06 本の紹介

大谷智通・著、佐藤大介・絵、目黒寄生虫館監修「寄生蟲図鑑」(講談社)

自動代替テキストはありません。

 人体にたかる寄生虫とは縁がなくなったと思っていたので、彼らの世界には無関心だった。ところが寄生虫たちは、それなりに生きる工夫を凝らしてたくましく生存して種をつないでいた。
世界に広く生存する寄生虫たちの不思議な生態を、楽しく面白くためになる本にまとめているので、一気に読んでしまった。ご紹介します。

 


滝鼻卓雄「記者と権力」(早川書房)

記者と権力

 いま世間の耳目を集めている森友事件と加計学園問題。どちらも権力側にあるとされる文書の確認や権力側の恣意的な対応の有無をめぐって国会を舞台に激しい攻防戦が展開されている。メディアは、事の経過を報道するだけでなく、自身の調査報道の力量が問われていると思うのだが、決定的な特ダネも出てこない。

 そのような時代に新聞記者のたたずまい、行動力の在り方を示唆する本が上梓された。著者は元読売新聞東京本社社長、会長、そして日本記者クラブ理事長まで務めた人である。いわば新聞記者として栄達を極めた人であり、普通はこのような本は書かない。が、著者には記者魂がまだくすぶっていたようだ。

 書いてあることは、著者の手がけた事件の情報収集から原稿作成までの過程を振り返りながら、権力から情報を入手する際の行動規範、ありていに言えばニュースソースの秘匿であり取材手段のルールを踏みながら、真相に近づく有様を語っている。

 静岡県清水市で発生した猟銃射殺事件(金嬉老事件)を皮切りに、東大紛争、ロッキード事件、外務省秘密電信漏えい事件など現場の取材体験をもとに新聞記者の活動の在り方を示唆している点で、記者教育の教材にもなるだろう。

 著者は、記者時代の大半を司法記者として活動した。検察、裁判所など権力と立ち向かい権力の扉をこじ開けてネタを取ってくる記者魂が書かれているが、その行動を通じて権力側の人物との交流も語られている。つまり激越な取材活動の中にあっても、人間としての付き合い、信用度を築き上げなければ真相に近づくことはできないことを読み取ることができる。

 有名事件の裏面史的な性格もあるので楽しく読んだ。

 著者との偶然の出会い

   滝鼻卓雄 

 本の紹介にと言ってカメラを向けたら、往時と変わらぬ精悍な顔つきになった滝鼻さん

 この本を読み終える直前、所用があって日本記者クラブに行った。レストランで昼食を取っていたら、滝鼻さんが入ってきた。読売新聞社会部時代に同僚だった時期があった。と言っても滝鼻さんは花形の司法記者、筆者はサツ周り(警察回り)と警視庁記者クラブ、そしてぺいぺいの遊軍記者だった時代であり、ほどなく科学部へ転出した。

 さっそく著者へのインタビューという気持ちで滝鼻さんから話を聞いたが、どうしても往時の思い出話に近い話題になってしまった。しかし長沼ナイキ訴訟控訴審、スモン訴訟や環境権訴訟など一連の公害・薬害事件など筆者も札幌の司法記者として担当した体験もあるので、共通する話題もあった。

 そして小保方晴子氏のスタップ細胞をめぐる取材についても相当なる関心があったようで、関係者への取材を試みたが難航した「秘話」も聞かされ、滝鼻さんの行動力には脱帽した。

 滝鼻さんがこの本を書くにあたり、日比谷図書館に通って自身の執筆した記事を探し当ててコピーにとって苦労した話を聞きながら、やはり滝鼻さんは「生涯一記者」になる人だと思った。本の紹介のおまけとして書いた。

 


瀬木比呂志「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)に見る判事補の若造が最高裁長官に楯突く筋立てに感動

黒い巨塔

 元エリート裁判官だった瀬木比呂志先生(明治大学法科大学院教授)が、小説の手法で司法の暗部を「内部告発」した小説「黒い巨塔 最高裁判所」(講談社)の主人公は、最高裁判所事務総局民事局付、笹原駿・判事補である。

