03 NPO法人21世紀構想研究会

21世紀構想研究会創立から映像で見る歴史

   21世紀構想研究会の20年の歩みを映像記録として編纂し、公開しました。

これは本研究会・事務局の立木冬麗さんが編纂したもので素晴らしい出来です。

20年前の若き情熱に身を包んだ会員の皆さんの雄姿を是非、ご覧ください

 

このご案内のトップ画面は、伊勢神宮公式参拝後のお清め宴会の写真です。

このトップ画面はシステムが勝手出しているもので、どうしても動かせません。

画面真ん中の指示マークを押していただけると、目的の映像に入ります。

 

 

 

 


21世紀構想研究会創設20周年記念式典の報告

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 第136回21世紀構想研究会は、創設から20年を祝う式典から始まりました。

 創設から20年を迎えた節目に当たり、21世紀構想研究会を創設した馬場錬成理事長から挨拶がありました。  

 21世紀構想研究会という名称は、21世紀がまじかに迫った1997年当時を振り返りながら創設の目的を語りました。それによると来るべき世紀に、日本はどのような国として発展させるかそれを模索するために官僚、大学研究者、ベンチャー企業創業者、メディアの四極から有志を集め、問題提起と討論をする場として創設しました。

 この機会に20年間の活動をまとめた「創設から20年の足跡」を発刊し、研究会の歴史と下部組織として活動している知的財産委員会、教育委員会、生命科学委員会そして特別活動などについて報告を行いました。

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   知的財産委員会は、荒井寿光委員長をリーダーに活発に知財改革への提言を行いまた、教育委員会は世界で初めての食育基本法の制定を受けて学校給食甲子園を創設しました。

 研究会は今回を含めて136回を数え、時代認識を意識した会員の熱心な討論と問題意識の共有で、今後も活動を活発に展開することを誓いました。 最後に次の言葉で結びました。

 私たちには権力も資金力もありません 会員の善意と協力で成り立っている研究会です

    時代認識をしっかりと持ち社会の変革に立ちむかいます

  理事長あいさつの後、引き続きノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智先生の記念講演がありました。

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                      総合司会をした本研究会の外川智恵さん(大正大学表現学部准教授)

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                                     21世紀構想研究会の事務局を担当したスタッフ一同 


知財立国の停滞要因を指摘した国会質問~三宅伸吾議員がえぐり出した実証的課題

 このコラムは、発明通信社のコラム「潮流」にも掲載されます。 http://www.hatsumei.co.jp/column/index.php?a=column_detail&id=235

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 停滞する知財現場を実証的に指摘した質疑

  さる5月18日に開かれた参議院・財政金融委員会で、自民党政務調査会副会長の三宅伸吾議員は、小泉政権時にスタートした知財立国政策が停滞している状況を様々な観点から指摘し、政府に早急な対応を迫った。

 議事録はまだ公表されていないが、後日、次のサイトから閲覧できる。   http://kokkai.ndl.go.jp/

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  日本経済新聞の編集委員として知財政策を長年カバーしていた三宅議員の質疑は実証的、体系的で、非常に中身の濃い内容だった。当日の質疑の模様を三宅議員に取材したので速報する。 

 三宅議員はまず金融庁に対し、企業の財務諸表において特許権がどのように取り扱われているのか質した。

 通常、企業が他の者から特許権を取得した場合には、取得した価格を貸借対照表に資産として計上する。また、企業が自ら研究開発を行い、特許権を取得した場合は、研究開発にかかった支出を費用として処理している。

 金融庁の答弁によると「我が国の上場企業の2015年4月から2016年3月までの連結財務諸表を見ると、特に特許権の計上額が多い企業は、住友化学が約45億円、船井電機が約33億円、デクセリアルズ社が約31億円などが計上されている」。

  特許権を担保にした融資総額の統計はない

 さらに三宅議員は、「特許権を担保にした融資がどの程度あるのか」質問した。これに対し金融庁は、「知財ビジネス評価書の作成支援、金融機関の職員を対象とした知財セミナーの開催などによる啓発運動」は展開しているとしながらも、

「特許権を担保とした融資の全体像は把握していない」と答弁した。

 特許権担保融資について金融庁はセミナー開催などの取組みの現状を説明するにとどまり、特許を担保にした融資総額の統計はないことが分かった。

 三宅議員はこうした実態に対し「民間企業が莫大な研究開発投資をして特許権になっても、実際どの程度アウトプットを生み出しているのか実はよく分からないというのが実態ではないか」と指摘した。

