社会で実務 上役立つ人材を育成する大学院である。学術研究だけではなく、実務的な研究をすることが最大の目標になる。在籍する院生は、学部からストレートに進級して くる院生と、社会人の学び直しに大別される。

 筆者が教員として最も意識していたことは、顧客満足度である。学部から進級してきた院生の 最大の目的は就職活動にある。自分の希望する企業や機関にうまく就職できるかどうか。社会人院生は、個々人の目標があるので多面的になるが、知的財産とい うキーワードでくくることができる。

 このような個々人、つまり顧客がいかに満足するか。満足してもらうために教員として何をす るべきか。それをいつも考えていた。 学術的な知識を蓄積した教員ではなかったが、現場取材で鍛え上げた情報だけは、誰にも負けないという自負があった。そうでなければ専門職大学院の教員は勤 まらない。

 いま、筆者の過去を振り返りながら自己反省もしたが、教員の役割は現場を離れても捨てたわ けではなく、研究室を出て行ったOG、OBとのつながりは大事にしているし、これからも共に研鑽する日々になるだろう。大学の競争力とは、中根理事長がス ローガンとして掲げた文言はむろん意味があり、これは教員、学生たるもの意識の底にいつもしみ込ませておく必要があるだろう。

 日常的に活動する教員にとっては、研究以外にも雑多な仕事があり、筆者が最も力を入れてき た就職活動や社会人院生との共通認識に立った実践研究こそ、大学の競争力の末端を支える要因になっていると確信している。その観点に立っている大学教員 は、どれほどいるのか。そういうことを知りたいと思うこともあった。

 中根理事長の年頭スローガンは、多くの示唆を筆者に残し、そしてこれからの活動に道筋をつけたものでもあった。

                                

日々これ新たなり(3)「安倍首相の靖国神社参拝に想う」

  安倍首相が、12月26日、靖国神社を参拝しました。この時期に参拝したのは、「政権一年、不戦の誓いのためだった」と語っています。

 これは一国を代表する首相の行動と発言としては、甚だ個人的な行動と感慨であり国民を代表する立場のものではない軽率な言動と思いました。靖国神社は誰 もが知っているように、これまで日本が関わってきた戦争で命を落とした英霊を祀ってある神社です。その神社を参拝することに誰も異議をとなえません。

 しかし国を守ろうとして命を捨てていった多くの兵士の純粋な命と、太平洋戦争の開戦を主導し廃墟と化すまで戦争を遂行した当時の日本の指導者が、一緒くたに祀ってあるところに筆者は甚だしい違和感を持っています。

 筆者に言わせれば、あの太平洋戦争を主導した当時の日本の指導者は世界の歴史に残る愚者でした。

 「純粋な魂と愚者の魂」を一緒くたに祀ってあるところに筆者は違和感を覚え、靖国神社の神殿の前まで行くことがあっても手を合わせたことはありません。

 家族を思い国を思い、帰還率ゼロの戦闘機に搭乗して太平洋の藻屑と消えていった若き特攻隊員や、母国から遠く離れた島々や地域の劣悪な戦場で散っていっ たおびただしい兵士たちと、終戦時まで愚考の日々の中で生き延びてきた指導者が、一緒くたに祀ってある神社に手を合わせることはできません。

 まして、安倍政権発足から1年などという節目は、安倍首相の個人的な感慨であり、日々苦楽を体験して生きている大半の国民にとって、安倍政権1年目などなんの意味もありません。そのような個人的なことを理由にあげることには、国民として恥ずかしい思いでいっぱいです。

 歴史作家・司馬遼太郎は、次のような言葉を残しています。

 「大東亜戦争は、世界史最大の快事件であろう。常識で考えても敗北と分かっているこの戦争をなぜ陸軍軍閥がおこしたのか」、「昭和軍閥を動かした連中 は、陸軍人であったが日本人ではなかった。われわれ日本人は、陸軍人という人種によって国家や家庭を破られた」(司馬遼太郎の著作より引用)

 昭和天皇は、毎年、靖国神社に参拝していましたが、東京裁判のA級戦犯が合祀されていることが判明した年から参拝をやめました。今の天皇陛下もそれを踏襲しています。それには重い意味があると斟酌するのが常識です。

 まして、近隣の国が外交問題にしようと手ぐすね引いて待っている問題に、首相自ら火をつけるという愚挙に対し断固として抗議します。

 このような浅慮の指導者と国という現実を世界に発進したことに、暗澹たる気持ちになりました。

                                

コラム・日々これ新たなり(2)「中国の月探査実現はIT産業革命の象徴だ」

                               
 中国の月への軟着陸成功は世界で3番目

 中国の月面探査車が活動を始めた。中国の宇宙探査の実力は、この10年であっという間に世界トップレベルへと躍り出てきた。驚くべき進展である。先ご ろ、「嫦娥(じょうが)3号」が月面に軟着陸し、月探査車の「玉兎(ぎょくと)号」がゆっくりと滑り出し、月面にわだちを付けた実績は、1966年の旧ソ 連、米国についで世界で3番目である。

 宇宙探査技術は、先端技術の粋を集めたものであり、一国の技術水準の指標とみなしてもいい。中国が21世紀に入ってから次々と宇宙活動を進展させてはいたが、このような短期間に月面活動まで達成できるとは世界中のほとんどの科学者は予想していなかったのではないか。

 筆者は、アメリカのスペースシャトルの打ち上げで2回、旧ソ連のソユーズ打ち上げで1回、それぞれ現地まで取材に行っている。 轟音とともに天を目指して上昇していくロケットの迫力と、そのロケットを地上からコントロールする「ミッション・コントロールタワー」を見ると興奮せざる を得なかった。

 米国フロリダ州のケープケネディの打ち上げサイトには、大勢の見物人が集まっていたが、上昇していくロケットを仰ぎ見ながら感動で涙を流している人もいた。人間が搭乗したロケットが宇宙を目指して上昇していく光景は感動を呼ぶのである。

 トータル・サイエンスを駆使する宇宙活動

 地球周回軌道に乗った宇宙船を地上からコントロールする基地は、打ち上げサイトとは別の都市にある。米国の場合、ヒューストンでありソ連の場合はモスクワにあった。打ち上げるとすぐに、飛行機でヒューストン、モスクワに移動して、宇宙船の飛行を見守ることになる。

 ロケットの打ち上げ、月への軟着陸、月面探査車の地球からのコントロールなど全てを成功に導くには、相当な技術力がなければできない。宇宙で活動する全ての装置の材料も、宇宙の過酷な環境に耐えなければならない。総合的な科学技術力がなければ成功しない。

 中国がこうした科学技術力を急速に力を付けたのは、IT(情報技術)の進展とともにコンピュータ化による「デジタルもの作り」が普及したからである。従来のもの作りの先端技術は、技術開発をピラミッド型に積み上げ、その頂点が最先端技術という姿になっていた。

 しかし1990年代からITの普及に伴って、もの作りの現場はデジタル化が進み、従来のような積み上げ式でピラミッド式に積み上げなくても、いきなり頂 上を目指すことが可能になった。有線電話を引かずにいきなり無線通信による携帯電話が普及したように、旧来の技術の上に立って次のステップへという手順を 踏まなくても、あたかもヘリコプターで頂上に舞い降りるように、いきなり頂点を極めることもできるようになったのである。