 任官して10年に満たない若造が、小説の最後の場面で絶大な権力を誇っている最高裁長官に楯突く。

 「長官のおっしゃる中道というのは、権力、政治、世論の力関係をみながら適宜それに合わせて調整を図っていくというやり方だと思いますが、そういう機会主義的な行き方は、はたして司法にふさわしいものでしょうか」

 戦後、日本の国と政治と行政を劣化させてきた元凶・司法の姿(筆者の私見)を、かくも明確に語った言葉として世に残るものだ。

 著者の瀬木先生が、「実録小説ではまったくない」とあとがきでわざわざ断っているように、この作品は創作である。しかし読むものは勝手に評価し、勝手に論評することは許される。

 それに従えば、この小説で書かれているような光景が、現実に最高裁・司法という巨大な組織の中で日夜繰り広げられていると言っても間違いではないだろう。

 所詮は人間世界の話である。出世栄達を願うのは当然である。司法の世界も神様の集まりではない。しかしいやしくも法治国家を標榜する日本、しかも戦争に明け暮れた日清戦争後の40年余りの馬鹿げた時代を清算し、戦後日本の民主国家建設の基盤として形作った三権分立の国体であったはずだ。

 それが司法の堕落によって崩壊していった有様をこの小説は描いていると筆者は思った。

 最後の下りは、エリート判事補の若造が最高裁長官に語った先の言葉に続いて、次のように続けている。

 「司法は、法の支配、三権分立、民主国家という観点から、国家の在り方を正し、それに確固たるプリンシパル、行動原則を提供するべきものではないでしょうか?」

 これに対し最高裁長官は言う。

 「言葉をつつしみたまえ、笹原君。君の言うことは、一から十まですべて理想論だ。そういう理想論で日本の社会が動くなら、大変、結構なことだ」

 これに対し笹原は反論する。

 「だって、司法が理想論を吐かなくてどうするんですか? 司法の役割というのは、痩せても枯れても理想論を吐き、筋を通すことにあるのではないでしょうか? 司法が立法や行政と一緒になって『政治』をやっていたら、法の支配だって、正義だって、公正だって、およそありえないと思います」

 この小説で著者の瀬木先生がもっとも言いたかったことではないか。

  市民の感覚からかけ離れた判決が続出している行政訴訟や国家賠償訴訟。原告の勝訴率がわずか12パーセントという行政訴訟、和解が異常に多い民事訴訟、そして冤罪が多い刑事裁判。「違憲状態」という奇怪な判断でごまかしている一人一票実現訴訟への「保身判決」。

 そのような現実が、何よりも笹原の言葉を裏付けている。

 憲法第76条第3項=すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

  憲法で保障された唯一の職種である裁判官の責務を自ら組織的に放棄し、さらに統治行為論によって違憲立法審査権を放棄して日本の国体を堕落させていく司法の姿をこの小説は余すところなく語っていると思う。

 小学生の時代から習ってきた日本の国体・三権分立は、砂上の楼閣だったのだ。日本の真の民主国家を誰が建設するのか。そのような宿題を投げかけた小説であり、日本の多くの人が読んでほしいと思って紹介した。

 

 

 


相次いで出版された人生を歩む指針となる本


 藤嶋昭・東京理科大学学長、大村智・北里大学特別栄誉教授の二人の巨人が、相次いで人生訓に通ずる言葉を集めた本を出版しました。
 藤嶋先生は「理系のための中国古典名言集」(朝日学生新聞社)、大村先生は「人をつくる言葉」(毎日新聞出版)です。藤嶋先生のご著書は、孔子、孟子、老子などの言葉を主体に現代に生きる私たちの行動や考えに指針を与える名言集です。
 大村先生のご著書は、四半世紀にわたって先生が書きとめてきた古今東西の名言と自身の創出した語録を編集したもので、人との出会いから人生に向き合う態度と考えの心構えを説いています。どちらも大変感銘深い本なのでご紹介します。

藤嶋先生の本・中国古典名言集

大村先生の本


黒木登志夫「研究不正 科学者の捏造、改竄、盗用」(中公新書)

研究不正黒木登志夫

 