  日本の特許権侵害の賠償額はケタが小さすぎる

 そして「知財立国を標榜しながら、実は我が国では知的財産の資産、特に特許権の資産デフレが続いているのではないか」と問題提起したうえ、この10年間で特許権侵害訴訟の最高の損害賠償金額を麻生太郎金融担当大臣に聞いた。大臣からは「最高額は20億を行ったことはない、私の記憶では、何だ、こんなものかと思った記憶があります」との答弁。

 三宅議員は最高裁が調べたデータを引用し、この10年間の特許権侵害訴訟の最高損害賠償額が約18億円だったことを明らかにした。これはアメリカの侵害訴訟の損害賠償額に比較しても2ケタも低い金額であると指摘した。このような実態から日本の特許は資産デフレではないかとの見解を述べた。

 しかし、日本の知財裁判は和解が多いので一概に言えないという反論もあろう。こうした批判を想定してのことだろうか、「和解の交渉の判断の物差しは、万が一判決になったらどうなるんだろうということを双方の代理人弁護士は念頭に置いて、当然当事者も念頭に置いて和解交渉に臨む」。紛争になる前の任意の交渉でも、「交渉が決裂をして裁判になったらどうなるんだろうということを考えるわけで、判決の認容額は特許権資産評価の重要なバロメーター」であると三宅議員は述べた。

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 特許権侵害罪は絵に描いた餅であり罪にも問われない現状

 続いて、三宅議員は「特許権侵害で手錠を掛けられて裁判になり、刑務所に行った人がいるか」と法務省に質した。これに対し法務省は、「特許法196条(注)の特許権侵害の罪に限定した起訴人員等についての統計はない。特許法違反の罪全体の起訴人員は過去20年間2名である」と答弁した。

 (注)特許法196条(侵害の罪)=特許権又は専用実施権を侵害した者(第101条の規定により特許権又は専用実施権を侵害する行為とみなされる行為を行つた者を除く。)は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

  それでは直近の起訴はいつだったかとの質問に、法務省は「平成14年に略式命令請求があった」と答弁。

 これを受け、三宅議員は、平成15年以降、特許権侵害で起訴された人がいない(正確には特許権侵害を含め、特許法違反での起訴例が一切無い)事実を確認した。著作権侵害については刑事司法が対応するときもあるが、特許権侵害については平成15年以降、刑事司法は機能していなかったこととなる。

 特許権の保護策は、その侵害行為に対し、民事の損害賠償と刑事罰の執行とが車の両輪となって機能することを本来、前提として制度設計されている。しかし現実には、刑事司法は絵に描いた餅状態。そのうえ、民事救済手続きも不十分であるなら、侵害のし得になりかねない。

 金融商品取引法などの分野では、被害者の民事裁判による損害の回復の手続き、また東京地検特捜部等による刑事の執行、それに加えて行政上の課徴金という仕組みがある。民事・刑事・行政という3つの法制度から、投資家等を保護する仕組みができている。

 独禁法違反行為に対する措置でも課徴金制度があり、労働分野の賃金未払い問題では付加金の制度があるなど、様々な対応、救済制度が準備されている。このような実態を引き合いに出しながら三宅議員は、「特許権侵害については政策が総動員されていないのではないか」との見解を述べ、政府の施策が不十分であることを浮き彫りにした。

  特許の資産デフレから脱却すべき

 ベンチャー企業が銀行に融資を申し入れても、権利侵害された場合の損害賠償額が小さい現状では担保にとってくれないのは当然。特許を資産として経営に役立てる社会になっていないことを三宅議員は強調した。これでは有力なベンチャー企業は日本では育たないことになる。現に、アメリカ、中国に比べても我が国では産業の新陳代謝が遅れている。

 三宅議員は特許の資産デフレを脱却するには、最先端の技術分野を警察、検察官が理解するのがなかなか難しい現状を考えれば、「民事分野において、一般予防効果のあるように、積極的加害意思のある、いわゆる本当に悪質な侵害であることが立証できれば、そういう侵害者に対しては民事上、ガツンといくということが必要ではなかろうか」と民事救済制度の改革を求めた。

 最後に三宅議員は「我が国が本当に研究開発そしてその成果の知的財産権をうまく使って国を豊かにしよう、海外からどんどんロイヤリティー収入も得ましょう、それから技術開発の成果を権利で保護し、それをテコにしてベンチャー企業が多数出てきて、産業の新陳代謝を通じて元気に国をしましょうとするためには、特許権の侵害のし得だと言われるような悪評が我が国にずっと付いて回るのは甚だ遺憾である」と語り、この課題を政府や社会、企業が共有し、早急に解決に対応する必要性を説いた。

 