 資金力が技術革新を推進する

 中国にとってもう一つ大きなファクターは、カネがあることだ。90年代から「世界の工場」になってあらゆるものを作り、それを世界に供給して「荒稼ぎし た」と言ってもいい。巨額の宇宙開発予算を生み出し、国威発揚、軍事への応用などを視野に入れれば、宇宙開発は中国にとって最も野心的な科学技術プロジェ クトであった。

 ITによる産業革命は、90年代後半から始まっていると筆者は見ているが、その恩恵をもっとも得ているのは中国である。宇宙開発への挑戦と実績という形 になったものを見せられ、IT産業革命の象徴的現象を目撃した気持ちになる。この先中国は、宇宙開発をどのように人類に役立てようとしているのか。

 米国主導で始まっている国際宇宙ステーション(ISS)と、どのように中国は折り合うのか。有人宇宙活動で月面を歩く実績をいつ実現するのか。 興味は 尽きない。中国の先端宇宙技術が、やがて頂上から裾野へと広がり、中国の工業力にどのように影響を波及させていくのだろうか。

 中国の月着陸と月面活動を見て、21世紀の新しい科学技術の動向を見たように思った。

              

     「日々これ新たなり」を新設しました

 この欄は、身辺に起こった雑多な出来事をもとに何かを考え、はたまた素朴な感想や喜びや悲しみや怒りを書くエッセイにしたいと思います。

 11月24日(日)

 最高裁判決を「助かった」と漏らした高村副総裁

 今朝のNHKの日曜討論で取り上げられた一人一票実現運動訴訟に対する最高裁判決について、各党の代表者がそれぞれの主張を出し合った。この中で高村正彦・自民党副総裁は「最高裁判決は助かった」と漏らした。本音がちらっとでてしまったという感じだった。

 この言葉の裏には、「最高裁に助けられた」というニュアンスが色濃くにじみ出ている。立法府と司法府が「阿吽の呼吸」でつながっていることをはからずも語ってしまったのではないか。

 最高裁が憲法に基づいた法理で裁けば、「違憲、人口比例選挙でないから選挙無効」となるのだが、そのような判決では、国会が混乱して困るだろう。ここは 「執行猶予付き違憲」としてこの場を助け、課題先送りにするから国会であと始末はしてほしい。そういう球を投げたものだ。

 国会は、ストライクゾーンから外れた球を見て「助かった」と思い、次の瞬間、最高裁に助けられたとも思っただろう。阿吽の呼吸とは、相手の状況を見て互 いに微妙な気持ちと調子を合わせることである。「阿」は口を開いて発音するので「吐く息」のことであり、「吽」は口を閉じて発音するので「吸う息」のこと である。

 阿吽の呼吸は、物言わずして互いに心情を通わせる雰囲気でもあり、司法と立法がこの手法で互いに利害を分け合ったという言い方でも間違いないだろう。

   

阿(左)吽(吽)の狛犬は神社・仏閣を守っている

 神社や寺院の入り口に獅子に良く似た狛犬が左右に向き合う形で置かれている。この狛犬は、どちらかが「阿」と発し、どちらかが「吽」と発している。阿吽 の呼吸の狛犬は、神社・仏閣の魔よけになっている。 司法と立法は、阿吽の呼吸の狛犬となって、国民世論から自分たちの身を守ったということではないか。

                  

自伝・知財立国に取り組んだ日々 その8

    日本では特許を侵害しているとして企業が訴えられても、侵害を立証するのは原告側だから至難の業である。たとえ侵害をみとめられても、損害賠償金は小額で済むから産業界の間では「侵害し得(しんがいしどく)」という言葉が飛び交っていた。

 実際には大企業間で特許侵害訴訟までいくのは非常に珍しい。侵害の疑いのある揉め事があると、大体はクロスライセンスにして収めてしまう。大企業間のまあまあ体質が知財の世界にも色濃く横たわっていた。

 これが大企業と中小企業になると様相は一変する。特許の権利を持っているベンチャー企業や中小企業と大企業が特許をめぐってトラブルになると、大体は中小企業の泣き寝入りになることが多い。

 たとえば世界的にも知られているある大企業が、ベンチャー企業の技術を盗み、ある製品を大量生産して市場に出していた。侵害は明白であり、ベンチャー企業側からの警告を受けて初めて大企業は和解で切り抜けた。裁判になれば負けると思ったからだ。

 この実例は、聞けば聞くほどあきれてものが言えないという話であった。世に出せばどれだけ、その大企業はダメージを受けるかしれない。これは公表 するべきだとベンチャー企業の社長を説得したが、和解条項の中に守秘義務が入っているので出来ないという。もし、これを破ってまで公表すると、今度はこの 業界では食っていけないとも言う。つまり大企業はダメージを受けないように出来ている。

 侵害を受けた多くのベンチャー企業は、最後まで闘う余力はない。和解内容に多少不満であっても、早期解決を図らないと自社の営業活動に支障が出る。特許がものをいうのは技術力ではなく、その特許を持っている企業の資本力である。

 そのような状況を聞いていたので、1998年(平成10年)度と1999年(平成11年)度の特許法改正の特許庁審議会の委員になった筆者は、声を大にして中小企業からの立場で侵害立証を容易にする法制度の構築を主張した。
 裁判所を代表している委員や大企業の委員は、筆者の主張に反対する意見を述べていたが、この2つの改正では次のような点が改正された。

1998年(平成10年)度特許法改正
・特許権等侵害に対する民事上の救済及び刑事罰の見直し(特許法第102条)
・願書の記載項目中「発明の名称」の削除(特許法第36条)
・先願の地位の見直し(特許法第39条)
・優先権書類のデータの交換(特許法第43条)
・特許料及び手数料の取扱い(特許法第107条、第195条)
・無効審判の審理促進(特許法第131条)
・証明書等の請求の規定の見直し(特許法第186条、第66条)

1999年(平成11年)度特許法改正
・審査請求期間の短縮(特許法第48条の3)
・訂正請求の見直し(特許法第120条の4、第134条)
・審判書記官制度の創設(特許法第144条の2、第147条、第150条、第190条)
・特許等の権利侵害に対する救済設置の拡充(特許法第104条の2~第105条の3、第71条、第71の2)
・特許存続期間の延長登録制度の見直し(特許法第67条~第67条の3、第159条)
・申請による早期出願公開制度(特許法第64条~第64条の3、第9条、第14条、第17条の3、他)
・裁判所と特許庁との侵害事件関連情報の交換(特許法第168条)
・新規性阻却事由の拡大(特許法第29条)
・新規性喪失の例外規定の適用対象の拡大(特許法第30条、第184条の14)
・分割・変更出願に係る手続の簡素化(特許法第44条)
・特許料金の引き下げ(特許法第107条)

 平成10年、11年の特許法改正は、日本の知財現場で大きな転換点となった。改正の重要案件の第1は、特許権等侵害に対する民事上の救済及び刑事罰の見直し(特許法第102条)である。

 そして第2が、審査請求期間の短縮(特許法第48条の3)である。それまで7年間だった審査請求の猶予期間が3年に短縮された。さらに第3は、申請による早期出願公開制度(特許法第64条~第64条の3、第9条、第14条、第17条の3、他)の設置である。

 日本はそれまで、特許大国と呼ばれていた。1986年から95年までの10年間の日本の特許出願件数は、約366万件でありアメリカの約174万 件の2倍である。ところが、生きている特許、つまり活用されている特許ストックを見ると、アメリカは111万件であるが、日本は68万件でしかない。
 さらに特許請求項に書かれている発明の数は、1出願あたりアメリカは日本の3倍になっている。実力はアメリカが抜き出ていることが分かる。