 本邦初出の資料やデータを駆使して、これだけ研究不正を検証し、予防策まで示した初めての本である。

 この本は研究者と文筆者の両方の顔を持った著者・黒木登志夫先生でないと書けないものであり、これからもこれだけの内容を吟味した同じテーマの本は出てこないだろう。一般の読者を対象とした内容だが、それは学術論文と同じだけの価値を持っている。

 読み始めて間もない第2章で、一挙に不正事例を21例も出されて度肝を抜かれた。日本が世界の研究不正大国になっていたとは知らなかったし、ワーストナンバーに堂々と名を連ねている何人かの研究者事例も初めて知って、本当にびっくりした。

 また2000年以降、不正が急激に増えていったという現象に非常に興味を持った。本格的なインターネット時代を迎え、距離感と時間差がほぼなくなり、リアルタイムで情報を共有する時代になった時代背景と、無関係ではないだろう。

 電子情報を繰る技術が進展したので不正もやりやすくなったのではないか。

 第3章から、重大な研究不正として、ねつ造、改ざん、盗用、生命倫理違反など具体的な不正内容を態様別に切り分け、そのテーマに合致した不正事例を検証している手法も見事だ。読者は迷わず、その重要な事例が頭の中に入ってくる。

 3章の画像改ざんのところで、著者の写真を改ざんしていく図・写真は秀逸である。こういう「小道具」を適宜入れて読者を楽しませかつ理解させるのがこの著者の優れた文筆者としての手腕である。

 

黒木先生画像捏造の例

 第5章で研究不正をする動機について「場合分け」で解説しているが、なるほどと思った。これを読んでいて、中小企業の特許権を侵害する大企業の技術者の動機と重なる部分があると思って感心した(あくまで私見だが)。

 特許を取得するのも、論文を書くのも世界で初めての内容でないと価値がないので、重なるのは必然かもしれない。研究不正は、特許侵害事件を整理して考える際に非常に役に立った。

 また、第6章に出てくる「なりすまし審査」も驚いた。人の商標をこっそりと先に登録して「なりすまし商標」を取得する中国の手法を思い出させる。

 読売・朝日・毎日という3大紙の理不尽な報道についてもきちっと総括している。こういう論評が、メディアには必要であり、良かったと思う。これを書かれてまずかったと反省する新聞記者も多数いるだろう。 ただ、毎日新聞については「神の手」の正体を暴いている功績も紹介している。

 また、現代のようにインターネット検索と情報共有時代を迎えて、研究不正がたちまち摘発されてくる現場の解説もためになった。

 第7章の「論文撤回はべき乗」になることを提起し、「20:80」の法則を見出したのは、黒木先生ならではのオリジナルであり秀逸だった。

 最後に研究不正をなくすためいくつかの行動と制度を提示している。これもこの本の価値を高めている。研究開発型の企業の経営にも役立つ提起ではないか。

 ところどころに著者の研究活動で接点のあった研究者やテーマなどが語られており、筆者は感心しながら安心して読み進めた。このような内容を盛り込めるのも黒木先生だからできることであり、この本の厚みを出していた。

 スタップ細胞事件については、科学者らしく明快に捏造の根拠を論理的に示しており、筆者もようやく納得した。捏造と言うよりも小保方氏の強い思い込みではないかという思いがまだ少し残っていたが、この本を読んで吹っ切れた。あれは捏造だったのだ。

 


スタップ細胞事件の2冊を読む

 

  世紀の大発見か世紀の捏造事件かで世間を騒がせたスタップ細胞事件の核心に触れる書籍が出版されている。

 毎日新聞記者の須田桃子さんが書いた「捏造の科学者」(文藝春秋社)とスタップ細胞を発明した小保方晴子氏が書いた「あの日」(講談社)の2冊の本である。

 読んだ感想を書いてみたい。

 最初に小保方氏の本を読んだが、当然のように自分の立場を中心に書いている。これをおかしいとは思わない。人は誰でも自分のことを書けば主観的な記述になる。 

 スタップ細胞のトラブルについては、若山照彦山梨大学教授の責任を強調している。むろん、小保方氏自身の責任も書いているが、大きな過ちは若山教授にあるとする書きぶりなので論評に値しない。若山教授に、共同研究者としての瑕疵はなかったわけではないが、筆者はあえて不問にする。