 三宅議員の質問は、知財立国と言われている日本で特許を取得しても、司法の民事、刑事で適正に守られず、行政でも具体的な知財保護は機能しているようには見えないという見解を強調した点で、これまでにない国会での論議となった。

 

 企業が莫大な開発費を投入し、特許権を取得してもそれを担保にして資金を調達できる制度も仕組みもなく、侵害されると救済する民事判決は期待できない。刑事摘発はゼロに近いとなれば、侵害し得であり、なんのために特許権を取得するのか意味がなくなってしまう。

 ベンチャー企業が生まれにくい仕組みが放置されているのではないか。そのような状況がこの10年ほどずっと続いていることを三宅議員は指摘したものであり、危機感を持って政府側に迫ったものだ。

 

 中国では知財訴訟が日本の約20倍の件数であり、損害賠償金額も日本を追い抜いて行き、近々、懲罰的損害賠償制度を導入することが決まっている。そのような世界の流れの中で日本が停滞している制度上の欠陥を三宅議員は、政府側の答弁から実証的に引き出し、早急な政府の対応を迫ったものであった。

 

 なお、本国会質疑に関連し、三宅議員が座長を務める、自民党政務調査会傘下の検討会が提言をまとめている。是非、一読をお薦めする。

提言「イノベーション促進のための知財司法改革 --特許資産デフレからの脱却を目指して-- 」2017425日 http://www.miyakeshingo.net/index.php

 


21世紀構想研究会2017年総会を報告します

 副理事長に塚本章人、永野博氏が就任

 岩本昭治、峯島朋子氏が理事に選出

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 21世紀構想研究会の2017年の総会が5月25日、プレスセンター9階会見場で開かれました。

 2016年の活動報告、決算報告と2017年の事業計画、予算発表のあと理事改選に入りました。

 副理事長に塚本氏と永野氏が就任し、岩本氏と峯島氏の理事就任が提案され、満場一致で承認されました。

 

 

副理事長に就任した永野博氏は、この日所用で欠席したためビデオメッセージで

あいさつしました。ビデオ制作は、事務局のアリシアさんです。

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新理事に選出された岩本昭治氏

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新理事(事務局長)に就任した峯島朋子氏

 また私から特にお願いをしました。

 学校給食甲子園は今年12回目を迎えます。このイベントは食育推進、学校給食の理解度を広げるという目標がありますが、イベントを実施する資金はすべてこの運動に賛同する企業と団体の浄財で成り立っています。

 これからも実りある学校給食甲子園にするために、協賛企業、団体の拡大に取り組むことが示され、会員の皆さんにも協力をお願いしました。

 21世紀構想研究会創設から20年の記念パーティ

 21世紀構想研究会は、1997年9月の創設から今年20年を迎えます。これを記念して10月13日(金)午後6時半から、プレスセンタービル10階大ホールで、記念イベントとパーティを開催することが発表されました。

 私からの20年の歩み報告と本研究会のアドバイザーで、ノーベル賞受賞者である大村智先生の記念講演が予定されています。

 

 


第130回21世紀構想研究会・特別講演と忘年パーティ

 

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 第130回21世紀構想研究会は、12月15日、プレスセンターで開催され、山口正洋氏(ぐっちーポスト編集長、経済金融評論家)が「トランプ後のアメリカと今後の日本経済の見通し」のタイトルで講演を行い、その後一年を締めくくる忘年パーティで盛り上がりました。

 研究会には大村智、荒井寿光、黒木登志夫先生らアドバイザーを始め多くの会員とその関係者が参加して、有意義で楽しい時間を過ごしました。

特別講演の内容を報告します。

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 ウソだらけのメディア報道

 冒頭、山口先生は、金融マンとして活動してきた体験から、メディア報道、特に日本経済新聞は政府の発表、つまり大本営発表をそのまま垂れ流すようなもので間違いが多いと指摘。

「政府筋から出てきた情報をどう解釈するか、それを精査しないで報道している」とメディアに噛みついた。

 「株をやったことがない人が金融情報を書いている。たとえて言えばゴルフをやったことがない記者がゴルフの記事を書いているようなものだ」

 アメリカのトランプ次期大統領が当選した番狂わせのメディア解説でも、ヒラリー・クリントン候補が落選した原因は、格差社会への反発、白人の貧民層の反発などをあげていた。

 しかし、ヒラリーの得票支持層や過去の民主党と共和党候補者の得票数を分析してみると「ヒラリーが負けたのは民主党支持者の投票行動サボタージュにあったと思われる」と分析。共和党の得票数は前回の大統領選挙と同じなのに、民主党の得票は500万票以上減っていると指摘した。