 さらに7年間という審査請求期間の差が、特許取得時期に大きな影響を与えていることが分かった。
 日本の企業が、1985年に日本特許庁に出願し、同時にアメリカとヨーロッパ特許庁にも出願したケースを10年間追跡して比較したものがある。

 日本で出願したものが特許になった件数は、2690件でしかないが、アメリカでは6566件も特許になっている。ヨーロッパでは5374件だ。アメリカでは、出願した件数よりも増えているのは、出願後に分割して複数の出願にしたために増えたものだ。
しかも特許取得時期を比べると、アメリカは出願から3年後にピークがあり、ヨーロッパは5年後、6年後にピークがきている。これに対し日本は9年後にピークがきており、明らかに特許の有効期間で見ると日本は短い。つまり寿命の短い特許を取得していると言うことだろう。
 これでは、世界で技術競争をしても負けるのではないか。たとえば次のような調査結果が出ている。

 平成10年に通産省のイノベーション研究会が出した報告書によると、アメリカ商務省(DOC)がアメリカ人を対象に調査した発明調査の結果は、日 本人にとってショックである。私たちの身近にあるハイテク製品38品目について、発明した人とそれを新製品にした人と商品化した人を、日米欧のいずれであ るかを聞いた調査結果である。

 38品目のうち日本人が発明したものは一つもない。まさかと思うが、原理原則はみな欧米人が発明したものだ。新製品化とは、発明に基づいて製品にするために研究・開発することだが、こちらも日本人は2つしかない。

 ところが、市場へ出す商品化になると、とたんに24品目を占めて圧倒的に強くなる。日本人は商品化することは得意だが、世の中にないものを発明して世に出していく資質が欠けているということになる。

 製品を作る製造工場の工程では、創意工夫して優れた製造現場を作ってしまうが、新しい製品を世の中に出していく才能には欠けている。プロセス・イ ノベーションには強いが、プロダクト・イノベーションには向いていないということになる。これではいつまで経ってもキャッチアップ思考、状態から抜け出せ ないのではないか。

 日本人の発明は、本当に価値があるのだろうか。製品化する技術には優れていても、新製品を生み出す資質にかけている民族なのだろうか。そのような疑問が次々とわいてきたのである。

               
                                
                
 自伝・知財立国に取り組んだ日々 その7
                               
                 

 このシリーズでも触れているように、日本の中央行政官庁が知財重視に大きく舵を切ったのは、1996年7月 に荒井寿光長官が就任してからである。特に「21世紀の知的財産権を考える懇談会(座長:有馬朗人・理化学研究所理事長)」の報告書が世に出てからは、産 業界も学界も特許に強い関心を持つようになっていた。

 筆者は、科学技術の研究開発に取り組んでいる人に会う機会が多かったが、この報告書が出てから、にわかに特許に注目する人が増えてきていることに 気がついた。アメリカの研究者は、「右手に特許、左手に論文」というのが当たり前であり、論文よりも特許を重視しているという話も伝わってきた。

 いま振り返ってみると、あの当時、多くの人たちは、世界が変わりつつあることを感じ始めていたのである。日本の高度経済成長を推進してきた産業技術は成熟し、新しい技術革新を起こさない限り競争力を得ることはできないことを、誰言うともなく肌で感じ始めていた。

 それこそが、筆者が主張してきたIT(情報技術)を推進ツールとした第三次産業革命の勃発である。高度で専門性の高い産業技術でなければ、競争力を得ることはできない。それはとりもなおさず特許に囲まれた技術開発でなければならない。

 品質のいいものを安く、大量に製造する時代は過ぎ去ったのである。誰も考えなかった世界初のアイデアや技術を駆使した製品やそれまで存在しなかった機能を持った製品を開発して市場に投入しない限り、企業は競争力を持つことはできなくなってきた。
 
 基礎研究に裏付けられた大学の研究者たちが開発した技術をもとに、大学発のベンチャー企業を起こしたり、産学連携による技術移転が必要になったのは、産業技術が理論的な限界を追い求めるようになったからであり、それが時代の趨勢であった。

 大学の研究者による基礎研究の成果が実用レベルになるのは、20年から30年かかると言われていた。しかしインターネットであらゆる情報が瞬時に 世界を駆け巡り、コンピューターとソフトが世界中に普及したために、モノ作りの現場が標準化され、いいものを安く大量に生産することは、誰でも出来るよう になっていた。

 日本で、にわかに知的財産権のテーマが浮上してきたのは、このように産業技術の進化と世界的な産業構造の変革によるものであり、知的財産権を取り巻く諸制度もこの変革に合わせたものでなければ産業競争力を得ることはできない。
 しかし特許を取り巻く制度は古びたままになっていた。

 荒井特許庁長官は、その制度の抜本的な改革に乗り出した。法制度は社会の実態があって初めて構築するものであり、法制度は社会が作るものであっ て、法律家が作るものではない。特に特許法を始め知的財産権を取り巻く法制度は、一国の産業競争力の確保という国際的視点も入れた制度でなければ意味がな い。

 それまでの特許制度は、どちらかというと産業界の意見や意向を取り入れるものではなく、行政と法律家主導で構築していた。産業界には、その不満も 鬱積していた。しかしその一方で大企業は、制度が不備であることに気が付きながら、その制度に合わせていくことに精いっぱいであり、特許庁に意見や希望を いうことなどまったく考えていなかった。

 そのころ筆者が企業の特許部の人たちにインタビューして最も強烈な印象を受けたのは、「大事な特許訴訟は欧米でします」と明言していたことだ。企 業同士が特許紛争になった場合、アメリカで訴訟を起こして決着をつけようとしているのだ。自分の国の特許制度や司法判断を信用できない実態を知ってびっく りした。

 そのような状況をとらえて、荒井長官は矢継ぎ早に特許法改正に着手し、後任の長官は弁理士法改正へと動き出していく。
 
 1997年に特許庁長官の諮問機関として特許法改正のいわゆる審議会が設置されその委員に筆者も委嘱された。その第1回の委員会で、筆者は「日本の特許 紛争は、侵害したほうが得するようになっている。原告が侵害を立証することは難しく、仮に原告が勝った場合でも損害賠償金は小額である。これは制度が悪い からであり、抜本的に改正しない限り、知的財産権を重視するような社会は生まれない」という趣旨の発言をした。

 これに対し裁判所の代表となっていた委員から、猛烈に反発する意見が出された。その委員とはその後も、多くのことで意見衝突した。「現行法制度の 枠組み」という考え方もこの審議会を通して知ることになる。要するに制度が先にあって、企業や社会がそれ合わせるのであり、社会の実態に合わせて制度を作 るという考え方ではないように見える。

 この審議会では、特許の侵害に対する民事上の救済や刑事罰の見直しが大きなテーマになってきた。また同時に、特許出願後に7年間という長期間の審査請求期間を設けていることも、もはや世界の潮流に合わない制度であることも指摘されるようになっていた。

 どのような審査であっても、審査請求をするかどうか7年間も猶予期間があるなどとは聞いたことがない。なぜ、7年間の猶予なのか。聞いてみると、特許庁の審査が間に合わないので、審査案件がたまっていく。猶予期間を置いて審査を緩和するという。

 企業側もそれでいいという。とりあえず出願しておいて、事業の展開と技術開発の進展を見て審査請求するかどうかを決める。企業にはその方が都合がいいというのだが、日本の企業全体がそのような制度の中で「都合」よく考えているのではないか。
 筆者にとっては、驚くような制度だった。