 その理由は、若山教授が間違いのない学術的な対応をしたとしても、小保方氏の理解できない実験・研究のやり方をとがめることは不可能だったと思ったからだ。

 理研の最終報告にもあったが、数々の不可解な事実をあげ、スタップ細胞は最初からなかったことと、小保方氏がやっていた実験・研究はES細胞をもとにした可能性と結論づけていることを理解したからだ。

 須田さんの著作は、ドキュメンタリータッチで迫真の筆さばきはさすがである。筆者も新聞記者をしていたので臨場感が伝わってきた。アマゾンのカスタマーレビューをざっと読んでみると、やや評価は低いと思ったが、それの多くは小保方氏の著作の影響を受けているように感じた。

 これを読んでいてジャーナリストとして痛感したことは、いかに人によって解釈が違うかというその落差である。改めて思った。仮に小保方派と須田派に分けると、その立場によって論調はがらりと変わってしまう。

 須田さんの書籍を読んで感じたことの最大は、インターネット時代の取材、メディアの在り方の変革である。

 筆者は今年76歳の老年だから現役時代の感覚でものを判断して語っても意味がない。インターネット時代のスピード感覚と多様な情報のやり取りが、時代の趨勢を支配していることを須田さんの書物を読んでジャーナリストとして実感した。

 須田さんは、亡くなった笹井芳樹先生とメールのやり取りを約40回もやっていたという。この事件の当事者でキーパーソンとなっている笹井先生とこれだけ濃密なコミュニケーションを取っていたとは驚きである。それだけでも、須田さんが書いている内容を重視せざるを得ない。

 スタップ細胞事件は、日本の研究現場と大学の教育現場に多くの教訓を残した。小保方氏が悪いとか若山教授の責任を問うことをしてもこれからの展望には結びつかない。

 反省するべきは、学術研究現場の後進性と理研の後手後手の対応など、研究組織の後進性をいかに近代的に改革するかという次の命題である。これは学術現場だけでなく、日本社会全体を覆う課題である。

 人は偉そうなことを言っていると思うかもしれないが、70歳を過ぎるとこのようなことをどうしても言いたくなる。それが真の課題ではないかと思っている。


黒川清「規制の虜 グループシンクが日本を滅ぼす」(講談社)

  規制の虜 黒川清

 東日本大震災で発生した福島第一原子力発電所事故の国会事故調査委員長を務めた黒川清先生が、渾身の力を込めて書き上げた「日本国の病巣」を告発した本である。まずイントロの書き出しを引用してみる。


 志が低く、責任感がない。
 自分たちの問題であるにもかかわらず、他人事のようなことばかり言う。普段は威張っているのに、困難に遭うと我が身かわいさからすぐ逃げる。 
 これが日本の中枢にいる「リーダーたち」だ。

 

 黒川先生をトップにしたスタッフは、600ページの事故調査書(事故調)をまとめ上げ、その調査過程で原発と向き合い運用してきた日本の行政も企業も課題先送りの無責任体制がまかり通り、世界の非常識になっていたことを事実で示して報告した。

 本書は事故調が生まれた舞台裏を余すところなく書き込み、さらにこの事故調を通して黒川先生が確信した日本の病巣を論拠を示しながら書いた本である。

本書は2部で構成しており第1部は、事故調が完成するまでの7か月の奮闘ぶりがかかれている。事故調スタッフは、客観的な事実だけを積み上げる手法で関係者から膨大な聴き取りをして福島原発事故の全貌をあぶりだしていく。

 あの事故は人災であったと明確に結論を出した事故調の内容が、いかにして出来上がったかを報告しており、初めてその過程を知って感動を覚えた。半年の期間でよくあれだけの内容を調べ上げたと感心していたが、そこには血のにじむような努力と取り組みがあったのだ。

 本書を読んで改めて事故調の要約を読んでみたが、まったく違った印象を持った。あの人災事故が日本の病巣であると告発する黒川先生の主張が、明確な輪郭を持って突き付けられてきたのである。

 その確かな輪郭を書いたのが第2部の「3・11が浮かびあがらせた日本の病巣」である。「規制の虜」とは、原子力安全・保安院など規制する側が、東電など電力会社の規制される側に取り込まれて本来の役割を果たさなくなってしまった状況を語る言葉であるという。