 メディアは見当違いの理由をあげているとして、得票率を分析した結果を示しながら次のように述べた。

 「投票行動を分析すると女性は意外とヒラリー嫌いが多く、オバマ大統領の得票より女性の得票率を減らしている。唯一、票が増えたのは高学歴、男性階層だけだった」という。

 ヒラリー嫌いが投票をサボタージュし、その結果、トランプ次期大統領が誕生したとする見解を語った。

 トランプ次期大統領の政策予想に話を進めると、1980年代のレーガン大統領時代、レーガノミクスの再来を予感すると語った。その時代、アメリカはすさまじいバブル経済時期だった。日本もそうだった。トランプ次期大統領の時代はそれと似てくるのではないかという。

 トランプの発言内容が微妙に変質

 さてトランプ次期大統領の公約だが、インフラ整備、メキシコ国境での壁の構築、高所得者層の減税、オバマケアの廃止、武器の携帯を支持する最高裁判所判事の任命などをあげている。

 ここでレーガン大統領時代のころと比較分析し、レーガノミクスと言われた経済活況とバブルに至った時代を分析した。景気の動向を左右する就業者数を見てみると、オバマ大統領はレーガン時代に増えた公務員を切り、民間の就業者数を増やし、就業者数がマイナスだったのをプラスへと引き上げた。その努力は評価するとした。

 トランプ次期大統領の公約などの発言を精査すると、1980年代の政策から見て特に新しいことを言っているわけではない。トランプの公約の発言も微妙に変化しており、オバマケアの廃止も一部廃止と言い換えてきているという。

 政権の根幹に就く人事問題に言及し、石油大手エクソンモービル(XOM.N)のティラーソン会長兼最高経営責任者(CEO、64)を次期国務長官に指名すると発表したが、これについても次のように解説した。

 「この人はロシアのプーチン大統領と非常に親しい人物であり、今後、米ロ関係がどのように動いていくか非常に注目したい」と語った。

 さらに金融大手ゴールドマン・サックス・グループ社長兼最高執行責任者(COO)ゲーリー・コーン氏をホワイトハウス国家経済会議(NEC)の委員長に指名するなどゴールドマン社の幹部3人が政権中枢に入ることになり、いわゆるウオールストリート政策に入ることは間違いないだろうとの見解を語った。

 さらに過去のバブル期からやがて急落した経済状況を説明しながら、トランプ次期大統領政権がバブル経済に向かうことを予想し、その反動で急転して停滞・急落する可能性もあるだろうとの予想を示した。

 メキシコ国境の壁については、今でもフェンスがあるし違法者はどんどんメキシコに追い返している。この点は何も斬新さはない。そのほかの点でも、それほど新しいものを政策として出しているとは見えないという。

 日本経済は停滞したままでありアベノミクスは疑問

 さてアベノミクスについて言及した。日本経済新聞は、右肩上がりと景気予想してきたが、本当にそうだろうか。過去のGDPの推移を示しながら「一進一退を続けている」と指摘。これでアベノミクスの効果があったかは疑問であるとの見解を示した。

  日経新聞は、円安で財政がよくなったように書いているが、そんなに良くなっているわけではない。たとえば企業でよくなったのは「大企業で非製造業」が確かによくなっていると解説した。

 しかしこの業界は、非正規従業員を派遣する人材派遣業であり、正規社員がどんどん減っていった状況を示している。もはや正社員はいらないような社会を作っていると指摘した。

 そして「このようにかつて、ヤクザがやったような社業が栄えるのは違和感がある」と語った。

 さらに中小企業は、製造業も非製造業も青息吐息であり景気は停滞したままであるとした。

 なぜ景気が浮揚しないのか。山口先生はその原因は「消費税である。これがすべてを台無しにした」と断言した。消費支出のマイナスが続いている。東日本大震災の後にモノが不足していた時代の消費支出よりも、いまモノがあふれている時代なのに消費支出は低い。

 今後も消費税が上がることを予想して人員整理をして給与も抑える企業が出ている。実質賃金はマイナスに転じている。スーパーマーケットでは実態として値上げしている。価格を抑えて量を減らしているケースも多い。

 アベノミクスの第一の矢、金融緩和、黒田総裁のバズーカ砲だが、世の中に大量にお金を出す金融緩和で効果が上がるとしてきたが、効果は上がっていない。企業の売り上げも利益も横ばいであり、国民はお金を使わない。アベノミクスの効果は甚だ疑わしいとの根拠を様々なデータで示した。

 名目GDPと株の時価総額の関係を見るとアメリカの投資家のウォーレン・バフェットが言うように株の時価総額が名目GDPを超えていくとバブルの警戒水域になると語り、今の株の時価総額は警戒レベルなっているようにも見えると語った。