                                

自伝・知財立国に取り組んだ日々 その6

   知的財産権の重要性を明確に認識させた最初の知財報告書「21世紀の知的財産権を考える懇談会(座長:有馬朗人・理化学研究所理事長)」の衝撃は、日本の産業界、大学、研究機関、官界、政界などあらゆる分野に静かに広がっていった。

 「知的財産権」という言葉自体が新鮮な響きを持っていた。そのころ一般的に「知的所有権」という言葉が使われていた。これは 「Intellectual Property」を「知的所有権」と翻訳したためであり、国際的な機関であるWIPOは「世界知的所有権機関(World Intellectual Property Organization)」と言われていた。

 この機関名の日本語表記は今でも「知的所有権」と変わっていないが、これは固有名詞として使用した場合は変えないという慣習に従ったのだろう。

  「21世紀の知的財産権を考える懇談会」の報告書が出てから間もなくである。法律専門書の出版社である法学書院から、工業所有権の初歩的な啓発 書を書いてほしいとの出版要請が持ち込まれた。特許、実用新案、意匠、商標の4権を工業所有権と呼んでおり、その慣習で工業所有権だという。

 この連載の「その4」でも書いたように、当時の特許庁長官、荒井寿光さんと共著で特許に関する本を出そうとしても引き受ける出版社がない。それで 断念した経過があったから喜んで引き受けることにした。出版社の意向を聞くと特許庁長官と共著で出すような内容ではなく、初歩的で一般啓発書を求めてい た。

 そのころ筆者は「21世紀構想研究会」を創設し、多くのベンチャー企業創業者、官僚、大学人と討論する機会があったが、一般的に知的財産権という 認識はまだ希薄であった。21世紀構想研究会の事務局を手伝っていた弁理士の伊藤哲夫さん、主婦の君島美那子さんらと話をしているうち、3人で共著にしよ うという話になった。

 伊藤さんは、26年間にわたって特許庁の審査官、審判官、審判長などを務めた知財のプロであり、君島さんは大学を卒業後、出版社に勤めており著作権についてのプロである。それぞれの分担を決めてまず目次を作った。
 
 編集者と何度か打ち合わせをしたが、出版社の意図は初歩的な知識の啓発だから本のタイトルにも「やさしい」という言葉を付けたいと言う。そのとき、知的 財産権という言葉を使うか知的所有権とするかで意見が割れた。出版社側は「知的所有権」でいきたいという。まだ、知的財産権という言葉は市民権を得ていな かった。

 結局、本のタイトルは「やさしい知的所有権のはなし」(法学書院)と決まり、3人の分担執筆で取りかかった。この本をいま広げて見ると、初歩的な 知識のほかに当時の知財の話題がかなり盛り込まれており、「21世紀の知的財産権を考える懇談会」の報告書からの引用もされている。

 教本的な知識だけでなく、知的財産権の初歩的な知識を、興味を持たせて読ませようという意図が感じられる。知的所有権という言葉は、2002年7 月3日に策定された政府の知的財産戦略大綱で、明治時代以来用いられてきた「工業所有権」が「産業財産権」と改められ、「工業所有権法」も「産業財産権 法」と改められた。同時に「知的所有権」も「知的財産権」と改められ、新しい時代の到来を告げることになる。

 1998年1月10日付けの読売新聞社説は、「日本活性化」という総合見出しの中で「技術立国めざし基盤整備を急げ」というタイトルで筆者が書い ている。新年を迎えるとどの新聞社の社説も、政治、経済、国際、社会、科学技術などのテーマで毎日、大型の社説を書くことになっていた。

 その慣例で筆者は、科学技術分野で書いたものだが、いま読んでみるとまずユニークな書き方をしていることにびっくりする。インクスの山田真次郎氏 の実名を出し、あたかも連載物の冒頭のような書き出しで社説を書き始めている。そして自動車1台の部品は約2万点あり、その情報がデータベースとなり、自 動車製造工程がコンピューター化されてきた現場を紹介している。

 そのころからあらゆる製造現場では、コンピューターによる設計へと様変わりし始めており、コンピューターに内蔵されたデジタル情報でモノ作りを完 結し、物理的な製造物は最後の工程で出てくる。モノ作りの現場で活躍した熟練職人は必要性が小さくなり、コンピューターが幅を利かす時代に入ってきたので ある。技能が技術化されて、デジタルファクトリーという言葉も出てきた。

 山田真次郎氏は、その状況を「情報工業化」と命名し、独自の構想を実現するため果敢にITモノ作りを目指し、工程の改革に挑戦していた。社説の前半は、山田氏の挑戦と製造現場の変革を語りながら、いま起きている変革に対応しないと日本は沈没することを警告している。

 そして社説の後半は、アメリカの知財戦略を紹介しながらこのIT変革に勝つためには知的財産権を強化し、特許裁判所の創設を含めた知財の体制強化 を主張している。さらに大学と国研の制度が古びていることを指摘し、国研の再編と大学研究現場の活性化を激しく主張している。1998年当時の科学技術、 研究開発、大学、公的研究機関、知的財産分野などの課題がすべて網羅されているような社説になっている。

 この社説が掲載された前日の1998年1月9日、ノーベル化学賞受賞者の福井健一博士が亡くなった。筆者にとってもっとも入魂にお付き合いした科 学者の一人であり、欧州と国内を一緒に旅行する機会が数多くあった。その道々、福井先生から示唆に富んだ話をたくさん伺った。その類まれな洞察力と日本の 科学研究現場に常に想いを致してやまなかった偉大な科学者であった。

 筆者は、1月11日付け社説で「寛容の自然観を説いた研究人生」とのタイトルで追悼文を書きあげた。ゲラを読んでいるとき、福井先生の在りし日の姿が彷彿と湧きあがり、活字がかすんで見えなくなった。
 福井先生は、特許には非常なこだわりをもっている科学者であり、日米欧で35件の特許出願をしていた。

 福井先生はそのころから、野依良治博士のノーベル賞受賞は間違いなしと予言していたが、野依先生はその予言通り2001年にノーベル化学賞を受賞 する。野依先生はその当時、日米欧で270件の特許出願をしており、歴代のノーベル化学賞受賞者の中でも突出している特許出願人の科学者であった。

 筆者は、ノーベル賞受賞者のフォーラムを担当したため、多くのノーベル賞受賞者にインタビューする機会があった。ノーベル賞授賞式に行ったこともある。身近に接するノーベル賞受賞者たちは、実に多彩な人柄と才能にあふれていた。

 ノーベル賞と特許というテーマについても、その中から生まれた。特許庁の幹部にその話をしたら、1980年以降のノーベル賞受賞者と特許について調べてみたいと言い出した。これは筆者にとって望外の喜びであった。
 特許庁は、その約束を2000年になって実現した。後で聞いたところでは、かなりの費用がかかったという。日米欧の特許をすべて調べるのだから個人ではできないことだ。この調査は、2000年時点の1回だけで終わっている。当時の調査結果は次のとおりである。

ノーベル賞受賞者と特許1981―2001年までの21年間(特許庁調べ)
 特許出願した受賞者
 物理学賞       27人(56%)
 化学賞        25人(60%)
 生理学・医学賞     23人(48%)