 「日本では原発で重大事故は起こらない」という「神話」が生まれた状況を、歴史的な事実を積み上げながら明快に解き明かしている。新聞記者をしていた筆者もこの「神話」を信じてきたのである。その歴史とは江戸時代から明治維新当時までさかのぼっているが、黒川先生に指摘されてみると、多くのことは日本の知識人はうすうす感じていたことではないか。しかし明確な意識となって位置づけることはできなかった。

 それを黒川先生は、説得力ある史実と事実を展開しながら、日本の病巣であることを示してくれた。そして、憲政史上初めての国勢調査権を背景に法的調査権で報告された民間人による事故調であったが、その後、立法府は何も行動を起こさず、何も変わっていないと主張する。

 事故調では、具体的な「7つの提言」を出しており、国会がこの提言を徹底的に討議して実施計画を策定して、事故の教訓を生かさなければならないのに、ほとんど何も行われていないという。これはもはや、国家の体制を持っていない途上国以下の国家体制ではないか。

 さらに日本のメディア・ジャーナリズムの在り方にも鋭い視点で注文を付けている。自己責任を避け、他人に語らせてお茶を濁す日本のメディア・新聞業界の伝統的手法に大いなる疑問を突き付けている。特にメディア業界が、本来のジャーナリズムの役割を果たしていないことを舌鋒鋭く示した記述には、新聞記者出身の筆者は縮みあがってしまった。その通りである。

 このようになったのはIT産業革命以降、急速に情報通信現場があらゆる人々に普遍的に利用できるようになった技術革新によって、急速に経営が衰退していったことと無関係ではない。新聞・テレビなど巨大なジャーナリズムは、経営安泰があって初めて健全な主張が確保できるのだが、これはこの本とは別の問題であり、筆者のついでの言い訳である。

 ともあれ黒川先生は、世界が見ている日本を意識し1990年代から始まったIT産業革命の時代認識を自覚していない日本の病巣を明快に書いてくれた。本書は日本人にとって必読の書である。


黒川清「規制の虜 グループシンクが日本を滅ぼす」(講談社)

 イントロの書き出しを引用します


 志が低く、責任感がない。
 自分たちの問題であるにもかかわらず、他人事のようなことばかり言う。普段は威張っているのに、困難に遭うと我が身かわいさからすぐ逃げる。 
 これが日本の中枢にいる「リーダーたち」だ。

 政治、行政、銀行、大学、どこにいる「リーダー」も同じである。日本人は全体としては優れているが、大局観をもって「身を賭しても」という真のリーダーがいない。国民にとってなんと不幸なことかー。

 福島第一原子力発電所事故から5年が過ぎた今、私は、改めてこの思いを強くしている。(引用終わり)

 黒川清先生は福島第一原発事故の国会事故調査委員会の委員長として600ページの調査書をまとめ上げた。その調査過程で、原発に向き合う日本の行政は、世界の非常識になっていることも報告されている。いま読みはじめたところだが、必読の書になるだろう。

 

規制の虜 黒川清

 

石原慎太郎「天才」(幻冬舎)は田中角栄の実像を限りなく語った本である

天才・石原慎太郎

 田中角栄は一代の英雄である。戦後政治家の中でこれほど存在感を出した政治家はいない。なぜか。

 角栄が日本政治の中枢で活動していたころ、「コンピュータ付きブルドーザー」と言われるように、瞬時に判断力を発揮して実行する政治家として、誰もが認めていた。そしてそれ以上に多くの人を惹きつけた魅力は、日本の民族的なにおいをふんぷんとさせた人情家であったからだ。

 新潟県の雪深い馬喰の倅が、学歴もなく東京に出てきて土建業を営み、ひょんなことから政界に打って出ていく。たぐいまれな才覚を発揮して、たちまち政界の寵児となり、弱冠39歳で郵政大臣として登用される。裸一貫で中央に出てきて、実力だけでのし上がった稀代の政治家であったことは間違いない。