 2001年5月、日本は財政破たんしたとアメリカの有名な経済学者から言われたことがあるが、日本は貯蓄率が高くしかも国債はほとんどは日本人が購入している。外貨残高も世界一だった。黒田現日銀総裁が当時、日本破たん説を消して回った。

 日本はこれまで一度も債務超過に陥ったことはなく、今も日本の財政は300兆円以上の資産超過があり破たんしないことは明らかだが、それでも財務省は危機意識をあおっている状況を説明した。

 若年労働者の増加に転じているアメリカ

 日米の人口構成をグラフなどで示した。それによるとアメリカは人口増加国であり、働く年齢層がこれからも増えていく動向を示した。一方の日本は高齢化が進むものの、人口減少は緩やかであり、それほど心配はいらない。

 日本の高齢化人口が増えていくことは、別に悪いことではない。高齢者はマーケットにとってプラスと考えるべきだとの考えを語った。人口が減ってもお金を持っている年配者が増えれば、市場としてはいいものだと考えることが重要であることを示唆した。

 トランプ次期大統領の政権になって、バブル経済が来る可能性があるとの見解を示し、バブルはいずれ破たんすることも語った。ただ、アメリカはG7の中でも若年労働者が唯一増える国であり、今後も成長が見込まれていることを示した。

 また2010年に山口先生は中国のビジネスを完全撤退したと語り、アメリカとビジネス展開することが一番安泰であることを語った。

 最後に国の豊かさをGDPで示した時代は過去のものであり、国連がいま試行している国の総合的な豊かさの指標を見ると日本は非常に豊かな国であることが示されていると紹介した。

 そのような考えに転換していくことが重要であることを主張した。

 最後に消費税を上げる必要がないことを改めて主張して区切りをつけた。

 時間の関係で質問はひとつに限り、代表質問を21世紀構想研究会理事の長谷川芳樹氏が発言した。

 長谷川氏:投資戦略についてご意見をお聞きしたい。日本では為替が動くことが投資戦略を難しくしているように感じる。アメリカが今後、バブル経済になるならそれに乗っていくこともいいかなと思うが、どうすればいいか。

 山口先生:為替の問題ですが、自国の通貨が高くなることは価値が高いから高くなるのであり、それで破たんしたケースはない。円安になるということは日本に信用がないことである。円安でリスクがあると理解する方がいい。一番危険なのは、どこかで歯止めが利かなくなることだ。日本は外貨準備高が膨大にあるが、どこかでつまずくとどうなるのかを考えて行くことが大事だ。

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2CIMG6110生島和正・武蔵エンジニアリング社社長(左)から記念品の贈呈を受ける山口先生


1300人が見送った加藤紘一先生の葬儀

 加藤紘一先生の自民党・加藤家合同葬が、9月15日、東京の青山葬儀所で行われ、政財界関係者ら1300人が見送った。筆者がこれまで参列した葬儀の中で最も盛大な葬儀だった。

 加藤先生の遺影に向かって弔辞を読んだのは、葬儀委員長の安倍首相、YKKを組んだ盟友の山崎拓・元自民党幹事長、今井敬・経団連名誉会長、程永華・中国大使そして友人のコロンビア大学名誉教授のジェラルド・カーチス氏の5人だった。

 安倍首相の弔辞は儀礼的な内容で何も感興がわかなかったが、後の4人はそれぞれの思いを語り聞く者の心に響いた。

 山崎氏はYKKとして活動した時代を振り返りながら「加藤の乱を止めることができなかったのは僕が悪かった。すまん」と語り、最後に「君に憲法9条を変えることに反対かと聞いたら、そうだと語った」と結んだ。改憲に意欲を燃やす安倍首相を牽制するように聞こえた。

 最前列に座って聞いていた小泉純一郎元首相は、終始、両眼を閉じて微動だにせずに聞いていた。葬儀後、記者団に囲まれた小泉元首相は「なぜ(加藤氏が)首相になれなかったか不思議だ。あれだけ優秀な政治家は珍しい。惜しい人を亡くした」と語ったという。(スポーツ報知9月16日付け)

 程大使の弔辞も胸を打った。1989年7月に宮沢喜一氏らと一緒に訪中した加藤先生は西安に行った。同行した程大使と、夜、一緒に街へ出た。中国の庶民の生活を見て会話をしたいと希望する加藤先生と一緒にラーメン屋に入り、中国人と懇談したエピソードを語った。

 そして「中日関係は礎の関係だという信念を持ち、中日友好のために言い尽くせないほど貢献した」と称え「中日間は必ず改善する」と決意を語るように結んだ。

 カーチス教授は、加藤先生がコロンビア大学で6週間のミニコースの日米関係セミナーを担当したことを語った。毎回2時間の講義だったが、「学生と懇談する時間を作り、学生たちとよく語りあったので人気者だった」と語った。