ノーベル賞科学3分野受賞者の特許出願トップ3
物理学賞
キルビー 2000年 129 集積回路
ビニッヒ 1986年 92 走査型トンネル電子顕微鏡
ジェーバー 1973年 83 半導体トンネル効果
化学賞
野依良治 2000年 270 キラル触媒による不斉水素化反応
レーン 1987年 95 クラウン化合物の合成
ヒーガー 2000年 91 導電性プラスチック
生理学・医学賞
ハウンズフィールド 1979年       192  エックス線断層撮影
シャレイ 1977年 134 脳のペプチドホルモン生産
ヒッシング 1988年 123 薬物療法の重要な原理

  
             

自伝・知財立国に取り組んだ日々 その5

                               
                 

 知財の意識革命を喚起した最初の報告書 
 日本の産業界、大学、研究機関、官界、政界などあらゆる分野に知的財産権の重要性を明確に認識させたのは、1996年12月、荒井寿光・特許庁長官の諮 問機関として設置された「21世紀の知的財産権を考える懇談会(座長:有馬朗人・理化学研究所理事長)」の報告書である。

 これが、日本で知財意識を目覚めさせた最初の歴史的報告書である。後日、座長の有馬先生に会った折にそのような話をしたら「私もそう思う」と明確に言っていたのを思い出す。

 それまで知的財産権という言葉はあまり使われていなかったが、この懇談会で初めてその言葉の意味と世界の状況を紹介し、日本の置かれている立場を分析して21世紀に備える日本の指針を示した。

 しかもこの報告書では、知的財産権を生み出す最も重要な基盤になる日本の科学研究現場の後進性をずばりと衝いている。科学ジャーナリストなどと語っていた自分は、いったい今まで何をしていたのかという思いをした。

 この報告書を筆者が最初に見たとき、本当に衝撃を受けた。その内容は、来るべき21世紀は、研究開発や社会全体に大きな変革をもたらす「情報化」と、国境を越えた大競争をもたらす「グローバル化」の2つがキーワードになることを示し、次のような警告を発した。

 まず第1に、その年の前年に策定された第1期科学技術基本計画を受けて、「科学技術創造立国」を実現していくためには、基本技術中心の研究開発、研究成果の権利化、経済財としての権利の活用による知的財産権と知的創造サイクルを築き上げることが必要である。

 日本のそれまでの実情を見ると、研究開発の成果が国際的な競争力の源泉になっておらず、技術貿易収支からみると輸入国である。また海外での特許出願、特許取得を見るとアメリカから大きく遅れている。
 荒井寿光特許庁長官は、「知財分野では、アメリカから1周遅れている」と語ったが、まさにそのような感じだった。

 アメリカの知財戦略は、1980年代から始まっていた。知財戦略に対するおもな動きを1998年までの年表にすると次のようになる。

1980年 アメリカで史上初めて、微生物を特許と認める
      バイ・ドール法を制定(大学から民間への技術移転を促進する法)
1981年 ソフトウエア特許を認める(アメリカの知財強化と産業競争力の強化)
1982年  連邦巡回控訴裁判所(CAFC、アメリカの知財高裁)を創設。
1985年 「ヤング・レポート」がまとまる。(アメリカの産業競争力を強化するための政策提言)
1986年  「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」
      (TRIPS=トリプス)の交渉が始まる。(知財保護を前提とした自由貿易の協定)
1988年  国際貿易委員会(ITC)の権限強化(アメリカの知財保護の制度強化)
1995年   トリプス協定がまとまる。仮出願制度を創設(アメリカの知財制度の強化)
1996年   経済スパイ法を施行(アメリカの知財保護の強化)
1998年   ビジネスモデル特許を認める(アメリカの知財権利の強化)
      カーマーカー法(線形計画法のアルゴリズム)特許成立(アメリカの知財権利の強化)

 21世紀は知的創造時代になるのは確実であり、知的創造サイクルを加速化するには、研究開発の成果を活用することが極めて重要である。アメリカは80年代から知的財産権を重視し、国の競争力を強化してきており、日本は大きく水をあけられている。まさに1周遅れであった。

 21世紀の日本は、国全体として知的財産権の価値を再認識し、それを最大限に高め、有効活用していくという「知的財産権についての意識革命」が必要だ。

 この報告書は、このように問題意識を提起したあと、今後の指針として次のような項目を示した。

*産業界は、企業経営戦略の中での知的財産権戦略を抜本的に強化すべし。
*大学と研究機関は、研究開発の成果は知的財産権として確立すべきだ。
*行政は、特許重視(プロパテント)政策とそのための知的財産権インフラの整備をするべきだ。

 そして21世紀の知的財産権の目指す方向として、産業界、大学・研究機関、行政の目指す方向として次のような指針を示した。

第1.知的財産権の「広い保護」
第2.知的財産権の「強い保護」
第3.大学・研究所の「知的財産権振興」
第4.「特許市場」の創設
第5.「電子パテント」の実現
第6.「発展途上国協力」の推進
第7.「世界共通特許」への道
第8.「知的財産権政策」の国家的取り組み

 筆者は、この報告書に盛り込まれている各種データと分析結果、そして提言を何度も読みながら、21世紀は違う時代になるのだという認識が明確に広がっていくのを感じた。
 その感慨が後々、「時代認識」という言葉となって自身の思考と活動に関わるようになる。

 自伝・知財立国に取り組んだ日々 その4

                              
                 

 本の出版を企画するが受ける出版社がない
 前回まで既述したように、筆者はさまざまな知財関係に関係する人々との出会いによって、知的財産権についての現状認識と知識が蓄積されていった。
 その知識を元に97年の夏にかけて、筆者は荒井特許庁長官と共著本を書くためにまず目次を作り、それに前文を添えて出版企画書を作った。事前に荒井さんの了解を得て出版社に働きかけてみた。

 まだ知的財産という言葉は「業界言葉」だったので、「特許を見れば世界がわかる」「特許情報は宝の山」などいくつかのタイトルを提示した。こうしたタイトルは、荒井さんの講演資料から取ったタイトルであり、荒井さんはそのようなキャッチを作るのが実にうまかった。

 目次を作った段階で、魅力的な知財啓発書になると自負した。これならすぐにでも出版できるのではないか。しかし実際に動いてみると、どこの出版社も引き受けてくれない。
 知的財産と言うと「それは学術書ですね」と言う。「特許」と切り出すと「専門書ですね」と言う。その内容を説明しても分かってもらえない。

 さまざまな人脈を使って6つの出版社に話をしたが乗ってこない。落胆の中でこの共著企画はご破算になった。

 しかし荒井さんは独自に「これからは日本もプロパテントの時代」(発明協会 1997)、「特許はベンチャービジネスを支援する」(発明協会 1998)、「特許戦略時代」(日刊工業新聞社 1999)などを矢継ぎ早に出版していった。
 どの本も一般の人々にも興味を持つように書かれており、その行動力には舌を巻き後塵を拝したという思いだった。

 97年の夏を迎えるころ、複数の企業人から相談を持ちかけられた。
 「荒井特許庁長官は、まもなく任期が来て交代するらしい。荒井さんが交代すると特許庁行政は停滞する危惧がある。なんとか任期を延長する方策はないだろうか」

 官僚の人事は、民間にとってはどうにもならない問題だ。しかし任命者にたいして社会の声を届けることは意味があるのではないか。そう思い直し、各界の人々に相談をしてみた。

 そのとき、「荒井留任」を要請する声が、産業界だけでなく政界、弁理士会、マスコミ界にまで広がっていることを知った。官僚の人事でこのような広がりを見せたのはおそらく前例がないのではないか。
 しかしその心配は杞憂に終わった。まもなく「荒井留任」が決定し、さらに1年延びることが確定的になった。