 その角栄に「金権政治家」のレッテルを貼り、糾弾してきた石原慎太郎が、角栄になり替わってこのような小説を書くとは、意表をついて余りある所業だったので、一応読んでみた。慎太郎の小説の中では、ノンフィクション・ノベルのジャンルの作品になるのだろうが、予想に反して傑出した出来栄えであった。

 それは多くの資料に裏打ちされた史実に基づいた小説というだけではなく、自身が角栄と共に同時代に政界のど真ん中で活動してきた履歴に基づいた内容になっているからである。慎太郎が「あとがき」で語っているのを読むと、政治家の現役時代に角栄を金権政治家として糾弾したことがあっても、角栄の人物の大きさには勝てなかったことが問わず語りに書いている。

 この小説で知り得た筆者の確信は、角栄はやはりアメリカの陰謀に葬り去られた政治家だったということだ。慎太郎はいまになって角栄を「天才」とあがめながらこの小説を書いたところに、慎太郎の真価があるとも言えるだろう。読んでいてあの時代のあの頃を思い出しながら、稀代の英雄をあのような形で失ったことを改めて思いおこした。

 と同時に、二世、三世の政治家が跋扈する今の政界の底の浅い劣化した現場に改めて思いを致し、暗然となった。

 


シダックス55年史「志魂の道」(シダックス社史編纂委員会、河出書房新社)

士魂の道

 「シダックス55年史」とあるが、この本は感動と成功物語で埋めた通俗的な社史ではなく、シダックス株式会社の創業から今日までの企業活動のあらましを、創業者の志太勤氏と二代目社長の勤一氏の理念をどのように体現して今日に至ったかを語った本である。

 志太勤氏の自伝であり二代目社長・勤一氏の事業展開の報告である。それだから読むものを惹きつけていく。

  筆者が見てきたシダックスは、社会人野球の「野村監督チーム」と「給食事業」と「カラオケ事業」を展開する企業という程度で、実際の企業活動の姿がよくわからなかった。しかしこの本を読んで、勤氏が高校時代から企業活動をはじめ地面にはいつくばるようにして頑張っていった歴史を読んで感動した。

  人を感動させ評価させるのは行動ではないというのが、筆者の長年の取材活動から知った確信である。行動はいっとき一瞬でも完結するが、感動と評価を獲得できるのはその人の行動を支えている信念であり哲学である。

  勤氏の言葉に「努力還元」と言うのがある。努力には感謝されるという還元があるという。これは至言である。シダックスの悪戦苦闘の歴史を彩った努力こそ顧客に感謝され、社員や家族から支持されたから多くの試練を乗り越えることができたのである。

  この本に書かれている社史は、戦後間もない日本全体が貧しかったあの時代から現代にいたるまで、どれもこれも泥臭い物語で埋まっている。ここには学歴や出自は無関係であり、あるのは本音だけである。

 いまここにある課題を解決し次へと進むには、本音で行動するしかなかった。本音とはあるときは優しさであり、あるときは度胸である。失敗は許されないから価値がある。勤氏の家族の話から始まって、静岡県の田舎から勇躍、東京に出てきて町工場を立ち上げ、創意工夫で給食事業を拡大していった物語は痛快である。

  後半は創業者の事業を若干40歳で社長を継いだ二代目勤一氏の活動へと続いていく。アメリカに留学し、アメリカの食事業を体験し学び会得していく過程は、潮目の速い技術革新の流れを語っているものでもある。製造業だけでなく食とサービス事業もそうだったのだ。

  その事業はやがて「ソーシャル・ウェルネス・カンパニー」の企業理念へと収斂していく。人の幸せを追求する事業の展開を切り開くという。いかにもこの時代の風をはらんだ企業活動である。

 モノ作りがデジタルでバーチャル手法というサービス事業に変革してきたように食とその周辺、つまり社会と人の営むすべての手法もまた変革してきたのである。その変わり身に合わせるように新たな切り口をさぐり、新たな事業へと進展していく経営者の視点を感じさせる。

  シダックスは給食事業で日本一になった成功した企業である。しかしこの先、発展するかどうかは経営者の哲学と企業理念にかかっている。浮き沈みはつきものである。その試練を乗り越えて次の時代にも覇者になってほしい。そのような感慨を抱かせた社史であった。