 英語、中国語に堪能で、国際的な視点でものを考え発信することのできる政治家だったことを改めて印象付けた。ただ、筆者にとって物足りなかったのは、科学技術についての加藤先生の業績を語った人がいなかったことだ。政界にも自民党にも科学技術に関心を持っている人物層が極めて薄く、このような時にもそれが出たのだろう。

科学技術が唯一の接点だった

 筆者が加藤先生と親しくお付き合いできたのは、科学技術の縁であり、後に知的財産と中国問題が加わった。振り返ってみると、それ以外の政策的な話はほとんどしなかった。

 加藤先生は、メディアを大事して極力取材を丁寧に受ける姿勢だった。いまになって気が付いたことは、多分、科学技術のテーマでメディアと具体的なテーマで話ができた機会は、非常に少なかったのではないか。科学技術に関して他社の記者や科学ジャーナリスト、政治家の話が出たことがなかった。

 ただ一人、谷垣禎一先生(前自民党幹事長)の同席を求め、科学技術政策について意見交換したことがあった。谷垣先生は、加藤先生がもっとも信頼していた同志でもあった。二人の会話からそういう雰囲気がにじみ出ていた。

 谷垣先生も加藤先生の影響を受け、株式会社インクスを訪問して山田眞次郎社長からIT産業革命について説明を受けたことがあった。

 加藤先生の逝去がはからずも、日本の政界は科学技術について極めて手薄であることを改めて考えさせた。

 加藤先生はそのことを憂慮し、真の科学技術創造立国を自らの手で実現したかったのではないか。政界はかけがえのない人を失った。


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う 最終回

 政界引退につながった病気と落選

 2012年12月に行われた総選挙で山形選挙区から立候補していた加藤紘一先生は、接戦の末敗れた。選挙中から体調がすぐれなかったのは、選挙直前に軽い脳こうそくに見舞われたからだった。

 ややしゃべりはもつれるが話はできる。ゆっくりだが歩行もできる。しかし政治家にとってこれは致命的だった。落選もやむを得なかったと筆者は思った。

 当選13回を重ね、首相の座に最も近い位置にいながら政局の読みとタイミング、政界に渦巻く利害得失と嫉妬、派閥力学などの渦に呑み込まれ加藤政権は泡となって消えた。

加藤先生13年2月28日DSCN8910顔色もすぐれお元気だった加藤先生と(2013年2月28日)

 落選から年が明けた2013年2月、筆者はお見舞いがてら加藤先生に電話をすると、赤坂のいつものレストランで食事でもしようと誘われた。

 お会いすると顔色もすぐれ落選の失意もまったくなく、相変わらず科学技術の話で持ちきりとなった。話は2004年5月26日に衆院文部科学委員会で質問し、今でも語り継がれている日本の研究現場の欠陥と課題についてであった。

圧巻だった加藤先生の国会質問

 ニュートリノ天文学を創設してノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士とゲノム解読で世界の先端を走りながら行政と学界の希薄な問題意識の中で頓挫し、手柄をすべてアメリカにさらわれた和田昭允博士を従え、日本の科学研究現場の問題点を浮き彫りにして今後に役立てようとする質問だった。

 かなり専門的な内容にまで踏み込んだ質問であり、国会議員の中でこのような質問ができる議員は加藤先生だけだったろう。

 その質疑の政府側の答弁者の一人だった当時の文部科学省生涯学習政策局長の銭谷眞美氏(その後事務次官、現東京国立博物館長)は「今でも鮮明に覚えています」と言う。

  成功した小柴博士と失敗に終わった和田博士の事例を対照的に引き出して、「日本の研究現場の欠陥を考えさせようとしたものでした。今でもあの議事録は参考になると思います」と語っている。

 その議事録は、次のサイトから読むことができる。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/009615920040526022.htm

 

第6世代の中国を語りたい

 話が弾んでいるうち、自然と中国の問題へと移っていった。安倍政権になってから日中間は日増しに悪くなっていく。その現状を憂いながら加藤先生は「これから中国と付き合うのは第6世代という考えがなければ未来志向にならない」と語った。

 第1世代・毛沢東、第2世代・鄧小平、第3世代・江沢民、第4世代・胡錦濤、第5世代・習近平であり次のリーダーが第6世代となるという意味だった。

 加藤先生は、中堅リーダーとして中国共産党の次期リーダーと目されている多くの人々と親交があった。若き中国のリーダーとの交流を通じて、肌で感じた中国の第6世代リーダー候補たちの考えを分析する必要がある。