 21世紀構想研究会を創設する 
 1997年9月、筆者は何人かの仲間を集めて「21世紀構想研究会」(現特定非営利活動法人21世紀構想研究会、http://www.kosoken.org/)を作った。
 知的財産権を重視した産業構造に変えるべき時代に、日本は何をするべきか。さまざまなテーマを討論して政策提言もしたいという研究集団を目指した。

 メンバーは、有力なベンチャー企業の創業者、中央行政官庁の課長クラス以上の官僚、大学人、新聞各社の論説委員・編集委員など約80人だった。そのメンバーに加わった株式会社インクス創業者の山田眞次郎氏との出会いが、私の世界観を変えた。

 山田氏は三井金属でドアロック(自動車のドア部分の機能)の設計をしていた。山田氏の設計したドアロックは、ホンダやクライスラーのほとんどの車に搭載され、ドアロックでは世界トップまで上り詰めた設計者である。

 1989年、デトロイトの展示会で、コンピューターのデジタル情報を3次元物体としてアウトプットする光造形装置を見てからもの作りの現場が変わると予感し、会社を辞めてもの作りのコンサルタント業に転進していた。

 光造形装置とは、簡単に言えば、コンピューターの中で設計したものを3次元の物体としてアウトプットするものだ。通常、我々は、コンピューターの中で作成したデータなどをアウトプットする場合、紙に印刷する2次元のものだ。
 それが3次元の物体としてアウトプットする。最初に筆者が聞いたとき、わが耳を疑った。

 光造形装置は、コンピューターで作成したデータを3次元物体としてアウトプットするのだから画期的な方法だ。しかもその画期的なアウトプット装置を世界で初めて発明し、実際にモノを作って見せた人物は、小玉秀男氏(現在は弁理士)という名古屋市の技術者であった。

 筆者は、すぐに小玉氏に連絡をとり取材したところ、驚くような事実を知る。小玉氏はこの画期的な装置の特許を取得するために、当然、特許出願をするのだが、審査請求をするのをすっかり忘れていたため、権利を取り損ねていた。

 装置の開発ではアメリカの技術者に先を越され、その装置が日本へ入ってきていた。当時の審査請求は7年間という猶予があり、小玉氏はアメリカに留学している間に忘れてしまい、審査請求権を失効するのである。

 その発明から日米での特許紛争に至るまでの詳細な報告は、筆者が書いた「大丈夫か日本のもの作り」(プレジデント社)に詳しく書いている。

 音を立てて崩れていく日本のモノ作り現場を見る
 ともかくも、光造形装置とは、コンピューターソフトの3次元CADを使って入力された3次元ソリッドデータを平面で切って2次元の断面データを作成し、 このデータをもとに液状の光硬化性樹脂に紫外線レーザ光を照射して硬化させ、一層ずつ積層することによって3次元立体モデル(造形物)をアウトプットする ものだ。

 たとえて言えば、平面に印刷したものを次々と積層して、立体形を作っていくような装置である。

 3次元積層造形法(ラピッド・プロトタイピング=RP)とも呼ばれており、開発のスピード化、開発コストの削減、開発工期の効率化に大きく寄与し、製品開発に不可欠な手段となって、モノ作りの現場を急速に変えていった装置であった。

 インクスに話を戻すと、同社は携帯電話の金型製造をしていたがそれは仮の姿であり、本命はもの作りのシステム設計であった。もっと具体的に言えば、日本の大企業の製造現場を作り変えるためのコンサルタント業である。

 携帯電話の金型は、その当時、設計図ができてから45日くらいかかるのが普通だった。それをインクスは45時間という信じられない時間に短縮する。その工程システムと技術はもちろん、特許に囲まれた新しい工法であった。

 山田氏はドアロックの設計者として約150件の特許を出願しており、知的財産権の世界も熟知していた。その山田氏から、産業現場の変革を懇切丁寧に伝授された。もの作りの現場に連れて行かれ、多くの企業人を紹介され取材に飛び回った。筆者にとって興奮の連続であった。

 特に蒲田地域の金型工場を見て回ったり、自動車、電気、材料関係などの大企業の技術者にも会い、モノ作り現場の変化を徹底的に取材した。
 産業技術に素人の筆者にとっては知らないことばかりであり興味が尽きない。その積み重ねによって、間違いなくモノ作り現場では革命が始まっていることを知った。

 こうして高度経済成長期を支えた日本のもの作りの現場が音を立てて崩れていく最後の現場を見ることができた。それは筆者にとって幸運であった。なぜなら次の産業構造の再構築の現場を理解する際に大いなるヒントをもらったからである。

 そしてそれは、1999年に初めて上海、北京を見たときの衝撃に結び付いていく。中国の台頭を肌で感じ、中国ウオッチャーになろうと決心したその動機こそ、日本の産業現場の転換期を見ていた体験があったからであった。

 古いモノ作りの現場に代わって台頭してきたのは、知的財産権を軸として再構築されていく新しい産業構造の現場であった。

 それは荒井寿光・特許庁長官が、日本の企業の特許意識の変革を訴え、日本は国際的な知財戦略を打ち立てないと競争力を失っていくことを警告していた活動と符合するものであった。
 知的財産権についての興味はますます大きくなっていった。

  

自伝・知財立国に取り組んだ日々 その3

                               
                 

 荒井寿光さんとの出会いで特許に開眼
 特許とは何か。知的財産権とはどういうことなのか。その感をますます強くしたのは、1996年に特許庁長官に就任した荒井寿光さんと出会ってからである。

 1993年に筆者が、論説委員になったことはこの前にも書いた。論説委員は、社説を書くのだが、社説は新聞社の社論であり、自社の主張する論点を内外に向かって発信するものであり、言論を売り物にする新聞社の核心にあたるものである。

 社説を書いて世に社論を発表する執筆者になってみると、想像以上の緊張感があった。あらゆる分野、テーマについて日々勉強することの連続であり、7年間、論説委員をやっていたが、新聞記者としてこの時期が最も自分を磨いた時期でもあった。

 筆者はその日々の活動の中でも、特許や知的財産権の一般的な案件に興味を持ち、自分なりに学習を重ねていた。そのころである。特許庁が各社の論説 委員を集めて説明会を開いてくれた。荒井長官は、特許の重要性を論説委員に理解してもらい、メディアでも啓発してほしかったのである。

 懇親会の席でスピーチに立った荒井長官は、特許について実に分かりやすい言葉で熱心に話し、「特許のことをもっとマスコミでも取り上げてほしい」と言った。
 それは、特許の時代になったことを社会に認識させ、知財の国際戦略が不十分と指摘されていた企業にも、意識改革を迫るためにマスコミを通じて世に働きかけたいという意欲を語ったものであるが、同時にマスコミにも意識改革を迫ったものでもあった。

 そのころ、日本弁理士会がマスコミ向けの勉強会を始めた。新聞、テレビ、雑誌などの記者を集めて特許、意匠、商標などの初歩的な知識の伝授と直近の話題が講義内容だったが、筆者の知識蓄積と後々の取材活動には非常に役立った。

 それに毎回、一線で活躍する多くの弁理士と名刺を交換し、人脈を広げるのにも役立った。昼食をはさんだ時間帯を設定していたので、現役の記者は夕刊の締め切り間際なので出席できない。
 比較的時間に制約されない雑誌や専門誌の記者数人という寂しさだったが、大学のセミナーのような雰囲気で実にいい講義内容が聴けた。

 そのころご教示をいただいた弁理士は、村木清司、下坂スミ子、渡辺望稔、伊藤高英、長谷川芳樹の諸先生方をはじめ多くの弁理士である。
 その後日本弁理士会のアドバイザリー委員会の委員を委嘱され、組織の活動と弁理士の活動領域について意見を述べる立場となったが、それは同時に多くの知財情報と知識をいただくことになる。それが筆者の知財取材活動に大いに役立った。

 1997年の弁理士会の新年賀詞交歓会で、荒井寿光特許庁長官と出会ったとき、荒井さんは「いっしょに本を書きませんか」と誘ってきた。荒井さんは特許の啓発書を世に出したいと願っていることが分かった。

 そのころ荒井さんは、世界の産業構造の変革によって知的財産権を重視する時代になっていることを訴えるため、全国を講演して歩いていた。その活動の様子は、弁理士や企業人たちから聞いて知っていた。

 「今度、特許庁長官になった人は、これまでの長官とはだいぶ違う。特許や知的財産権について意欲的に勉強をし、特許の重要性を説いて歩いている。こんなに行動力のある長官はこれまでいなかった」

 企業人の間では、これまで例を見ない長官であり、実務上のことまで踏み込んで辛口のコメントを発し、特許の啓発をしてくる「やる気のある長官」として歓迎されていた。

 荒井長官が大局的立場でやったことは、日本の企業、大学・研究現場などに与えたショック療法である。アメリカから始まったプロパテント時代の到来 を敏感に察知した荒井さんは、戦後営々と築き守られてきた日本型の知財文化がすでに時代にマッチしていないことを訴え、知財関係者の精神風土を変えるた め、新しい知財社会が到来していると警鐘を鳴らし始めたのである。

 荒井さんのこの特許啓発活動を裏から支えたのは、特許庁ナンバー2の清水啓助特許技監と次の佐々木信夫特許技監である。筆者はそのころ、特許法改正の審議会の委員を委嘱され、特許の制度のあり方を勉強中だった。

 あるとき、佐々木技監(現株式会社特許戦略設計研究所代表取締役)が生越由美特許庁審判部書記課課長補佐(現東京理科大学知財専門職大学院教授)と一緒に読売新聞論説委員室に訪ねてきた。
 特許法改正の審議会で論議中の議案の中身について事前説明をするためであったが、そのとき佐々木技監はアメリカで紛争となったミノルタとハネウエルの自動焦点カメラの特許権利の日米の違いを日米の特許審査と比較しながら明快な説明をしてくれた。

 このとき初めて日米の特許戦争の深い意味が理解できるようになった。

 佐々木技監には、98年7月にアメリカでステート・ストリート銀行のビジネスモデル特許が認められたとき、特許の解釈の変遷と意味を教えていただ き、アメリカの特許弁護士のヘンリー・幸田さんからは、アメリカでのビジネスモデル特許をめぐる振興企業のせめぎ合いとすさまじいビジネス状況を教えてい ただいた。

 さらに荒井さん、佐々木さん、生越さんらから、特許を武器にして有力なベンチャー企業として台頭してきたシコー技研(白木学社長)、アイジー工業 (石川尭社長)らの話を聞き、すぐに経営者に会いに行った。白木社長も石川社長も実に明確な特許哲学をお持ちであり、日本のベンチャー企業には優れた人が いることを実感した。

 それは筆者がその後、多くのベンチャー企業の創業者に取材をするきっかけを作った。

 

                                              

自伝・知財立国に取り組んだ日々 その2

                               
                 

 ワープロショックから感じた世界観 
 バブル崩壊期から少々遡るが、筆者がどうしても書いておきたいことがある。それはパーソナルコンピューター(PC)が一般機として世に出る前に普及したワードプロセッサー(ワープロ)についてである。

 そのワープロを自由に使いこなしている現場を見たときのショックは、後年、自分の世界観を大きく変えた出来事として思いだされるからである。

 1984年8月、アメリカのスペースシャトルのコロンビア号、チャレンジャー号に続く3機目の宇宙船として「ディスカバリー号」が打ち上げられ、 その取材でフロリダのケネディ宇宙センターに行った。そのときプレスサイトに集まっていたアメリカ人記者らの会話は、その多くがワープロの話題だった。

 彼らの会話を聞いていると、「copyright」「patent」という言葉がしきりに出てくる。それが実際にどういう意味なのか理解できなかったが、ワープロソフトと機種の優劣についての情報交換だった。

 そのとき初めて、ワープロと言う機械とその機能を実感として知った。アルファベット26文字をそれまでのタイプライターと同じように打ち込むと、それが同時に画面に表示され、打ち込んだ文章は電話線で本社とつながり、印刷されてしまう。

 つまり、オンラインで原稿が遠隔地にあるデスクの机上にリアルタイムで表示され、そこでチェックを受けてすぐに工場にオンラインで送られ、新聞として印刷されていく。

 原稿を升目の原稿用紙に手書きし、その原稿がデスクの手直しを経て校閲でチェックされ、工場で1字ずつ拾われて活版になって印刷される。そのような状況にある日本の新聞制作を見ている記者としては、信じられない光景だった。

 宇宙センターのプレスサイトにいた日本人記者は、まず国際電話で東京の本社につなぎ、電話口で原稿を読み上げると、東京の同僚記者がそれを原稿用紙に書き写してデスクに届ける。それから手直し、校閲を経て工場で活版にされて印刷される。

 筆者らが電話にかじりついて送稿している様子を見ていたアメリカ人記者たちは「おまえら、まだそんなことをしているんだ。だいぶ遅れているな」という眼付きだった。

 宇宙船とミッションコントロールタワーとで交わされる会話は、リアルタイムでプレスルームにも聞こえているが、その会話の内容がよく分からない。英語力がないからだが、その上、宇宙飛行士と地上スタッフの間には独特の「業界言葉」があって、分からないことが多い。

 彼らは、会話を聞きながら、機関銃のような速さでワープロに打ち込んで文字化していく。仲良くなったアメリカ人記者がワープロ画面に打ち出す原稿を後ろから読ませてもらい、デスクよりも一足先にニュースを読む。

 情けないことだが、耳で聞くのではなく他人が文字化した画面を後ろから覗いて会話の意味を読み取っていく。アメリカ人記者は、ときどき筆者向けに赤字の注釈までつけて打って行く。原稿が完成すると、筆者向けの注釈を削除してワンタッチで本社のデスクに送っている。

 感心して見ている筆者にアメリカ人記者は「日本にはワープロはないのか?」と言う。「ない」というと、「日本はエレクトロニクスですごい国ではな いのか」と言う。日本がモノ作りでアメリカを抜いたのは、筆者が分析した統計的処理でみると1982年である。ハーバード大のエズラ・ヴォーゲルが「ジャ パン アズ ナンバーワン(Japan As Number One)」を書いたのが1979年だが、80年代はその言葉を体現する日本として、世界中が見ていた。

 プレスサイトでの体験から、ワープロは26文字の欧米文化のものであり、漢字・平仮名・カタカナ交じりの日本語は無理である。英語はタイプライターそのものがワープロになっただけであり、それが電話線とつながってリアルタイムで情報を共有化できる。

 そのころの日本語のタイプライターは、多くの文字盤を持っている特殊装置であり、専門に訓練された人しか操作できない。一般人が使いこなせるものではないので、日本語ワープロは無理だろう。