 そのような考えであり、日中間に横たわる目先の課題にとらわれずに未来志向で行けば日中にはまた新しい歴史が作られるという考えだった。

 筆者はこれを聞いてすぐに、21世紀構想研究会での講演依頼を持ち出し、加藤先生も喜んで受けてくれた。

こうして2013年4月19日、プレスセンター9階記者会見場で「中国第6世代が考える日中未来志向」のタイトルで90分の講演を行ってくれた。

加藤先生21世紀構想研究会DCIM0034第99回・21世紀構想研究会で講演する加藤先生

 これが加藤先生の21世紀構想研究会の講演では最後になった。その中身は中国との将来展望について深く考えさせたものであり、その3か月後に筆者は、加藤先生と訪中することになる。

その報告は前回のその3で報告した。

 科学技術と中国を語って止むことがなかった加藤先生の生涯を偲びながら、心から哀悼の意を表して筆をおく。

終わり


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その2

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 加藤紘一先生をまん中にしたこの写真は、1999年に株式会社インクスを訪問したときのものだ。右端のインクス社長の山田眞次郎氏は、当時、ベンチャー企業の雄として日本のもの作り現場をIT化するための「伝道師」として脚光を浴びていた。

  筆者は、山田社長の「信者」になり、急進的に変貌する世界のもの作り現場を社会に報告して啓発する役目を担った。

 IT産業革命である。その手段と道具の一端は、インターネットと光造形装置である。そのことを加藤先生に解説したら「是非、現場を見に行きたい」とおっしゃる。山田社長に伝えると、びっくりしながらも喜んで受け入れると言って、部外秘の工場も案内して説明してくれた。

 光造形装置はあっという間に進化して3Dプリンターに変貌し、いま世界中に燎原の火のように広がっている。この分野でノーベル賞が出るのは間違いないだろう。

 インクスに加藤紘一先生が興味を持ったのは、「動物的勘」だろうと筆者は思った。その背景には、分野は違うがノーベル賞受賞者、利根川進先生との交流の影響が大きかったと思う。

 利根川先生とは、都立日比谷高校の同級生であり、二人は折に触れて意見交換をしていた。利根川先生は、来たるべき21世紀の日本の研究現場を充実させるためには、ポスドク制度を機能させるべきと強力に進言し、当時、自民党政調会長だった加藤先生の主導で「ポスドク1万人計画」を推進して実現した。

 また加藤先生の郷里の山形県鶴岡市出身に杉村隆博士がいた。杉村博士は国立がんセンター名誉総長であり、いま学士院院長の科学者だ。杉村博士と懇意だった筆者が、あるとき博士と話をしていて加藤・杉村の交流がよくあることを知った。

 加藤先生は、医療問題とがん撲滅戦略などについて、杉村博士から相当な知識と最新情報を得ていたと思う。そう考えたくなる知見と政策を語ってやまないことがあった。

 加藤先生と話をしていると、ゆっくりとした口調の中からよく最新の話題が出てきた。ニュートリノの学術研究にも興味を示していたのでびっくりしたことがあった。

 加藤先生はよく、「将来は世界中から患者が日本に集まるような先端医療の治療体制を作りたい。そういう力量を日本人は持っている。政策と制度を整備すれば実現できる」と言うのが口癖だった。

 21世紀構想研究会でも交流を深める

 筆者は1997年から、特定非営利活動法人21世紀構想研究会という政策提言集団を創設して、多くの識者を集めて研究会をしていた。この研究会に加藤先生はこれまで6回、参加してくれた。2000年5月には利根川博士と一緒に顔を見せ、日米研究体制の違いなどについて討論に加わった。

 「加藤の乱」のあとの2001年5月18日には「加藤政局を語り、科学技術創造立国を語る」として1時間ほどの講演と討論を行った。

 さらに2004年の21世紀構想研究会の50回記念シンポジウムでは、 「ほんとにどうする日本改革」のタイトルでパネルディカッションに参加し、2013年の21世紀構想研究会100回記念講演シリーズでは、 「中国第6世代が考える日中未来志向」 のタイトルで1時間半の講演を行った。

 21世紀構想研究会会員のベンチャー企業創業者との交流をいつも大切にし、楽しみにしていた。2000年11月20日の加藤の乱が起きたその翌日に、21世紀構想研究会のベンチャー企業の社長有志の10人ほどと会食が予定されていた。生島和正・武蔵エンジニアリング株式会社社長ら元気のいい中堅企業の経営者が多かった。