 帰りの飛行機の中でも、英語ワープロの光景が頭から離れず、アルファベット文化は全く違った局面へと急速に進展し、日本は取り残されていくのではないかとそればかり考えていた。

 日本語ワープロの誕生に驚愕
 しかし筆者の感慨は杞憂に終わった。富士通の神田泰典氏らが親指シフトという日本語ワープロを開発し、汎用機で日本語の情報処理を可能にする拡張システムを開発して家庭用ワープロとして売り出したのである。

 日本語でワープロができるとはまったく考えていなかったので、半信半疑だった。しかし、富士通だけでなく、キヤノン、NEC、パナソニック、日立、東芝、シャープなど日本を代表する家電メーカーが続々とワープロ機を開発して市場に出していく。

 筆者は神田氏に取材に行き、メモ用紙のようにしてワープロを使いこなす姿を見て驚愕した。今では誰でもこのような使い方をしているが、初めて見る日本語ワープロの達人のワザはわが眼を疑った。

 ワープロは、親指シフトだけでなく、ローマ字打ち込みを変換すると漢字に変わる方式が主流になり、日本語タイプライターに代わる装置として普及し 始めた。筆者はそのとき、ローマ字打ち込みがうまくできないと効率が悪いことに気が付き、英文タイプライターの教本を買ってきて毎日、トレーニングを積 み、ほどなくブラインドでも打てる腕前になる。

 すぐに最新式のワープロを購入し、おそらく読売新聞社編集局の中でも最も早い時期に原稿をワープロで打って提稿していた。古いデスクからは、それだけで疎んじられる時代でもあった。

 日本のバブル崩壊が本格的に始まったのは1992年からだろう。1992年(平成4年) には東京を始め全国的に地価急落となり東京圏は前年比マ イナス12.9%、東京都区部はマイナス19.1%の下落となった。株価は日経平均が1万5000円を割り、日銀は公定歩合を3.25%に引き下げた。

 ほかにも政府は、住宅取得の各種優遇策や経済対策を次々と打ち出したように見えたが、あとから検証すると後手、後手に回ったものであった。地価は92年から毎年下げ続けるという試練の時代を迎え、日本は失われた10年に突入する。

 1993年(平成5年)4月、筆者は解説部次長から論説委員に昇格した。論説委員は社説を書く役割であり、毎日午前11時半から、ほぼ1時間以上かけて論説委員会が開かれて、翌日掲載する社説のテーマについて討論する。
 
 筆者の担当分野は科学技術全般、研究開発などだが、新聞がカバーするあらゆる分野を誰かが担当しなければならず、筆者は科学関連だけでなく、いわゆるニッチ分野を担当したように思う。
 そのころからIT(情報技術)という言葉が頻繁に使われるようになり、これに関連するテーマの社説は、筆者が担当することが多くなる。

 取材でカバーする行政官庁は、文部省、科学技術庁、通産省、郵政省、農水省、建設省などであり、それらの官庁の審議会の委員を務めるようになる。各種審議会でもまたIT言葉の連発であり、時代の変革を明確に感じるようになる。

 知的財産という言葉は、まだ誰も使ってはいなかったが、インターネットの普及によって距離感と時間差がなくなり、情報は瞬時に世界中を飛び回る時代に入っていた。産業現場の取材をしてみると、産業界は急激に変わりつつあることを実感した。

 いま振り返ってみると、知的財産の時代が始まっていたのである。

               
                                
               

自伝・知財立国に取り組んだ日々 その1

                               
                 

 知的財産権のテーマに関わり始めて、今年でちょうど20年になる。知的財産権という言葉が市民権を得るまでは、一般的には知的所有権と言われていた。その時代、日本の知財は特許だけだった。
 なぜ、知財に興味を持ったのか。それを自問することもあるが、強いて挙げればジャーナリズムの世界に身を置いて得た勘である。世界が大きなうねりで動き始めたと感じたのである。
 今年その20年目の節目を迎えて、知財に関わった自伝を書いてみたい。

 アメリカから始まったプロパテント政策
  「特許が世界を変える」と筆者が明確に認識したのは、1991月6月である。アメリカ国立保健機関(NIH)が、DNAの塩基配列を解読した断片(DNA)をアメリカ特許商標庁(USPTO)に特許として出願したときである。

 世界中の研究者は仰天した。これが認められると、分子生物学、バイオテクノロジー、医学・薬学などの研究開発は、アメリカに覇権を握られて身動きが取れなくなる。
  折しもそのころ、自動焦点カメラの技術をめぐってミノルタがハネウエルに特許侵害で巨額の和解金を支払うなど、日米特許紛争が持ち上がっていた。

 「知財」と言う言葉が、まだ市民権を得ないころである。特許庁へ通うことから筆者の取材活動が始まった。

 バブル経済期の最後の時代に感じたこと
 当時の特許庁の審査官は、教えを乞いに訪問してもいやな顔ひとつしないで懇切丁寧に教えてくれた。今では考えられないことだが、直接電話で審査官と約束してその席を訪ねていくということもできた。

 そのころ筆者は、読売新聞編集局解説部に所属する解説部のデスク(次長)であり、ニュースの背景を文字通り解説する署名記事を書いていた。署名記事であるだけに、主観も許される記事になるが、自分の名前で1000万人読者に発表する執筆文でもあるから緊張感があった。
 できのいい記事を書いても当たり前だが、筆が滑って見当の外れた記事を書けば、容赦なく専門家や読者から鋭い指摘が執筆者に直接寄せられる。やりがいのある仕事でもあった。

 一般紙の新聞記者が特許庁に取材に来ることなどは稀であり、珍しいことだったのだろう。応対振りにそのような雰囲気があった。

 NIHの特許出願は、その後、世界中の非難を浴びて出願を取り下げて一件落着した。しかし、もの作りで日本に追い越されたアメリカが、バイオテク ノロジーで巻き返しを計っていることは明らかであり、産業技術の特許でも権利を前面に出すライセンスビジネスに切り替えてきていた。

 筆者はまだ、IT産業革命という事態を明確に認識していなかったが、日本の産業技術がアメリカを追い抜いて行ったという雰囲気は、製造業の技術者らと話をしていると感じ取ることができた。

 一部の製造業の技術者たちは、傲慢な雰囲気を出していた。「もはや、欧米に学ぶことはない」。日本企業がニューヨークの一等地を買収し、世界の不 動産を買いあさっていた。しかし1991年当時、日本はすでにバブル経済の崩壊が始まっていたのだが、まだほとんどの人は気が付いていなかった。

 筆者は何かおかしいと思うこともあったが、日本と日本人の底力を信じることもあった。そんな日常的な流れの中で、漠然と考えたことが特許とは一体 何なのかという単純な疑問だった。常識的なことは分かっているつもりだったが、それが研究開発、企業のビジネス戦略とどうつながっているのか、よく理解し ていなかった。ただ、特許という言葉が、折に触れて出てくるようになっていたような気がする。

 世界は何か変わろうとしているのではないか。産業技術も飽和点を迎えて、次の技術革新への岐路に差し掛かっているのではないか。

 特許に関する本も読み漁ったが、学術書か弁理士活動を紹介しているような本がほとんどで、世界の動きも日本の企業戦略もよく分からない。
 日米間の特許紛争を扱った本もあったが、主として事案の中身だけであり、産業構造や技術革新の背景まで解説したものがない。

 そのときジャーナリストの本性がむらむらと頭をもたげ、一般国民が興味を示すような啓発書をいずれ書いてみようと思い始めていた。

 

               

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