 しかし国会と自民党の内外は大騒ぎであり有志との会食どころではないと考えた筆者が、電話で延期を申し出たところ「社長さんたちも忙しい中でスケジュールを組んでくれたのだから、延期はしません。必ず行きます」と言って加藤先生はきかなかった。

 門前仲町の隠れ家のように使っていた会場のレストランに、予定から30分ほど遅れて加藤先生は出席した。しかし引きも切らずに携帯に連絡が入り、見かねた出席者が加藤先生を「解放」することにし、先生を車まで連れ出して見送りした。

 そのような交流は、銀座、赤坂などで5、6回はやっただろう。訃報を聞いた社長の一人は「深く思索する政治家だった。首相にしたかった」と逝去を心から惜しんだ。

(つづく)


自民党の最リベラリスト・加藤紘一氏の死去に想う その1

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 安倍政権の集団的自衛権の行使容認は「徴兵制まで行きつきかねない」と反対を訴え、従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官談話の見直しを進めようとする安倍首相を批判していた元自民党幹事長の加藤紘一氏が亡くなった。

 自民党の最リベラリストであり良識ある政治家であった。主義主張、政治哲学だけでなく科学技術に関しても並々ならぬ関心と展望を持っており、加藤政権が実現したときには、知的財産権意識を日本全土に広げたいという「挑戦的な政策」を胸に秘めていた。その「野望」も日の目を見ることなく、ひっそりと政治活動の幕を引いた。

 加藤先生との最初の接点は、1999年7月、突然、加藤自民党幹事長から電話をいただいたときから始まる。筆者はそのとき、読売新聞論説委員であり主として科学技術のテーマで社説を書いていた。

月刊誌「諸君!」(文藝春秋社、1999年7月号)に「ニッポン科学技術立国の迷信」とのタイトルで論文を書いたが、その中身について意見交換をしたいという加藤先生の申し出だった。

 この論文で筆者は、歴代自民党政権が掲げてきた「科学技術立国」を国是とする政策は、いかにインチキであり砂上の楼閣のような政策であるか具体的な事例と数字をあげて激しく批判したものだった。

 数日後に出会った加藤先生に筆者が「自民党議員に科学が分かる先生がいることを嬉しく思います」と言うと、すかさずこう言った。

 「私は理系人間ですからね。最初の受験は東大の理1を受けたが落ちましてね。1浪後にもう一度と思ったら、先生が理1は保証しないが、文1なら保証するというから文1を受けて法学部に入った。文1より理1の方が難しかった。それなのに法学部の方が日本を牛耳っている」と言って笑わせた。

 科学技術の先端研究のことをよくご存じであり、それから様々なテーマについて意見交換する機会を作ってくれた。加藤先生が科学技術に明るいのは、高校時代の同級生であるノーベル賞受賞者の利根川進先生と仲が良かったことだった。

 たまたま筆者も取材を通じて利根川先生とは懇意にしていただいていたので、3人でお会いし、お二人から日本の科学技術政策について意見をうかがったこともあった。

筆者が東京理科大学で授業をしていた「科学文化概論」にも加藤先生にゲスト講師として来ていただき、日本の科学技術政策の課題と将来展望を語っていただいたこともあった。

加藤紘一先生2東京理科大学の「科学文化概論」の授業で講義する加藤紘一先生


 元自民党幹事長であり、宏池会会長という派閥の領袖であり、首相に最も近い距離にいた政治家であった。そういう大物が講義に来ても、学生たちはほとんど感動を示さなかった。そのような時代になってきていた。

 もし加藤政権が実現した暁には、どのような科学技術政策をするべきか。そういう突っ込んだ話を何回かしたこともあった。21世紀を目前にした時代だったが、知的財産権に対する理解も深く、次のような構想を話し合ったこともあった。

 それは竹下政権のときに打ち出して話題となった「ふるさと創生交付金1億円」に習って、「ふるさと創生・市町村特許出願運動」を打ち出そうという構想だった。日本全国の市町村に必ず1件以上の特許を出願させる運動であり、特許の価値に応じて交付金を出そうという構想だった。「特許1件1億円」というキャッチフレーズまで用意していた。

 すべては幻に終わった。「加藤の乱」で知られる政局の激動の中で加藤政権の芽は消えてしまったからである。その不運に追い打ちをかけるように、加藤事務所の所得税法違反事件で衆議院議員を辞職する。

 辞職したその日の夜、襟元の議員バッチを裏返しにした加藤先生と二人だけで赤坂の焼肉屋でお会いしたことがあった。そのようなときでも科学技術政策の夢を語っていた。聞いていて涙が出そうになった。

 加藤先生は、筆者がもっとも濃密にお付き合いした政治家であった。

(つづく)